| 2003年1月12日 主日礼拝式 “エレミヤ書” 33章1,2,3,9節 「“この街を福音で満たすA”」 “池田 博牧師” 宣教メッセージ |
| 今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は エレミヤ書33章1節から3節と9節 です。新約聖書の1199ページになります。 “エレミヤ”
はい、聖書は以上です。新しい年を迎えて、今日は第2主日でありますが、新しい年に向かって、皆さん、今年はこういう計画、こういう目標でという、それぞれの目標を立てられたでしょうか。あるいはビジョンを持ったでしょうか。 「これは大切だな。」と思います。目標が無いと「何処に向かって進んで行くのかな。」ということになります。目標がありますと「そこだ。」「ここだ。」とはっきり狙いを定めて、生活ができる。とても大切です。 教会もそうです。毎年教会は1年の目標のみ言葉或いは標語を掲げます。今年はこちらに簡潔に書いてありますが「この町は世界の国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり栄えとなる。彼らはわたしがこの民に与えるすべての祝福のことを聞き、わたしがこの町に与えるすべての祝福と平安のために、恐れおののこう。」という先ほどの9節です。 これが今年この教会に与えられている標語のみ言葉であります。それから又、こちらには「この街を福音で満たす。」これが標語として、めざすもの、ビジョンとして、これから、これに向かって進んで行く大切な目標であります。 聖書を見てまいりますと、その事の大切さを裏付けるような事が書かれています。2つほどそれをいいますと、第1コリント9章26節にはこうあります。「私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。」 それから、ピリピ人への手紙3章14節には「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」こう書いてあります。ですから、聖書もその事を大切な事として教えている事が判ります。 私は自分の事として、振り返ると、クリスチャンになる以前は、「目標は大事だなー。」と思って、目標を定めてみる、でも振り返って見ると、計画だおれで、目標は達成できない、絵に描いたもちのようになって「せっかく計画を立てても、結局駄目なんだなー。」という苦い経験、挫折を何度も味わった事を思い起こす事であります。 目標は大事だと思います。同時に私たちは目標を掲げてみた時に、「自分はそういう目標には程遠いんだなー。」という事が判ります。幾つかの事を私は思い起こしました。 ある年、私は1年間で50冊本を読んでみようという目標を立てました。半分もいかない。3分の1もいかない。そんな感じでありました。又、「今年は絶対兄弟喧嘩をしない。」と目標を立てたこともあります。翌日から喧嘩したりして、直ぐに壊れてしまいました。 皆さん、どうでしょうか。「今年こそ幸せな結婚をしよう。」とか「今年こそ仕事にありつこう。」とか「今年こそ人格円満な人間になろう。」とかいろいろ思うわけです。でもなかなかそうはならない。 結婚している方は「今年こそ夫婦喧嘩をしない。」1つやってみませんか。何時まで続くか。身近な事、大切な事ですが、でも、身近で大切であればあるほど、出来ない自分に突き当たっていくのかなーと思います。ですから、大切だけれども、それが出来ない自分に、泣かなければいけない現実もあるということです。 私はクリスチャンになって、神様を知るようになって、そこから自分自身が変えられて来たなーという風に思います。皆さん、クリスチャンになってみた時に、神様を知ってみた時に、そこから本当に私たちは神様という方がどういう方かということが判ってくるのです。 聖書を読みだしてみて初めてそう言えるのです。クリスチャンはあまり行かないかも知れませんが、私はクリスチャンになる前は初詣に毎年行っていました。それが無いと新しい年を迎えた気がしなくって。 私は柴又に住んでいましたから、身近なところで帝釈天に行き、明治神宮に行き、浅草寺に行き、鎌倉八幡宮までは一寸遠くって来れなかったんですが。でも何処かには必ず行っていました。100円玉を投げて、いろんな願いをそこで奉げるんですが、でも、帝釈天に行って「誰がここ神様かな」といっても判らない。明治神宮「明治天皇が神様かなー。でも、もう死んでるなー。」 浅草寺に行っても、誰が神様なのか判らないのです。誰が神様だか判らない、そういう神様に向かって、祈りを捧げ、願い事を奉げ、お賽銭を上げてみても、それはそれっきりですね。だから、自分の心にそこから何かが起こってくるとか、そういう事のない一方通行のものですねー。私たちの神観念或いは信仰心、信心:自分が信じているというその心ですよね。 でも、聖書に出会ってみた時に、そうでないということが判って参りました。聖書を通して、そこにイエス・キリストというお方が居られ、イエス・キリストという方を通して神様が少し判り、更に聖書の言葉を読んでいく中に、そこから聖書の言葉を私たちの心の中にしっかりと刻んで、私たちの心を扱ってくださる、それが聖霊という人格であるという事が少しずつ、少しずつ判りかけてくるのです。 キリスト教にとって大事なのは三位一体ということですが、神様がいて、イエス・キリストが居られて、聖霊なる神様が居られる。私たちは聖霊なる神様というのが聖書を通して聖書の言葉をしっかりと心の中に刻んでいく時に、それが私の中に少しずつ少しずつ変化をもたらしていくという経験をしていく。それで私たちは変えられていくなーということを経験するのです。 先程、夫婦喧嘩をしないとか兄弟喧嘩をしないとか、少し人格円満になりたいなー、優しい人間になりたいなーと、誰しもが願うし、誰しもそうありたいと思っています。でも、唯それだけを毎日唱えてみても、それが何を結果として変革をもたらすかといえば、結局自分の努力みたいなものしかないのです。 でも、聖書のみ言葉に、たとえばこういう素晴らしいみ言葉があります。ピリピ人への手紙2章の3節、4節ですが、お聞きください。 “ピリピ”
「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」。皆さん、素晴らしい、すごい言葉だとは思いませんか。でも、同時に「そんなことは出来っこないなー。」 「人を自分よりすぐれた者と思いなさい。」私たちはいつでもといって良いほど、必ずといっても良いでしょうか、自分の方がどこか優れている、あいつよりは出来る、何処かで負けていない。やっぱり自分中心ですよね。 そして、夫婦であっても、親子であっても、兄弟であっても、どんなに親しくあったとしても、やっぱり、何処かで比較していて、自分が優れていると思いたいし、そう思わないとやっていけないという、そんな思いにもなっていく。 でも、他人を自分より優れた者と思う、これを素直に素直に心の中に持つ事ができるようになるということは素晴らしいと思うのです。お互いの間にも気まずい思いが起こります。心の中に緊張関係が起こってくる。そういう時に「お前があれさえ言ってくれなかったら、俺はこんな事にならなかった。」大体そうですよね。 でも、そういう関係の中で、「ごめんね。」「悪かった。」「僕があんな事を言ったことがいけなかった。」一言そのように自分の内側に光を当てて、自分の非に対して素直になっていくことです。それを聞いた相手は「そうだ。お前が。」なんていう人は居ないのです。そうではない。「いや、自分の方が悪かった。」「とんでもない。僕だ。」 へりくだってみた時に、お互いがへりくだりを素直に認め合う事が出来、「互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。」素直にその人の良さを認めていく、その時に自分が認められて、お互いに認め合って、お互いにラボールがかかり、お互いに和合し合いという事です。 ですから、そこにテンションがあって、気まずい思いがあって、ということですが、それ自体はよく起こりがちであり、あって当たり前であります。問題はそれをどういう風に処理していくか、いや、どういう風に処理ではなくして、自分の処理が出来ないですねー。 イエス・キリストは私たちの罪の為に、私の罪の為に十字架にかかって下さって、そこで「父よ、池田 博の罪を赦してやって下さい。彼の罪をわたしが負いますから、父よ、彼の罪を赦してやって下さい。わたしは彼を愛しているから。」イエス様はそう祈って下さった。 そうとりなして下さった。命を賭けて下さった。私の心にそれが伝わってきた時に、私の心をイエス・キリストの十字架の愛の中で私の心を捉えた時に、私の心は溶かされます。私の心が溶かされた時に、相手の非ではなくして、相手の問題ではなくして、「あー、私だ。自分だ。」となります。そして赦せる。心が不思議と自分の力み、頑張りではなくして、自然にそれが出来てくる。 神様がどういうお方であるか、私たちはイエス・キリストを通して判ってくる。聖書のみ言葉の前に立って、それを自分の心の鏡としていってみた時に、自分の本当の姿が何であるかということが判っていく時に、そこから変化が、そこから心の変革が生まれてまいります。 そのようにして、私たちはこの素晴らしい聖書が与えられている。聖書そのものは文字でしかない。印刷物でしかない。でも、その背後に誰がそれを書きましたか。それは、イエス・キリストをこの世界に遣わし下さった神様のことばです。 神様は人間を愛し、人間の救いの為に自分の御子であるキリストを犠牲にされたお方。その愛なる神様が私たちに向けてかかれた言葉が聖書です。ですから、この文字を通してその背後のそれを書かれた人の人格、そこに触れていくときに、私たちは不思議な変化を生みます。 神様から私たちに宛てられた愛の手紙、それが聖書です。そのように聖書に向かってみる時に、私たちは素晴らしい変化をみる事が出来ます。 さて、そんな事を心に留めながら今日のエレミヤ書の33章に目を移したいと思います。特に3節のところでありますが、そこに、こうあります。「わたしを呼べ。」わたしを呼べといわれるわたしが誰かというのは1節前の2節に書かれてあります。「「地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。わたしを呼べ。」とあります。 わたしが誰であるか判らない。それが日本の八百万の神神であるかなと思います。でも、聖書がいうわたしは「地を造られた主」天地万物を造られた創造主、そしてその先には「それを形造って確立させた主」とあります。この確立させた主というのは、神は万物を造られた時に、その一つひとつに対して目的なしにそれを造ってはおられない、全ての被造物は目的あってそれが造られているのだという事です。 ゴキブリにも目的有って、「えー。要らない」と私たちは思うのですが、要らないと思うものは一杯有るんですが、でも、やっぱりそれが無いと自然の仕組みが成り立たなかったり、何処かで人間に大切な存在だなという事をやがて何処かで知ることもあるわけなのです。 「あの人間さえ居なければ。」「あの人が居るから嫌だ。」私たちはお互い人間同士でも、そういう事を思ったりもするわけです。でも、神様はちゃんと置いておられるのです。そして、嫌な人間であれば有るほど、そこで、そういう人を愛せない自分の醜さを私たちは知っていくのです。 知っていく時に、どうしたら、どのように自分がなったらば、愛しあう関係になっていくだろうかと、大きな課題でありますが、そこに取り組んでいった時に、みなさん、それは私たち自身の成長、私自身の変化、更には私自身の祝福に変えられていくのです。 私たちはそのようにして、神様は無駄なく、すべての物を造ってくださった。そして、その神様が「わたしを呼べ。」と言って下さっているのです。「わたしを呼べ。」という時に、そのことばは、そこには無条件な呼びかけが有るかなと思います。 私たちは無条件であるという事はとっても大切かな、条件付だと私たちはなかなかそれに適わない。「この1年間1度も怒った事の無い人はわたしを呼びなさい。」なんて言われると誰も合格者は居ない。1度までは良いとか、その条件でも駄目です。 「無条件でわたしを呼べ。」そして、無条件でわたしを呼べとなってくると、今度は「判った。」と言って「神様、私に1億円宝くじを当ててください。」とか、兎に角自分勝手な願い事をそこに持ち出すわけでありますが、でも、それがいけないとは何処にも書いていない。 無条件ですから「何でも良いから呼べ。」これも素晴らしいし大事な事かなと思います。ですから、私たちは100円玉を投げて「家内安全、商売繁盛、無病息災」何でも言ってしまう。ここはいわばその式です。でもその先です。その先にこう書いています。 「そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」とあります。ここには、そうすればあなたの願いは全て100%願いどおりに全部応えられるという風には書いていないのです。 判り易く、現代的に言えば、自動販売機ではないのだということだと思います。100円入れたら100円分間違いなく出てくるというように、願った事が間違いなく返ってくるというようなことではない。 そうではなくして「あなたの知らない、理解を越えた大いなる事」とあります。要するに、「あなたが自分で『ああして欲しい。こうして欲しい。』と一杯願いを持っていて、好き勝手な事をわたしに言ってきたけれども、わたしが応えるのは、実はあなたにとって、あなたは知らないけれども、わたしは知っている、こうする事があなたにとって最善である、その応えをあなたに示しましょう。 あなたに導きましょう。それに従ってさえ来るならば、あなたはあなたとして造られた人間の最高の生き方をする事が出来ます。それを私は持っているのです。あなたの為に計画しているのです。それはわたしが創造者であるから、造り主であるから、だからそれが出来る。だからわたしに呼べ。わたしに全部を委ねなさい。そうすれば、あなたにとってどう生きる事が最善であるかをわたしは知っているから、あなたの必要な時に必要な応えを与えましょう」これです。 ですから、私たちは何と素晴らしい約束が与えられている事でしょうか。なんと素晴らしいお方が「われを呼べ。」と言ってくださっているでしょうか。この1年、これからの人生、生涯、全てに亘って私たちにこのような計画を持ってくださっている神様です。 この神様を知るということは、どんなに素晴らしい事でしょうか。そして、その神様のみことばに自分を託して歩んでいったら、どんなに私自身がそこで変えられていくでしょうか。私は放って置いたら、誰にも制約されない生き方、それは自由であるようだけれども、実は聖書は言っていますが「それは実は、あなたは罪の奴隷なのです。自我という罪の奴隷なのです。 何でも出来るようだが、実は何にも出来ない自分のしがらみに縛られた自分の姿ですよ。」聖書が言うのはそうです。神様に委ねて、信頼してその中で歩んでいく時に、あたかも名医がレントゲンを通して、患部病巣がきちっと見えて、それは取るべきならばメスを入れて取り除いて、薬で治療し、いろんな形で私たちを治療する。 そのように、神様は私たちの霊、心を、全てをきちんと見通しておられて「どうする事が最善であるか、あなたには見えないけれども、わたしは全て見えて、その折に適って大切な答えをわたしはします。さー、わたしに全てを委ねなさい。」と言って下さっている。 この1年を通して、私たちはその主に従っていける者とならせていただきたいのです。 9節にはこうあります。「この町は世界の国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり栄えとなる。」このこととの関連において大切な事は、神様は私たち一人ひとりに目を留めてくださいます。一人の人格を全世界の冨よりも貴いと見て下さっているお方です。 しばし、私たちは自分の命を粗末にしがちでありますが、でも、神様は「高価で貴くて、わたしはあなたを愛している。」と言って下さっている。それが神様です。私たち一人ひとりを最高に大切にしてくださるのが神様です。 でも、その私たちが、一人そこに存在しているだけで神様は全てとはしておられないのです。あなたには家族が、あなたには友だちが、あなたには仲間が、更にはあなたには街が大切なのです。 そういう人と人との関係の中で、あなたは自分に与えられた神様の恵みを分かち与えていき、互いの関係の中で、またそれを自分が養いを頂き、又それを分かち与えていく事が大切なのです。 で、この街というはそういう意味です。主にある者たちの集まりであり、又主を知らない者も含まった人々の集まり、その中で私たちはお互いに受けた恵みを分かち合う中で、それを更に広げていくように。 そうなった時に、ここでは神様は「わたしにとって喜びの名となる。」神様は全ての人を愛してくださるからだ。「あなたもたて、あなたのとなり人もたて、そして皆がたつように、そしてこの街全体が神様の祝福の街となるようにと、わたしは願っているのだ。」ということです。 ですから、私たちはこの年、一人ひとりが本当に神様の祝福を頂いて、更にその祝福を通して、お互いの関係が豊になっていき、その中で共に神を喜ぶ事の出来るお互いとなる事が出来るように、それを目指して、それに向かって進んでいけるようにと願って止まないのであります。 お祈りを致します。 主よ。感謝します。どうぞ、一人ひとりの内にあなたが臨んでください。一人ひとりをどうぞあなたが祝福してください。その心の祈り、願いにあなたがお応えください。私たちの心に、あるいは傷が有るでしょうか、痛みが有るでしょうか、悲しみが重荷が有るでしょうか。その一つひとつに、どうぞ、主がご自身の手を伸べてください。慰めのことばをかけて下さい。 そして又、どうぞ主よ、あなたが与えて下さるみことばによってしっかり立たせてくださいますようお願い致します。共に重荷を分かち合いながら、悲しみを分かち合いながら、慰めを分かち合いながら、又喜びを分かち合う友となっていく事の出来るよう変えてください。 尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン! |