| 2003年1月26日 主日礼拝式 “第2コリント” 4章7〜15節 「“世界最高の宝”」 “月井 博師” 宣教メッセージ |
| 今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は 第2コリント4章7節から15節 です。新約聖書の319ページになります。 “第2コリント”
あなたにとって宝といえるものはありますか。もしかあるとしたらそれは何でしょうか。この世界には宝又は財産と呼ばれるものがさまざまあります。この世の中の宝や財や財産といわれるものはみな、虫がついたり、さびついたり、キズ物になったり、また盗まれたりします。お金や不動産はだまされたり盗まれたり、時に価値を失ったりします。お友達も時に去っていきます。家族や親子関係も時に崩れ去ります。 本物の宝、本物の財産を神さまはあなたのために用意して下さいました。この宝、この財産をいただくと、あなたはどのような状況の中にも確かな保証があります。この宝はあなたの人生を豊かにします。力強くします。ぜひこの宝の価値を知ってください。 今から15年ほど前になりますがバブル経済の真っただ中、1987年に安田生命がゴッホの絵、ひまわりを53億円で買ったということがとても大きな話題になりました。その時代は今とはまるで対照的な時代で、日本は世界中の美術品を買いあさっていました。 ずっと以前のことになりますが、ある方の家に招かれたとき、その方はとても自慢そうに自分の所有している日本刀を私に見せてくれました。おそらく、値段もよほどはるのでしょうが、その方にとってはその値段としての価値よりも、その日本刀の持つ雰囲気・イメージがその方の信条にあっていたのだと思います。とても自慢そうでした。おそらくこれはその方にとっての宝だったのだと思います。 あなたがこの世界に生きて、大切にしているものは何でしょうか。何を自分の宝とするかは、私たちの人生を決定します。イエスさまは、「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある」といわれました。私たちの心は私たちの宝と思っているものに縛りつけられています。 ある方々は子宝という言い方をして、子供こそ財産であると考えます。またある人は学歴こそ財産だという人もいるでしょう。また友人こそ自分の財産だという人もいます。財産というからには具体的なお金や宝石類、または高価なものがそのまま自分の財産である人たちもいます。土地が自分の財産である人もいるでしょう。 先程触れた美術品や刀また工芸品、宝石などを購入する人たちは、それらの品々がもつ美しさや美学に引きつけられ、そうするのですが、同時にいざというときの財産という意味も持っています。しかしどうでしょうか、このいざというときの財産、いざというときの宝は、実際にいざというときに、それほど頼りになるものなんでしょうか。生命保険業界は今、大変です。でもあのゴッホのひまわりは53億円で果たして売れるのでしょうか。 あなたの大切にしているものはお友達でしょうか、それとも家族でしょうか。お友達も時に去っていきます。家族や親子関係も時に崩れ去ります。イエスさまはこの地上の宝ものについて次のように言われました。
「あなたの宝のあるところにあなたの心もある。」つまり私たちの心は私たちの宝に縛りつけられているということです。実際のところ、私たちは、身の回りにバブルの時代に財テクに身をほんろうされていた人々が、今はその心までって病んでしまっている人々を知っています。 イエスさまが語られたように、これらの地上的な宝はそれがどのようなものであるにしても、傷がつき虫に食われるのです。地上的な宝はやがては朽ちるものですが、もしそれらに私たちの心が縛りつけられているなら私たち自身もやはり朽ちるものです。 しかし今一緒に読んだこの聖書の箇所によれば、神さまが私たちのために用意しておられた宝があるというのです。しかもそれは朽ちない宝です。いやその宝は朽ちないばかりか、朽ちる存在の私たちを永遠に生かす、いのちを与えてくれる宝なのです。 その宝はあたかもダイヤモンドのようです。しかしダイヤモンドは自分から光ることはできません。どんなにきれいな光を放つことができたとしてもそれはあくまで光を反射させているだけです。しかしこの宝はおのずから光を放つのです。その宝とは何でしょうか。 先程読んだ聖書の箇所をもう一度読んでみたいと思います。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。」この前の節を読むと、この宝とはどのようなものなのかその説明があります。 「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。第2コリント4:6 「キリストの御顔にある神の栄光を知る知識・・」・・・キリストを知ることによって神の栄光を見る・・・つまり、それはイエスキリストを知る知識です。この知識は、地上的な宝と異なって、いざというときに私たちにとても大きな保障となります。 クリスチャンになるということは困難に遭遇しないということではありません。クリスチャンになるということは嫌な思いをしないということでもありません。クリスチャンになるということは倒れないということではありません。途方にくれます、しかし行き詰まりません。倒れます、しかし滅びないのです。この方を知っているということは私たちの確かな保証です。 このことの確かなことを知っていただくために、卑近な話で申し訳ありませんが、私の体験談を少し聞いてください。 現在オルテガさんたちが住んでいるアガペーハウスというマンションは、1995年まで上郷センターという塾でした。その塾は、その近辺のひとりの少年の自殺が切っ掛けとなって、当時、救われて直後の難波宣教師と木島先生と私で、現在飯島町商店街で豆腐屋を営んでいる潤間さんという方のマンションをお借りすることからスタートしました。教会の働きの一部としてスタートしたのですが、もちろん独立採算制です。 必ずしも、神さまの働きに携わるからといってすべてがうまくいくというわけではありません。現在の平和台チャペルを中心とした保育室「のあ」の働きも困難の中で運営されています。是非、祈ってください。 私たち上郷センターの働きもずーっと困難の中で運営されていきました。塾が乱立する過当競争の中で、自分たちの塾に送られてくる生徒たち一人一人にあった指導をとなると、経営的な効率性だけを求めるわけにはいきません。又私たちの使命はそこにないわけですから、それをしてはいけないわけです。ですから上郷センターを運営していたころの私の給料は二十万円ちょっとでした。 我が家は6人家族という、現代としてはやや大家族でしたので、私たちは身分不相応にも、やや大きな家を借りていつも住んでいました。家賃は120,000円、130,000円で一番高かったときには月々の家賃は180,000円払っていました。その他必要なものを支払うと、月の3分の1もたたないうちにいただいた給料は使い尽くし、月の3分の2は信仰で生活していました。 1週間を1,000円で生活することも何度もありました。たいてい月の初めのころで冷蔵庫は空になりました。いつもただ順調に神さまが備えてくださるというわけではありません。この御言葉にあるとおり、途方にくれることは何度もありました。しかし行き詰まることはありませんでした。 今から約10年ほど前、教会の働きの拡大とともに教会の働きに専心するようになり、やがて現在の教育牧師として任命されるころになると、それは、ちょうど聖書の中のイスラエル民族が約束の地に入っていたかのようでした。それまでの10年間とちょっとは天から降ってくるマナを食べているようでした。そのころからマナが降るのは止みました。 この上郷センターをやめるまでの10数年は私たち夫婦にとっては経済的にはとても困難な日々でした。しかしこの生活を通し、私たちは自分自身を手に全くゆだね切って生きることを学びました。しかし神さまはそこにいのちを注いでくださいました。この中にはこの上郷センターを通して教会の交わりの中に導き入れられてきた家族がいくつかあります。また今でも付き合っている若者たちが何人かいます。
クラクション殺人の記事が新聞に昨日もありました。二三ヶ月前に東海大学生が車上で何者かに殺されていたのです。昨日容疑者が捕まりました。19歳の無職の少年です。交差点で止まっていたときに後ろからクラクションを鳴らされたという、それだけのことでの殺人です。被害者もかわいそうですが、本人もかわいそうです。何が問題だったのでしょうか。自制ができないのです。 ペテロの手紙Uに以下のようにあります。
パウロはこのキリストを知ることについて次のように言っています。 「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」コロサイ2:3 夫婦の間の問題の解決もこの方のうちにあります。生きることについての悩みの解決もこの方のうちにあります。 この神さまの用意してくださった宝は一体いくらで手にはいるのでしょうか。もちろんこれは神さまの用意して下さったものですから無代価です。だからといって、あまり価値のないものだということではありません。いやむしろ、神さまが私たちのために用意してくださるものはみなそうなのですが、私たちがそれなしにはいのちを得て生きていくことはできないので、それほど大切なものなので、無代価なのです。 太陽の光がそうです、空気がそうです、水がそうです。この宝を私たちが手にするために、むしろ神さまはとても高価な代価を払われたのです。それはご自身にとって一番大切な存在である方を犠牲にするという代価でした。 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネによる福音書3:16 ここに神の愛とイエスキリストこの世にお与えになるということが関連付けられています。ここでいうお与えになる、とは死に明け渡すということです。神様はご自身の一番大切な存在である方、御子イエスキリストを私たちの罪のために十字架において、死に渡されたのです。 キリストは、あなたがいのちを得るために、身代わりとなって死んでくださいました。このいのちは神がくださるいのちです。キリストに死が作用して、つまり死が働いて、神がともにいて働いて下さる霊のいのちが私たちのものになるのです。 神さまは無代価で、ただで私たちがこの宝物を手にすることを望んでおられるのです。 パウロという人の宝、そして財産は、自分の生まれであり、自分の学歴であり、宗教的熱心さでもありました。しかし、ピリピ人の手紙の中で彼はこう言っています。 「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」 ピリピ人の手紙3:7 8 モーセという人もこのキリストのために生きることの価値を知っていました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。「彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」 ヘブル人への手紙11:26 報いとは、この人生にあって得る確かな保証、そして朽ちることのない永遠の命です。この確かな保証を与える神の提供される宝をあなたもどうぞ自分のものにしてください。また、既にいただいている方は、この宝に磨きをかけ下さい。そしてこの宝がますます輝きを増すことが出来ますように。主の祝福がお一人お一人にありますように。 お祈りを致します。 尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン! |