2003年2月9日 主日礼拝式
“詩篇” 73篇

「“信じる者の悩みと神の真実”」

“ホルヘ・アルベルト・オルテガ兄” 宣教メッセージ

今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は 詩篇73篇 です。旧約聖書の896ページになります。

“詩篇”
73:1 まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い。
73:2 しかし、私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。
73:3 それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。
73:12 見よ。悪者とは、このようなものだ。彼らはいつまでも安らかで、富を増している。
73:13 確かに私は、むなしく心をきよめ、手を洗って、きよくしたのだ。
73:17 私は、神の聖所にはいり、ついに、彼らの最後を悟った。
73:21 私の心が苦しみ、私の内なる思いが突き刺されたとき、
73:22 私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。

皆さん、おはようございます。第3礼拝は第1礼拝と違って、人も多く一寸緊張しています。主任牧師が前に座っているのもプレッシャーです。

この73篇の話しは、アサフという人の書いた個所ですが、アサフはダビデの元で賛美の係りの人で、預言者でもありました。信仰の深い人でした。毎日神様の前に立ち、神様の聖所に出て、神様に礼拝していました。

でもこの神の子であったアサフは或る日一寸問題がありました。73篇の3節に「私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。」とあります。ここでアサフに何が起きたかというと、アサフが持っている聖霊の目が神様から目を逸らして、人の目で見るようになったからです。

もっと判りやすく説明すると、或る日、アサフが朝起きて、毎日のように聖所に行くために自転車で出かけようとタイヤの空気を入れていますと、前の人はベンツに乗って聖所に行っていました。

アサフが考えた事は「神様を信じない人がどうして自分よりいい生活をしているのか。」と妬みました。

73篇の12,13節を読むと「見よ。悪者とは、このようなものだ。彼らはいつまでも安らかで、富を増している。確かに私は、むなしく心をきよめ、手を洗って、きよくしたのだ。」とあります。

このことはクリスチャンにとってとても大切な事と思います。アサフは最近クリスチャンになったわけではなく、とっても信仰の深い人であったのに、こんな事を考えたということです。

13節を見ると、アサフが今までやってきた神の前にたつこと、神様を賛美する事が無駄であったかのように言っているのです。これはアサフが人間であった故に起こりうる事であり、私たちもこのような事がおきているかもしれません。

22節を読むと、神様の前に自分は愚かで獣のようであったと。自分が神様との関係が十分ではなく、神様の言葉が聞こえる知性ではなかったと言っています。

アサフもそうですが、自分達の中で、このような事がおきて心が完全に綺麗でない時には、あまり神様の言うことを聞く事が出来ないし、行動も取れません。

アサフは毎朝、起きて、自転車の空気を入れていますが、相手がベンツに乗っている事を無視して、自分が神様の前に立つことが出来ました。でも、このアサフは自分の心に妬みがあり、自分の心がきれいでないということが判って、問題に直面することとなりました。

改めて、神様の前に立つことがとっても大事であるのです。73篇の大事なところは、私たちが神様から目を逸らす時がよくありますが、アサフのようなクリスチャンでない人の場合には、物を欲しがったり、人を妬んだりします。

それに対して、アサフがとった行動は17節に書いてありますが、「私は、神の聖所にはいり、ついに、彼らの最後を悟った。」とあります。アサフは自分の心が汚いという事が判っていて、でも、神様の聖所に入って、それを悔い改める事が出来るという事がわかっていて、神様の前に立った。

ですから、アサフが聖所に入った時には、今まで神様が自分の為に何をしてきたかを思い出したと思います。アサフはダビデの近くに居た人であるから、み業を一杯見た事であるし、本当に神様の力、神様の素晴らしさを理解することができました。

その時には、書いてあります通り、悪い人が何処に行くのか、どんな終わりなのかをアサフに神様が教えました。そして、アサフは神様との関係をもっと深くすることが出来ました。ですから、神様の前に立って、心を開いて、許しを求めて神様の御心が判りました。

今も映画などでよくあるパターンとは違って、聖書にはアサフが最後の最後にはベンツに乗って聖所に行ったとは書いていないのです。悪者が自転車に乗って聖所に行ったとも書いていません。

最後には、悪い者は相変わらずベンツで聖所に行っていたかもしれない。アサフは相変わらず自転車に毎日空気を入れて聖所に通っていたでしょう。でも、一つ変わったところは、アサフが綺麗な心で行く事が出来て、神様との関係をよりよく出来て元気で行く事が出来て幸せでした。

その時には、神様がアサフに何をして欲しいかを理解でき、一番大切なことは神様を第1にする事だと理解しました。最初にも書いてあります約束ですが、私たちの欲しい物、必要な物は神様には判っていて、それをわざわざ神様に頼まなくとも、神様を第1にすれば、そのあとの物は神様より与えられます。

マタイ6章33節にこう有ります。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

私たちの心の中に問題が起きる時には、その問題を無視せずに、神様の前で心を開いて、その問題を直して、神様とのよりよい関係とする事が必要です。神様を大事にする事が大切だと思います。

もう一人聖書に出てくる人ですが、アブラハムは自分から見てもとてもすごい人だと思います。アブラハムはアサフとは一寸違って、素晴らしい場所で家族と幸せな生活を暮らしていました。ですから、別に必要な物、不足したは無かった。

でも、ある日神様と出会って、神様の働きにアブラハムが必要であると語られました。神様はアブラハムに「すべての物を捨てて、わたしの言う通りにしてください。」と言われました。アブラハムとしては、今まで苦労して得た物を全て捨てて、神様の元に行くという事はむつかしい事だったかなと思います。

それだけではなく、アブラハムは何処に行くかも判らず、ただ、神様と共に行くという事しか知らなかった。だから、アブラハムが大切にしていたのは、自分が何処に行くかという事ではなく、誰と共に行くかでした。それで全てを捨てて行きました。

アブラハムは「神様と共に居れば、行き先は必ず素晴らしい所である。」ということのみを思っていました。私は毎朝起きて、自然を見ながら神様の素晴らしさが目に溢れ出る感じです。神様の造った一つひとつの木とか鳥とか太陽を見ます。

わたしは何時も「素晴らしい事で、それは全て自分の父のものである。」と言っています。地球にあるもの全ては神様のものであり、自分が神様の息子であるから、私に足りないものは何も有りません。

私たちクリスチャンは何か問題が起きた時には、アサフの様に神様の聖所に入る事、神様の前に立つことが大事だと思います。そして、信仰の先輩、例えば牧師たちと相談しながら、自分が心の中に問題が有る事を認めて、心を清める事が大事だと思います。

私たちが心を美しくすれば、神様との関係は完璧な関係となります。私たちは時々心の奥に隠していますが、神様には隠せません。そのことのせいで幸せな生活が出来ない時が有ります。そういう時には、神様の前に立って、心を開いて、神様に許しを求めて、心を綺麗にする事がとても大切です。

教会にくる事、お祈りする事、神様に礼拝する事はとっても大事な事だと思いますが、もっと大切な事は神様との関係を毎日深くすることだと思います。

アルゼンチンのある牧師は何時も言っていたのですが「イエス様を見本とするだけではなく、神様聖霊様を自分の心の中に迎えて、自分の中に住むように頼む事が大切です。」それで自分が神様の子である輝きを皆に伝える事が出来ます。

イエス様を見本とするだけでなく、自分の救い主とする事が大切だと思います。そうすれば私たちの生活がよりよいものとなるのです。


お祈りを致します。