| 2003年2月16日 主日礼拝式 “使徒の働き9章31節” 「“この街を福音で満たすD”」 “池田博主任牧師” 宣教メッセージ |
| 今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は 使徒の働き9章31節
です。新約聖書の225ページになります。 “使徒”
聖書は以上であります。今日は、総会を控えての礼拝です。総会は決算総会です。昨年1年間、この教会で行われた行事、あるいは会計の決算、様々な働きの記録、それを確認し、承認すると同時に、そしてまた新しい年に向かって、そこから出発しよう、というわけでもあります。 先週、そのための総会資料をお取りいただいたと思います。この総会資料に目を通していただいて、もう一度、1年を振返って感謝したいと思います。 私も目を通したのですが、まず一つ目を留めたいと思ったのは、会計の1年間の総金額が1億5913万1692円、これがトータルなのです。およそ約1億6千万なのですが、そう表現せず、最後の1円まで目を留めて、私はあえて最後の1円まで、円単位まで読みました。 それは、皆さんが、それぞれが、主にお献げした献金、いろいろな形の献金です。その総合計がこういう数字になっているということになります。素晴らしい数字、大きな数字でもあると思います。 そしてこの数字、ここに献げられた一人一人の献金、これは天国に預金されたものであり、いわば天国預金です。ですから、1円たりとも扱いをぞんざいにしてはならないと思います。 銀行もそうですが、銀行以上にはるかに、天国において、私たちの献げられた1円単位のその献金が、神様に覚えられて、それがきちんと目に留められているということは、大事なことと思います。 少し見てみます。予算からするとやや少なめではありますが、パーセンテージからいくと96,44%です。約3.5%足りなかったということです。これは、ほぼ達成したという風に言ってもいいと思います。 ただ少し目を留めたいと思ったのは、什一献金が90.007%なのです。10%予算にマイナスであったということです。これはやはり、心に留めさせられると思います。聖書の中で、什一は主のものであって、当然返さなければならないものです。返してこそ、それは次の祝福の種となっていくものです。 翌年の実りは、前年の種がきちんと蒔かれてこそ収穫につながり、そこに主の栄光が現わされるのです。それが少し足りないということはお互い心に留めて、この年、私たちはそこから何を聞いていくのか、一人一人が何を聞いていくのか、大切にしたいと、そのように思いました。 総会資料にはいろいろな働きが書かれています。前半の方にはいろいろな部の活動が、後半の方にはミニストリーの働きが書かれてあります。これら一つ一つは、それぞれが使命を持って、重荷を持って労しておられるところです。それぞれの働きの確認も大切だという風に思います。 それと、ここに現われていない働きもあります。その中でも、私が心に留めさせられたのは、下の方に記されている、ホームページミニストリーであります。このホームページを開いていただいてくと分かります。 関心のある方も多いと思いますが、私もいろいろな所に行くとよく聞きます。「本郷台のホームページは素晴らしいですね。先生のメッセージは毎週聞かせていただいています。読ませていただいています。」そう言う方がいるわけです。やはり、関心のある方が結構いるという風に思いました。 毎週のここでのメッセージが、テープ起こしされています。テープ起こしのためには、本当にこれは時間が費やされます。このテープ起こしは誰から始まったでしょうか?ある一人の兄弟からだったのです。 その兄弟が、毎週1週間かけてそれをやり通していました。もう指が曲がってしまって、それでもやり続けているのです。やがて協力者が起こされて、今は二人、三人となってきております。 ここに現われてないのですが、労によって、この教会の礼拝テープが、全国に、世界にも広がっていおります。尊いです。見えないところでお掃除をしている方もあります。見えないところでひたすら主にとりなしの祈りを密室でしている人もあります。 表には現われませんが、でもそれは、支えとなっているとっても大事な礎石、土台であり、あるいは推進をしている大きな力でもあります。 ですからここに書いてあることを心に留めながら、でもさらにそれを越えた中で、主がしておられる恵みのみ業を、しっかり心に留めることも大切である、と思わせられます。しかし皆さん、それもこれも主のわざです。主の恵みの奇跡、恵みの記録でありますね。そのことを心に留めたいと思うのです。 「頼まれた」ということで始まった奉仕もあるかもしれません。でもそれらも含めて、主がそこに置いてくださり、それをできるエネルギー、それができる能力、それをさせてくださる力も、神様が与えてくださるのです。 そのようにして神様はご自身の体である教会に、手や足、目や耳や心、いろいろな形で仕えさせていただいて、そして健全な教会形成がなされていくのです。それが今ここにあります。その一つ一つを、しっかりと感謝をもって、心に留めたいと思うのです。 ですからこれは、議論することではないのです。ここで、「あれがどうだ?」、「これがどうだ?」という議論の対象ではないのです。恵みを覚えて、その恵みを主にお返しをして感謝するということです。ですから、「これを承認できません。」というのは、「どうなのかな?」と思います。 私たちはどれだけ主の恵みをいただいているでしょうか?私個人において、教会として、働きとして、恵みをどれだけ覚えているでしょうか?そのことをきちんと記録にし、そして主に感謝してお返ししていくことが大切です。今日のこの大事な時に、そのことをもう一度心に留めたいと思いました。 そして私は、今日、ここに立つ者として、私自身の内に主がなしてくださっておられることに目を留めたいと思います。昨年の、数字的なこと、会計的なことは、結果として明らかな数字で表わされるわけであります。でもビジョンとか働きというのは、少し違うと思います。 昨年1年の計画は、一昨年の11月における総会において、来年度の主な年次計画というところに書かれているわけですが、ここに大きく、6つほどがあげられています。昨年はご存知のように、1年かけて「贖われた者が帰ってくる」というテーマに基づいて、様々な働き、また皆さんの祈りが積まれてきたと思います。 それから大きなこととして、返済3年目ということで、9千万円という、気が遠くなるような、エベレストよりもさらに高い山を越えなきゃならない、というような取り組みもなされました。「誰にこれができるだろうか?」と思うような取り組みです。しかし、目の前の大きな山が見事に乗り越えられたという思いが致します。 そして保育所の働きもスタートし、ファミリーの働き、「ゴール2002」の伝道計画というのもありました。特に昨年の場合、6月に行なわれた「ワールドカップ」というのが、いろいろな意味で教会にとって、大きな、大事な出来事であったと思います。 1月からスタートして、昨年の今頃は韓国に代表が行きました、韓国では大歓迎を受けました。10都市からどれほどの人が来るであろうか、何百人が来るだろうかと、韓国ではひたすら待っていたわけですが、実際に行ったのは十数人ばかりでありました。 それもかかわらず、大歓迎を受け、そして圧倒されました。その温度差にも圧倒されました。暑さに本当に圧倒されました。既に、そこに韓国と日本の違いを感じました。祈りにおいて、熱心さにおいて、エネルギッシュな面において違いを感じました。 そして日本に帰って来ました。横浜は特に決勝の地でもあります。全国の10都市の先生方からも「横浜は何をしますか?決勝の地でどのような計画がありますか?」というように、その期待は本当に大きかったのです。 私は長として責任を感じながらも、また何もできない自分にも突き当たりました。恵賜師が一生懸命動いてくれたのは、幸いな」ことでありましたが。 6月1日のスタートという時間が迫ってまいりました。5月26日の主日、それを境にして私の心は、本当に何かいてもたってもいられない、そんな思いでした。私は関係する諸教会に電話をかけました。協力の依頼をしました。祈りの依頼をしました。参加への誘いも致しました。20、30、40と、方々の教会に電話をかけました。 皆さんは、何かしら私とのつながりがありますから、「ご苦労様です。」という返事は返ってくるのでありますが、「いろいろ教会のプランがあります。うちには青年がいません。なかなか外に向けて出て行く人もいません。」と返ってくる答えはほとんどみんなそうでした。 そして幾十の教会にかけても、本当に協力しますと言ってきた教会は、五指に余るほどでした。私はほんとに胸が締め付けられるような思いが致しました。 ふと朝のテレビを見ました。すると、何と週間予報によりますと、6月1日は雨マークでした。「これも憎い・・・(笑)じゃない、なんというてことだろう?」と思いました。この日はサッカーフェスティバル、それなのに予報は「雨マーク」なのです。 私は主の前に、いてもたってもいられず、29日の水曜日から、どうしても追い込まれて追い込まれて、完全断食祈祷に入らせて頂きました。3日間、私は祈りに専念するように迫られていました。 「これはもう、どこに電話をかけ、誰に協力を求めても、そこから何も動いてこない。何も流れてこない。伝わってこない。主しかない!」そういう中での断食の祈りでした。 そしてその祈りの中で、私に明確な一つの主からの約束の言葉が与えられたのです。それは黙示録3章8節のみ言葉でした。 “黙示”
「見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。」これは私にとって衝撃的な新しい言葉として私を捕らえました。そして私の祈りがそこから突き抜けていきました。 今月の月報にある姉妹がご自分の証しを書いてくれましたので、それを読んでいただけばわかりますが、その姉妹は本当に苦悩し、苦闘し、死に物狂いの闘いをしていました。その頂点が、私が断食しているその最中に起こってきたのです。 そして姉妹に私は向き合いました。真正面に向き合いました。そして姉妹を捕らえている霊と闘いました。大きな闘いでもありました。しかし主は勝利してくださったのです。 ご主人と二人で来てくださって、お二人を前にして、はっきりと主の言葉にあって姉妹は勝利していきました。その週の6月2日の日曜から、ご夫婦そろって礼拝に出ることができるようになっていきました。 ハレルヤ!主は生きておられる。主は力あるお方です。完全に勝利したのです。ワールドカップの、重い暗雲が立ち込めるような中での戦いであったのでありますけれども、主は、確かに働いて、勝利してくださったです。 そして、1週間、雨マークだったあの気象予想ですが、気象庁の予報官が「なぜか分かりませんが、土曜日は晴れます。」とこういう感じに変わったのです。 その土曜日、皆さんご存知のように、あのMM21(みなとみらい21)のサッカーパークに行きました。さわやかに晴れてました。 そして朝早くから、もう皆さんがそこに行って準備をしていました。皆さん一人一人の顔を見たら輝いてました。ほんとに輝いてました。そして、「何人来るだろうか?」と不安があったのですが、なんとふたを開けてみたら、1500人も来ていたのです。 どこの教会に、誰に連絡してお願いしても、「難しい、難しい」という返事しかなかったのです。でも主は、「ひざをかがめない7000の民を備えてくださった」とのみ言葉の通りでした。恵賜師も、「400〜500人来たらいいだろう。」と思っていた、ということでしたが、蓋を開けてみたら、なんと1500人も来て、本当に皆さん燃えましたね。 続いて8日の土曜日は、今度は都筑区という住宅街の中の「ドイツ学園」が会場ということでした。あのMM21の集まりやすい、知られていたサッカーパークと違って、こちらはどうだろうか?と、もうひとつ何か不安もありました。 そこもいざふたを開けてみると、それ以上の人が、1700〜1800の人がそこには押し寄せてきたという感じでした。これは、もう主のわざと言うしかないですね。神様はそのようにして、恵みのわざをしてくださいました。 そして主はその労を見てくださったのでしょうか?その只中で、6月19日、もう私たち誰もが知っている、「オルテガさん親子」がここに送られてきました。その日、その時まで、誰がそれを予測し得たでしょうか? そしてそのオルテガさん親子だけでなくして、家族全員が、12月29日には生家を空けてあのアルゼンチンから日本にやって来られたのです。「日本で労していきたい。主に仕えていきたい。」と、献身の熱い思いの中に日本に遣わされてきております。 今その中で、先日もある議員の家をお訪ねしたのですが、その議員とのやりとりの中で分かってきたことがありました。かつて私たちが、「ここにこそ、教会を。」と思って真剣に祈ってきたあの猿田地区ですが、あの猿田地区の地主でありました東急不動産の責任者の方のことです。 私が吉田兄とお訪ねして、そしてお会いしたその方が、話しの最後に「私は実はクリスチャンです。」と言われて、本当にびっくりするやら、喜ぶやらでありました。 でもその猿田地区が少し遠のいてしまって、「どうなってしまったかな?」と思っていたのですが、先日その議員との話の中で、その方の名前が出てきたのです。 その議員さんは、こう言いました。「私たちはもうオルテガさん、この人に会ったらすべてOK、なんにも言うことはありません。あとは最後は、持ち主、地主の東急不動産がこれをどう受けとめてくれるか、それがカギです。ついては私がそのカギとなる責任者に電話をかけます。」 それでその責任者の方の名前を聞いて、私は驚きました。なんと、私がかつて猿田地区のことで話しをしていたその方であったのです。 私は電話を受け取り、話をした時、先方から「何々教会の何々です。」という声を聞きました。そして不思議なことに、その方が本郷台教会の動きに関心をもっていて「その後どうなりましたか?あの猿田地区の話は?」と聞かれましたので、「ここに、こうなりました。」とダイヤモンドチャペルのことをお話ししました。 「えっ!それはまたすばらしいです。そして今日またどういうことでしょうか?」ということで、このオルテガさんの話をしました。本当に祈られていました。神様は私たちの思いをはるかに越えて働いてくださいます。そして私たちが主の前に取り組んできたこと、主の前にどんな小さなことも、大切に大切に取り組んできたこと、主のためにしてきた一つ一つを、主は絶対に無駄になさらす、覚えてくださって、そして栄光に変えてくださるのです。私たちはそのことを見るのです。本当にそこに主の手を見ます。 9章31節に目を留めます。 “使徒”
教会は、先程読みました2章のところにおいて、なんと麗しく、愛の交わり、愛の共同体としての麗しい姿があったことでしょうか。「これこそ、神が地上に築いてくださる天のみ国であるだろうか?」、そのように思える素晴らしいところでありました。 しかし、それもつかの間のと言ってもいいでしょうか?4章に入っていきますと、使徒たち、弟子たちが捕らえられて、留置されてしまいます。そしてその名によって語ることを禁じられていきます。でも弟子たちはひるまずに、果敢に伝道していくわけであります。 ところが5章になりますと、なんとその麗しいはずの教会の中に、アナニヤ、サッピラという人が出てきます。彼らも熱心でないわけではなかった。いやむしろ熱心で、「自分たちの財産を全部献げたい。」という思いがありました。ところが、ちょっと惜しむ心が働きました。 私などは、すぐこのパターンです。「全財産の10分の1さえ献げればいいかな?」とか、「半分・・・、いや半分は多すぎる」とか、自分の中で計算をしてしまうと思うのです。ですからアナニヤ、サッピラのことは決して特別なことではないと思います。 あるいは、「自分が献げました」ということで、少し名誉心も欲しくなっただろうかなど、いろいろな思いが微妙に働いたと思います。そのことを神様は鋭く見ておられたのです。そんなことが起こって、教会の中にとっても緊張感が走りました。 そうかと思うと、今度は6章に入っていきますと、そこでまた新たな問題が起こってきます。生粋のユダヤ人と外国育ちのユダヤ人との間に、軋轢(あつれき)と言いましょうか、考え方のずれと言いましょうか、もっと感情のもつれと言いましょうか、そういうことが起こってきました。ありがちなことですね。 そしてそこでは、特定の、誰かの何かの罪ではなくして、教会の中に、あるグループが生まれて、別のグループが生まれて、熱心なグループがいて、そうでないグループがあって、気の合うグループがあって、そうでないグループがあって、という風にして、何か分派的な動きが起こっていきました。初代の教会、そこは決して理想の教会ではなかったのです。 神の国、確かにその種はあったかもしれませんが、でもそこにいるのはやはり不完全な人たち、罪を許された罪人の集まり、そして肉をひきずっている人たちの集まりです。 ですからそこはどうしても、罪から無縁にはなり得なかったのです。不協和音がそこにはまた出てくる、そういう素地がいっぱいあったのです。 しかしさらに予期しないことが起こってきます。8章では大迫害が起こって、クリスチャンたちが散らされていくのです。その急先鋒に立っていたのがサウロでした。9章にはそのことが出てまいります。 そしてクリスチャンはちりぢりばらばらになり、教会は有名無実となり、人々は散らされて、そして祖国を後にしなければならないほどになってしまった、ということです。「教会の働きはそこまでか?」と思われるような客観的な状況がそこにありました。 そういう流れ、そういう状況の中での9章31節であります。もう一度、そこにはこうあります。「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、・・・云々」とこうあります。「オヤ?」と思われるようなことです。 新共同訳によりますとここは「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり基礎が固まって発展した。」とこう訳されています。「基礎が固まって発展した」とこうあります。 教会はいろいろな問題が起こり、いろいろな不純分子、肉なる働き、いろいろなことが起こってくるのです。でもそれで教会が内部崩壊するのではなく、しかもここには「教会は」というだけでつながっているのではなく、その後に「ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地」とあります。素晴らしいと思いました。 「ユダヤ」、そこは神殿のあるところです。そこは中心地、都会の地です。あるいはそこにインテリが住んでいる中心の街でしょうか? 「ガリラヤ」、そこは地方です。ローカルの人たちが住んでいます。「サマリヤ」、そこは異邦人の地です。言うならば番外地、あるいはドヤ街でしょうか? 教会の働きは、そしてその中の教会、とは言っていないのです。ユダヤの街々、村々であり、ガリラヤの街々、村々であり、サマリヤの街々、村々の一人一人であり、人のつながりであります。 そしてそれは点から線、そしてさらには面的に、街全体が、村全体が、地方全体が、そしてイスラエル全体が、やがて世界全体が主の働きの実を結んでいく基礎が固まって発展した、とあるのです。 それは2章のつながりの中ではなく、4章、5章、6章、そして8章、9章という困難と闘う中で築き上げられていったのです。そこに主の教会の命があります。 何がそこで問われているでしょうか?「一人一人の信仰が命を持っているか?」、「一人一人の信仰が主と直結しているか?」、「主のために自分を献げられているか?」、「主の前に、神のみ国の憲法によって自分は律せられているかどうか?」などが問われているのです。 世にありながら世の物に支配されないで、天国の神のみ言葉と、神の律法によって、あなたが支配されていますか?その時にあなたはどんな困難にも、どんな迫害も乗り越えて、そこにしっかりと基礎が固まって発展する結果を見ることができるのです。それが主の教会、それが主にある一人一人であるということを、私たちはここに見るのです。 主は、そのことをこの群れに期待してくださっているのです。そしてこの群れを通して、地域全体を主の働きの場として主ご自身が期待しておられるのです。そのことを私たちは担うことのできるようにと願ってやまないのです。 お祈りを致します。 天のお父様、このようにして今日、私たちはあなたの前に共に出させていただきました。どうぞこの群れにあなたがなしてくださっている恵みの一つ一つ、みわざの一つ一つを覚えて、主の前に、主を崇めつつ、主に仕えることのできる者としてくださいますよう、心からお願いいたします。 恵みを心に留めつつ、さらにその主に献身し、主が喜ばれるところに身を委ね、生きることのできる者としてください。 尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン! |