| 2003年2月23日 主日礼拝式 “使徒の働き” 10章1〜8節 「“この街を福音で満たすE”」 “池田 博牧師” 宣教メッセージ |
| 今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は 使徒の働き10章1節から8節 です。新約聖書の226ページになります。 “使徒”
はい、聖書は以上であります。この街を福音で満たすということをずっと見てきていますが、今日はこの処から特にコルネリオという人にスポットを当ててみてみたいと思います。 改めて、1節に目を留めるのでありますが「さて、カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長であった。」とあります。カイザリヤという場所がでてまいります。あまり聞かないかもしれません。ですので、一寸地図で位置関係を見てみましょう。 カイザリヤ、それはここです。海辺にあります。そして、後に出てまいりますヨッパというのは約50km離れた南のほうにあります。それから、誰でも知っているエルサレムはもう少し内陸にあります。こんな位置関係であります。 カイザリヤは港町でもありますし、その名のとおりカイザル、すなわちローマの言葉で皇帝という意味でありますが、皇帝アウグストというのが聖書の中、ルカの福音書の中のイエス様の降誕の処にでてまいりますが、皇帝アウグストは大変有名な人でありました。 ヘロデ大王はその皇帝アウグストの名にちなんで、この場所をカイザリヤと名付けて12年かけてこの街を開発したといわれています。港を作りました。そして又、街を栄えさせるためにいろんな施設も作りました。水道を引きました。円形戯場を作りました。それは今も残っていて修復もされていましす。その写真がこれです。 右の写真が水道橋です。今と違って地下ではなく地上に造りました。この水道橋で水を供給した。左のほうは円形劇場です。私たちは聖地旅行に行った時にここに行きました。この場所で歌うと私の歌でも聴衆何千人もうならせるほどの素晴らしい歌になる。実際には歌いませんでしたが。 でも、本当に不思議なんですが、この円形劇場は非常に音響的にも優れた設計がされているようであります。このような円形劇場あるいは競技場そして又皇帝礼拝のための大神殿もあったということです。それは今に残っていませんが。 そして、ローマの総督府がそこにあってローマと直結していた。エルサレムはイスラエルの中心である訳ですが、ローマとの関係においてはこのカイザリヤが中心であって、政治経済や様々な面で栄えていたという、そういう街であります。 そこにコルネリオという人がいたとあります。このコルネリオという人がどういう人かということについて少し見てみたいのですが、先ずイタリア隊という部隊の百人隊長とあります。軍人であるということです。 そして当然でありますが、ローマ人であります。ところがコルネリオは何と素晴らしい人で「こんな人が居るのか。」と思えるほどの人徳のある人であります。それが2節を見るとよく判ります。「彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていた。」とあります。 クリスチャンの模範のような人だということが判ります。敬虔な人である。神を恐れかしこんでいる。そして、ユダヤ人に施しをよくしている。何時も祈りをしている。「こんな人がいるんだなー。」と素晴らしさに圧倒されるような表現です。 「どうして、この人がこんな素晴らしくなったんだろうか。」そんな事も思わせられました。私は改めてこの事を思った時に、私の想像がフルに動いているわけなんですが、先ず一つイエス様の十字架の場面の最後のところにこういう記事があります。 ルカ23章47節であります。「この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、『ほんとうに、この人は正しい方であった。』と言った。」とあります。イエス様が十字架にかけられていくそれまでの悲惨な姿、惨めな姿、これ以上無い侮辱を受けた苦しい中を通られたイエス様。 でも十字架にかけられたその十字架上において、イエス様は7つの言葉を発せられましたが、その最初に「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分で判らないのです。」これを聞いた人たちはどう感じただろうかなーと思います。 多くの人たちは馬耳東風、何も心に留めなかった人たちが多かったようですが、でも、そこに居た百人隊長は違っていた。この出来事を見た百人隊長は神を褒め称え「本当にこの人は正しい方であった。」と言った。 この告白、この記事、これはとっても光る一言だなーと思いました。更に私はこの百人隊長を通してコルネリオは彼のあかしを聞いただろうか、何故、彼がそう告白したかについて、コルネリオは聞いたであろうかなーと思いました。 その聞いた話の中の多くは、皆さん、あの十字架にかけられるまでに、どれだけ兵隊達にイエス様が辛い辛いきついところを通らせられたか。棘の冠を被せられて、鞭で打たれたり、容赦なく兵隊達は唾をかけ、拳で殴り、そこにあった葦の棒を持たせ、その葦の棒で頭を叩き、そうかと思うと、ひれ伏して『ユダヤ人の王様万歳。」と言った。 そのように浴びせられる罵詈雑言はどんなであったか。そして彼らがした辱めを通して、どんなに辛い思いをしたか。その一つひとつを、きっとコルネリオは聞いたであろうかなーと思いました。そんな中で、コルネリオは心が砕かれていったか、扱われていったかというようなことを思いました。 そのコルネリオに更に3節以下を見ますとこうあります。「ある日の午後三時ごろ、幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。御使いは彼のところに来て、『コルネリオ。』と呼んだ。彼は、御使いを見つめていると、恐ろしくなって、『主よ。何でしょうか。』と答えた。すると御使いはこう言った。『あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。』」とあります。 2節に素晴らしい人徳の事が書かれていますが、でも彼はこの天の使いの言葉とか幻を見るとかはそれまで無かったようであります。ですから、その光景を見たときに、彼は恐ろしくなり、おもわず「主よ。これは何でしょうか。」と言ったわけであります。すると、御使いが答えた。その答えは「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。」という答えでした。 皆さん。この処から私はいろんな事を教えられます。確かに2節にあるコルネリオへの評価というのは間違いのないところであったと思います。しかしコルネリオは生まれた時からずーっとこういう人だっただろううか、初めから素晴らしい人徳のある優れた人であっただろうか。私はそうは思わない。 コルネリオはやはり、そこに行くまでにいろんな過程を通ったであろうと思います。大体、百人隊長、軍人を志すというときに、軍という力によって、人を支配する、搾取する、上にたって有無を言わせず人を蹂躙する、そういうことと決して無関係ではないはずだと、何処かに私たちは考えます。 このコルネリオもそういう風にして、軍人になってひとつは出世して、多くの人間を牛耳る人間になろうという野心野望があったに違いない。そう思います。やがて、ローマから派遣されてこのイスラエルの国にやって来た。そのやって来たイスラエルの国におけるコルネリオはどういうところを通ったんだろうかと思いました。 私たちが外国に行っていろいろ体験するわけでありますが、仮に東南アジアのどこか発展途上国に行ったとしたら、私たちはそういう国、民族、人々に対する眼差し、そこには軽蔑の眼差しがあるだろうなーと思います。 ローマにとってイスラエルは植民地に過ぎない、支配国に過ぎない。まして軍人として彼らを隷属させて、奴隷のように使う事は当然のことであります。しかし。一方ユダヤ人にしてみますと、今自分たちの国がたとえ植民地とされたとしても、ユダヤ人にはユダヤ人の誇りが、プライドがあります。 世界でユダヤ人ほどプライドの高い民族は無い。彼らは選民である、神の民である。だからユダヤ人以外の全ての民は異邦人、呪われた民、捨てられた民、そういう意識が強い。ですからどんなに植民地化されようが、どんなに蹂躙されようが、彼らのプライドは高かった。 そういう中で、このコルネリオもどんなにか葛藤もあっただろうかとおもいます。しかし、どこでどのようにして、このコルネリオは変えられていったのでありましょうか。苦闘の中で、先程の十字架の事件に出会った百人隊長と何処かで知り会ったでしょうか。 あるいは心の苦しい苦渋を訴えたでしょうか。その中で彼からの励ましを受け、その中で、「父よ彼らを許してやってください。」と言うキリストの赦しの言葉を聞いたでしょうか。彼の心がそこで扱われたでしょうか。変えられたでしょうか。 彼がその百人隊長としての軍人としてのプライドがあればあるほど、そこでの扱いは深く確かなものであったに違いない。そしてそれが、2節のこのような評価に変えられていったかなーと思いました。 そして、もう一つ、天の使いの言葉です。そこではこうあります。「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。」コルネリオの過去がどうであったか十分に想像出来るわけです。そこにおいて、どんなにか彼は多くの罪も犯したでしょうか。どんなにか悪しき行状があったことだろうか。不道徳があっただろうか。どんなにか他人を蹂躙したことであるだろうか。 でも、ここでは「あなたの過去の罪をしっかりわたしは覚えている。」とは言っていないのです。聖書を見ると出てまいりますが、「あなたの罪は東が西よりというように、わたしはあなたの罪は思い出さない。そして海の深い底に埋めるようにして、あなたの罪を最早思い出さない。」と主は言われます。 コルネリオに対しても然り、そうであった事が判ります。そして覚えられているのは、ここで公にされているのは祈りと施しだ。即ちそれは主の為にあなたは変えられて、した事の一つひとつがすっかり覚えられているとあるのです。 過去の人生がどうであったにせよ、あなたの行いが何であったにしても、あなたが一度主の前に悔い改めて、立ち返って、主に従った人生、そして主の為に生きる人生こそが主に覚えられる。そしてそのことが主の前によき香として立ち上るのだと言われる。 ふとその事を覚えて、黙想した時に、私の中に先日2月11日ここで教育講演会をして下さった水谷先生の事が思い出されました。「あー、この方も北海道のコルネリオであるだろうか。」そう思いました。 北の大地に本当に主に仕える一人の素晴らしいしもべだと思いました。そして、この方のあかしの部分が私に飛び込んでまいりました。そこを一寸皆さんに読んで、おわかちしたいと思います。お聞きください。 世界を創造した神はキリストを通して人生の苦しみの意義を教えたいと願っておられる。それに気がつくと創造主である神の視点からこの世が見えてきて、神の創造の目的とは裏腹な現実を前にして苦悩する神の心を知るようになる。ーーーーーーーーー そして、その先に今度は水谷先生のご自分の神との出会い、変えられたご自分についてこう書いておられます。 20歳のとき、私は京都の路上で昼日中に「私が神だ。」と宣言する声を聞いた。それが私の神に出会う体験だった。その瞬間私の自分中心の生き方が崩れた。世界の中心には世界を創造した物言い給う偉大な神が居られて、自分はその前に跪いて拝聴する一つの被造物に過ぎないという、驚くべき新しい認識が心の奥深くに刻み込まれた。 だから自分に与えられた神からの導きに従って、最も敬遠していた高校の教員にもなったし、独身主義であったのに、思いがけない導きを受け入れて結婚したし、増えたら子育てや家庭経営にも精一杯努力した。 身に危険を感じつつも、非行少年に向き合い、暴力団や暴走族から若者を抜け出させ、精神障害に苦しむ人の苦悩に耳を傾け、洗脳して信徒を操る宗教団体から若者を救出した。聖書の福音を述べ伝えることも、教会の信徒を育てる事も、押し付けられて引き受けた。 大学を出てからというもの、私は自分にとって望ましい人生をなにひとつ選ぶ事が出来なかった。実際私は神に買い取られた貧しい奴隷なのだ。神に愛され、神の大切な仕事に使っていただく奴隷である。 しかし、今思うと、神に差し出された人生を黙って受け入れ、誠実に生き抜くうちに、私の内に苦しむ人を見ると手を差し伸べずにはおられない自分の発露が生まれるようになっていた。その永い訓練のお陰で私は神のこの大切なご事業に参加できるようになったのだとしみじみ思う。 神の働きの為に、自分の人生をささげ尽くす覚悟はこの仕事を引き受ける者にとっての最も大切な条件なのだ。最後に言うべきことがある。問題に取り組む時、聖書が私たちに指し示している創造主の神に対する絶対信頼を持って積極的、建設的な努力をたゆみなく積み重ねる徹底した信仰が必要だと言う事である。 一人の人間が神に出会うという経験、その瞬間から大きく変えられていく。そして、それ以前のその人が持っていた人生に対する生き方や考え方や或いは価値観が変えられていく。そこにある様々な人間の計算があるでしょうか。 損得に対する駆引きがあるでしょうか。私はさまざまな事の中で翻弄されながら、自分の生き方をその中から選び取るか、或いはそれ以外にないという処に追い込まれていくでしょうか。 でも、一度その人が、その私という人間が神様に出会っていったときに、そこから全く変えられた人生、全く変えられた価値観、それまで「そんな事をするのは馬鹿みたいなことだ。」と思うような事に、でも喜んでそれをするように変えられていく。 即ち、そこには私たちの人生の意味とか価値とかそういうものが、我々が生きている80年のスパンでしか考えられないものでありますが、でも、神に出会ったときにそういう短い人生ではなく永遠のスパン、神の視点で物を見ると言う事、神の視点で価値観を考えると言う事、生き方の意味を考えると言う事が上から、神様によって、聖書のみことばによって開かれてくる。 初めは微かかも知れない。迷いがあるかもしれない。でも、従っていった時に、そこから確実に絶対に変えられないものとして自分の中に確信として変えられていく。ここに私たちの神による素晴らしい生き方がある。 コルネリオもかっての自分がどんな人間であったのかよく知っていた。だからこそ変えられた時に、彼は喜んで多くの人々に施しをなす。憎くてたまらないはずのユダヤ人に喜んでそうせずにはおれない。 いや、憎しみがあったからこそ償いとしてでもあるでしょうか。施しをせずにはおれない自分の中での自分でも驚くほどの価値の変換、ものの考え方の転換がそこに生まれてきた。そして、その都度祈らずにはおれない。「今日も本当に神よ、あなたのみ心を行えるように。あなたが良しとし、あなたが喜ぶ事の出来る者として今日を歩ませてください。」 そのようにして、日ごとに朝ごとに祈りつつ変えられる。皆さん一人ひとりもそのように召されている事を心に留めていただきたい。 カイザリヤに住むコルネリオとあります。街がどうでもよい、ではなくてカイザリヤに住むコルネリオ、コルネリオはそのカイザリヤの街の中でやがてどんなに有力な人に変えられていったでしょうか。なくてならない存在に変えられていったでしょうか。 パウロは2次3次その旅行の間必ずカイザリヤを通りました。更にはその先には2年間牢獄に閉じ込められる経験をしていきます。その中でもきっとパウロはこのコルネリオと出会っていただろうか。霊的な励ましあいがあったでしょうか。パウロは或いは励ます人になっていただろうか。そのようにも思います。 聖書の中でカイザリヤはとっても大事な街としてそこに置かれております。あなたがどの街でしょうか、あなたがどの自治会でしょうか、どこの会社でしょうか、どこの学校でしょうか、あなたが置かれたその街、その環境、そこにあなたが主に信頼されてコルネリオとしてそこに置かれている。 あなたの過去がどうあれ、神はあなたのこれからを見ている。将来に期待を置いて神様の元へとあなたを招いてくださって、救ってくださって、用いようとして下さっている。そして主は何を心に留めて下さいますか。それはあなたの祈りと施しだと言っておられる。 あなたがどれだけ真剣に魂のとりなしをするでしょうか。それがしっかり覚えられていくんだとあります。施し、いろんな意味での施しですね。魂の為に施す、財を施す、労力を施す、エネルギーを施す。そして仕えていく。そうした一つひとつが覚えられている。 それ以外のことは皆忘れ去られていく。わたしがやがてみ国に行ったとき、あなたの何が神の前に覚えられていくか、それは主の為にあなたがどれだけの事をしてきたか、与える事ができたか、主の為に生きる事が出来たか、それです。 そのために私たちもそれぞれの置かれた中で主のコルネリオとして喜んで仕えていく者、そう願って止まないのであります。 お祈りを致します。 主よ。そのあなたの一人のしもべを、また写し替えてみた時に、主が私たち一人ひとりに何を期待していてくださるか、その事を覚える事でありますが、本当に私たちは自己中心に考えた時に自分だけが考えている人生、自分だけの家庭、自分だけの仕事、その視野その範囲、その視点で見ていくときに私たちは先細り、いき詰まり、先が見えない様々な圧し掛かってくる問題に押し潰される自分、そのようにしか見えない現実です。 主よ、私たち一人ひとりに御目を留めて下さい。光を当ててください。そして、生まれ変わらせてください。主を常に第1として歩める人生をお与え下さい。 尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン! |