2003年3月2日 主日礼拝 
使徒の働き11章19〜26節

この街を福音で満たす。(7)

池田 博師 宣教メッセージ

今日のメッセージのみ言葉をお読み致します。使徒の働き11章19〜26節、新約聖書の230ページになります。

使徒の働き
11:19 さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。
11:20 ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。
11:21 そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。
11:22 この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。
11:23 彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。
11:24 彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。
11:25 バルナバはサウロを捜しにタルソヘ行き、
11:26 彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。

はい、聖書は以上です。最後の所で「アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」とあるんですけれども、翻訳では「クリスチャン」とあるんですけれども、この歴史の中でクリスチャンと呼ばれるようになったのは、アンテオケが最初だと言う事ですね。それは街の中でクリスチャンがどんどんふやされて教会が成長していった。そう言う中で人々が、街の人々が、キリストにつくものだ、と言う事でクリスチャンと言う名前、愛称と言えばそうなんですけれども、みんなからそう呼ばれる様になったと言う事でもって、如何にこの街に教会の存在、クリスチャンの存在が大きかったかと言う事が裏付けられます。

このアンテオケの街に教会が建てられて行きました。その素晴らしいアンテオケの教会がどの様にしてどの様にして建ったのか。どう言う経緯があってそうなったのかと言う事でありますけれども、それが今日の所の19節の最初に出てまいります。

こう書かれてあります。さて、「ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行った」とあります。即ち、ステパノと言う1人の人を通して、この人の存在がアンテオケに福音が伝えられ、そこに教会が建てられて行くと言う、大きな大切な要因になって行った、と言う事が分かります。

その事から、今日は1人の人、ステパノに目を留めて見たい。その事と私たちの関係も見てまいりたいと思います。

このステパノと言う人でありますけれども、少し前の使徒の働きの6章の5節に目を留めて見たいのです。

「6:5 この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、……」とあります。ここに7人の名前が出てまいりますけれども、その筆頭に挙げられたのがステパノであった。

ステパノ、この人は信仰と聖霊に満ちた人、と言うふうにあります。そして更にこのステパノに就いては、色々な「形容」が成されて行くんですね。8節を見ますと「6:8 さて、ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行なっていた」とあります。これは恵みと力に満ちた、更には不思議な業としるしを行なうステパノとあるわけであります。

そして、更に10節を見ますと「6:10 しかし、彼が知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができなかった」とあって、こうして、このステパノと言う人は、幾つも幾つも形容があって、如何に優れた信徒であったか、と言う事が分かります。

皆さん、私たちもこんなに一杯なくても、一芸に通ずるじゃないですかね。誰も何か1つの事に専念して、ああ、あの人は祈りの人ですね。あの人は信仰の人ですね。あの人は何時でも熱で以って主をあかしする人ですね。魂に食い下がるったら離さない人ですね。この人にカウセリングされたら、必ず魂が捕らえられて行きますね。

皆さん何か1つそれぞれに、神様からの恵みを頂いて、力を頂いて「この人」はと言う事ですね。そう言うものを与えられたら素晴らしいかなぁと思いました。

このステパノでありますけれども、まあ、初代教会で救われた人、そして又この人は献身した人、本当に忠実に仕えた人であると言う事が分かります。

このステパノが余りにも熱心な人でもあった故でありますけれども、今読みました6章のもう少し先を読んで行きますと、こんなふうになって行きます。

「6:11 そこで、彼らはある人々をそそのかし、「私たちは彼がモーセと神とをけがすことばを語るのを聞いた。」と言わせた。
6:12 また、民衆と長老たちと律法学者たちを扇動し、彼を襲って捕え、議会にひっぱって行った。」

とこうあるんですね。彼は出る釘は打たれる。余りにも熱心で素晴らしかった故に、まあ妬む者が出たでしょうか。そして捕らえられて議会に引っ張って行かれ、そして、そこでまぁ彼は人々から尋問をされると言う事に為って行きます。

でもその中にあって、このステパノは大胆に主を証ししました。それが7章に出て来るわけなんですね。彼は聖霊に押し出されて語って行きます。その語っている所は今は省きますが、最後の所に少し目を留めたいんですね。

7章の51節です。
「7:51 かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。
7:52 あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。」
「7:53 あなたがたは自らの措置によって定められた律法をうけたが、それを守った事がありません」とこう語りました。

これを聞く者の胸にぐさっと来たのでしょうね。でも、これはステパノが考えた。原稿を読んだ。と言うのではなくして、彼が立って語りだした時に、彼の内なる霊が聖霊によって語らせられたと言っていい所かなぁと思うんですね。ですから、神様が語らせたステパノの証しであると言っていいかなぁと思います。

ですから、それを聞いた人々の中に、あるいは悔い改めが起こって、あるいは主に立ち帰る者が起こって、あのペンテコステの最初の時にペテロの説教によって、多くの人々は良心が刺されて、兄弟達を救うために、どうしたらいいんでしょうか。と言った。その様な霊がそこに働いて、そして、このステパノ説教の前に人々は悔い改めていっても良かったのかなぁ、とこう思うんですが。さにあらず。54節に目を留めて下さい。

「7:54 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。」とこうあるんですよね。天と地程の違いです。何とステパノは聖霊に満たされてメッセージをした。それに対してはもう聞いていられない。と言って歯ぎしりした。そして、もう少し先58節に目を移して見ますと、「7:58 そして、彼を街の外に追い出して、石で打ち殺した。」皆さん何と言う事でしょうか。

あの素晴らしいステパノです。神様に捕らえられたステパノでした。所が神様の霊を頂いて大胆に証ししたステパノを今ここであっけなく、あれっと言う間に、彼は石で打ち殺されてしまった。

で皆さんそうなった時に、私たちはショックを受けますよねえ。ええ、この人がこんな最後、こんな死に方を、神様はどうなっているんだ。神様はステパノを捨てたのか、ステパノを裁いて殺してしまったのか。まあ、色んな疑問がそこから起こって来るのかなぁと思います。

それも無理がないですね。このあっと言う間に起こってしまった出来事である訳でありますね。しかも、その状況を見ますと、色んな人がいた筈でありますけれども、でも、誰1人助ける人がいない。立った1人で、そこで、まあ群衆、彼を冷ややかに見る人々に囲まれて、彼はその中で死んで行ってしまった。犬死、こう言いますよね。正に犬死をする様な結果となってしまいました。どうして、神様は助けられなかったのだろうか。どうして、人々の間に彼を助けよう、そう言う人達が起こされなかったんだろうか。様々な思いがここから起こって来る1つの事実であります。

皆さん、そこから何を聞くでしょうか。で聖書一ヶ所をイエス様の言葉に目を留めて見たいなぁと思います。ヨハネ福音書の12章の24節、189ページ、大変有名なイエス様の言葉でありますが、「12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」とこうイエス様は仰いました。これって、自然界と言いましょうか、植物に当てはめた1つの例えとして言うならば、その通りだなぁと、こう思う所であります。しかし、皆さんこれを事、人間に当てはめるならば、いや、どう言う事だろうかと思わせられる所です。

でもイエス様は、この事を通して、何よりも第1には、ご自分の事を指している。ご自分が正に1粒の麦となって、あの十字架に死に行くために、この世界に来て下さった。そして、その預言通りに、言葉通りに、イエス様は十字架に掛けられて、殺されて、死んで行きました。そして、それは一見、犬死の様な死に方であった様に見えるけれども、さにあらず、その事を通して、人類に、私たちにもたらされた恵みは計り知れない、そこから救いがもたらされました。永遠のいのちへの希望が与えられて行きました。ですから、この例えはイエス様を示すとっても大事な言葉であると言う事が分かります。

そして、更にその事は今ここに、このステパノにも当てはめられ言葉であるかな。そして、又それは私たちにも色んな意味で、当てはめられる大切な言葉である、そう言うふうにも思うのであります。

皆さん、私たちは、常識的には、こう言う事を、日本では、「いのちあっての物種。」とこう言いますよね。人間は死んでしまったら、終わり、お終い、どうにもならない。だから、生きているならば、何かがそこに起こる。出来る。いのちがありさえすれば、何かが出来るから、いのちが大切です。「いのちあっての物種」そう言うわけであります。

でも、それは世の中の事、それは、この世の世界のことわざに過ぎないんであって、聖書の世界は違って、神様の世界の事には、それは違う。神様の世界においては、一粒の麦がむしろ死ぬ事によってこそ、多くの実を結ぶんです、とこう言っておられる訳です。

そして、今このステパノの事においても、その目で見た時に、そこから見えて来るものがあります。そこから開かれて来るものがあります。そこから多くの事が語られています。その事に目を留めて見たいんですが、もう1度戻りますけれども、7章の所でありますけれども、使徒の働きの7章の55節、そこを読んで見ます。「7:55 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、
7:56 こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」こう言っております。

これはステパノの心の内側ですね。ステパノの霊のこの目で見たその姿である訳ですね。で状況はその前後、さっきも見ました様に、人々は歯ぎしりする程の怒りに満ちて、そして、ステパノに襲いかかって、そして、石で打ち殺すと言うその流れの中にある訳ですね。そして、一見その中で、彼はあまりにも無惨な犬死をして行くと言う様なその光景でありますが、でもその光景の合間にかいまみせ、ここに、ステパノは天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見てこう言った。とこうあるんですね。

皆さんステパノの心を支配していたもの、ステパノの心が見ていたもの、ステパノの信仰によって生きていたその彼の心、それは今、正に自分のいのちが無惨な死に方をしようとしているその中にあって、なお、揺るぎなく、彼の心をしっかりと支え、支配して、そして、天を見上げてイエスキリストをそこに見ていたと言う事であります。

そして、その先を見て行きますと、59節の後半、「ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
7:60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた」と言う経緯でありますね。

彼は人々の目から見るならば、無惨な死に方であったのでありますけれども、でも、彼の心は違っていた。そして、天を見上げて、主をしっかりと見ていた。そして、今どんなにか石で打たれて、そして、その中で、殺されようとしている中で「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」

何と言う祈りでしょうか。何と言う彼の心に満ち満ちている愛でしょうか。最早死も支配出来ない、人のどんな怒りによっても失われていない、彼の平常心、彼の心の平安ですね。

これはそこにいた殆どの人達の心には全く見えない事でした。でもたった1人の人の目に留まりました。その人それがサウロです。後のパウロです。

今7章の58節の後半には、こう書いてあります。「証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。」サウロがその近くにいて、彼がまあ言うならばそのステパノを石打の刑にする事の証人として、責任者として立っていた事が分かります。

更に8章の1節を見ますと「サウロはステパノを殺す事に賛成していた。」とあるわけであります。しかも更にそれからサウロは殺害の意に燃えてダマスコまで行こうしている訳であります。その様にして、彼の殺意は、彼の迫害の意志は益々エスカレートして行くのであります。

でも、その彼の深い心の内側に一本の釘が差し込まれるかの様にして、ステパノのあの最後の輝く神々しい姿には、捕らえられていたんですね。そして、彼の深い所を捕らえた。この1つの出来事はやがてサウロの心全体を、サウロの人生を変える事になって行きます。

それは、9章のあのダマスコでの出会いから始まって、サウロはやがて変えられて行くのでありますが、1ヶ所だけ、使徒の働きの22章の20節を見ますとそこにこう書いてあります。これはパウロの後々の証しでありますけれども、「22:20 また、あなたの証人ステパノの血が流されたとき、私もその場にいて、それに賛成し、彼を殺した者たちの着物の番をしていたのです。」
22:21 すると、主は私に、『行きなさい。わたしはあなたを遠く、異邦人に遣わす。』と言われました。」彼はその様に振り返って証ししてますね。

その時の彼は殺害の意に燃えて行くのでありますけれども、でも、振り返って行った時に、救われて見て、彼の心の中にきちんと整理されて行った時に、あのステパノの出来事、それは即ち、私が主のために立って行く、働き人となる、その柱と証ししてくれたんだ。彼の心の変化をここで見る事が出来ます。

皆さん、この様にして私たちの人生の中で、たった1度の小さな出会いかも知れませんけれども、でも、やがてそれがどの様に、あなたの心を支配し、人生を支配し、神様の祝福を受け継ぐものとなって行くか、ここに大切なメッセージが込められているのであります。

ステパノ、この人は使徒の働きの6章の最初の方を一寸見ますと「生まれながらのユダヤ人と外国育ちのユダヤ人との間の問題が起こって、そして、外国生まれのユダヤ人が、冷遇されている。差別されている。と文句を言い出します。」それも毎日の配給のため。食べ物の恨みは深い、もう本当に逆なでする様になって行った。そして、人達はそんな事に翻弄されては大変だ、今日はちゃんと配給されているか、一々人がやっていたのでは大変だと言う事でもって、食卓の事は1つ新しくその担当者を選びましょうと言う事になって、そして、選ばれたのが、あのステパノ始め7人であったのですね。

こうして見た時に、後にステパノは素晴らしい人に変えられて行ったわけですが、でも、ステパノは始めからそう言う人であったのではない。まあ普通の人であったのでしょうかね。クリスチャンの1人、奉仕者の1人でしかなかった、そう言うステパノでありました。でも、神様はそのステパノの心を捕らえて行きました。そして、ステパノの熱心に主は答えて下さいました。あなたが教会のどういう所で、どう言うふうにして、主に仕えるでしょうか。

何をしても目立つ人もいますよね。凄く目立ち易い人もいますよね。同じ声でも、小さな声と大きな声、これは人それぞれなんです、それぞれ生まれ持って、あの人になったら良いなぁとか、羨ましいなぁ、とか余り思わないのにですね。小さな声の人は小さな声でいいのですね。そして、何をやっても、一生懸命やっても、ええ、やってくれたの、と全然目立たないそう言う奉仕もあるんですよね。

ともすると、私たちは目立つ事に、何かこう心の中に葛藤があったりしやすいのでありますけれども、そう言う事は一切問題ではないのですね。あなたの心が主に向いていて、あなたの心が主のために奉仕をする事が求められている。主のためにあなたの心をどれだけ献げますか。主にどれだけ、私に与えられた主の恵みの故に、救いの恵みの故に、私は主にお返しをしたいのです。

私は主の前に、主に仕える事を通して、私の受けた恵みをお返しして行きたい。そのあなたの忠実、そして、そのあなたの忠実の中にある熱心、その信仰、私は人がどう見ておられようとも、私は、私の力で熱心忠実に仕えて行きたいのです。

その熱心は主が見逃さない。しっかり目を留めて下さいます。そして、やがてステパノが本当に主によって用いられて行きましたが、あなたの1人のその忠実さは主が用いて下さいます。

何処で用いるでしょうか、あなたの家庭でしょうか、あなたの地域でしょうか、あなたの職場でしょうか、学校でしょうか、あなたの置かれた所で忠実に仕える時に主はそれを用いて下さって、そこにステパノがあのアンテオケの街をひっくり返すと言いましょうか、宣教化して、そして、豊かな豊かな祝福を与えて下さり、その様に変えられて行った様に、あなたの小さな奉仕が、やがて、神様の御手の中にあって、豊かな神様の栄光を現す事の出来る者とさせて下さる。

主はあなたのその小さな志を大切に大切にして下さる。お互いも与えられている賜物はどうであったにしても、でもそれを本当に忠実に主にお返していく、そう言う者とならせて頂きたい。


お祈りを致します。
愛する天のお父さま。
今日もこの様にして、あなたの御前にお1人お1人を導いて下さいまして、主よステパノがあなたの前に忠実に歩んだ時に、彼がどのようなな生涯であったとしても、人の目から見た時に、報われない人生であった様に見えても、でもあなたは、それをしっかりと心に留めて下さり、その忠実な生き様は、やがて、1人の人を、サウロの心を捕らえ、その人生を変えて行きました。
そして、そのサウロが、やがてアンテオケ教会の柱となって行き、アンテオケ教会が世界の宣教の大きな拠点となって行きました。
あなたは普段1人1人に目を留めて下さいます
。どんな、私たちの小さなタレントにも、あなたはそれをあなたの御手に委ねる時に、一粒の麦となって、豊かな実を結ぶ事の出来る大いなる事をして下さるお方であることを覚えて感謝致します。
お1人お1人を主が覚えて下さるように
。私たちの救い主、尊いイエスキリストの御名によってお祈り致します。
アーメン!