| 2003年3月9日 主日礼拝式 “ルカ” 19章1〜10節 「“きょう、救いがこの家に来ました”」 “木島 正敏師” 宣教メッセージ |
| 今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は ルカの福音書19章1節から10節 です。新約聖書の141ページになります。 “ルカ”
ハイ、聖書は以上です。これはザーカイという一人の男性の魂の救いの物語で、非常に判りやすい話しであります。先程あかしされました中島さんとザーカイとの拘わりというと、どちらも男性であって、社会人ということで、又その背後に家庭を持っているということかなと思います。 ただ、人物像は大分違います。中島さんは背が高く、格好良くて立派に会社勤めをなされた。そして、今も伺いましたように本当に真剣に人生に取り組まれてこられた。ザーカイは大分違います。街の顔役であっても、人々に忌み嫌われている存在であるという事かなと思います。 ですが、ここには深い繋がりが感じられます。中島さんの家庭、先程もありましたが、上郷センター学習塾がありましたが、その最初の時から、中島さんのご家庭と関係がありました。「マー、良くこれだけの試練が次から次へと、苦しみに遭っておられる。」本当にそう思いました。 中島さんご自身、会社勤めをしておられて、しかも会社でも信頼される立場でありましたから、単身赴任もあったり、仕事に追われる毎日であった。ですから、ついつい、今始めて伺いましたが、奥さんに家族の問題を押し付けてしまった、と先程伺いました。でも、正直な事かなーとも思います。 「これではいけない。」と思いながら、しかしそれが何時の間にか家庭の問題、家族の問題は奥さんに押し付けてしまうのが当たり前になっていく。そういう中で、順子さんが上郷センターに来たのがきっかけで教会に来るようになった。 たまの休みに義理も有って教会にたまには来られるという事であったんですが、その突然の危機の中で、義理で来ていた教会でありましたが、そこで「祈ろう。」「祈って下さい。」と教会に依頼をされた。 又、ご夫婦で決心もされた。そこから神様の恵みに対して目が開かれていった。その後も危機は何度もありました。しかし、それは危機で終わらなかった。中島さんご自身の心、あり方を問いかけ、見詰めざるを得ないところまで追い込まれていった。 本当に素晴らしいなと思うのは、それを自分の事として受け止めていかれる中で、ご夫妻が一つになる事が出来ました。そして親子が一つに結ばれていきました。洗礼を一緒に受けて、そこから次のステップを踏み出した。そうすると、家族の「無ければ良い。」と思っていた問題が、実は宝物であった。この問題が飛躍のきっかけになっていった。 中島さんの体験談の中で非常に心に残ったのは、ご自分を傍観者であってはいけないと戒めておられるところです。又、そのように神様からのメッセージとして聞いておられるということです。家族の問題に対しても、地域の障害者の問題に対しても、その延長の上で正面から取り組んでおられる。 地域福祉の為に何か奉仕をしたい、神様の愛がそうさせているのだということを人々に伝えたい、この熱い思いが、本来は物静かな中島さんの中から迸り出ている。やがて、この飯島町に障害者のための地域作業場がまもなく実現するために取り組んでおられます。 聖書に戻りますが、ザーカイは表面から見ると全く対照的な人物であります。街の取税人の頭で金持ちだとあります。取税人、今の言葉でいえば税務署のお役人、その頭ですから翻訳すれば税務署長ということになります。 実態は、やくざまがいに強引に税を取り立てて、ピンはねをするといった存在です。「人がどう言おうと、世間がどう見ようと、結局のところ頼りにできるのは力であり、金だ。」という確信犯みたいなところがありますから、彼は一生懸命でした。「自分を守るため、家族を守るためにはこれしかない。」ということであります。 そして、実績をあげて、ついに頭、指導者の地位についたということであります。それなりに手下もいたでしょうが、しかし彼は心の深いところで知っていました。自分という人間と心を通わせる事の出切る存在がいない。彼は犠牲を払ったのです。自分を守るはずの地位とお金と権力は手に入れましたが、そのために犠牲を払いました。 その犠牲とは、人と本当の意味で心の繋がりを持つということが出来なくなってしまった。そういう自分、誰にも受け入れられない、本当のところは自分は疎まれ、恐れられ、軽蔑されている。そういうものを誰よりも感じて、心の中に怒りを秘めていた。寂しさをいつも自分の中に持っていた。 いうなれば中年男性の悲哀かなーとも思います。又、たとえお金には不自由なかったでしょうが、彼らの夫婦生活はどうだったかなー。推察するに容易な事です。そういう両親の間で育った子供たちの性格はどうだったのかなー。その両親の生き様をみて育った子供たちはどうだったのかなー。家族の人間関係は決して喜ばしいものではなかっただろうなー。 それは何処から出てきたのか。イエス様はその事をよくご存知だった。たましいの救い主は良く判っておられた。だから、非常に象徴的な言葉をもってザーカイに語りかけ、人々に語っておられます。 5節にこのようにあります。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」あなたの家にと、わざわざ家という言葉を使っておられます。あなたと一寸用事があるではなくして、あなたの家にということです。 そうして、後にザーカイが改心した時に、9節にありますが、イエス様は言われました。「きょう、救いがこの家に来ました。」これもきょう、救いがこの人にではなくして、この家にと言っておられます。いうならばファミリーであり、ホームです。 ザーカイ一人が問題であったのではなく、家族の長の問題から始まって、夫婦の間、親子兄弟の間に問題が渦巻いて、痛みがあって、苦しみがあって、歪みがあって、戦いがあって、そういう家。イエス様はよく判っておられました。そして、そのスタートは、ザーカイという一人の人間の生き様に問題があるということであったわけです。 イエス様は知っておられました。ザーカイが人と心の交わりが全く出来ない、心の触れ合いを持つ事ができない、冷たく冷え固まった生き様しか出来ない。しかし、彼がどんなにその事を怒り、寂しい気持を秘めているかも知っておられました。だから、イエス様は彼の心の隙間、心の空洞の中に入ってきてくださった。イエス様はザーカイにこう語られました。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。」 ザーカイ、これは名前です。普通私たちはどのように呼ばれますか。一歩教会を出たら何と呼ばれますか。「三菱商事さん。」「田中部長さん。」「鈴木先生。」「池田さんの奥さん。」何と呼ばれるでしょうか。 私たちは立場が呼ばれるのです。自分もそのつもりになっている。私たちは立場として人と付き合って、その立場が私たちを守っているかのように、人と人を繋いでいるかのように思います。ザーカイはそんな中で生きていた人間でした。お金、実績が彼の地位の裏づけでした。 彼はその中でようやく人と付き合っていた。しかし彼はそれがどんなに空しいか知っていました。どんなに自分の心が、その事で荒れて渇いているか。自分が名前を持って呼ばれる。皆さん、「ザアカイ。急いで降りて来なさい。」このザーカイの部分に自分の名前をいれて読んでみて下さい。 どうですか。この名前、実は魂にイエス様は語りかけておられるのです。私という、タイトル無しの魂、私という存在にイエス様は語りかけて下さっている。ザーカイは初めて自分の魂に語りかけを受けているその言葉を聞いたのです。人格に語りかけておられるお声を聞いたのです。 イエス様は真っ直ぐに語りかけて下さったのです。そんなことをしてくれる人は誰もいなかった。「あなたです。あなた、降りてきなさい。わたしはあなたを知っている。わたしはあなたの心の痛みも判っている。わたしはそのあなたの為に来たのだ。」 ザーカイはまさか自分に魂があるとは思わなかった。彼の心はいっぺんに溶けていきました。冷たい心、固い心。しかしそこに、真っ直ぐに届けられたイエス様の声は彼の心を溶かしました。心と心が繋がった。通い合ったということです。 人は愛されると、元気が出るのです。何もしなくとも、愛されていると判ると、元気が出ます。これは男でも女でも同じです。大人でも子供でも同じです。私たちはそういう交流は立場と立場では決して出来ない。 でも、イエス様はそこに来て下さって、語ってくださった。彼の心は溶けました。そして、彼は変えられた。それは丁度毛糸球がぐじゃぐじゃに縺れきって、何処からどうほぐして良いか判らない、そこに端っこを持ったら、すーっと解けたように、ザーカイの心の扉が開いた時に、彼の魂が解かされ、夫婦関係が癒されていき、親子関係まで、家族関係までその喜びが伝わっていって、新しい変化が始まっていった。 中島さんの先程の体験談はまさしくそれをなぞるように、私たちに神様の業を教えてくれるものです。何と、裸になるということはむつかしい事かと思います。しかし、そこに魂の語りかけ、私たちの名をもって呼んで下さる語りかけ、それを聞いた時、私たちの心は溶かされていきます。 どうでしょうか、今日そのようにして私たちは本当に新しい事を聞いているようです。このところには救い主が居られます。私たちはこの方を礼拝し、この語りかけに耳を傾けました。あなたです、あなたに主は語りかけておられるのです。 主はおっしゃる。「あなたの家庭、あなたの夫婦関係、あなたの親子関係、わたしはあなたから始めて、そこに祝福を届けたいのだ。」そのように、私たちも救い主の祝福を受けていきたいのであります。 お祈りを致します。 お一人おひとりの心、主よあなたがそれを見詰めて、どうぞ語りかけを続けて下さい。 尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン! |