2003年3月16日 主日礼拝式
“ピリピ人への手紙” 3章1〜8節

「“キリストを知る恵み”」

“池田 博牧師” 宣教メッセージ

今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は ピリピ人への手紙3章1節から8節 です。新約聖書の353ページになります。

“ピリピ”
3:1 最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。
前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。
3:2 どうか犬に気をつけてください。
悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。
3:3 神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。
3:4 ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。
もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。
3:5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのへブル人で、律法についてはパリサイ人、
3:6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに損と思うようになりました。
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。
私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

聖書は以上です。今日は、春の召天者記念礼拝です。クリスチャンであって、また教会の墓地に遺されている方々を中心にした召天者記念礼拝は秋に行われております。春はそうでない方々、故人をそれぞれお持ちであるかと思いますが、そういう方々を対象に、遺族のための特別な記念礼拝ということであります。

皆さんに、どうしても祈ってほしいという方がありましたら名前を挙げて下さいと、前もって申しあげておきました。名前を挙げてくださった方々のために、特に今お祈りをしたいと思います。

(故人の方々を覚えてのお祈りの時:略)

今日は、召天者を覚える日として、ご一緒に聖書を見て参りたいと思っております。今聖書を読ませて頂きましたが、神様は私たち一人一人に、この地上に命を与えてくださっています。そして一人一人に人生というものがあります。

これがいかに尊いものであるか、いかに素晴らしい恵みに満ちたものであるか、そのことを改めて感じております。身近に天に送った方がある方、また、そうでない方にとりましても、あるいは葬儀に出たり、身近な知人にそういう方があったりする時に、そういうことを思わせられると思います。

私も最近、2つの葬儀がありましたが、この2つの葬儀を通して、そういうことを改めて感じています。

その人にとって人生が必ずしも振り返っていい人生であった、この地上に生きたことが素晴らしいことであったと、そう実感できないで、むしろ生まれて来なかった方が良かったと思えるような、たとえ波瀾に満ちた人生であったとしても、でもおしなべてよく振返ってみた時に、どんな人生であったとしても、一人の人がこの地上で生まれて死に逝くという事は、それは生まれて死んでいくということで決して終わるのではなく、そこには実に豊かな神の恵みが注がれていることが分かります。

一見、自分の人生は空しかったと思えるその人の最後でも、必ず神は「良かった」と言えるような、そういう締めくくりをしてくださる方が神様であることを、思わせられます。

しばらく前には、佐藤寛二兄を天に送りました。たまたま今月の月報に、息子さんの賢二兄が、「父が遺してくれた言葉」と題して書いてくださっております。皆さんも後でお読みくださればと思います。私も関わらせていただいて、本当に感動を覚えております。

寛二兄は、10年以上も前になりますけれども癌が発病して、癌との闘い、苦しい闘いもありました。精神的ないろいろな悩みもありました。後半生(こうはんしょう)といいましょうか、残り最後のところがとても辛い人生であったようであります。でも言うならば、「締めくくりとも言える最後の入院生活の約4ヶ月が、本当に素晴らしい最期であった」という風に思います。

兄弟から、「お父さんが本当に変えられているのです。」ということを聞きまして、どうしても一度お見舞いしたいと思い、11月の半ば過ぎに訪問し、お会いしました。本当にその通りでした。私がそれ以前に、この教会で会った兄弟とは別人のようなお父さんの姿がそこにありました。

内側からにじみ出てくるものが本当に爽やかでしたね。そして言うならば浄化された、佐藤寛二兄がそこにおられました。発する言葉の一つ一つが、そして祈りの姿一つ一つが本当に、「ああ、ここまで変えられるんだな。」ということを思わないではいられない最期でありました。

一つ一つその言葉が書き残されておりますけれども、「キリストにあっての人生、キリストに出会った人生というのは、ここまで変えられる。」ということを思わせられました。

それから、ごく最近、杉原さんのお父様が召されました。純子姉から、急に入院して、「もうそう長くない。」という緊急事態だという知らせが入りました。本人もとっても慌てておられて、「どうしたらいいんでしょうか?」という訴えをなされました。

そこでお薦めをさせて頂きましたけれども、その薦めの通りに姉妹はお父さんに悔い改めをし、そしてまた主を伝えました。その時、お父さんの心が素直にそれに従って、心が変えられていったのです。

最期は、「本当に素晴らしい平安の中の召天であった。」ということでした。私は一度も生前にはお会いしていなかったのですが、亡骸を見て「ああ、なるほど、その通りだ。」と感じないではいられないほど、遺体の顔は本当に穏やかでありました。

本当に死ぬ間際ぎりぎりのところでありました。でもイエス様にその最期を託すことができた時に、イエス様はその最期をしっかりと締めくくってくださったのです。最期を全うさせてくださったのです。それを感じないではいられなかったのです。

私たちの人生は、とっても大事な意味を持っています。でも、その大事な意味を持っている人生を、イエス・キリストに託した時に、イエス・キリストに出会った時に、それをしっかりとまとめあげて、締めくくってくださるのが、イエス・キリストであると、私は改めて感じました。私はそのことを、この2つの出来事の中にも見ることができたように思います。

先程読ませていただきましたピリピ人への手紙3章ですが、ここはパウロという人が、自分のキリストに出会う以前と出会った後のその違い、そのことを端的に著してるところであります。パウロという人は、「それ以前、どういう生き方をしてきたか?」ということがそこに言い表されているのですが、5節にこう書いてあります。

“ピリピ”
3:5 私は8日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。生粋のへブル人で、律法についてはパリサイ人、

この人は、イスラエル民族ということです。イスラエル民族は、神によってモーセを通して律法が与えられましたが、この人はその律法にしっかりと従って生きた人ということが分かります。

そういう意味では、とても真面目な人間とも言えると思いますが、でもその「真面目人間」、「正しく生きた」ということが、決して全てではなく、それ故に実はもう反面で、「ある自分の心の内側を、きちんと見ることができなかった人であった」ということがその後から分かってきます。

6節を見ますと、「その熱心は教会を迫害したほど」とあるのです。「律法による義についてならば非難されるところのない者です。」と、こう言っているわけです。私たちも、しばしばありがちであると思うのですが、「自分の哲学を持っている」とか、「自分の人生観はこうである」とか、「自分はこういう考えで生きていくんだ」という考えを、持つこと自体が間違っている、とは思わないのであります。

でもそれにだけ頼っている私たちの生き方が、如何に私たち自身を高慢にし、あるいは自分の本当の姿を見えなくしているか、そういう存在であるか、ということが、如実に表わされております。

このパウロという人は、「神から与えられた律法を欠けなく行なっている。」と自負しておりましたから、だから「自分の知っていること、自分のやっていることは正しくて、他は間違っている。他はそうではない。」と断言して憚(はばか)らなかったわけであります。

ですから教会を迫害し、クリスチャンを迫害し、「自分以外の者は是でなく非である。」という風に言いきっていました。「教会に連なる人々を迫害し、これを殺すことも決して間違っているのではない。」とそう断言していたのであります。そのパウロという人が、それ故に教会で祈られて、多くのクリスチャンたちに祈られていたであろう、と思います。

使徒の働きの9章を見ますと、そこにパウロがイエス・キリストに出会う、劇的なドラマが書かれてあります。あそこで出会った時に、パウロは本当に180度変えられました。今までの生き方を全く変える新しい生き方、すなわちキリストに従う生き方が、始まったわけであります。

私たちも、いろいろな出会いがあって、クリスチャンになると思います。「家族の中で誰かがクリスチャンであった」、「友達がクリスチャンであった」、「たまたま近くに教会があった」、「あるいは近隣の方々の救いのために祈られてもいた」など、私たちはいろいろなきっかけでクリスチャンになることがあるわけです。

「主に出会ってクリスチャンになる」ということの恵みと素晴らしさを思わないではいられないですね?このパウロもそういう電撃的な出会いをしたのです。電撃的な出会いをしたパウロは、それから後の人生の中で、結果としていろいろなところを通っていくわけです。

そして主に出会ったということの素晴らしさとともに、それ以上に素晴らしいのは、出会いがあった後に彼がたどっていく過程、キリストに従う中で彼自身が扱われていく過程、彼自身が変えられていく過程、さらには彼自身がキリスト者として成長していく過程が、「どんなに素晴らしいか!」ということであります。

彼はまず、自分自身がキリストの光に照らされてみた時に、自分を正しいと思っていたことが、いかにその正しさの反面においてそうでないものを裁いていて、そうでないものを退けていて、自分は一方的にしか物を見ず、とんでもない存在であるということを、本当に知っていくのです。そして、そういう自分を変えるために、荒野に退いて、自分自身を深く見つめていくわけであります。

「自己省察」、「自己対峙」、これが私たちにとってどんなに大事なことかを思います。クリスチャンになった、でもそこから私たちは一つ一つ扱われて、変えられていくのです。

パウロはそういう中で、いろいろな苦い経験を通って行きます。特にギリシャに行った時のことです。当時のギリシャがいかに進んだ国であったか、高い文明を持った国であったでししょうか?

彼はある時アテネで、イエス・キリストを知って、その素晴らしいキリストを伝えようとして語っています。人々はそれを聞いて、17章18節を見ますと、彼に対してこういう聴衆の反応があるのです。「このおしゃべりは何を言うつもりなのか?」と言い、他の者たちは「彼は外国の神々を伝えているらしい。」、「おしゃべりだ、単におしゃべりをしているだけなんだ。」と言って、彼は本当に馬鹿にされていたのです。

イエス・キリストを伝えているのだけれども、全く聞き耳を持たない人々の反応があります。そして同じギリシャの中のコリントという所では、彼は腰を据えて伝道して、そこに教会が建っていくのですが、その建った教会の中の一部の人たちから、パウロのところに手紙が来ます。そして手紙の中で、彼はまた、非難されていくわけなのです。そこを見ますと、こうあります。

“Uコリント”
10:10 彼らは言います。「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際にあった場合の彼は弱々しく、その話ぶりはなっていない。」

パウロはこうして講壇から大胆に語ったと思うのですが、でも「手紙は立派だけれども、語る時は弱々しくて話ぶりはなっていない。」と言うのですから、本当に滅茶苦茶なとをパウロは言われていくのです。

そういう非難の中で彼は何を知っていくのでしょうか?彼は自分自身の存在がいかに小さな存在であって、弱い存在であって、さらにはなんと罪深い存在であるかということを、嫌というほど知っていくのであります。そして彼はそこで砕かれていくわけなのです。

これは私たちにとっても、とても大切なところであると思います。イエス様も、ヨハネ9章39節以下を見ますと、人々に対してこう言っているところがあります。

“ヨハネ”
9:39 そこでイエスは言われた。「私は裁きのためにこの世に来ました。それは目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
9:40 パリサイ人の中でイエスと共にいた人々は、このことを聞いてイエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
9:41 イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。そこにあなたがたの罪が残るのです。」

当時のパリサイ人や宗教家たちは、「自分たちは神を知っている、神を知っている。」と言って誇っていたのです。その誇りの故に、目の前に神ご自身であるイエス・キリストがおられるのに、そのイエス・キリストを認めることができない、受け容れることができない、その正しい姿を見ることができないでいながら、キリストを罪に定めているのです。

「いいですか?あなたがたはそのようにして、真に正しい神の御子を否定して、自分の内側にあるその罪に気付かずにいるではありませんか?」、キリストはそう言われるのです。

私たちも、いつも「自分を義」としがち、「自分を良し」としがちです。「他を非難し、否定し、他を間違っている」と言いがちです。「あなたがたはそのようにして自分を罪に定めているんですよ。さあ、それが分かりますか?」とキリストは言われます。私たちはそうなりがちですね。

最近読みました一冊の本の中に、こういう一文がありました。今の話を適切に言い表わしているように思いますので、聞いて頂きたいと思います。

「ある同僚の宣教師が、アフリカで回心した人食い人種との経験について私に話してくれたのを思い出します。ある日回心したばかりの人がやって来て言いました。『クリスチャンであるのを少し、2〜3時間でいいんです、少しだけやめて休暇をもらっていいですか?出かけて行って、かつてライバルだった首長の首を取りたいんです。』彼はその宣教師に、『それが終わったらすぐにクリスチャン生活に戻る』と約束しました。」

彼のことを簡単に笑ってはいけません。皆さん、この人はたまたま人食い人種ですから、人の首をガサッとこう切りたい。でも私たちもどうでしょうか?時に、しばしば、クリスチャンであることを2〜3時間やめて、「この野郎!」と呪いたくなったりすることもあるのではないでしょうか?どうでしょうか?何か、こう意地悪したくなったりとか、そう思うことがあるのではないでしょうか?

私たちもしばしば、主にありながら、主に従いながらもそうなっている自分を否定できないものです。しかし、パウロがキリストにある素晴らしさを語っています。キリストにありながら、なお、それをしばし止めてでも、人への憎しみを吐き出さないではいられない自分がそこにいます。

けれども、でもキリストにない中でそのことをするのと、キリストにある故にそれをすることの間の違いは、天と地ほどの違いがあることを知らなければなりません。

キリストにありつつ、なお私たちは人を憎み、憎しみを止めることができない、そんな自分があるけれども、でも同時に、キリストにある故に、そこには、キリストが内に住んでくださっている故に、良心の痛みをより強く感じます。聖霊が憂います。聖霊が涙を流します。自分のしていることへの悔しさがそこにあります。それが大切なのです。

そしてそこに御霊が働いてくださって、そこに良心の光が照らされて、私たちの膿み(うみ)が、私たちの暗いものが明るみに出されていくのです。膿みがあってはならない、自分もそう思っていながらできない、その自分の内側が、徐々に、徐々に、と聖められていくのです。

ですから大切なことは、「キリストにある」ことです。「キリストに従った歩みをしていく」ということであります。そこで主は扱ってくださるのです。

水野源三さんという方が、一つの詩を残しておられるのですが、その詩を今ご紹介したいと思います。「キリストを知るためだとわかりました」という詩です。

「病に倒れたその時には涙流して悲しんだが、
 霊の病いやしたもうキリストを知るためだとわかり、
 喜びと感謝に変わりました。

 友に背かれたその時には
 夜も眠れずに恨んだが、
 永遠に変わらない友となるイエス・キリストを知るためだとわかり、
 喜びと感謝に変わりました。

 過ち犯したその時には
 心を乱し悔やんだが、
 全てをば償いたもうキリストを知るためだとわかり、
 喜びと感謝に変わりました。」

水野源三さんという方は、全く身動きのできない、まばたきだけで人との交流をするという、極度な重度身体障害者であったわけですが、でもこういう珠玉の詩が生まれて参ります。

私たちが主にある故にこそ、主は私たちを扱ってくださいます。病に倒れることがあるけれども、いたずらに神は病に倒れさせるのではなく、そこでこそ真に、私たちの体だけでなくして、心もいやす主を知らせてくださり、そのためにこそ主がご配慮の中でそれをしておられる、ということです。

「人を憎んで、恨んで」という、そういう自分の醜さに、本当に泣くことがあるけれども、でもその時に、「常に側にいて慰めてくださるイエス・キリストの慰めがどんなに素晴らしいか」を知っていくために、主が許された試練でもあるわけです。

「過ちを犯す。罪を犯してしまった。ああ、自分はなんでこんなことをしてしまったんだろう?」と、そう思う時があります。でもその時に「あなたの罪は許された。」とあなたに声をかけてくださる、十字架の赦しの愛のキリストがそこにおられるのです。

そのようにして私たち一人一人は、キリストなしの人生はなく、キリストなしの自分自身の存在もないということを知っていくのです。とっても大切な主のお取り扱いがそこにあるのです。

キリスト教では「かいしん」という言葉を使います。この「かいしん」というのはこういう字を書きます。

「改心・回心」

右側がキリスト教の「かいしん−回心」、日本人の「かいしん−改心」は左側であります。私たちはともすると、「心を入れ替えて、良いことを、正しいことをしっかりやります。」と言って、左側の「改心」を心掛けようとするのですが、でも私たちはそういう改心は実はできないのです。

私たちの存在は、それができるほどに高くはないのです。聖書が私たちに教えている「回心」、それは心を回すことです。あなたは今のできない自分を、素直にできないと言って心を回して、イエス様に心を向けることです。

イエス様に心を向けた時に、イエス様があなたの内に入ってくださって、聖霊があなたの内に住んでくださって、聖霊があなたを変えてくださるように働いてくださるのです。私たちの内にある可能性は、それ以外にないのです。主はそのようにして私たちを扱ってくださるのです。

パウロはいろいろな辛いところを通ります。コリントの11章を見ますと、彼は鞭を打たれたり、あるいは川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難と、もうありとあらゆる苦難を通っていくのであります。もういい加減止めたくなるようなところを、何度も通っていくのであります。

しかし彼は言います。私はそういう意味において、とことん弱さを知った者であります。でもその弱さのどん底の中で、私は神の声を聞きました。その神の声は、「私の恵みはあなたに充分である」と、こういう声であったのです。

「弱さのどん底にある自分。その自分を支えてくださるのは主であって、さらにはその弱さを担ってくださって、強さに変えてくださるのは主である。」と、そのことをどん底の中でしっかりと知ることができたのです。

“Uコリント”
12:10 私はキリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、弱い時にこそ私は強いからです。

ですから12章10節に、このように変えられていくのです。私たちは自分の生き様を誇ろうとしますが、でも誇るのはイエス・キリストです。自分を誇ろうとした時に、人をつまずかせ、人を押しのけ、人を退けてしまう以外にないのです。

でも何もできない自分をとことん知ることができた時に、その貴方の心を支えてくださって、引き上げてくださって、貴方を強さに導いてくださる方がそこにおられることが分かります。それを知ることが出来た時には、貴方にとって、「何とイエス・キリストは素晴らしいお方であるか!」を知っていくのです。

でも、何もできない自分をとことん知ることができた時に、そのあなたの心を支えてくださって、引き上げてくださって、あなたを強さに導いてくださる方がそこにおられることが分かります。それを知ることが出来た時には、貴方にとって、何とイエス・キリストは素晴らしいお方であるかを知っていくのです。

「私は仕えられるために来たのではない」と言われた主です。真に仕えられるべきお方として、神として来ていいはずのイエス・キリストが、その仕えられるべき者に対して、仕える者となって来てくださったのです。しかもそのために命すらも与えてくださったのです。そこにこそ私たちの素晴らしいキリストにある人生が開かれていくのです。

先程のピリピ書の最後のところに、こう言われています。

“ピリピ”
3:6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。
私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

この素晴らしさというのは、口語訳では「絶大な価値」というふうにも訳されています。「あまりの素晴らしさ」とも訳されております。

皆さん、私たちは本当に自分の弱さや醜さを知った時に、「私たちの内側に生きてくださるイエス・キリストの恵みがどんなに豊かであるか」を知ることができるのです。その豊かな恵みを知った時に、「ああ、キリストと共にある人生はなんと素晴らしいことか!」とそのことを知るのですね。

そしてその中で、私たちはなお失敗だらけの人生でしょうか?傷だらけの人生でしょうか?最後の最後まで悲しませている自分自身でもあるでしょうか?

でも一度あなた自身をキリストに委ねたならば、キリストが全責任を持ってくださいます。たったわずか数時間でも、最後にあなたを召し上げてくださるのが、イエス・キリストです。平安の中にあなたの生涯を全うさせてくださるのが、イエス・キリストです。

キリストにあるということのその素晴らしさが、どんなに大きく、どんなに豊かであるでしょうか?私たちは一人の人の生涯を見て、その人生がいかに主の恵みの中にあるかを知ることが出来た時に、なんと幸いでしょうか?今日、お互い心の中に、そのイエス・キリストをしっかりと刻んで、主を誇りとしたいのであります。


お祈りを致します。

愛する天のお父様、今日私たちは、あなたとともにある、あなたを知った、あなたに従った、その恵みがどんなに絶大な価値があることかを教えて頂きました。感謝します。

しかし私たちは、まだまだそれをわずかしか知っていませんから、もっともっと知ることができる者としてくださいますように。

尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン!