2003年3月23日 主日礼拝式
“使徒の働き” 13章1〜3節

「“この街を福音で満たすG”」

“池田 博牧師” 宣教メッセージ

今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は 使徒の働き13章1節から3節 です。新約聖書の232ページになります。

“使徒”
13:1 さて、アンテオケには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。
13:2 彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言われた。
13:3 そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。

ハイ、聖書は以上です。今日のところにアンテオケという名前が出てまいります。既に見た事もある訳ですが、今日はこのアンテオケの教会の事に目を留めてみたいと思います。

アンテオケの場所から見てみたいと思います。一寸地図を出していただきます。アンテオケはイスラエルの国からずっと北のほうになります。シリアという国の首都でもあります。エルサレムが一番下のほうにあり、この前見ましたヨッパとかカイザリアがあり、そこよりズーっと北のほうであります。

エルサレムからざっと600kmほど離れたところであります。勿論シリアという別の国であるわけです。何故か遠く離れた別の国に新しい教会が建っていくわけであります。そこには、そこに至る経緯がありました。でも、全体を見てみますと、そこには神様の摂理のみちびき、神様のご計画がそこにはあったであろうかという風に思います。

であるゆえに、このアンテオケの教会の建てられたこと、そして、特にこの3節の中にある名前が出てまいりますが、このことが意味しているのがどんなに大切な事であるか、そこから今日は何を主の声として、導きとして受け止められるだろうか、そこに焦点を合わせていきたいと思います。

歴史的にアンテオケという場所を少し見てみますと、ここはシリアの首都と申上げましたが、更にこの町は大きな町でした。当時最も大きな町はローマだったわけですが、その次に大きいのが現在のエジプト、当時アレキサンドリアという町、そして3番目に大きかったのがこのシリアのアンテオケでした。

大きな都市は大体そうでありますがいろんな人種の人が住んでおり、ここも交通の要所であった関係で国際都市であったと言われております。街も大変良く整備されていて、今日でいえば舗装がされていて、昔は全部石畳だったのですが、上水道下水道の処理も出来ていて、更に街灯もあったということです。すごいですね。

そのように整備された国際都市アンテオケでありました。そこに教会が建てられていったとい事であります。もう一度、この教会の指導者の名前を読んでみたいと思います。1節です。「さて、アンテオケには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。」

「何人いたのか」読んで一寸判りにくいですよね。もっとすっきり名前だけ並べればよいのになと思わないでもないですね。何故かいろいろ肩書きというか形容がなされている。でも、聖書はそこに大切な意味を持たせているという事を覚えたいのです。

最初に出てくるのがバルナバです。このバルナバという人はもう良く知られていたので名前だけが出ていますが、使徒の働きの4章36節をみますと、この人はキプロス生まれだという事が判ります。キプロス人です。

その次にシメオンという人が出てきますが、「ニゲルと呼ばれるシメオン」とあります。ニゲルこれはニグロです。黒人という事であります。その次に出てくるのがルキオという人です。「クレネ人ルキオ」とあります。クレネは北アフリカです。そこの出身です。

次にマナエンという人が出てきます。マナエンについては「国主ヘロデの乳兄弟マナエン」とあります。ヘロデという人には私たちはあまり良い印象を持たないのですが、しかし当時の王族貴族であります。そういう高貴な出身、背景を持ったマナエンとあるわけです。

最後にサウロ、このサウロはキリキアのタルソの出身なのです。でも、彼は純粋なユダヤ人であります。

こうしてみますと、5人が5人皆出身地が違い人種が違っていて育ちも違う。職業も違う。バックグランドがちがう。何もかもが違った背景の人が集められて、一つの教会の指導者となったという事であります。

日本語では「三人三様」とか「十人十色」とか言います。いろんな背景の人という意味です。まさに、そのように、ここは「5人5様」みんながみんな違った背景の中で、いうならば牧会者チームがあったわけです。「5人、あー本郷台と同じだ。」という感じです。

でも、背景があまりにも違う。皆さん、背景が違ったら難しいですね。本当に難しい。何語を話していたのか。多分共通語としてギリシャ語を話していたのかなとおもいます。微妙なニュアンスが伝わらない。ましていろんなバックグランドですから、物の見方考え方価値観が違う。それを一つにするのはどんなに大変な事か。

先ず牧会者の間の一致が難しかったかなーと思います。しかし、敢えてそれを主が導かれたところに大事な意味を見出すのであります。

少しそこに至る経緯を見てみたいのであります。実はついしばらく前まで、教会はこういう見方、考え方は一切持っていなかった。ちなみに少し前の使徒の働き11章の19節を見ていただきたいのです。そこにはこうあります。

“使徒”
11:19 さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。

ユダヤ人以外には伝道しなかった。そこには理由がありました。イエス・キリストもユダヤ人でありますが、選ばれた12弟子もみなユダヤ人、そして、働きはあのエルサレムの教会から始まったわけであります。

ユダヤ人というのは、いつも申上げますが、自分達こそ神の選びの民である、自分達こそ特権が与えられている民である、更に、それだけでなくして、ユダヤ人以外の民、民族は皆異邦人。異邦人というのは、その内容からいうならば、神から捨てられた民、もっと神から呪われた民である。そういう民には福音を伝える必要は無い、伝える価値はない。そこまで思わせていたという事であります。

特権意識とかエリート意識はものすごく怖いものだと思います。ユダヤ人はそう思い込み信じ込んでいたということであります。でも、神様は確かにそういうユダヤ人を選んだんだけれども、でも、神様の選んだ意図は決してそうではなかった。

その壁を乗り越えて、壁を打ち砕いて、あなた方は世界に出かけていって、世界の民全ての者たちに福音を伝えるために、わたしはあなた方を選び、遣わすのだと言っておられるのですが、彼らは最早そこに聞く耳を持たなかった。

そして特権意識という壁の中で、彼らは固まっていた。ですから、伝えようとしなかった。でも、皆さん、もう少し先の使徒の働きの2章9節以下に一寸目を留めてみたいのであります。これはペンテコステにおいて聖霊が下ってきて、素晴らしい事が起こった時の様子であります。

“使徒”
2:9 私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
2:10 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、
2:11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」
2:12 人々はみな、驚き惑って、互いに「いったいこれはどうしたことか。」と言った。

この中に、既に神様はいろんな背景の人たち、いろんな人種の人たちを集めて、彼らにも等しく福音を聞くチャンスを与えて、願わくば教会は、願わくばここで信じて救われた人たちは「あー、神様はこんな事をしてくださったんだから、私たちも出て行こう、伝えよう、皆全ての作られたものに。」となっていって良いはずであります。

イエス様も「全世界に出て行って、全ての造られたものに福音を伝えなさい。」と言われたのでありますが、現実はなかなかそうはなっていなかった。彼らの壁は厚かった。ユダヤ人以外には伝えなかった。聞いても実行できない、自分達は選ばれている、自分達は違うという意識が普段の生活では、心の思いにおいては、どうしてもその壁が取れないでいる。

その事がここではっきりと見えます。弟子の一人のペテロは弟子の中の中心的な役割を果たす人でありました。でも、そのペテロもパウロから厳しく叱責されているところもあります。ガラテア人の手紙の2章11節以下にこう書いてあります。

“ガラテア”
2:11 ところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。
2:12 なぜなら、彼は、ある人々がヤコブのところから来る前は異邦人といっしょに食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行ったからです。
2:13 そして、ほかのユダヤ人たちも、彼といっしょに本心を偽った行動をとり、バルナバまでもその偽りの行動に引き込まれてしまいました。

これが現実であったわけなんです。皆さん、こういう現実は一人ユダヤ人、一人初代教会では無くして、私たちにもある、日本人にもある。そこに少し目を留めたいと思います。

私は少し戦前を生きてきました。戦前は日本人は偉い民族だ、そして日本人はやがて東南アジアを支配するのだと思っていました。いろいろと東南アジアに対して日本人がやってきたこと、近隣の韓国や中国や、遠いシンガポールまで「大変な事をしていた。」と知って驚き、皆さんにもお見せしました。

日本人は本当に馬鹿にしていましたね。欧米人に対しても毛唐といっていました。これはどういう意味かというと、毛深い野蛮人という意味です。日本人はそう言って欧米の人々をてんから軽蔑していた。中国や韓国人に対してなどもう私は言葉に出せませんね。

今、そういう思いに立っている人などほとんどいませんね。まして、教会ではそういう人はいません。教会にはいろんな人種の人が集まっています。先週はとっても国際色豊だった。アメリカ人が来ました。タイの方もみえました。少し古くからフランス人もいます。アルゼンチンからも来ています。中国、韓国の方もいます。

そういう意味で、非常に国際色豊だと言えるかなーと思います。これはこれとして、とっても素晴らしい事だと思いますが、それはクリスチャンとして変えられた姿であります。でも皆さん、もう少しそれを広げて考えてみたいのです。

皆さんは皆さんの中に心の壁は無いでしょうか。どうでしょうか。「自分はどうもインテリっぽい人は嫌だな、好きになれないなー。」とか「芸術肌の人って、何を考えているか判らない。」とか、「大学を出たといって学歴をひけらかす人はいやだなー。」「お役人って肌が合わない。」「商売人っていつも計算高くっていやだ。」

どうでしょうか。何時も何処かにそんな風にして、私たちは知らず知らずの中に壁を造り相性が合うとか合わないとか、性格が合うとか合わないとか、あんな顔つきは嫌いだとか、いろんな事があるのです。一つも無いなんて人はいませんね。「私は何もありません。」等といっている人は大嘘つきです。

素直に「あるんです。」と認める事が大切です。そして、有る事を認める事から、私たちは私たちの中にあって本当に気付かないで差別していた自分の心の罪を知っていくことが大事かなーと思います。

皆さん。例えば会社もそうでしょう、何か趣味を持つということもそうでしょう、何か同好会をするという事もそうでしょう、ある一つの目的が有ってそこに集まります。ですから、外が違っていても、それ故に、共通なものを持っている故に、お互いに一致できるというところが有ると思います。

でも、教会はそういうものがないわけです。もちろん最後は「神様にあって。」という処にいくわけですが。そこにいく以前に、私たちは教会に来てみると、何かいろんな人が集まっていて、肌に合わない人が一杯いて、そうなると、神様にいく前に既につまずいてしまう、人の壁に自分の狭さを感じ「受け入れられていないだろうか。」という思いになってしまう。

それは、何よりも私たちの心の中にある壁がそうさせているということです。教会は決してそういう意味において、そんな壁の無い人たちが集められて、清められた人たちが集められて、高尚な人たちが集まるべきところだとは書いてないのです。

いや、そういう壁を持っていて、苦しんでいて、悩んでいて、どうしたらいいんだろうかという人たちが集められるところでもある。それが教会です。アンテオケに何故教会があえて建てられたのか。

アンテオケに教会が建てられるためには、使徒の働き8章に「人たち以外のクリスチャン達は皆エルサレムから散らされていきました。」そんなことってあるだろうか。教会が1つとされて、ここに建って、一致できるというこんな素晴らしい事は無いだろうかと、2章の最後のところに出てくる麗しい姿があります。

まもなく教会は散らされていきます。クリスチャンは散らされていきます。もしあの中に私がいたら「もう、こんな事になるんだったら、クリスチャンなんかになるんじゃなかった。」と叫んだかなと思います。

皆そんな思いを何処に持っていたかも知れないが、散らされていって、でも彼らにそれ以上心を支配していたのは、救われた恵みの大きさ、神様の愛の豊かさの中で、彼らは変えられていきましたから、散らされた中で伝道していきました。

そして、伝道しながら、最後に到達したのがこのアンテオケであったわけです。彼らはそこに集まった時に、ユダヤ人以外の人にも語るチャンスが生まれてきた。さっきのところの先は「ところがキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシャ人にも語りかけ、主イエスの事を述べ伝えた。そして、主のみ手が彼らと共にあったので大勢の人が信じて主に立ち返った。」ということが起こってきているのです。

不思議な事が起こって参りました。ユダヤ人達は、弟子達は、教会は全く意識の外側にあった。いや、聞かされていても、それは、もう聞き流していて「やっぱりユダヤ人だ。」「やっぱり我々だ。」と言って、その壁がどうしても取れなかった彼らに神様は、あえて、とっても厳しい試練を通して、その壁をぶち破るために、取り除くために散らしていったのです。

そして、アンテオケに5人の指導者が立てられた。5人5様まったく違った背景の人が集められて、まず彼らが一致するために、どれだけの祈りがそこにあったでしょうか。そして、その一致の為に、祈りの中に人々の心の壁が少しずつ取り除かれていく大事な主のご聖霊の働きがそこにあったということであります。

13章の2節を見ますと、「 彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、」という風に次に繋がっていきます。彼らは何故か礼拝をし断食をし、そしてその中に聖霊が働いたとあるのです。

人間の努力や「俺達は間違っていた。悔い改めようや。新しくもう人を差別する事を止めようや。」と言って、お互いにたとえ話し合ったとしても、意識を変えようかとお互いに箇条書きにして書いたとしても、それで変わるのではない。そんなものは何時しか破られてしまう。私たちの心の根の深いところにあるそうした差別意識や、他を受け入れない、自分の内に作られてきている壁というものはなかなか取り除けない。

しかし、それは、どうしても取り除けなければならない事の故に、神は敢えてこの様な働きをした。そして、先ず指導者達の間の一致の為にどれだけ彼らは祈り取り組んだ事か。自分達の一致なくしてどうしてそれが人々の間に流れていきますか。教会全体に流れていきますか。それを思うのです。

皆さん、教会に新しい方が来られたとします。今日始めて来られた方にしてみれば、最初に遭った方の印象が「あー、教会はこういう人たちが集まっているのか。これが教会なのか。これがキリスト教か。」と思うわけです。これは自然です。

でも、その人が遭った最初の人が昨日来た人で、キリスト教が何であるか良く判らない、或いは昨日ではないにしても、まだクリスチャンになりたてであって、キリスト教の何であるかも深くは判らない、やっとイエス様を信じた、そういう人であるかもしれない。

でも、そのいずれであったとしても、今日来た新しい人にとっては、その遭った人がその人にとって教会の顔であり、その人がキリスト教の顔であるという事です。その人を見て「あー、こういう人がいるならば、続いて来てみようか。」となり「こんな人がいるんなら2度と来まい。」とそう思ってしまうかも知れない。

時に何人か、来る前にいろんなことがあってとか、それどころではなくて体全体からオーラが出ていて、それが伝わってしまう事も無きにしも非ずです。でも、そのあなたの行動が今日来た人に何を与えるかが問われているのです。

そんな事を思う時に、とても厳粛な思いにもなりますが、でも、神様は敢えてそこに置かれるのです。そして「だからやって居れない。」と言って退けるか、そんな中にある自分を見たときに「何と自分は壁だらけだろうか。」「何と人に躓きばかりを与える人間だろうか。」「それが良く判った。」「でも少しでも自分自身がこれではいけないと思っていて、少しは人を受け入れる人間に変えられたいな。」そう願っている自分がいて、でもどうしたらよいか判らない戸惑いの中にいる自分を神様がここで扱ってくださるであろうか。ここで神の愛によって包んでくださって変えられるだろうか。

希望を持って主に近づく時に、あなたは必ず変えられていきます。教会は神にいたる道であります。聖書の言葉が必ずあなたの心を純化、浄化していきます。そして、教会はいろんな処でいろんな働きをする事を通して、主が取り扱って下さる所であります。

奉仕をする事もとっても大切です。教会の奉仕も2種類あります。自分の使命や自分の賜物を生かしてする奉仕、ミニストリーの働き、これとっても大切です。それを通して本当に自分にある重荷や使命を果たしていって、それが主の為に、又皆さんの為に役立つという奉仕、とても大切です。それを大切にしていきたい。教会はそれを応援していきたいのです。

でも、同時に、主はあなたを様々な奉仕についていただくことを求められております。あなたが「自分は得意でないな。嫌だな。一緒にやるのは嫌だな。一人でやるのがいいな。」そう思っているかもしれない。そうであれば、主は余計にそこに置かれます。

そして、私たちは私たちの中にあって、良きものは勿論伸ばしますが、同時にそうでない自分のマイナスを少しでも変えられる事で、神様はあなたが神様によって造られた最高の人間にしたいと願って、そこに置かれていて、その奉仕を通して、その人間関係を通してあなたの心を養ってくださる、あなたの心を清めてくださる、あなたの心を更に柔らかな心に変えようとして下さる。それが主です。

「何故か私の周りには私と全然合わない人ばかりだ。何でしょう、これ。」と思うかもしれない。もしそう思われたら、主の愛の手がそこにあることを覚えたいのです。「あー、こんなに私は私の地の姿では愛せない人がいるんだなー。愛せない自分が悲しい。一緒にやれない自分が悲しい。神様の元に集まっていながら、一つもそこで一致出来ない自分が悲しい。」その悲しさが大切です。

悲しさの中で主の前に涙していく事です。悲しさの前に主の前に砕かれていく事です。そしたら、主があなたの心に愛を注いでくださる。あなたの心を豊にしてくださいます。やがて、何処かであなたは1年前には考えられなかったこの人たちと一緒にこういう奉仕ができる。確実にそこに変えられた自分を発見します。

神様はそのようにして私たちを何処か遠い静かなところであなたを扱うのではありません。あなたを人々の間で、渦の中で、嵐の中であなたを扱ってくださるのです。その中で、本当に自分こそが扱われなければ、砕かれなければならない者だとしっかりと知ることが出来て、涙して砕かれるところから扱ってくださいます。

そして、アンテオケの教会はやがてエルサレムの教会に代わって世界宣教の拠点になり、素晴らしい教会に発展していくステップになっていきます。やがて、ローマに移ってきますが。その事も本当は学びたかったのでありますが、それは又次回にしたいと思います。

今日私たちは先ず主の前にその主の取り扱いを見たいのです。最後にこのみ言葉を読ませていただきます。エペソ人への手紙2章の中から。

“エペソ”
2:13 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。
2:14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
2:15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。

そうです。私の心の壁は、実は、私の力ではどうにもならないほど固くて厚いものである。それを取り除くためにこそイエス・キリストは来て下さった。イエス・キリストがあなたの為に犠牲になってくださったのです。

そして、それはあなたが本当に砕かれた時に聖霊が働いて、あなたの心の壁を取り除いて下さって、自分ではないなー。その主のみ手の業をみて主を崇めるのであります。


お祈りを致します。
天のお父様、本当に私たちはあなたの光に照らされる時に「私が誰であるのか、自分の本当の姿を誰よりも自分が知っていたつもり、でも、あまりにも知らなかった自分の姿、その自己対峙があります。そして、真正面に向き合って、そこに悲しみ涙し砕かれる時に私のうちに私でない別な私が主によって生み出されていく、建て上げられていく、そして愛する人になっていく。

主よ。あなたの愛がどんなに確かで豊なものでありますか。一人一人をどうぞお導きください。

尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン!