| 2003年3月30日 奉献記念礼拝式 “へブル人への手紙” 12章1〜2節 「“主イエスから目を離してはいけません”」 “松見睦男師” 宣教メッセージ |
(池田博先生)
| 今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は 今日はへブル人への手紙の12章1節と2節
です。新約聖書の404ページになります。 “へブル”
今日はこのところから「イエスから目を離してはいけません」と題しまして,松見先生からメッセージをいただきます。拍手をもって歓迎してお迎えしたいと思います。 (松見先生) やがて関西に帰ろうとしておりますが、ちょうど雨がまたボヤッーとしたような天候であったのですが、「もう帰ろうかな?」と言ったら、バーッと晴れてきました。沖縄へ行った時にどしゃ降りになって、「集会がこれから終わって本土へ行こうかな?」と言うと、バーッと晴れてきました。 「雨のち晴れ」、これが私の牧会者としての、伝道者としての54年の生涯を表しています。「雨のち晴れ」、素晴らしいですね、皆さん?「雨のち雨」であるならば、いけません。嵐も、そんなものはいりません。信仰生涯というのは、「必ず後良し」で、これが大事です。そして本当に望みをもってそのようにしますと、上昇気流になっていくのです。 皆さん、私は寝る前になると、こう目をつぶるでしょう?そうすると、一端こう思い込んだならば、そう思った途端にズーッと上昇気流です。でも「上昇気流でズーッといきます。」と言うと、ハーッといくんです。ちょっとみたら、かなり考え深そうな人間に見えるんですけど、もう単純というか、愚かというか、考えが深いように見えて、何も考えていません。 信仰の一つの極端な現れは、信じるお方であるイエス様に対して、絶対の信頼を勝ち取ることです。「イエス様に対する信仰を絶対に勝ち取る」。ですから私は、信仰というのは、「絶対」ということが必要だと思うのです。 他のことは、みんなボヤッとしてます。しかし、こと信仰ということになると、相手が神様ですから、どうしてもボヤッとしていたら、いけません。「信仰を持ってるのですか?」と言われたら、「えー、あの、持ってるようなつもりはつもりです。」と、「つもり」と答えてはいけません!信仰というのは、イエス様の方は、もう手を招いて、側に寄っておられるのですが、「…ではないか?」というふうなことを言われると、二の足を踏まれるのです。 私は、牧師さんの中で、「…ではないか?」と言う方は、一番嫌いなのです。メッセージというのを、「…ではないか?」と思う、「思う」とは、あなたは何を思っているのですか?そんなことを、こちらは思っていないのです。あなたが何を思っていると、そんな事は大したことはないのです。「どうして教会へ来るか?」と言うたら、「…ではないか?」と思って行くんじゃないのです。そこを確かにビャッと言いきる人、これが素晴らしいのです。 神様というお方は、さっと言いきると、そこにパッと乗られるのです。皆さん、本当ですよ。御言葉に乗るというのは、そういう事なのですね。そして、御言葉に乗ると、乗せられた人間がビックリするんです。いや、本当ですよ。ところが、「『…でなないか?』と思う次第であります。」とは、「次第」か、「どうだ」かわかりませんが、そんなことはどうでもいいことです。 大事なことは、「はっきりと待つ」という方がいいのです。私は、口語訳の聖書でちょっと嫌いなところがあるんです。「それが何か?」と言いますと、「恐らくは…」とか、「…ではないか?」とか、「汝今日我と共にパラダイスにあるべし。」とこう言ってらいいのです。 「『パラダイスにある』と思われるのであります。」という言い方をしたならば、イエス様はややこしくて困ってしまいます。「言ったらいいのでしょうか?」、そんな大変なこと言ったらいけません。大体、皆さん、「はっきりと思うのです。」というようなことを、誰も聞きたくないのです。イエス様から聞きたいのは、「…ではないか?」、そんなこと言ったらいけません。言葉の遊戯です。 ところが、ジッ―と顔を見て、目を見て、「あなたのことを、主はことのほか愛しておられます、と思うので…」。「見てごらんさい。途端にもうやめなさい。」ということになります。 ところが聖書を見ますというと、何と記されてあるかというと、もうこっちが好きとか、嫌いとか、選択の自由とか、そういうことを言ったらいけません。もう気が付いたら、みんな主から選ばれているのです。 私は韓国へ初めて行きました時に、韓国の人は空港で旗を立てて出迎いました。日本人はあんなことしません。韓国の人は、ああいう派手なこと好きですね。旗が、バーッと、ヒラヒラすると、きれいに字が書いてあるんです。「松見(〇〇〇)来たる」と書いてあるんです。 その横に、何と書いてあったでしょうか?アメリカで、ビリー・グラハム先生以上に、古くから有名な先生の名前が、「松見(〇〇〇)来たる」の間にカッコして書いてあるんです。カッコ書きで、世界の三大伝道者の一人と言われる、ある牧師さんの名前が、書いてあるんです。「エーッ?」と私は思いました。それが私の名前の下に、カッコして書いてあるんです。私は偉大なる錯覚をしたんです。 そして、日本の車でなく、外車です。外車が、シューと前に停まったんです。いい気持ちになりました。それで、座ったと思ったら、こっち側に文部大臣、そして全体の大学の総長という人、それからこっちの人は国会の議員さんの人で、そして真ん中に私は座りました。 それでいろいろ話したときに、その大学の総長という人が、「松見先生、あなたは日本で何番目の牧師ですか?」と聞きました。私はびっくりしました。「何番目?」、私も長いこと牧師してますが、何番目なんて聞いたことがありませんから。ところが私は頭がパーッとひらめいたんです、「日本一です!」。 そうしたらその大臣が、「オーッ!」と言われて、握手してきたんです。体の大きな人で、押しつぶれされるかと思いました。そして、この何万という会衆の方へ行って紹介してくれました。紹介した時に、総長の先生が、「この方は日本一だそうです。」と言いました。 余計なこと言わんでいいですよ。また説明しないと、いけませんからね。「もう困ったなあ…」と思ったその時に、そしたら私が急に、「オンリー・ワン!」と言ってみました。大学の総長ですから、この人は英語がわかっていました。そうしたら彼は、「オー、ビューティフル、ワンダフル!」。いやもう、本当に難しい英語です。そして、「オンリー・ワン」と言いました。 私は自分で言いながら、「自分ながら、いいこと言った。」と思いました。「私という人間は他にはいない。」という意味です。そうしたら、その会は盛り上がりました。ものすごく盛り上がりました。私は、もう祈り殺されそうになったんです。 もうそれは、日本人はあんな前へ出てきて、こんなことをしない方がいいですよ。ところがむこうの人は恐いですね。もう祈り殺されるか、と思ったんです。それが始終あの白い靴をはいて、山へ逃げていったんです。それぐらい、皆さん、「山へ逃げた」と言うとおかしいけど、向こうは危ないんです 何て言いますか、韓国の人は日本人と違って、もう情熱的なのです。それでいろいろと辛い物をいただいておられるから、側へ行ったらもう恐くて恐くて…。ですからこの白い靴をはかせて、青年たちが背中におぶって連れていってくれるんです。初めは連れていくのが下手だったのですが、だんだんうまくなってきました。 そして名刺を一杯くれます。韓国では金縁の名刺なのです。しかも私の名刺よりも一段と、ずっと大きいのです。中に一杯書いてあるのです。私だったらもう、「日本キリスト宣教会主幹」、それだけなんです。主観の違いですが…(笑い)。 ところがこの韓国の名刺では、5つぐらいズラッと、また裏をめくったらまた裏にも書いてあるのです。肩書きが好きなのですね。それから私は韓国で名刺をもらわないことにしました。もらったら大変ですからね。 「あの先生、名刺をいただきたい。」「ないんです。」「なぜないのですか?変でしょう?渡した者にもくれてもいいでしょう?」「だから言ったでしょう、ありません!」そうしたらその牧師さんはね、パーッと下に降りてきたんです。なんで降りてきたかと言いますと、平伏したんです。「私は今までこんな牧師にお会いしたことがない。なんと権威に溢れた…」 権威なんてありません、大きな声を出しただけです。私は、その時から、韓国から、不安をよく受けてきたんです。なんで不安ができたか言いますと、大きな声ですから、わかりやすいんです。そして、いろいろと抜けたようなことを、チョイチョイ言うもんですから、もうえらい不安ができて、私の方はだんだんと不安になってきたんです。 もう一時は、韓国へ行くのは止めようか、と思うほど、不安ができました。ある時なんかは、テレビに出たら、ダッーと集まって来たと思ったら、「サインしてください。」と言うんです。「サインならOK」と、こうサインしていました。サインしながら、ちょっと不安になったんです。なぜかと言いますと、「なんでサインしているのであろうか?」と思ったからです。 そしたらその、テレビに出ている中のスター俳優と、私が似ていたのです。私は何度見ても、自分では似てると思いません。ところがこのファンの人は「〇〇さん!」と言って、それでこうやるんです。私はつくづく思いました。うっかりしてサインしてしまったけれども、向こうもサインしてる人もだんだんおかしい感じになきました。「サインしてる内容と、こう見たら、ちょっと違うな?」と。それは、私は日本人ですから、そりゃ違いますよ、韓国の人ではありませんから。 そして、韓国行くと、どこへ行っても、何と言いますか、声が大きくて、面白くて、そしてまた、大変に参考になる話もするもんですから、もう喜ばれました。とうとう名誉市民にまでに、なってしまいました。「もうこれは、これ以上いたら危ない。」と思って、しばらくやめたんです。だいぶ今、しばらくやめてますが。 私はつくづく思うことは、偉い人になったり、有名になったり、何かするよりも、一番大事なことは、「オンリー・ワン」に徹することです。この「オンリー・ワンに徹する」と言うと、「私が選ばれた」ということは、スゴイこということが分かるんです。 こっちで選んだんじゃないんです。こっちで不安になったのではないです。神様の方で、名指しで、このオンリー・ワンである私という人間を、選び出してくださったのです。選び出してくださったということは、無条件で選び出してくださったのです。 すごいですね。こういうふうな面で素晴らしい能力があるからといって、選んだのではありません。何にも理由がないんです。理由がないのに選ばられるのです。理由がないのにそのような選任を受けた、というのは、どういうことか?と言うと、それはどんなにか深い愛の動機で選び出してくださったんです。 ですから皆さん、「クリスチャンになった」というのは、自分でクリスチャンになったのではなくて、実は選んでくださったのです。「選んでくださった」ということは、「エリートである」ということです。 そしてしかも、選んでくださっただけでなくて、選ばれたということの動機は、「愛の動機であった」ということです。「こういう理由があるから愛する」とか、「こういう能力があるからどうだ」とか、「これだけのことをしたからそれに対して」という、そういうのは何にもないんです。単に、愛の動機です。 そしてよく聖書を見たらお分かりになることでありますが、それは、「あなたがたが私を愛したのではなく…」。人間は皆、「ああこの人好き」とか、「この人はこういう点でどうだ」とか、いろいろなことを考えて選ぶんです。ところが神様の愛というのは、向こうから先に手をのべてくださるのです。先に手をのべる、即ち先手です。ですからこの神様の愛というのは先手の愛なのです。先手の愛というのは、無条件で、理由がないのです。 凄いですね。皆さん、「自分が愛されている」ということに気が付いてくると、生きがいがすごくわいてきます。「誰からも愛されない」と思ったら、しょんぼりとなるはずですね。ところがそういう私たちを選んでくださっただけではなくて、特別に目に入れて、信任をしてくださるのです。 子供教育の中で5つの条件がありますが、その1つは何かと言うと、それはお父さんやお母さんから、信任されているということが、子供に生きがいが起こしていくのです。 「僕のことを、お父さん、お母さんが信用してくれている。他の人が信用してくれるようなことがないとしても、お父さん、お母さんは、僕のことを信任してくれる。」信任されると、人間は生きていく、という希望がわいてきます。誰からも信任されてないと、しょんぼりとなってくるんです。 そしてさらに大切なことは、信任されていくだけでなくて、その本人である私のところに夢をお持ちになっていてくださる、ということです。「夢」、凄いですね。自分はもう夢も希望もないと思っているような私に、夢を持っていてくださるということに気がついたら、生き方は全然変わってくるんです。 そして、選ばれて、愛されて、信任されて、それで夢を持ってくださる、というのはどういうことかと言いますと、ある目的のために任命権が与えられる、ということなんです。つまり、目的がはっきりしている。自分ではボャッとしてるけれど、自分ではもう一つ確信がないわけですが、しかし神様から私のことに関してはもう任命権を与えて、「これからあなたがどういうふうなことをいたしますか?」という、将来の人生に対して任命権が与えられているんです。 そうすると人間は、目的があるとか、使命があるという状態になると、生きがいが出てくるんです。私は今も思っておりますが、使命感があると、必ず人間が活きてくるんです。私は、あの遺体霊安室の隣に、(遺体霊安室の隣でも直の隣じゃないですよ。かなり離れた隣です。正直に言わなきゃいけませんから)、そこで7人のお医者さんから、最後の通告を受けたんです。「再起不能」、という通告でした。 12月の20日ですよ。チンチャカチャーンと言ってる時です。こっちはもう、チンチャカチャーンじゃないです。もう、再起不能と言われたんです。あんなきついことを、よくも平気で言いますね。そのお医者さんが、「お気の毒ですけど、再起不能です。」と言いました。 ところが、皆さん聞いてください、その再起不能の私が、世界中を、アジア中を、日本中を、30数年、ビューと御用する者に変えられたんです。両方とも肺を冒されて、脊髄が腐って、そしてもうほとんど無理のような者だったんですが、不思議なことに、下から湧いてくるこの血が、湧いてくるような経験をしたんです。その時から病気が治ってきたんです。そして、言葉に表すことのできないほどの生きがいがわいてきました。 さあ、それからもう皆さん、さっきも申しあげたように、もう飛び回って御用をしました。世界で一番忙しい牧師さんになったんです。もうここ最近までですよ。ところが最近になってから、「あっ!」と1つ病気になった。30年以上ずーっと元気だったのですが。 新大阪の新幹線の駅で、「あれ?私はどこにいるのだろうか?」と感じたのです。「あれ?どこにいるのだろう?あれ?おかしいな?」実は、その時に、数ばっかり数えていたのです。「1、2、3、4・・・、なんで、こんな数を数えているのだろうか?アホらしい。」迎えに来ていた社長さんが、いないように見えるようになりました。いないのではありません。こっちがウロウロするからです。 そして、こともあろうに、「壮年大会」という何百人もいる、壮年者ばかりの集会の御用に行ったのです。行くには、行ったんです。行ったけど、何をしゃべったか、分からないんです。しゃべってる人間が分からんのやから、聞いてる人間が分かるはずがありません。 ところが、その時に木先生が(今はお亡くなりになりましたが)、メッセージが終わった途端にダーッと走ってきて、「先生、素晴らしいです。」と言ってくださいました。「この人はユーモアがある人だ。」と思いました。「もう素晴らしいでした。」と言われて、そして新大阪の駅で深々と礼をして、そして名古屋に向かいました。 ところがもう名古屋に向かった時には、自分が分からないようになっていたのです。乗っているこの車両も分かりません。タバコを一杯吸っている人の横に、私は座っていたのです。「これ、おかしいな?なんで煙がこんなによく出るんだ?」と思って、もう座っているところがわからないんですね。 そしてやがて、フラフラと出て、そして名古屋の駅のところで、そっと降りようと思ったら、後ろからタタッと追いかけてきた人がいて、その人が、「おたくさんの財布とネクタイを忘れてます。」「財布とネクタイ?自分の大事な物ばっかりじゃないか!」「気を付けてお帰りなさい。」知らない人ですよ。「何でネクタイを忘れたんだろう?ネクタイなんて、すっと忘れるはずないでしょう?ちゃんとつけているはずなのに…。」ところがネクタイを外していました。「財布が歩くのか?」、まあ、ビックリしましたね。 やがて、トントンと降りていったら、牧師さんたちが迎えに来て、そして「あれ?先生、変ですよ。目がうつろで、酔ったようですよ。」私は、「おかしいな?」「何か物言いたげにしているけども、あれで降りれるのだろうか?」降りてるのはちゃんと降りてるんですけど、実際はあっち行ったり、こっち行ったり、の状態になっていたのです。 そして聖餐式をやって、礼拝をやってのですが、何にも分かりません。やがてそのうちに目もうつろになってきたり、それから体のこっちの半分の方が、おかしくなってきました。そして、その後で、牧師さん夫婦と私の2番目の娘が送ってきたんです。そしてすぐに兵庫医大に連れて行かれました。 その後は詳しいことは言いませんが、そして第二回目の試練です。「もうこれで、私は終わりかな?」と思った時、まだ、72才でした。「80才まで、あなたは仕えます。」と、神様から前に約束をいただいていたのです。「80才なのに、なんで今72才なのだろう?まだ8才、違うじゃないか?」、そんな馬鹿なことを考えてたんです。 そして、「イヤー、これは約束が違う。」と思いました。そしてこの医大の先生が、よく診れる先生で、「あなたはもうちょっと遅れたら、もう…まあ、『さよなら』」とは言いませんでしたが、とにかく複雑なことをおっしゃったのです。お医者さんというのは、言い方上手ですね。 そして、やがてそれからしばらく経って、またこの舌のもつれが治って、「1、2、3、4」と数ばっかり数えていた、その数を全然数えないようになったんです。「1、2、3、4」、もうそれだけでした。そして、しゃべりだしたんです。 見えなくなっていた目が、もういつでも、こんな大きなナントカいう道具で、こうやらないと見えないような状態の、ぼんやりとした状態だったのが、今はちゃんと見えます。皆さん、これはえらいことやですよ。ちゃんと、こんなまともな字でさえもなかなか見られないのに、この一番小さいやつが、これが持ち運びが便利やから、それで、小さいの、ちゃんとね、「さて、安息日の…」と見えるようになっていったんです。そして、しゃべれるようになってきたんです。半分がもう鉛のようになっていた体が、鉛ではなく、「痛い、痛い。」というふうに分かってきました。 そして、さっき申しあげた、エレミヤ記の33章の3節の言葉を聞いて、私はもう度肝を抜かれたんです。どんなふうに驚いたかと言いますと、このエレミヤ記の33章のところに、こんなことが書いてあったんです。 “エレミア”
「分かった!」と思いました。何が分かったかと言いますと、「まだ、お迎えは続いてはいない。」ということが分かったんです。「もうちょっと余裕がある。」と分かったんです。びっくりしましたね。 皆さん、この御言葉を聞いた時に、クリスチャンていうのは、御言葉をボーッと聞くんのではなくて、それを私のためにスーッと霊的に受けとめる、これが信仰の妙技なんです。これをただボーッと、歴史上のものとか、文学的なものとか、文献学的にどうであるかとか、あんなことを言うから、いい牧師さんがおかしくなるんです。文献学とか、あんなものはいりません。「…なるであろう」なんて、あるのか、ないか、わからないような話をしたらいけません。 皆、絶対にやるんです。その人をじっと見ると、にらまれると、大概の人は下向くんです。その下向いた目を、今度上向いた時にガッと言わなければなりません。皆さん、これが、コツですよ。その時に、脅迫するように言ったら、いけません。説得力のある声でいかなければ、いけません。難しいですね。これは、普通ではいけません。 そして、一辺死にかけて、もうどうしようもなくなった、遺体霊安室の隣にいた人間が、もう一辺また半身が鉛になりかけたその体が、またよみがえってきたんです。そして、次から次へと起こることが、皆事実になっていくんです。すごいですね。 私には何の値打ちも理由もないんですけども、神がおっしゃったことはおっしゃっただけではない、それがその通りになる、ということを経験したんです。そして、何遍もその通りになったという事実を見せられます。 その事実を見せられると、見せられた人は、それを見て信じるんです。それでは、遅いんです。といっても、何にも見てないのに信じたら、アホですからね。ここが難しいんですよ。信仰というのは、「アホ」と「賢い」との真ん中なんです(笑い)。まんざらのアホだったならば、もうそれでいいんですよ。ところが、妙に賢くてアホが、一番いけないんです。 もう、素直で、単純で、深い心の持ち主になることです。素直で深い人とは、それはどういう人でしょう?白か、黒か、どっちでしょう?もうとにかく、関西というか、大阪の方へ行きますと、必ず言うことは、「どうやっちゅうねん、それは?」。「どうやっちゅうねん」、大阪ではすぐそういう言い方をします。すると関東の人は「やなやっちゃな、ほんとに…」。 電車1つ並んでも、すっと素直に並んでそのまますっと入っていくのが、関東の人です。ところが関西の人はそうじゃないんです。「いっぱい並んでいるかな?」と思ったら、いざ乗ろうと思ったら、ワッー…、本当にもう秩序も道理もへったくれもないです。それで何か言うと、恐い言葉を言います。「なんやちゅうねん!」、こうやって脅すのです。 ですから、関東の人間は、ガラが悪いから、関西が嫌いです(笑い)。それでもう、おばさんなんて恐くて恐くて(笑い)。でも、あまり恐いって、人に言わない方がいいですよ、うっかり当たったらえらいことですから(笑い)。 しかし、皆さん、ありがたいことに、やっぱり、素直に並んで、素直に静かに入るほうがいいですよ。もう素直に言ってしまったなら、、必ず、こうやって見たら、ちゃんと名前が書いてあるんです。「2500円。ああ、2500円か。」そうすると関東の人でしたら、「じゃあ、2500円。」とスッと買うんです。 関西はそうじゃないのです。「2500円?これなんぼやっちゅうに?」(笑い)「なんぼやって?2500円。」(笑い)「そんなあんた、言うた通りに、売るバカがどこにあんの?」(笑い)「売るバカ」がって、何てことを言うのかと思ったら、そしたら「なんぼかまからんかい?」(笑い)。大阪人とは、これで楽しんで大騒ぎをするのです。 私は関東行って、何遍もお店に行っては、「このカバン、なんぼ?これ。え?8000円?そりゃ高い。」その時ちょっと声落とすんです、「そりゃ高い」。そうすると向こうは、耳をこうやって、「え?何ですか?」「いや、もうちょっとまからんかい。あんた、言われた通りに買うなんて、そんな芸のないこと。な、例え1000円でもやね、まかりまへんかい?」その辺、関東の人はムッとするんです。 それは私はムッとするような売り方はしません。必ず、「ホーッ、いい品物ですなあ。なかなか手の込んだええ品物ですわ、これは。」と、私は品物をほめるのです。品物をほめていく間に、次の言葉をちゃんと考えてるんです(笑い)。 牧師さんを2〜3人連れて、店へ入って来たと思ったら、3人の牧師さんがみんないなくなります。「まからんかい?」とこう言い出したら、もうスーッと(笑い)。そして、帰り際に、ちゃんとこうやって、「2000円もうかったな、ほんまになあ、あれ?」と思ったら先生はもういません(笑い)。 同じ牧師さんでも、関東と関西では違うんです。関東の牧師さんはもうすっと素直なんです。関西出身の私みたいなのは、ガラが悪いんです。声も悪いんです。態度もちょっといろいろあるんです。そのくせに、妙に、人に好かれる時もあるんです。「もうしゃあないでんな、しゃあないでんな…」、もうこれは関西弁です。もう向こうは乗り移っとるんです。そうして、例え1000円玉、500円玉、まけさせると、「儲けた!」という気持ちなんです。また別のところでとられるんですけどね(笑い)。 いずれにしても、とにかく信仰というものは、「ああではないか?」、「こうではないか?」ではなくて、「こうだ!」ということを、そのまま丸ごとに信じることなんです。徹底的に信じるんです。そうすると、どうなるかと言うと、信ずるごとくなるんです。 ですから私は、シロンという薬を、若い時によく持ってたんですが、今は飲みませんが、そのシロンというのを、薬屋さんの前へ行って、シロンの箱を見て、もうそうすると治ってしまうんです。まだ、飲んでいないんですよ。飲んでないけど、このシロンの箱を見ただけでウッと治る、それぐらい単純に信じるんです。 ということは、どういうことかと言いますと、信じていると、本当にバカのその上ぐらいに信じられると、信じられる方よりも信じるということを宣言した方で、考えるんです。「こんなふうに信じる人、この人大丈夫かな?」。これは普通の人間だったらそうでしょう? ところが神様という方は、信じることしかないお方なんです。このことをよく聞いてください。信じられないようなことは無しに、もう信じるということは、絶対なんです。神様のご誠実は、絶対なのです。人間はいつでも変わるんです。「もう今は晴れている。」と思ったら、もう夕方になったら「雨が降ってくる。」、これが人間なんですね。 ところが神様というお方は、言い出したら最後まで変わりません。だいぶお年を召した…なんてことはないですけど、もう足が不自由で歩いている…、そんな神様ではないんです。もうこのお方は、いつでも「我はありて、あるものである」というお方なんです。だから信仰というのは、こっちの側の思いや、こっちの方の条件や、こっちの方の按配ではなくて、向こう様の按配なんです。信じられないようなことを、信じるのが信仰なんです。 今ちょっと分かるような、分からんようなことを、今何とおっしゃいましたか?「信じられないものを信じる?アホとちゃうか、この人。信じられないようなものを信じられるか?このバカたれが。」ところがこの信仰というのはそういうものなんです。信じられないようなものを信じることです。愛することができないものを愛する、それが愛なんです。 また、わからなくなりました。この人に簡単に言われるけど、難しくなってくると。だから考えるからいけません、「とかくは…」。その通り信じたらいいんです。そしたらその通りになるんです、なるんです、皆さん。信仰というのは、「1+1=2」、そんなのは信仰ではないんです。それは足し算です。 信仰というのはどういうことかと言うと、「Xプラス…」、もうそれ以上言うたらいけません。もうとにかく、訳が分からんです(笑い)。訳が分かりませんけど、高等数学とか科学とかそういうこと言う先生が、そういうのをね、同志社大学へ行って、ダーッと書き出すんです。 数学の、「XYの、イコールのなんやら…」と、それ以上は分りませんが、それを書く時には、カガワ先生は疲れてる時なんです。頭が疲れてるからと言って、ダーッと高等数学を解くのです。解いた方が分からないんです。解いてる先生の方は、気持ちがよくて、リラックスして、そうしてまあ下手な字じゃなくても、ものすごい達筆で、筆でビャーッと書かれるのです。 書いてる方は楽しいかもしれないけど、見てる方は何と書いてあるのか、分からないのです。それで、ものすごい値打ちが出るんです。私らが書いたって1000円にもならないけど、カガワ先生が書いてあげたら、それだけでえらいお金になるんです。何でも、普通じゃいけません。私もこれが何百年経ったら別でしょうが、今やったら1000円でも売れません。 そういうことの中で、何で愛されて結ばれてこのようになったかと言うと、それは愛が動機なのです。世の中には、動機は皆変なことなのです。ところが、神様というお方は、その動機は何かと言うと、愛です。 それを言ったら、抽象的で分からないでしょう?具体的にはっきりとこう言ったらいいですけども、愛と言ったら抽象的で分かりません。分かりやすく言いましょうか?あなたがこれをもらうのは当然であると思うでしょう?それをもらったって、何でもないでしょう?何にも理由がないのに、もらわんでもいいのに、それなのに与えてくださいます。それが愛というのです。 まだ、分からなくなりました。説明すれば、するほど、分からくなります。どういうことかといいますと、皆さん、人間というのは、大切なことは、人間というのは、自分の利害を中心に生きてるんです。いつでも、「自分が・・・、私が・・・、うちが・・・、僕が・・・、」と言って、何でも「私が…、私が…」と言うでしょう? ところがこの愛というのは、私じゃないんです。愛なんです。分かりますか?私じゃなく、愛。どこが違うかと言うと、愛というのは、おのれなのです。私たちは必ず、石川五右衛門ではないけども、やがてもう煮えたくった、釜の底に入れられて、子供がたまらんようになって、そして石川五右衛門でさえもそれを踏み台にして、パッと出ようとしました。 つまり親でも何でも自分があんまり辛いと、逃げるんです。私たちじっと、そんな時に、「いや愛だ。愛だと言って煮えてるか?そんなことしたら、煮え尽きてしまう。」つまり人間というのは、始めから終わりまで、自己中心なのです。恥ずかしいことでもなんでもなく、人間は皆、「愛、愛、愛、愛!」というものです。 ところがその「愛、愛、愛、愛!」と言っている私のために、十字架にかかって死んで、そして私たちが忍ぶことができないような苦しみを、忍び通したこと、それが愛なのです。愛とは犠牲が伴うんのです。もうわからないでしょう?だんだんと説明されると、されるほど分からなくなります。分からないのは、愛がないから、分からないのです。 もし皆さん、自分がこうしていただくはずである、ということをしていただいたら、それは何ともないんです。でも、どうしてもこんなことをしていただけるはずがないということを、ちゃーんとやっていただくと、その愛の深さは、重さが重ければ重いほど、人間は心を開くんです。これがコツですよ。 「何でや?関西弁で何でや?」理由がないです。「理由がないのに何でやねん?」「何でやねん?」が理由なんです。つまり愛というものは、理由がないんです。これがキリスト様が私たちにくださる動機なんです。そういうこの私たちがどれほど神様に愛されて、どれほど神様から実を結ばされ、この恵みをいただいているかと言うと、それは自分が最初受けるんですけれども、その受けたことを今度は次の人にそれを渡すという時に、「愛の掛け橋」というのです。そこを通る時に人が変わってくるんです。 愛というのは、その人に愛が入り込むと、その人の姿が、その人の生き方が、変わるんです。私はクリスチャンになって、17才でしたが、クリスチャンになった時に、初めてマタイ伝の9章の2節の御言葉を聞いて、それで頭に手を置いてその牧師さんが、初めて私のことを「兄弟」と言われたんです。 私は兄弟なんて言われたら、ヤクザかなんかみたいな、兄弟という感じで、気持ち悪いと思いました。その先生が「兄弟」と言って、そしてこのマタイの9章の2節を言って、「子よ、心安かれ、汝の罪は許されたり」と三回くらいおっしゃったんです。一回では分からんからでしょうね。「子よ、心安かれ。」昔の言葉ですよ。あなたの罪は許されました。 昔の言葉の言い方です。「汝の罪、許されたり。」大嘘ですね。そしてその後で、彼は私に、手をぎゅっと握ってくれました。17才の時。そうしたら毘沙門天(びしゃもんてん)の冷たい冷たい水の中に、ドボッと浸けられたんです。もう、あんなことは、無茶苦茶です。 もう、風邪引いて39度か40度くらい熱あるような、そんな状態で、「風邪をいていますから、しばらく延ばしてください。」と言ったら、その優しかった牧師さんが、「風邪なんか治る!」と言ったのです(笑い)。私は、びっくりしました。「この人は何という人か?」と思いました。そうして、仕方なく、ドボッと浸けられて、そして上がったら、風邪がどっかいってしまいました。雑炊を食べて、どっかへいってしまいました。 その時から、二人とも牧師さんになったんです。その時から、皆さん、あの毘沙門天の水の中に入るのは、入るだけでなく、手を入れるだけでも冷たいですよ。それを全部入れられたんです。それでその牧師さん悪い人で…、悪いということはないんだけど、しばらく浸けよるんです(笑い)。ちょっと浸けといてから、ずっと引っ張りました。そのままだったら私は、死んでしまいます。そしたら、そのバプテスマという意味は、「死ぬ」という意味なんです。あれは後になって覚えました。 それから私も、牧師になってから、洗礼を与える時は、ジュッと浸けといてジュッ、とこうやるんです(笑い)。すっと上げないのです。ジュッ。そうすると皆、水をすっと飲みます。水を飲もうとするから、すぐに手ぬぐいをポッと当てるんです。もうちゃんと心得てますからね。 そして「あんたは今日死んだんだぞ!」。何のことか分かりませんからね。もうとにかくブルブルと震えながら、「寒い」と、それから感激するとの両方で、授けた方は、何人バプテスマを授けたか、今覚えているけど、授けられた方は、あの人この人分かってるけど、授けた方はもう忘れています。 しかし、それは私の業ではなくて、神様の業なんです。そうして生涯変えられた、本当に生まれ変わりました。イエス・キリストというお方を信じて、そしてこのお方に飛び込むと、その人の人生が変わってしまい、変わってきちゃうんです。変わってしまう、というのはどういうことかと言いますと、目が4つになったり、足が4本になったり…そんなことにはならず、同じ体のままです。どこまで行ったって、大して変わりはないのです。 どこが変わるかと言うと、生き方が変わるんです。それはどういうことかと言うと、今日の歌みたいに「ハレル、ハレル」と言うでしょ?何が雨降っているのに、何がハレル(晴れる)か?と思って、「けったいな言葉やな?どこの言葉か?」と思ったら、「万歳」ということなんです。「ハレルーヤ」、私はあれ言うのは長いこと時間かかったんです。私のキリスト教の流儀では、「ハレルーヤ」なんて言わないんです。あれは何か気色悪いんです。雨が降っているのに、何で晴れているのでしょう?気持ち悪いですよ。 そして、体をゆすったり、手を叩いたり、あんなに恥ずかしいことはできません。「もう、本当によくそんな、理性も教養もあるのに、そんな…」と初めはそうでした。ところが終いになって、救われて喜びに溢れたら、もうここにいたと思ったら、向こうにいっています。 私が属していた教会いうのは、お祈りが始まって、そしてしばらくして気が付いたら別の所に行っているのです。そのあたりこちら歩いてるんです。あっち行ったりこっち行ったり変わるんです。埃もバンバン出てくるし、埃だけでなく、臭いもバンバン出てきます。そして、まあ賑やかな集会と言ったら、気違いみたいなもんです。あんなに手上げなくても、足を上げなくても、いい年なのに、もうじっとしていられなくなるんです。 そのキリスト教の流儀でいろいろ違いますけども、とにかく何て言いますか、心が変えられ、姿が変えられ、そして思いが変えられます。そしてもう、ただ生きてるだけの、そういう考え方の人間であった人が、もう実を結ぶことが楽しみになってきます。「何で愛されて、何で…愛される?」と、自分の人生に、豊かな実を結ぶようになるんです。 ですから今の私に孫が8人いて、一番上が22才で、一番下が今度は幼稚園入るんですが、いやあ、かわいくて仕方がないですよ。もう、これがもう、おじいちゃんから電話がかかってきたら、もう私は人格が変わっちゃうんです(笑い)。口がとれてしまうんです。「二ャ二ャ二ャ二ャ…」(笑い)、ちゃんと権威を持っているんですよ。権威を持っているですけど、この一番下の孫が、電話が「もしもし」、また「ニャニャ…」、もうかわいくて、自分がアホと違いますかね。 結構、自分の子供に対しては厳しかったんですよ。ところがこの孫となったら、もうマゴマゴして…、もう2日もしたら、また来るんです。そんなことは、どうでもいいことですが。そして、この8人の孫たちは、そして親たち皆が、イエス様を信じるだけではなく、教会のために皆が考えたわけではないのに、いろいろと教えたわけではないのに、皆が変えられていきます。 ですから、今の家内から見ますと、6代目です。クリスチャンになってから6代目。6代目と言ったって、皆さん、ヤクザの6代目じゃないですよ。そして、本当にありがたいことは、何でもいいようにばかりとるんです。 普通でしたら、「あー、本当に寒いなあ。」しかし、寒い時には、「寒い」と言わないことです。「こうして、寒い時があり、暖かい時があり、そうしてバランスをとって。」とうまく言うのです。「あー、もう負けるな。」と思いながら。 もう理屈ではないんです。信仰というのは理屈なしに、何でも神様中心に物が考えられるから、どうしても家庭の中も教会の中も皆明るくなるんです。物を食べても、「こんな辛い物が食べれるか」と言って、言ってるくせに食べよるんです。 ところが、そういう食べ方してたのが、そういうことを言わないで、「ああ、有り難いなあ。こうして物が食べられて。有り難いなあ。皆で、不足もなしに。」こう言って一緒に、「楽しく呼ばれることができて有り難いな。」と言って、食べるものですから、食べ物の方も処分が困るんです。「ご苦労様です、ご苦労様です。」と言って運んでく間に、「良い方へ、良い方へ。」と、こうとるのです。 ですから皆さん、健康が祝福されるんです。これをお医者さんにも聞いてご覧なさい。1日に何遍でもいいから、「アハハ」と笑う。そうして1日1日、朝と昼と晩だけではなく、何かあったらね、「ワーッ」と笑っています。すると、もうどんな病気の方でも、「気味悪い」と言って逃げていくんです。 ですから皆さん、ムスッとしたような顔をして、しわばっかり寄せていると、32才になって、だんだん駄目になっていくんです。ですから皆さん、この「笑う」ということは、「物事は神様を中心として考えるようになります。」と言うと、生活に全ての点で実が結ばれてきます。実が結ばれてくると言うと、どんどん増えて増殖していくんです。 私は、今まだ、神経痛が残ってるんです。この神経痛というのは、ある人によれば、「もう、痛いのは嫌だ、痛いのは嫌だ。」と言うけども、痛いのは生きてる証拠なんです。私はこういう考え方をしているですよ。痛いのは、まだ生きてる証拠です。痛くもかゆくもなくなってごらんなさい、もう天国に行ってるんです。ですから1つくらいは残しといた方がいい言って、これがあるんです。痛くて、痛くて、時々ペタッと何か貼ったりしますけれども、もうすぐ剥いでしまいます。 ということは、どういうことかと言うと、生きているということは、皆さん、有り難いことなんです。「そうですか?」と言って、疑い深くなったら、いけません。そしてこれを、実を結んでいきますと、これが増えてくんです。だから聖書を見ると、「実を豊かに結ぶ」と書いてあるんです。 皆さん、3月から4月にかけて、私の家の庭では、もう緑が一杯出てきます。バッ、バッ、バッ、バッと、誰も相談してないのに、バーッと出てきます。そして枯れとったような葉が、みんなバーッとなって、もうものすごい緑が、庭中広がるのです。 それはちゃんと植える人がいたからですよ。嫁さんがちゃんといるから、土をひっくり返したりいろいろやって、そして世話をしていますから、ある時期になるとボッと出ます。何にも蒔いてないのに生えますか?どうでもいいような草だったら別ですが、まともなものは、ちゃんと植えたら生えてきます。しかも世話をしたら世話の何倍にもなって、ちゃんと出てきます。 ということは、信仰というのは、実を結ぶだけでなくて、御霊の実を結ぶんです。御霊の実を結ぶと、どういう実を結ぶかと言うと、「愛、喜び、平和、寛容、情け、善良、忠信」、というような実をいっぱい結んできます。 そうすると家庭の中が、そんなにお金が多くなくても、生活は豊かになります。もうお金があっても、ブツブツブツブツ文句を言う人がいますよ。そして、顔を見たら、本当にブツブツみたいな顔して、あちこちに吹き出物ができてきます。 大体顔がツルンとしているというのは、どういうことかと言うと、輝いているんです。顔は輝かなければいけません。そんなことを言ったって、ひとつも輝きません。それは、輝きません。中に一杯ブツブツあるからです。そして、ブツブツがあると、必ず、それは不良になってくんです。消化だけではなくて、いろいろなものが不良になって、そしてその人だけじゃなくて、相手も周囲も悪いものをばらまくんです。 ところが信仰によって、神様から選ばれた、ということがわかったら、もうその人は、御霊の実を結ぶものですから、御霊の実を結ぶとどうなるかというと、いろんな良い材料や結果を結ぶんです。 そしてもう、神様の喜ばれないようなことは、もう一つでも二つでもなくします。私がちょうど83キロであった時は、もうこのお腹も大きくなって、そして服もBタイプからOタイプになったんです。Oタイプというのはどういうことかというと、デブの服です。 これが、デブの服をよく作ったら、そして今そのデブの服が、全部役に立たないのです。なぜでしょうか?全部バンドが締まらないんです。もう押さえた間はいいですけど、はずしたらそのまま袴みたいなんです。今30何年前の服、その時はスラッとした時です。これは、今すらっとした時なのです。30何年前の服なのに、まだ新調みたいに見えるでしょう?言わなかったら、分かりません。 「まあ先生、いい洋服を着ていらっしゃいますね?牧師さんなのに、どうしたのですか?」そんなことまで言わなくてもいいのです。ところが、その時にちゃんと保管しておいた洋服は残して、そしてそれが今役に立っているのです。ところが反対に、今デブになった服はみんな袴になってしまいました。入ることは入るんですけどね、バンドがないといけません。外したら、もうえらいことになっています。と言って、それを小さくしようとして、小さくできないのです。一着や二着やなくて、あっちにもこっちにもあるですから。 そうして、ありがたいことに、今15キロ痩せて、そして今4年近く、ずっとコンスタントです。体重は同じで、変わりません。そして、ある人は間違って、「あれ?あなたは大変に太っていたのに、今はお痩せになって、まあ若やいでおりますね。」言うに事欠いてお世辞も、色々おっしゃるけど、そのおっしゃってくださる中で、「まあ、スラッとお若くなられて…。」そんなことを、良くいいますよ。古い物が新しくなりますか? けども、言い様はは大事ですね。人間って妙なもので、女の人がジッとこう見て、そしてボソッとこう言うんです、「変わられましたね?」。耳ダーッとこっち来て、「何です?」「変わられましたよ」。自分は、「私はちっとも変わりません。あんたは変わられましたね?」「何が変わったんですか?」「見栄え、見栄えがようなられた。」、これは「こぎれいになった」という関西の言葉です、女の人にこんなこと言われたら、もう牡丹餅の3つでもすぐ持っていきたいです(笑い)。 そうして、信仰の生涯の中で、役に立たんようなものは、みんな捨てることです。そしてスラーッとなることです。つかんでもいいような肉を、スッととってしまうんです。「そんなことを言ったって…」というような、理屈を言ったらいけません。とって言ったら、とったらいいんです。そしてどうなるかというと、見栄えがよくなるんです。 皆さん、女の人がどれほどこのことのために苦心惨憺してるでしょうか?男の人は、女の人はもうちょっとふっくらした方がいいと思いますが、それは男の目からなのです。女の人は、「自分は太っている」と思っている人が多いんです。太っていないのに、「太っている、太っている」と思うのです。そして、薬を飲んだり、変な物を飲むのです。そんな物を飲まなくてもいいのに、そのままで全然いいのに、そういうふうになりたがるんです。 ということは、どういうことかと言いますと、「人から自分はどう思われたい」、「人をどういうふうに見られたい」。けれどもクリスチャンになると、「人がどう思われたい」よりも、「神様にどう見ていただくか?」という物の考え方が変わってくんです。少し程度が高くなるんです。「われもな…、世もな…」となって、そして神々しくなってくるんです。 神々しくなるってどういうことでしょうか?ハレルーヤ」とこうなってくるんですね。意味も何にも分からないけど、「ハレルーヤ」と。もうそうして、私はもう若い時に、伴奏まで付けて歌ったことがあるんですよ。初めは、「神は愛なり」というあだ名がつきました。初めは「神は愛なり」という歌ばかり歌っていたからです。 そして、その次には違う名前になりました。そんなことはどうでもいいのですが、大事なことは、そういう実を結んで、そして御霊の実を結んで、そしていろいろな自分の中にあるぜい肉を取り除いて、そしてどうなるかというと、キリスト様に似ていくようになるんです。 「キリスト様に似ていくようになる、というのは、具体的にどういうことか?」と言うと、キリスト様と、顔や姿は私たち皆違いますけど、品性、その人の人格の中心、それがキリストにだんだん似通ってくるんです。キリスト様にだんだん似通っていくと、キリスト教がどうであるとか、聖書は何であるとか、いうようなことは分からないでも、キリスト様に似通っていくと、そういう人が増えていくんです。 皆さん、私はこの本郷台教会に、2つのことを最後の時に申しあげたいのです。1つは何かと言うと、「この本郷台の教会は献身者が起こって、学校を開いたらいいのではないか?」と思うのです、それは神学校です。300人も400人の信徒もおる中で、一人か、二人は牧師先生になる人が起こってもいいのではないですか?「いや、そんなことはやめた方がいいですよ。下手な者が、かえって教育を授けて失敗したらどうするんですか?」失敗する前に、そんなこと言ってはいけません。 私の知ってる人は、それを聞いて、そして学校を開いて、今17人牧師になってる人います。17人。献身して、その教会の中だけに、17人牧師さんになってる人がおります。そうかと思ったら、私のごく親しい友人は、2000人くらい生徒がいます。これは、ちょっとオーバーですね。あれはもう、何か訳の分からんような数ですけども、とにかく東京の上野に、そういう神学校ができたんです。そして、今年もだいぶたくさん献身して、神学校へ入っているんです。 どうですか、皆さん?祈ってください。この本郷台には献身者が必要じゃないですか?これはよく祈って、よく群れの様子を見て、私はここへ来る前に、悟らされたんです。どうしてもこの本郷台には、そういう献身者の群れが必要であると。これが一つのこと。 もう一つのことは何かというと、子供を育てることの上手な人を生み出す必要があるということです。この頃子供は、大人なのか子供なのか、男なのか女なのか、何か分からんような子供が増えてきてるんです。そういう子供をしっかりと育てて大きく教育する、そういう学者が必要だと思うんです。 幼稚園とか、保育園とかそういうものではなく、もう少し独特なものです。そしてこの近所、近隣に、「なるほどな?」という子供を育てているのです。この教会に委ねられたら、少なくとも3年ぐらい準備して祈って、これは始めたらいいのではないですか? 私はこの仕事を30年やったんです。そして今、その子供たちが皆30いくつになって、立派になって、そして保母さんやってた人が皆信者になって、そして教会にちゃんとおるんです。ただ保育園をするでけではなくて、ただ幼稚園をするだけではなくて、そのことによってキリストに似る人を生み出すことです。 どうでしょう、皆さん?本郷台のこれからの将来に、いろんなビジョンが必要ですけれども、そのビジョンの中にそういう献身者を起こして、そうして神の人を勝ち取る、そういうふうな指導者を育てていくことは、大事じゃないでしょうか?また子供たちをしっかり育てたり、あるいは老人をどういうふうにケアしていくかということも、この群れの中には起こってくるべきではないでしょうか? イエス様はこのへブル書の中で、はっきりとお教えになりました。その教えは何かと言うと、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでください」。創始者であり完成者、初めであり終わりであるお方。そのお方が私と一緒にずっと共同して、このキリストの市民を、クリスチャンを生んで育てていく、その働きに、私たちはしっかりとイエス様に目を離さないでおるように気をつけるべきである、と。本当に、この今世の中が汚れれば汚れるほど、曖昧になれば曖昧になるほど、クリスチャンははっきりすることが大切です お祈りを致します。 天のお父様、信仰の創始者であり、完成者であられる主イエス様に、目を離さないでいなさい。目を離さないでということは、キリストと共同体で生活をしなさい、ということです。一緒に働くということもあります。どうかこの、本郷台の群れは、生きたキリストの証しとして、輝いて、祝福をばらまいて、栄えを見させていただいて、世の中が暗くなれば暗くなるほど辺りを照らすように、汚れれば汚れるほどかえって輝くように、この町の栄光と祝福となるようにどうか用いて下さい。 尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン! |