| 2003年4月6日 主日礼拝 使徒の働き13章1〜5節 この街を福音で満たす。(9) 池田 博師 宣教メッセージ |
| それでは今朝のメッセージのみ言葉をお読みしたいと思います。使徒の働き13章、232ページになります。13章1節から5節です。
使徒の働き
み言葉は以上です。アンテオケ教会に起こった様々な恵みのみ業(わざ)がどんなにすばらしいかは、前回も見ました通りです。アンテオケははじめての異邦人によって形成された教会です。ですから5人の指導者がいますが、それぞれに背景が違う、人種が違う、国が違うわけです。そういう人が一致して事にあたるというのは、常識で考えると、それがどんなに困難であるかと思います。 すなわち、それは私たちの交わりには様々な壁がある、いろいろな意味での壁があります。その壁が私たちの関係をいつもギスギスさせ、あるいは壊してしまいやすいということになるわけです。でもこのアンケオケ教会においては、見事なほどに、このかべが取り除かれていき、一致が与えられて、神のみ業が前進していったということであります。 これは人の計画とか、人の考えや努力で出来ることではなくして、聖霊の恵みのみ業であるということが言えるのです。その恵みを覚えたことでありました。今日は更にそのことを深めてみたいと思います。3点をここから教えられますので、まずそこに目を留めてみます。 2節にこうあります。 このアンテオケ教会もそれをしていたようです。そしてこの2節のところを見ますと、「礼拝し断食をしていた」ということに目が留まりました。アンテオケの教会は、事が起きたら…ということ以上にもっと頻繁に、礼拝ごとに、主日ごと、礼拝をするごとに断食をしていたという風に思いました。しかも「彼らは…」とあります。ですからだれか一人がしていたということではなくして、ここで言う彼らというのは、まず第1義的には、5人の指導者を指しているということが言えると思います。指導者、牧会者チームの5人が断食をしたといえるかと思います。 断食をしたということは、ただ食を絶ったということで終わるはずがないと思います。それですといつもいつ食べられるか、食べたい、食べたいという気持ちだけにとらわれてしまいます。断食は必ず祈りが伴うということです。断食して祈るということ、あるいは祈りに専念するために断食したと言ってもいいでしょうか。体の渇き、それは祈りへの渇きとなって、その祈りが更に真剣なもの、深いものとなっていくということであります。 そのようにしてアンテオケの教会の中においては、牧会者チーム、それに応答した信徒も加わって断食と祈りが積まれていったと思います。そういう時に、それには必ずや主がわざをもって応えてくださる、力あるわざがなされる、そこには様々な祝福が起こってきたであろうと、何かそういうものが浮かび上がってくるような雰囲気を感じます。 断食と言う時に、響くみ言葉あります。イザヤ58章6節をお開き頂きたいと思います。 イザヤ書
断食をすると言うことの中に、神様はそれだけ真剣に、大事な大事な健康を損ねるかもしれないほどの真剣さをもって神に近く、その祈りに、神様は必ず応えてくださるのです。そして応えてくださるそのわざは、そこに書かれてあるように、悪の絆を解く、そしてまた、くびきのなわめをほどく、虐げられたものを自由の身とする、全てのくびきを砕く、というものです。 神様は、このように具体的に、その断食の祈りを通してわざをしてくださるという約束であります。悪の絆を解く、それは罪に苦しんでいる人が、そこから開放されていく姿かなと思います。罪に苦しむ人たちがいます。みな、私たちひとりひとりが、かつてはそうだったでありましょうか。今そういう中にある方がいるでしょうか。でも断食の祈りをする中から、人は必ずその罪の苦しみから開放されていくのです。主の約束です。 そしてくびきのなわめをほどく、とあります。くびきというのは、牛が2頭それぞれくびきでつながれ一緒に行動するということですが。しばしば私たちは、くびきによって自分の体や心が支配されてしまいやすいものです。悪しき習慣にくびきのようにしばられて、そこからぬけだせないということがあるでしょうか。あるいは悪い人間関係からなかなかぬけだせないということがあるでしょうか。その人の体、その人の心をしばっているそのくびきから主は開放してくださると言うのです。 ガラテヤ5章1節には、「奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」体、心、しばしば私たちは、奴隷のようにして悪しき習慣から抜け出られないことがあります。いけないと分かっていながら、してはいけないと思いながら、したくないと思いながら、でもどうしてもそこに縛られてしまうくびきがあります。でも真剣に祈る時に、主はそこから私たちを解き放ってくださるとあります。約束のみ言葉です。 そして3番目には、「虐げられたものを自由の身にする」とあります。今は人権蹂躙(じゅうりん)、奴隷制度と言うものはないと思いますが、時に、あたかもそうであるかのように、自分の身が縛られているということがあります。人間関係、家族関係においてもありうるかなと思います。あたかも奴隷のようにして、それに縛られて、どうにもならない状況、様々なしがらみに縛られてしまっている現実、そういう中から、でも真剣に祈る時に、主は開放してくださるのです。よきに変えてくださるということであります。 4番目には「すべてのくびきを砕く」とあります。私たちの存在、私たちの心を支配している様々なくびきがある、その目に見えない心のくびきを打ち砕いてくださって開放してくださるのです。主の力あるみわざの中で、主の約束の中で、私たちを解放してくださるということです。主の前に真剣に、断食をもって祈る中に、主は応えてくださるというこのすばらしい約束です。真剣な祈りの中で、お互い一人一人もそのようにして、悪しき縄目から開放されて、自由の身とされて、開放されてものとして、主の前に主を讃美したいものであります。 そしてイエス様は何よりも、そういう私たちのために十字架にかかってくださいました。あなた方は罪の縄目からはもう解かれた、あなた方は赦されていると宣言してくださいました。新約聖書コロサイ書の2章12節から15節にはこうあります。 コロサイ書
主はこのようにして、縄目から、くびきから開放してくださったという十字架のすばらしい開放の約束、宣言であります。今日もそのすばらしい十字架を崇めたいのです。 このようにして主は、あのアンテオケ教会の中に、礼拝のたび毎に、彼らが真剣に祈って、断食をもって祈っていく中から、礼拝ごとにそのように開放される人が、そのように自由の身にされる者が起こされていったであろうと思います。ですから彼らは、恒常的に、毎週そのように真剣に祈って取り組んでいたのであろうと思います。著しいそのわざの前に、彼らは恐れおののきつつ取り組んでいたのかなと思います。すばらしい約束です。 第2番目に目にとまるのは、聖霊が言われたということであります。2節の後半に「聖霊が…言われた。」とあります。4節には「二人は聖霊に遣わされて」とあります。これは頭で、理性で考えますと、聖霊は目には見えない存在ですから、それが、「遣わされた」「言われた」というのは、どういうことかなと疑問にも思います。 でもよくじっくりそこを見ていくならば、そこに聖霊があたかもいてくださって、その臨在の中にあって、人々は一人のそこにいた預言者が語ったかもしれないけれど、でもそれは預言者ではなくして、預言者を通して神様が語っておられる、聖霊が語ってくださっていると受け止めたのではないでしょうか。そしてその語っている言葉こそ、私たちの霊と魂を揺さぶり、そして私たちを立たしめるという、そういう圧倒的な臨在、主の臨在の中にあってなされているということを感じないではいられなかったのではないでしょうか。 皆さん、3年前の1999年10月17日のあの礼拝です。ここにおられる多くお方は覚えておられると思いますが、その前の14日には銀行からの融資に対する0回答がありました。私は考えられない出来事の前に、主の前に出ました時に、イザヤ33章10節のみ言葉、「今、私は立ち上がる。」と言われたあのみ言葉が与えられたのであります。 そのみ言葉が私の内に迫って来た時に、単に私の内に語ってくださったというだけでなくして、主は私たちの教会に語って下さったと、そう受け止めました。礼拝において一人一人がそれを主の声として聴くことができました。そして主の前に悔い改めが、主の前に涙の悔い改めがあって、そして新しい主からの迫りの中で、一人一人が変えられていきました。 そしてだれもが、牧師ではない、他のだれでもない、主であるということを感じた時に、主はそこにご自身のくすしいわざを成し始めてくださいました。2日後の火曜日には銀行の方から、私たちに借りてほしいと言ってくるようなことさえ起こりました。それだけでなくして、多くの信徒の皆さんの中に、熱心に真剣に献げる熱い思いが起こされていき、そして12月22日には全額支払うことが出来るという、大いなるわざが成されていったのであります。 まさに聖霊が語ってくださった、聖霊が事を成してくださったということを見るのです。アンテオケの教会はそのようにして、いつも、人が消えていて、いつも主が崇められていて、主のわざが教会をおおっていたという、その結果をみるのであります。 そして短く最後のところですが、それは今読みましたところですが、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」バルナバとサウロ、二人はアンテオケ教会を立てた中心の人物、中心の指導者、大切な人たちであります。でも大切な二人を遣わしなさいと、聖霊は言ったのです。 教会はそれを受けた、教会はそれに従ったのです。そして二人を派遣したとあります。それは教会にとって、見えるところにおいては、どんなに大きな損失とでもいいましょうか、屋台骨が引き抜かれるような大きなことであったと思います。 でも主はそこから、さらにアンテオケ教会を祝福していかれます。そこから語られるのは、主は外に派遣すること、主のために受けるだけでなくして、与えていくこと、それがどんなに教会にとって、主の働きにとって大切であるか、すばらしい祝福の原則であるか、それを見せてくださっているということであると思います。 皆さん、私たちの教会が世界に宣教師を送り出す教会として、何人を送り出そうとして祈っているでしょうか。50人送り出そうと祈っているのです。まさかと思うような数字です。でもビジョンとして与えられたものです。そしてすでに近藤先生の家族、木島先生の家族、難波宣教師を私たちは送り出しております。 難波宣教師の事を見れば、本当に姉には、教会にいて、霊的な働きをしてもらったら、どんなに助かるだろうかと思います。何故あんなに無理をして、弱い状態で外国にまで行かなければいけないんだろうかと、そんな思いもするわけです。 でもその姉が中国に行って持ち帰る恵みはどんなに大きいでしょうか。どんなに大きい励ましになっているでしょうか。そうすることによって失う多くの損失や犠牲をはるかに越えて、多くの恵みを私たちに教会に与えてくださっています。送り出すことで、与えることで、派遣することで、主はそこに、霊的な祝福をもって報いてくださっているでしょうか。具体的なわざをもって応えてくださるでしょうか。教会は常に派遣する教会、送り出す教会、与える教会でなければならないのです。これは主の法則であるということです アンテオケ教会は、モデル、教会のあるべき姿であるということです。私たちもそのアンテオケから、一つ一つ学びながら、それを模範としながら、そこから一人一人が聞き、教会が聞いて応答していきたいものです。私たちは更に教会を通して、いよいよ主が崇められて、主がご自身のわざを必ず成してくださるであろうということを、期待するのであります。
お祈りを致します。 天のお父様、感謝致します。 このようにして、主がこの群れにわざをもって応えてくださっていることを感謝致します。 更に主が祝福と栄光をあらわしてくださいまうように。 イエスキリストの尊い御名によってお祈りを致します。 アーメン! |