2003年4月13日 主日礼拝式
“ルカの福音書” 15章20〜24節

「“家族のよろこび”」

“月井 博師” 宣教メッセージ

【木島師】今日は特別礼拝ですから、特別なゲストをお招きしています。私たちの教会で有名なカップルです。明るくて有名、国際的なご夫婦として有名な宣教牧師・月井先生と奥様・エディスさんをお招きしています。ジャー、お願いします。

【月井師】おはようございます。先程賛美した中で元々がフランス語の賛美だったものがあります。この賛美を皆さんと賛美し、家内はフランス人なものですから、フランスの雰囲気を味わってから、中にはいっていきたいと思います。「主の栄光は」です。

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【月井師】私の家内はフランスからやって来ました。私たちは今から約26,7年前イギリスのロンドンの港町の下町の宣教師の家で出会いました。その頃は英語で話していたのですが、結婚する事に決めて、いろいろと考えまして「二人にとって外国語である英語で子供を育てるわけにもいかないだろう。」と考えました。

「家内が日本語を練習するのが良いか、私がフランス語をやるのが良いか。」と思った時に、「取敢えず、私のほうから家内の言葉をマスターしないと、日本に来て大変な思いをするだろう。」と考え、私がフランス語を習いました。

結婚して6ヶ月ほどフランスに止まったのが取っ掛かりになりました。唯二人の間では出来るだけフランス語で会話をしていたら、日本に来てからも日本語に切り替えるのがとても困難で、その後もフランス語、時に大喧嘩する時には英語になったり、でした。

二人の間ではなかなか日本語とはいかないのです。ですから、こういう場所で会話をしながら、メッセージが伝わればと考え2〜3回やったのですが、とても自分の日本語が「不自然だなー。」と思っています。そんな事で家内に少し質問をしながら進めていきたいと思います。

【月井師】フランスのどの辺でお生まれになりましたか。
【エディス姉】フランスの一番綺麗な所で生まれました。
【月井師】それは何処ですか。
【エディス姉】白い恋人達の映画の場所です。

【月井師】札幌オリンピックの前にオリンピックのあったグルノーブルという所なんですが、でも、それは何処ですか。
【エディス姉】スイスのジュネーブから200km山のところです。
【月井師】つまり、山の中ということですね。実際にはフランスアルプス、とっても綺麗な所です。フランス人はモンブランは私たちに属していると言いますがイタリア人もスイス人もそう言います。そんなあたりです。

【月井師】育った家庭のことを少し話してください。
【エディス姉】四人兄弟で楽しく過ごしました。父も母もスキーが出来まして、私は中学生になった時毎週3回スキーに出かけました。スキー場まで30分のところでした。小さくてまだ自分のスキーを持っていなかった時に、父の後ろで滑りました。

【月井師】大きくなってからはどうだったですか。
【エディス姉】変わりました。姉、私、弟二人、やっぱり厳しい父と戦いし始めて、まだ続いている人もいます。
【月井師】自分ではどうだったのですか。
【エディス姉】私は喧嘩が好きではないので黙っていました。心の中でずっと喧嘩でした。

【月井師】静かな戦争ですね。そういう中で、何か変化がありましたか。
【エディス姉】早く家から出たいという気持が一杯ありました。やっと、看護婦の免許を取ってから、出かけるチャンスが来ました。

【月井師】それはどんな風にしてですか。
【エディス姉】友達からイスラエルにあるアラブ人の孤児院のスタッフが足りないということを聞いて、私は世界一周をしたかったから、「イスラエルからいきましょう。」となりました。

【月井師】それで、お父さんは賛成してくれましたか。
【エディス姉】勿論違います。でも、ちゃんと大人になった娘に厳しい反対は出来なかったが、支援もしてくれなかった。

【月井師】まー、家族って、少し空気のようなものですよね。一緒に生活している時は、そこにいて当たり前、そんな中で私たちは育っていくわけです。でも、それぞれの家庭に雰囲気というか、空気というのがあります。それが段段大人になっていくと、敏感になったり、反発したりします。親のほうも子供に対して「こうあってほしい。」とか「こうあるべきだ。」という思いがあります。

また、そればかりではなくて、自分の育ってきた背景から来るところの何だかのこだわりがあったりします。そういうことで、子供が反発したり、腹立てたり、逆に傷ついたりという事に怒っていくわけです。

そういう中で、ある時、子供はその家の空気が嫌になる。雰囲気が嫌いになる。家内もそんなところではなかったかなと思います。それで、「何としてもこの家を出てやろう。」という思いでいったわけです。

【月井師】それで、そちらに行ってどうでしたか。
【エディス姉】イスラエルに行ってイエス様に出会いました。
【月井師】それはどんな風にしてですか。
【エディス姉】勿論イエス様の事は前から信じていました。歴史の一部分としてナポレオンみたいな信仰はありました。信仰はいろんなやり方があります。サタンもイエス様を信じていると書いてありますが、私も信じるのは信じていました。

【月井師】それで、イスラエルでどのようにイエス様と出会いましたか。
【エディス姉】個人のスタッフになって9ヶ月間16人のアラブ人の娘を預かって、生活しました。16人ですよ。

【月井師】急に16人のお母さんになったわけですね。
【エディス姉】3歳から6歳の子供でした。とても楽しかった。

夏休みになり、皆親戚の所に帰って1ヶ月お休みを頂きました。勿論スタッフになっても給料無しの所でした。アルバイトをしたら一寸お金稼げるかなーと思って、町の病院に看護婦の立場でアルバイトに出かけました。

そこで、車に頭をぶっつけられた7歳の女の子を世話しました。その女の子は脳内出血をしていて植物人間になっていました。鼻からチューブで栄養を摂っていました。その子の世話をしながら、今までの9ヶ月間に有った事、聞いたことをいろいろ思い出しました。

一番思い出したのはイエス様は昨日も今日も何時までも同じ方です。旅していた宣教師の方が何回も孤児のところに来て下さって、イエス様のしてくれたいろいろな事を子供達に話しをしてくれました。「それを確かめたい。イエス様は今日も昨日も同じ方なら、この7歳の女の子を癒してください。」心から初めてお祈りしました。

2日間看護婦の休み頂いて仕事場に戻った時、その7歳の子供が歩いて、話しながら退院するところでした。びっくりしました。勿論その子が生き返ったことにびっくりしましたが、神様が私の祈りを聞いてくれたことにもっとびっくりしました。

その時まで、船でいえば私は船長でした。「イスラエルに行きたい。何かしよう。」でも、その時から「イエス様私の船長になって下さい。」という違う生活が始まりました。

【月井師】ずっとイスラエルにいたんですか。
【エディス姉】これは夏休みのことでした。冬休みが来る時に親戚から飛行機の切符が送られてきました。嬉しくなかった。

【月井師】イスラエルには片道切符で行ったんですね。家には帰らないつもりで出かけていったから。
【エディス姉】でも、そこでとても幸せな生活をしていて、楽しい所でしたから、やはり帰りたくありませんでした。そして、不安が一杯でした。父から無理に出かけていたから、どんな風に戻れるのか不安でした。

【月井師】それで、実際に帰ったんですか。
【エディス姉】その切符を持って、外のスタッフに相談しました。「ねー、切符貰ったけどどうすればいい。」そしたら「祈るのよ。」と言ってくれました。

私は祈る事が上手でなかった。部屋に入って聖書をポンと開くと、「どんなプレゼントでも天のお父様からのプレゼントです。」と書いてありました。天のお父様のプレゼントなら嫌といえないですね。それで不安一杯で帰りました。

【月井師】それで、お父さんとはどうでしたか。
【エディス姉】丁度そのとき、父と母は困っていました。私の大事な祖母が80歳になり、元気がなくなっていたところでした。それで、元気な看護婦が来てくれたと喜んで受け入れてもらいました。

【月井師】その後のお父さんとの関係はどうでしたか。
【エディス姉】帰る前に謝りの手紙を書きました。許してくださって、良い関係になりました。

【月井師】とても仲のいい親子にその時からなったんですね。イエス様が昨日も今日もいつも生きているという話しを実際に自分で体験したというところでしょうか。そして、お父さんと素晴らしく和解出来てそこのところがとてもいい関係になったのですが、実際には家内は故郷に帰って、お父さんと出会う前にもう一人のお父さんと出会っていたのです。

そこのところを、少し今日は見てみたいと思います。ルカの福音書15章20節から2節 をお読みいたします。新約聖書の134ページになります。

“ルカ”
15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
15:21 息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
15:23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。

ここに、もう一つのお父さんと息子の和解の物語があります。これを読んでみると、このお父さんはとても気前の良いお父さんだと思います。少し前のところを読んでみますと判るのですが、この息子はお父さんの財産をたくさん持って家を出て、それを全部使い果たしてくるわけです。

でも、そのお父さんは「息子が帰ってこないか。帰ってこないか。」と見ていました。そして、帰ってきたら走りよって、その息子に対して、一番良い着物、手に指輪を、足に靴をはかせ、お祝いを始めるわけです。これだけ好き勝手な事をしてきた子供をこんな風に迎える人はそう居ないでしょう。

ここに描かれている父親の姿に教会で「天の父なる神様」と呼んでいる神様の姿を見るのです。先程も話しましたが、家族というのは空気のようなものでありながら、でも、私たちの生きていく上において喜びの一番の源でもあります。私たちはどんな時に一番喜ぶか。おじいちゃんが幾つになった。お母さんにこんな事があった。自分のことよりも家族に何か素晴らしい事が起こるととても嬉しい事です。

今のイラク戦争の中でも、「女性の兵隊がイラク軍に捕まって、救出された。」と何日間もCNNのテレビで中継されていて「外にも大勢死んでいるんだが。」と思いながらも、その家族の喜び様を皆で共有するのです。家族が生きて帰ったと言う事がとっても大きな喜びなのです。

私たちの子供が生まれた。または小学校に入った。そういうことだけでも嬉しいわけです。結婚と言うのも、1つの家族がそこから作られるという事で、これも自分が何かなしえたという喜びではない喜びが有ると思います。ですから、私たちは生きていて、自分が何かをすると言う喜びよりも、家族を通して与えられる喜びはとても大きなものがある。

でも、同時に家族が私たちの悩みや試練や争いや困難の大きな原因であったりします。「こんな家族でなかったら。」という家族になっていったりする。私たちの悩みの元も家族に有ります。

そういう家族ですが、私たちの本来家族の中の喜びとはどんなところに有るのでしょうか。それは、家内がイスラエルに行って、イエス・キリストといういける方に出会って、実際はそのイエス・キリストを通して、天のお父さんと出合ったのです。そして、この方と出会ってから、家に帰っていったときに、お父さんとの関係も変えられていきました。

ですから、私たちが天のお父さんと出会うということはどれほど必要な事でしょうか。この天のお父様という方は、此処に書いてあるように、腕を広げて迎え入れてくださるので。22節にこんな描写が有ります。いろんなところにそれを見ることができるのですが、今日は1つのところに焦点を当ててみていきたいと思います。

手に指輪をはめたと有ります。この指輪は私たちが飾りに付けている指輪とか、結婚指輪とは違うのです。これは、日本ではそんな習慣はあまり有りませんが今でもアメリカにはありますし、聖書の中ではエジプトに於いてもペルシャに於いてもそうでした。英語で言うとsignet lingといいますが、実印が指輪にはめ込んであります。

聖書の中の物語では、エジプトの王様が総理に自分の権限を委譲する時に指輪を渡したと書いてあります。ペルシャの時代の物語にも同じような描写があります。ですから、神様は私たち一人ひとりに権限、目的を下さっているのです。

お父さんお母さんが居なかったら、私たちはこの世に存在していません。でも、私たちの魂の親である方、それは神様です。そしてこの神様は私たちに目的と使命を持ってこの世界に存在せしめてくださいました。

ですから、家族を見るときもそういう目で見ることが出来ると、私たちはもっと家族から喜びを汲み取る事が出来るのではないかなと思います。私たちは、兎に角、「こう有って欲しい、こう有るべきだ。」という部分だけで見てしまうと、子供達に関していうならば時に腹が立つこともあります。

でも、神様はこの子に何かの目的を持っておられる、使命が与えらているという目で見ますと、その目的使命に従って子供達が生きていくのを見るのは嬉しい事です。何よりも、私たちは自分で子供を造ったわけではないですね。自分で奥さんを選んだ訳ではない。私たちが自分で奥さんなり旦那さんを選んだと思うと、私たちは時にはとっても腹が立つし、何でこんな失敗をしたのだろうかと、いろいろと考えるわけです。

でも、子供は神様が授けて下さったもの、奥さんなり旦那さんは神様が備えて下さったものです。それは神様がその人を通して何かの目的を遂行しようと考えておられるからです。そして、ここで指輪を嵌めさせたというのは、その人に神様が特別な目的と使命を持っておられて、その使命と目的を達成するのに必要なものは皆わたしの印鑑を使っていいんですということです。何でも事が成っていくということです。

家内は、そういう事で、イスラエルを基点に世界一周をしようとしたのですが、結果的には日本まで来ました。実際には日本迄ではなく世界一周していますが。でも、日本に住んでいて、家族四人の中で一番ご両親から遠いところに住んでいて、めったに会えない立場になりました。

でも、そういう立場の妻に神様は目的と使命をもってこの場所に遣わしていますから、いざと言う時には最高のタイミングで外の子供達には出来ない事をさせて下さいました。6年程前に家内のお父さんは亡くなったのですが、そのときの様子を少し話して下さい。

【エディス姉】2年前に行っていましたのでその時は行く予定は無かった。でもは母が疲れていたので、一寸だけ手伝いしようと思い急に行きました。家に帰った時誰も居なかった。母は入院していました。それを80歳の隣のおばあさんから聞いて、そのおばあさんの所に荷物を預けて病院に行きました。

そこの病院への道はちゃんと知っていました。母は危なくは無いが、しばらく入院しなければいけない状態でした。毎日父と一緒に母のところに行っていました。三日目には父はとっても疲れていました。父は82歳でした

30年ずっと心臓が悪く、何時死んでもおかしくない状態でした。「天のお父さんに会う準備をしている。」とずーっと言っていました。母のところに行って挨拶して、座っていました。
【月井師】お父さんは家内の腕の中で召されていきました。

【エディス姉】私はとっても嬉しかった。
【月井師】と言う事で、兄弟4人の中で一番遠いところに住んでいたのですが、最高のタイミングで神様はお父さんを天に送る事を家内に許してくださったのです。ですから、家内には使命が与えられていて、日本に来てからも、いろんな人たちを助けるべく用いられています。

家内は私にとって、とても大きな祝福です。家族が私たちにとって何が喜びかというと、何かしてくれるからではない。また、その人が優秀な人になるからではない。その人がかっこいい大人になるからではない。仕事で活躍するからではない。

家族の喜びというのは、そこに親と子という関係が与えられているということです。又、夫婦という関係がそこに備えられたということです。それは与えられたばかりでなく、神様が一人ひとりに使命と目的を持って生かすことをしてくださっている。その事をこの指輪に見ます。

でも、私たちがこの世界に生かされている最大の目的はこの神様の愛を私たちが知ることです。体験する事です。これほど大きな愛で私たちを活かして、用いようとしてくださっているこの方の愛を私たちが知ることです。それが私たちの生かされている目的の半分以上です。

この方と出会うということが、その家族関係、また私たちのほかの人たちとの人間関係をも変えていきます。でも、この方と出会うということが、実際には私たちには簡単ではないのです。20節、21節にこう有ります。

(15:20)こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
(15:21)息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』

この「家までは遠かった」と有るのですが、私たちと私たちの魂の親である神様との間の距離は、私たちが想像するよりも遥かに遠いのです。又、この方に受け入れられるような私たちの心のありさま、いってみれば祈りも、私たちはなかなか出来ない者です。

このように、関係が回復するというのは実際にはとっても難しい事です。それは、自分の家庭に何か問題が有って、親子の間兄弟の間に夫婦の間に問題が起こってきて、こじれて距離が遠くなった時に、皆さんお分かりになるのではないでしょうか。その関係が和解するというのはとても難しい事です。

普通そのままでいってしまいます。そういう関係が回復するためには必ず何処かにその関係の回復の為に苦労する人が何処かに居るのです。家内はそういうことで、イスラエルの地でまことの天のお父さんと出会ったのですが、でも、その出会うということにおいても、そういう犠牲とか無しに出会えたのではないのです。

【月井師】その孤児院はどういう風にして始まりましたか。
【エディス姉】私が行っていた時より更に10年ぐらい前のことです。始めた時は一人のアメリカ人の宣教師と一人のイギリス人の宣教師がハマラという町で会って、一緒に祈っていました。これからどんな風に神様の奉仕すればいいか祈っていました。その時、誰かが彼女達の家のごみ箱のところに赤ちゃんを捨てました。そこから始まりました。10年後、私が行った時には女の子が80人、別のところに男の子が50人いました。

【月井師】そういう風にして、アラブ人たちの間にイエス様の愛を伝えたいと思って出かけていった人たちが居たのです。この人たちが最初の赤ちゃんを拾い上げて、育てていったところで、実は次から次へと捨てていくのです。そういう風にしていつか孤児院になっていった訳です。

でも、家内が行くきっかけになったのは、6日間戦争というのが有りました。アラブ人たちが団結してイスラエルを地中海の向うに追い出してしまえと戦争を始めたのです。ところが、一気にイスラエルがそれを打ち負かせて6日間で勝ってしまったという戦争だったのですが。

その戦争の中で、その孤児院はアラブ人たちの真中に有った訳です。ですから戦争の真っ只中に入ってしまいました。銃声が聞こえ爆音が聞こえ、子供達はすごい不安の中に陥りました。不安に陥った2人の子供達が庭に飛び出しました。宣教師2人が急いで追いかけていって、両手を掴んで伏せたところに銃撃がありました。

悲しい事ですが、女の子二人は死んでしまうのですが、宣教師達も銃弾を受けて大怪我をしてしまいます。それで、スタッフが足りなくなった。それで、「誰でもいいから来てくれ。」という時に、偶々家内がそれに応じて出かけて行ったわけです。

家内がイスラエルの地でまことのお父さんに出会うということにおいても、実際にはそこに払われた犠牲、又は払われた労苦がとっても大きいものが有った訳です。勿論彼らはアラブ人たちの為にしていたわけですが、ある意味でそういう労苦のおこぼれを家内が頂いたという事でもあります。

でも、私たちが何処かで和解が成り立つ、関係が回復するというのには、何処かで誰かが犠牲を払う、相手から痛みをうける、間にあって苦しむ、そういう人がいて初めて関係の回復、和解というものは成り立つのです。そういうこと無しに、夫婦、親子の関係は修復されないのです。

これは、私たちと神様との関係に於いても同じです。私たちは心からの神様への受け入れられるだけの十分な行いとか、お祈りとか出来ないのです。距離がとてもたくさんあります。だからこそ、私たちのところにイエス様が近づいて下さる。

ここで、まだ家までは遠かったのに、「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、」と有りますが、神様の走りよって来て下さった部分がイエス様、間に立って働く人は両方の立場にたって働くわけです。

ですから、神様の方から、本当に私たちのところに近づいて下さる。でも同時に、私たちも十分な神様に受け入れられる行いも出来ないし、いいお祈りも出来ない。この方は私たちの身代わりになって十字架の上で、私たちの代わりに祈ってくれたのです。

21節のところで、「息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』」という素晴らしい祈りを此処でしていますが、イエス様が私たちの身代わりとなって、私たちの代わりに天のお父さんに祈ってくださいました。

家内が知らないところで、払われた犠牲そして流された血、それが家内の救いに繋がりました。イエス・キリストの流された血、払われた犠牲、それは2000年前と思っておられるかもしれませんが、でも、先程家内に有ったように、イエス・キリストは昨日も今日もいつまでも同じです。

ですから、2000年前に流された血潮、そして三日目に甦られた、甦られたからこそ、今このように家内の祈りを聞いてくださったわけです。そのようにして、あなたの為にも、犠牲が払われました。とても労した方が居られます。ですから、あなたは何もしなくていい。何もしなくとも、そのまま神様の愛を体験すればいいのです。

先程、家族の喜びとはその関係にあると言いました。与えられた関係を喜ぶ。どれほど素晴らしい事でしょうか。でも、それ以上に、神様はあなたと親子の関係の中に入って、そのためにこそ、あなたは造られたのですから。そして、あなたに神様が託してくださった目的と使命を達成するための指輪が有るのです。

どうぞ、何よりも先ず、この神様の愛を体験してください。神様の方から長い距離、その隔てを乗り越えて来てくださいます。私たちに求めておられるのは、立ち上がって、父の下に行く事です。

全ては備えられているのです。家族の喜びは、既に神様が備えてくださっているように、この神様と私たちの間に愛の関係が更に深められて、私たちがもっと喜びをもって、この人生を、目的と使命を持って生きるための備えは全て神様の前に出来ているのです。どうぞ、この方のところに立ち上がって、この方の愛の腕に抱きしめられて下さい。


お祈りを致します。
愛する主よ。あなたは私たちの為に、全てを用意して下さいました。どうぞ、この場に居られるお一人おひとりがあなたの御愛を受け止めれる事が出来ますように。感じる事が出来ますように。その中に生きることが出来ますように。どうぞ助けて下さい。

尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン!