| 2003年4月20日 イースター礼拝式 “ヨハネの福音書” 20章19〜23節 「“主を見て喜んだ”」 “池田博主任牧師” 宣教メッセージ |
| 今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は ヨハネの福音書20章19節から23節
です。新約聖書の204ページになります。 “ヨハネ”
今日はイースターです。主の復活を祝うという、教会にとって大事なお祝いの日です。クリスマスと並び、もう一つにペンテコステの祝いもありますが、教会の大事な祝いの日であります。 イースターと言う時に、私自身もそうですが、どうしてもひっかかることがあります。それは何かと言いますと、「キリストが復活した」という出来事なのです。 キリストの生涯には様々な出来事があります。でも、様々な出来事の中で、最も信じ難いことと言いましょうか、有り得ないことと言っていいことが、この「復活」ということであります。 復活ということでありますが、それは、「キリストが、死んだ中からよみがえって、復活した。そしてその復活というのは蘇生ではなくして、もはや二度と死ぬことのない、永遠の命を持つ体として、よみがった。」ということなのです。 これは、私たちの常識や知識の中になく、また科学、医学の領域においても、その範疇を超えた出来事であるわけです。ですから、「何かそれは、宗教の作り事ではないだろうか?」と、こう言われたりもするわけです。 私自身、クリスチャンになる以前は当然でもありましたけれども、全く信じられなかったことです。でも、クリスチャンになっても、教会に来ている人でも、案外に信じられないという人が多いことも、また事実なのです。 今日ここにおられ、既に洗礼を受けられた方々は、「無理に信じさせられているから、信じてる。」という人は、100人に1人いないかもしれないのですが、でも、ふと常識の頭を働かせるならば、「やっぱり、おかしいな?」となることも、それはまた当然であろうかと思うのです。 ある偉い神学者は、分かったような分からないような、極めて深い哲学的な定義でもあるわけなのですが、このようなことを言うのです。「復活が事実として歴史的に起こったかどうかは問題ではありません。それは信仰の問題です。あなたがそう起こったと信じるならば、起こったのです。起こり得ないとそう思った人は、起こっていないのです。」 それほどこの復活と出来事というのは、私たちの常識の範疇から超えたことであるという風に思うわけであります。イエス様ご自身も、そのことをまず弟子たちに話すにあたって、とっても慎重に、時と場所を選ばれたという風に言うこともできます。 マタイの福音書の16章21節から、ちょっとその場面を見てみたいのでありますが、キリストがこのように言っております。 “マタイ”
キリストは弟子たちの前に、これからご自分がどうなるかということについて、ここで初めて明らかにしているわけなのです。「エルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者などから多くの苦しみを受け、殺され、そして3日目によみがえらなければならない」とこうあるのです。 そして、「その時から」とありますから、イエス様が慎重に考えられて、「その時が今来た。」ということであります。では、「その時」とは、どういう時であったのでしょうか? それは、もう少し前の16章の13節以下に書かれてあります。イエス様が弟子たちをお連れになって、ピリポ、カイザリヤという、少しエルサレムから離れた所に行きました。そして、誰にも邪魔されない中で、イエス様は弟子たちに言われるのです。「あなたがたは、人々は私のことを誰だと言っているか、それを教えてほしい。」と言われました。 その時に弟子たちは、こう言いました。 “マタイ”
それから、イエス様は、その次に、大事な質問を弟子たちにかけられました。「それでは聞きますが、あなたがたは私を誰だと言いますか?」とこう聞くわけであります。すると、16節に、 “マタイ”
これは素晴らしい私たちの信仰告白ということが言えます。キリストが、「私が誰であるのか?」という問いかけに対して、ペテロは「あなたは生ける神の御子キリストです。」と告白して、と、はっきり答えたわけであります。 「私たちは、イエス・キリストが私たちの救い主であり、私たちを罪から救って、そして永遠の命を与えてくださるお方と、私たちがそう信じる」という意味でも、とっても大切な告白であるわけです。 ペテロの告白を聞いてキリストは、「いや、ペテロ、あなたがそう言えたのは、あなただけではなくして、あなたの内に聖霊が働いたからこそ、そう言えたのだ。これは素晴らしいことだ。」と、誉められるわけであります。 そのことがあった、「その時」を境にして、「イエス様はご自身が、『これからどうなるか?』を明らかに示された」ということなのであります。その示されたことは、「苦しみを受け、殺され、そしてよみがえって天にお帰りになる、復活する。」ということを言われたのです。それを聞いた時に、ペテロはどう受けとめていいか、分からなかったのです。 そして22節にちょっと目を留めてみますと、こう記されてあります。 “マタイ”
このように、はっきりと、イエス様をいさめたというのです。まあ、私たちは、「ペテロはおっちょこちょいだ。イエス様をいさめるなんて何ということだ!」と言ったりもするのでありますが、でも果たしてそうでしょうか? このペテロの言葉は、当然の言葉であると言っていいのではないでしょうか?いや、私たちも同じように、イエス様がそんな風なことになるとは、とても信じられないですね? まして今ここで展開を見ていくならば、それまで弟子たちも、「イエス様がナザレから出てきたナザレ人イエスが、ヨセフとマリヤに生まれた子であって、そして育って大工として仕事をしていたのだが、30才になってナザレを離れて、弟子たちを招いて、新しい集団がそこに始まった。」という理解であったわけです。 ところが、弟子たちがイエス様を見ている時に、イエス様から教えられ、そしてイエス様から力をいただいていった時に、彼らの心が少しづつ変えられていき、そして今ここに来て、初めて「あなたは生ける神の御子、キリストです。」とこう告白したのです。 すなわち、「ナザレ人イエスではなくして、いや、イエスでありつつ、あなたは同時に神の御子キリストです。『神が人の姿をとってこの地上に来てくださった』という、あり得ないことをしてくださった唯一の方、すなわち私たちの救い主です。」という、とっても大切な告白をはっきり言ったわけであります。 そうしたらばイエス様は、今度は彼らに初めて口を開いて、「私はエルサレムに行って、そこで捕らえられて、長老、祭司長たちから苦しみを受け、殺されていくのだ。」とこう言ったわけです。 ですから、これはペテロだけでなく弟子たちにしてみれば、「これって可笑しいですね?あり得ないことじゃないでしょうか?人間ならば殺されて当然かもしれないけど、『神の子』として告白して、『神の子』だとそう言って、それを受けられたイエス様が、どうして殺されるなんていうことがあり得るのでしょうか?あるいは、神の権威をもっているならば、彼らを治め、蹴散らし、裁くこともできるお方じゃないですか?どうしてそれなのに殺されるなんてことを、おっしゃるのですか?わかりません。」 ですから、ペテロが諌めたというのは、当然のことでもあるかもしれないと思います。すると今度は皆さん、次の23節に目を移してみますとこうあります。 “マタイ”
とこう言われたわけですね。「さがれサタン」。なんというこれは厳しい、これ以上ないという厳しい言葉ではないかという風に思います。でもイエス様ははっきりとここでそのことをペテロに対して、また弟子たちに対してそう言っておられるわけであります。彼らは、どんなにか、そこで混乱もしたであろうか、と思います。 そして混乱した彼らに、イエス様はこれから先、何度も何度も繰り返し同じことを語っていくわけであります。17章の9節にも、 “マタイ”
そして12節においても、 “マタイ”
そしてまた22節にも、 “マタイ”
さらに20章にも繰り返されていて、「何度も何度も、事ある毎にそう語った」と言っていいわけでありますけれども、そのことは弟子たちにとってますます分からなくなり、混乱していくわけであります。 そしてイエス様がそう宣言されたその通りに、やがてエルサレムで捕らえられていきます。言うならばシナリオ通りに、イエス様は捕らえられて、殺されていくわけであります。事実、十字架において殺されました。なんでそんなことになったのでしょうか?そこに深い深い神の摂理の意味が含まれているわけであります。 そしてもう一度最初のところに戻ってまいります。ヨハネの20章において、最初の方を見ていきますと、展開の様子が書かれてありますが、ペテロもヨハネも墓に駆けつけてみて、そこが空であることを、知るわけであります。でも、「『だからやっぱりイエス様は復活したんだ。本当に復活したんだ。』と彼らは心から納得した。」、という風にはなっていきませんでした。 ヨハネの20章19節をもう一度お読みしますと、 “ヨハネ”
とこうあるわけです。弟子たちがしたことは、その日の夕方、すなわち復活が明日にあって、そして女たちが、ペテロもヨハネたちもそこに行って、それを確かめた上での、その日の夕方であるわけなのですね。ニュースも入ってまいりました。 そして、弟子の一部は、それを目で見て、確かめてもいました。しかし彼らが次にとった行動は、1件の家に閉じこもって、戸を閉めて、ユダヤ人を恐れてそこにいた、ということであるわけです。なぜユダヤ人を恐れたのでしょうか?それはキリストを捕らえて苦しめて、そして十字架につけて殺してしまったという、その「ユダヤ人の手」です。 「その手は、きっと続いて弟子である我々に伸びてくるであろうか?我々を今度は捕らえて、我々を苦しめて、我々を殺すであろうか?」というその怖れの中で、彼らは戸を閉めて、そして震えおののいていた、ということであります。弟子たちがそうであるように、また私たちも、考えてみる時に、もし私がそこにいたら同じようなことであっただろう、と思います。 そして今日に置き換えても、私たちもしばしば、私たちの人生の中でですね、にっちもさっちもいかない中にある時に、自分に閉じこもるでしょうか?あるいは置かれた状況、環境に支配されている自分を見て、そして震えおののくでしょうか? 「誰がこの窮地から救ってくれるだろうか、この行き詰まりから誰がどうすることができるのだろうか?」と、そうおじ惑いますけれども、誰も助けてくれる人はおらず、人はむしろ離れていって、そこに解決の糸口はない中にあって、閉じこもってしまうのが、私たちでしょうか?併せて、そう思わせられることであります。 弟子たちは、イエス様に対して「信じられない」と言って、イエス様を退けていたのです。でもその弟子たちに対して、ここで戸を閉じて閉じこもっていた彼らの中に、イエス様は入ってこられました。そして彼らの中に立ってこう言われました、「平安があなたがたにあるように」。 イエス様はここで、決して彼らが信じないことを責めたり裁いたりしておられません。また、弟子たちも、「あんなに信じられない。」と言っていて、そして今ここにイエス様が来られた時に、「あなたは嘘でしょう?」という風にして信じない心を言ったわけではありませんでした。 もう彼らは窮地の、行き詰まりの中にあって、助けてほしいという思いが彼らの心を支配していたでしょう。そのことをよく知っていたと言えるイエス様は、彼らの只中に、戸を閉めていたのですが、どこからも入れないはずのその部屋の中に、イエス様は復活の体をもって入って来られました。ですから、彼らは本当に驚きました。 墓が空になっていたし、どこに行ったか分からなかったイエス様が、今ここに、しかも戸を閉じている中に入ってこられたという、時点を超えたと言いましょうか、人間的には考えられない所に、こうして入って来られました。 しかもこの方は、その先を見ますと、この方は「手をわき腹を彼らに示された」。手とわき腹、それはそこに釘を打たれた痕があって、わき腹には槍が刺された痕があって、という処刑当時のそのままの姿でした。 でもイエス様は、その体を示しながら、「さあ、私はもう復活をしたのです。新しい命に生きる者となったのです。もはやかつての肉の体ではなくして、栄光の体、朽ちない体、そして三次元、四次元に支配されない体に今復活しているのです。そして私はあなたがたに言うのです、『平安があなたがたにあるように』。 私が持っていて、私が誰にも支配されないで、死すらも支配することのできない中にあって、確かに彼らは捕らえて十字架につけて私を殺した。でも彼らは私を閉じ込めることはできなかった。墓の中から私はよみがえったのです。」 そしてよみがえりは、やがて明らかにされていきます。それは、十字架において私たちの罪の償い、私たちの罪の全てをご自分の身に負ってくださって、身代わりになって裁かれて殺されたことであって、それはあなたがたの罪が赦されるためであり、あなたがたが死をもって終わることのないために、あなたがた代って自ら死を受けたことなのです。 そして復活こそ、あなたがたが死で終わることなくして、その先に永遠の命の世界が開かれるために、私はこうしてよみがえったのです。キリストの復活です。弟子たちはそうした細かいことはここではまだ分かっていません。 でも弟子たちがそこで感じたこと、弟子たちがそこで受けたもの、それは20節にこう書いてあります。 “ヨハネ”
「主を見て喜んだ。」皆さん、理屈抜きです。閉じこもっていました。自分もどうしたらわからない中に震えおののいていました。窮地の中にありました。不安と恐れと闇の中に落ち込んでいました。でもそこに、主がおられました。復活のキリストがおられました。「平安あれ」と言われました。その時に、彼らは主を見て喜びました。 私たちの心の中のどんな問題、どんな闇にも、あなたがイエス・キリストを見て、イエス・キリストにご自身を明渡しするのです。こんな者です。こんな罪深い、こんな汚れた、今の今まで不信仰極まりない、そんな者でした。「でも主よ、信じます。あなたを信じます。」そう告白したとき、その瞬間に「弟子たちが主を見て喜んだ」、そのように、私たちの主は喜びを与えてくれます。 その先には、22節には「聖霊を受けなさい」とあるのですが、聖霊の働き、神の霊の働きです。私たちの肉の判断ではない、聖霊が私たちの内に働いてくださる時、そのようにしてくださるのです。主は、そのようにして、私たちに新しい希望の世界を開いてくださいました。 もう1ヶ所だけ聖書を開きます。第1コリントの15章のところであります。311ページを開いていただきたいと思います。15章の20節から22節までを、お読みします。 “コリントT”
復活ということは考えられないことであります。理性で、科学で、医学で考えられないことであります。でもそれらを超えてキリストは、事実たった一人復活されました。既に2千年前にそうなってくださいました。 しかもその復活という出来事、その事実は、ただキリストにおいて起こっただけで終わるのでなくして、何とここを見るならば、「眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」とあるのです。 すなわち、キリストが私たちの先駆けだ、とこう言うのです。麦の穂、稲の穂が、最初に一つの穂が実る時に、続いて次々と実っていきます。「そのように、イエス様はあなたがたも同じようによみがえることができるんですよ。私に信頼して私に従って来さえすればそうなるんですよ。その私は初穂ですよ。」とそう言ってくださるのです。なんという希望でしょうか!なんという私への祝福でしょうか! この度私は、韓国に行く機会が与えられました。それについて、皆さんがご存知のあのテグ市という所で、大変な地下鉄の火災事故があって、今だに何人死んだか分からないという、とても悲惨な事故がありました。 皆様が、私が韓国へ行くということで、義援金を募って、そしてそれをそっくり持って行きました。12万2千500円という、ほんとに皆さんの、多くの方々から捧げられた、愛の献金でありました。そして、「ゴール2002」という総会の席上で、きちんと、私がテグ市から来られた牧師先生に渡す場を作ってくださったのです。 それで大勢いる人たちの前に私は出て行って、そしてその方にお渡ししました。そして私は、「韓国と日本のワールドカップを通してのこの素晴らしい機会を通して、私たちは本当に皆さんと新しい和解の機会を与えられたことを感謝し、こうして今回本当に気の毒な事故が起こりましたが、そのことに教会員一同が献金して、こうして今日お渡しできることを喜んでおります。」と、そういう風に申し上げました。 するとそのテグ市からいらしてくださった代表の一人の先生が、それを受け取った後に、「一言、証しをさせてください」とそう言われました。そしてしてくださった証しはこうでした。 「実は私の教会員の一人の人がその事故にあって亡くなったのであります。でも亡くなる直前、火だるまになるその最中にあって、その方は私のところに携帯で電話をかけてくれました。そしてその電話でその方は私にこう言いました。 『先生、私は一足先に天国へ行きます。私のために祈ってくださり、私にこうして素晴らしい永遠の命の恵みを与えてくださったことを本当に感謝いたします。お祈りを感謝します。』」 そう言って電話は切れたそうです。やがて事故の捜査が始まった時に、実はこの方は、多くの死者の中から最初に氏名が判ったそうです。なぜでしょうか?それはその方が、ご自分が聖書を持っていて、その聖書をしっかり胸に抱いて、そして亡くなっていました。ですから捜査をした人が、なぜか焼け残ったその聖書から名前が判って、犠牲者の中の第1号として名前が知られた、ということでありました。 事故に遭われるという悲惨なことがありました。でもその中にあって、「一足先に天国に行きます。」と言って、そして命を落とされていきました。でもそれはなんという天への凱旋であることでしょうか! 人はどこでどのようにしてその命の最期を終わるか分かりません。でもその最期をまっすぐ天国に向けて進みゆくことができることは、なんと幸せな事でしょうか!イエス・キリストがよみがえってくださって、初穂としてよみがえってくださったからこそ、私たち人類に与えられた希望です。 やがて私たちも、いつかどこかで必ず死を迎えます。でも死は死で終わるのではありません。死は永遠の天国への門口です。死は天への凱旋の勝利の門口です。このようにして、とっても悲惨な最期であるかもしれないけれど、でもその悲惨さを遥かに越えて、私たちに感動を残し、私たちに希望を鮮やかにしてくださるこの死。それは今日も、皆さん、私たち一人一人に与えられている希望であります。 この素晴らしい復活の喜び、この復活の希望こそ、この地上で私たちが得る最高の祝福であることを、もう一度心に刻み、この「イースター」、「主のご復活」を心から喜び、そして私たちのものと、お互いしたいのであります。 お祈りを致します。 天のお父様、このようにして、今日あなたのご復活をともに祝うことのできたこの恵みに感謝をいたします。お一人お一人に与えられているこの復活の希望と喜びが、どうぞただ過ぎ行くニュースではなくして、一人一人の心の中に留まって、一人一人の心の命となっていきますように。 尊い救い主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン! |