2003年4月27日 主日礼拝式
“使徒の働き”13章42〜44節

「“この街を福音で満たすI”」

“池田 博牧師” 宣教メッセージ

今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は 使徒の働き13章42節から44節 です。新約聖書の234ページになります。

“使徒”
6:11 ふたりが会堂を出るとき、人々は、次の安息日にも同じことについて話してくれるように頼んだ。
6:12 会堂の集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神を敬う改宗者たちが、パウロとバルナバについて来たので、ふたりは彼らと話し合って、いつまでも神の恵みにとどまっているように勧めた。
6:13 次の安息日には、ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来た。

はい、聖書は以上であります。このところ教えられていることから、今日の関連することでもありますが、触れてみたいと思います。N姉妹が拘わっています「命の水計画」でありますが、ニュースレターが毎月届きまして、いつもいろんな励ましを頂くのであります。今月号の記事を読みまして、その記事から私自身の心の中にチャレンジを与えられました。

また、いろいろ教えられました。そのことから、先ずお分かちしたいと思います。その記事の一部をお読みさせていただきます。


中国を愛して、こうして中国に来て下さる事に感謝します。私に合いに来て下さいましたが私も皆さんから大いに励ましを受けております。私たちを訪ねて来て下さる人々は外にもいますが、聖書を届けてくださるのは今は日本人だけです。

皆さんが届けてくださった本は中国の伝道者達にとって大きな助となります。このようにして、私たちを助けてくださる皆さん、日本の事を覚えていつも祈っています。日本のクリスチャンは人口の1%ほどだと聞いています。

この事を覚えて祈っています。中国のクリスチャンは現在約9%ですが、中国の人口は約13億ですから、それに比べると9%は決して多くはなく、私たちクリスチャン一人ひとりに与えられている責任は大きいのです。

13億の内の9%ということは、11億人以上の人々が未だ神を知らないということです。9%は決して多くはない。中国の伝道には大きな負担があり、圧力があります。だからこそ神に頼る事が出来るのです。もっと負担が軽かったら、私たちは自分の力で何とかなると思ってしまうかもしれない。

けれども、大きな圧力があるので神に頼るしか方法がない、真っ直ぐに神にしか進めないので、私たちは感謝しています。私たちは毎年夏に洗礼式を行っております。今年は360人が洗礼を受けました。どうして毎年こんなにも多くの人々の洗礼式が出来るのか私たちも判りません。


先ず、そこまでです。これを読みまして、私自身が先ず幾つかのチャレンジを受けた事、教えられた事をお分かちしたいと思います。日本のクリスチャン人口は1%、中国は9%ということです。中国は日本の9倍クリスチャンがいるという事であります。

私たちは仮にそういうことを聞くと、立場が逆転したとするならば、「あー、日本はクリスチャン人口が多いんだ。」と理解するかなと思います。でも、このクリスチャンの伝道者はそうではなくして、「9%ということは中国の人口が13億ですから、未だ11億人以上の人が神様を知らないということです。」という理解をしています。

私たちはクリスチャンとして自覚を持つ事は大事だと思いますが、仮に栄区を考えた場合に、皆さんが栄区に住んでいるとすると、栄区のクリスチャン人口は1000人ぐらいいるでしょうか。1000人はいるのだという事で、そこにウエイトが置かれるのかなーという風に思います。

勿論、救われていない人達の事を意識しないわけではないんですが、でも、やはりウエイトのおき方が違うのかなーと思います。この中国の伝道者は未だ救われていない11億に目を留めている。9%ということですから、1億何千万の人が既に救われているという、その素晴らしさ以上に、救われていない人に目を留める心、これが大切だということを教えられた事であります。

次の事はこうです。「9%は決して多くはない。中国の伝道には大きな負担があり、圧力があります。だからこそ、神に頼る事ができるのです。」という言い方、更に「もっと負担が軽かったら、私たちは自分の力で何とかなると思ってしまうかもしれない。けれども、大きな圧力があるので神に頼るしか方法がない、真っ直ぐに神にしか進めないので、私たちは感謝しています。」という思考、方向も素晴らしいと思いました。

私たちは「日本は伝道が困難な国である。」「人々は頑なである。」「いろんな宗教に凝り固まっている。」「八百万の神々の世界にあって、何とその伝道は難しい事であるか。」という認識が大きいのかなと思います。

その意味で困難がある。でも、中国は政治的に圧力があって、公に伝道が出来ないという決定的な圧力があるわけであります。でも、「その圧力こそが私たちは自分の力では出来ないということを知って、神に頼るしかない、そして、神に頼るからこそ、そこに私たちは神様の力を体験出来るゆえに感謝なんです。」というこの姿勢。

中国があの困難の中にあって、9%というクリスチャン人口になっている所以というのはそこにあるかなーと思いました。

そして、洗礼式のことです。「今年は360人が洗礼を受けました。どうして毎年こんなにも多くの人々の洗礼式が出来るのか私たちも判りません。」と言っています。この言い方って示唆に富んでいるかなと思いました。

「私たちにも判りません。」という言い方の中に中国のクリスチャンたちの大切な姿勢が浮き彫りにされているなと思いました。ふと私の中に鮮明に浮かび上がってきた聖書のみ言葉がありました。それは詩篇の126篇5節です。そこにこうあります。

“詩篇”
126:5 涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。
126:6 種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。

中国のクリスチャン、中国の教会はどれほど涙の祈りがあるでしょうか。苦闘があるでしょうか。でも、彼らはそうする事が、そうできる事が感謝だと言っている、その事の故に涙が既にイエス様によって拭われていて、与えられる結果に対して「どうしてでしょうか。」と言っている。

そのようにして彼らは主の御許に彼らの涙が届いて、その祈りが届いて、その労苦が一つひとつ覚えられていて、主から返されてくるものをもって彼らは素直にそれを感謝し喜んでいる。「何故でしょうか。」とそう言っている。

「私たちは一生懸命やったけれども、たった一人しか救われなかった。」みたいな意識があるだろうか。でも、たった一人しか救われない、その程度しかしていない自分の足りなさへと私たちはなかなか目が向かないのかな。

彼らはいかに労苦しても、どんなに苦しんでも、どんなに涙の祈りをしても、それは主の故に、主の為にそう出来る恵みとして感謝し、確かな主はそれに素直に報いてくださっている。働きというものはそういうものだ。そう思いました。

皆さん、私たちも個人的にもいろんな労苦がある、涙がある。苦しみの谷を通るでありましょう。でも、その一つひとつが「どうして私だけが。」「一生懸命信じて、従っていているのに、どうして私が。」という捉え方ではなくして、「こんな者が主の十字架の苦しみにあずかる事が出来るでしょうか。この恵みに感謝です。」と。

「私も自分の悩みの中で、主の十字架の痛みを少しでも判る事が出来るでしょうか。なんと幸いでしょうか。」と主の前に涙する事を喜びとする事が出来るように、あなたの霊の転換が出来ていくならば、あなたに主はどのように大きな恵みを与えてくださるでしょうか。

とっても大切な原理を此処に教えられる気がするのです。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」主の大切な教えがあるように思います。そして、その先にこういう事を言っています。


中国の教会は若い人々への伝道も盛んです。中国の若者は今どんどん自由化に走って問題がいっぱいあります。ですから教会は真剣に立ち向かっています。そして福音はその中で前進し、救われる人が加えられています。

(そして少し痛いところでありますが日本に対してこういうことも言っています。)日本の教会は問題を避けていませんか。敢えて戦う事をしていないのではないでしょうか。一つの例として小泉首相は公に神社参拝をしています。

これは明らかな偶像礼拝です。日本の教会、日本のクリスチャンはどうして反対しないのでしょうか。不思議です。これは明らかなサタンの働きではありませんか。サタンが日本の首相を支配しているのです。日本の教会は眠っていないでしょうか。


ともすると、私たちは政治家としての首相について議論はするかもしれません。でも、問題はそこではない。教会が、クリスチャンが焦点を合わせるのはそこではない。彼が神社参拝という偶像礼拝をしているという事だ。

私たちはそれを何処まで真剣に自分の事として、心痛めて祈っているだろうか。反省させられたところであります。

おりしも、私は先般4月8日から11日、韓国を訪問しました。そのメインの奉仕はノ・ムヒョン新大統領のレセプションに招待された事でありました。それは韓国の教会が伝統的に行っている韓国国家朝餐祈祷会であります。

今年は35回を迎え、特にノ・ムヒョン新大統領を迎えて、世界のクリスチャン指導者約3、000人が招かれて、一大レセプションが開かれました。それに列なりました。

私はそこに出席していて、圧倒的な聖霊の臨在にうたれました。3,000人の人々の祈りと神のみ言葉に立った力強いメッセージと、生きたあかしを通して会場は聖霊に満ち溢れました。

ノ・ムヒョン大統領は最初のうちは「自分はクリスチャンではありませんが・・・。」と言い出しでありました。「でも、こうして皆さんに招待いただいて、皆さんから祈って頂いて、多くの祝福を受けました。心から感謝するものです。」

やがてスピーチは最後の方でこう言う風に告白していったのです。「自分は確かにクリスチャンではないのですが、皆さんの歓迎と熱い祈りにうたれて感動しています。そして、私はまもなく信仰の告白をするでしょう。」と公言したのです。

この瞬間3,000人の割れんばかりの拍手を聞いて、本当にその場が盛り上がった事でもありました。そして、大統領はこんな事も言っているのです。「今日このようにして、この世界のクリスチャン指導者の中に自分が招かれて、この場で思う事は、今大統領になったという実感を初めて感じております。そして、今がどういう時代か、私は実に大きな難問を抱えての大統領としてのスタートである事を知っています。

ですから、この私の為に是非皆さん神に祈っていただきたいのです。」そう締めくくられました。私はその流れの中で涙が止まりませんでした。「あー、何と霊長の高い中で、一国の首相が、或いは歓迎され、祈りの中で包まれているだろうか。」日本との差を感じた事でもありました。

何よりも、まことの神に目が向いていて、そのまことの神を中心にして動いているこの国、韓国を改めて素晴らしい国と思いました。

中国の教会指導者たちの姿勢といい、韓国の現に隣国として何と素晴らしい霊の豊な流れの中にあることか。私は日本人として、クリスチャンとしてすごいインパクトと迫りを感じないではいられませんでした。

さて、今日のみ言葉に目を移していきたいと思います。使徒の働きの13章42節、この前後は13章の13節以下にその場所の事が触れられていますので、そこに一寸目を留めてみたいと思います。

“使徒”
13:13 パウロの一行は、パポスから船出して、パンフリヤのペルガに渡った。ここでヨハネは一行から離れて、エルサレムに帰った。
13:14 しかし彼らは、ペルガから進んでピシデヤのアンテオケに行き、安息日に会堂にはいって席に着いた。

こうあります。そしてその席での説教がずーっとあって42節に繋がっていく訳であります。14節にあるピシデアのアンテオケという場所について地図で確認してみましょう。ここです。出発したところがシリアにあるアンテオケ、ここはやがて初代教会の中心になるところですが、そのアンテオケからキプロス島に渡って、そこから船出してパンフリアのぺルガに渡り、そこから陸路でピシデアのアンテオケに行った。

此処はガラテア地方の中心の町でもあり、エペソからタルソに至る通商道路の大事な場所でもあるようです。パウロとバルナバは常にそのような要所要所の町に行って伝道したということがわかります。

今日のところは、その一つであります、ピシデアのアンテオケでの話しです。アンテオケという名前がしばしば出てきますが、アレキサンダー大王の後に4人の王が立って、それぞれ支配していく中の一人がセレブコス、この父親の名前がアンテオクスといいます。その人の名前をとって、いろんなところにアンテオケという名前が付けられたようです。

当時大事な町であったのだろうと思います。そのアンテオケの町での出来事であります。パウロとバルナバが安息日にそこに有る会堂に入って説教した。すると、そこに居た人々は実にパウロの説教を通して感動して、人々は「次の安息日にも同じ事について話してくれるようにと頼んだ。」とあります。

救われたでしょうか、主に出会ったでしょうか、恵みを受けたでしょうか。彼らは「又聞きたい。」「もっと聞きたい。」と熱心さから、彼らは願ったということです。1週間彼らは出て行き、多くの人々に伝えた事から、次の日は44節に「ほとんど町中の人々が神の言葉を聞きに集まってきた。」とあります。

すごい事です。この町の人口がどれくらいの町かについてはほとんど判らないのですが、目に留まったのは、町中の人が集まってきたということです。町全体という視点がとても大事な事として目に留まったのであります。

今年の標語はここにありますように「この町は世界の国国の間でわたしにとって喜びの名となり、栄誉となり、栄となる。」というわけですが。町を福音化するということであります。町を福音化するという時に心にきちんと留めておきたいのは、そして、私自身が絶えず教えられていて、きちんと心に刻ませられているのですが、町全体とはスケールが大きいとか規模が大きいとか、そのようにとられがちです。

でも、私はそういう事以上に大切な事として、町全体というときに、そこには、そこに居る一人ひとりが対象であるということです。ともすると私たちは有力者とか強力な人とか強い人とか、そんな目で捕らえて、そこにだけウエートが置かれがちです。

しかし、そうではない人たち、弱い人もいるでしょうか、小さい存在の人も居るでしょうか、病んでいて人々から省みられない人も居るでしょうか、そういう人々を含んだ町全体、その中では小さなひとりの存在も決して失われていない、目が留められている町全体、その視点が大事だということに目を留めたいのです。

いろんな意味で、私たちも町全体の働きをしてきているかなと思います。私たちのこの教会がスタートしたのは1965年ごろでありますが、宣教師エッツエル先生は毎日毎日トラクトを配布していました。私もそれを引き継いでトラクトを何度も配布しました。

教会員もそうです。最近の5,6年は栄区全体に全戸配布ということで、クリスマスに5万枚のトラクトを配布しています。前回もそのようにして配った5万枚の中からIさんが導かれて、そして洗礼まで導かれて、本当に感謝の事であります。

でも、実際的な処は、ほとんどの人は無反応なのです。そして、無反応であるというときに、その無反応な人たちは問題が無いのか、悩みが無いのか。決してそうではない。決してそうではないはずです。誰一人として問題を抱えていない人は居ないし、悩みの無い人は居ないし、痛み傷ついていない人は居ないのです。

でも、配られても、その配られたトラクト、勿論それは祈りを持って配って、だからこそ、何人かの人たちがそれに応答して、主に立ち返るわけですが、でも同時に、私たち人間の心の琴線に触れ無ければ、私たちはなかなかオープンにはなれないですね。

心を開いて悩みを打ち明けるという風になっていかない。だから、教会は多くの人たちに対して、いろんな窓口を設けて、出て行って、そして仕えていく事が大切か、その事を<思わせられるのです。

教会もそうした事から、今多くの働きを始めつつあるわけです。その幾つかを一寸見てみたいのです。昨年の4月から保育所「ノア」をスタートさせました。スタートした4月は園児0。なのに敢えてスタートした。

常識から考えたら、保育士2人で園児0。採算は100%持ち出しですから成立たない。そんな働きってあるんだろうかと思えるようなことであります。でも、私たちは先ず姿勢が大切であるというところからスタートいたしました。

数ヶ月して一人のお子さんが入ってきました。そのお子さんは、それまで行っていた保育所では1週間1度も休まないで保育所に行く事はなかった。必ず1度は休んでいた。熱を出した。喘息の発作が起きた。そして1ヶ月に1度は必ず入院騒ぎをしていた。発作が起きて、家族が大変辛い思いをしていた。そういうお子さんであったと知りました。

それが、入ってきたその日からそのお子さんは約1年になりますが、入院することなく、発作もほとんど起きることなく、休むことなく続いているのです。考えてみたら、一人の子供に二人の保育士が付いている訳ですから日本一の恵まれた環境かなと思いますが。

でも、それは主がそのようにして下さっている、主が開いてくださった事だと信じるのですね。1歳2歳の小さな小さな存在です。でも、主はその存在をとっても大切にしておられます。だから、送ってくださった。それを受け止めました。

採算を度外視して、主が送ってくださったかけがえのない大切な魂として受け止めたのであります。そこから今少しずつ少しずつ愛の輪が広がりつつあります。主はそのようにして目を留めて下さっています。

給食ミニストリーも既に何年も続いております。お弁当を届ける奉仕。一つひとつのお弁当に祈りを込め、愛をこめて届けます。受け取った一人ひとりの心が少しでも和むように、そして心に愛が伝わるようにと、そういう願いを持ってなされています。そこからも列なった方々も起されております。

福祉ミニストリー。障害を持った方々の送迎があったり、預かりがあったりヘルパー的な働きがあったりしております。そうした方々に愛を持って仕える大切な働き。

先日は木曜日にギデオンの横浜支部の皆さんが此処に集まって、3日間続いた中学校、高校への配布を終えての、感謝会、反省会があったようであります。南支部はT兄弟が中心になってKさん、Nさん、Hさんが奉仕しておられて、何と三日間で5,700冊配られたというのです。

皆さん、多感な中学生高校生に対してです。彼らが今どんなにか世の荒波の中でもがいているでしょうか、或いは行き場を失っているでしょうか。そういう彼らに真理の光の最初を手渡す事が出来た、具体的手から手に渡す事が出来とっても素晴らしい大事な働きだと思うのです。

今、作業所の立ち上げのための活動もN兄弟中心に行われ、シオンの働きが支援しているのです。できたらこの教会の中に作業所を持ちたい、近隣の家を捜したけれども、そういうことに喜んで提供する人はやはりいない事が判って参りました。

ですから、教会の中にそういう場所を設けて、いろんなハンデのある方がそこを利用してそこで自分達の生きがいの何かを見出していけたら、どんなにか幸いだろうかという視点でなされております。

そして、オルテガさん家族が遠いアルゼンチンから日本にやって来られました。青少年のスポーツを通しての心の育成です。先程ありました50数名が既に応募してくれています。青少年がいかに今健全な指導、育成が待たれていることか。そこに使命と重荷を持って多くの犠牲を持って来てくださいました。大事な働きであります。

一つひとつの働きがそこで、その人の心の琴線に触れていくでしょうか。そこから心がオープンになり、そこからラポートがかかり、そこから悩みが打ち明けられていく。私たちはそのようにして仕えていく。教会の大事な大事な使命がそこにある。

街を福音化するという時に、機械的に何かをすればそれでいい事ではなく、本当に細かいところに届いていく事が大切。そうした中から、教会が街の人たちが素通りできないような存在になっていくことが大事であろう、そして何等かのかかわりを持つ中からやがて主に出会う事が出来るようになっていく。

何故でしょうか。私たちの悩み、問題に対して真にこれを解決できるお方はただ一人、イエス・キリスト、このお方であるからです。このお方が私たちの為に十字架にかかって、ご自分の命を賭けて、ご自分の命を捨てて彼らを救うために、私たちを救うために、全生涯と命を賭けて下さったのです。

この、ただ一人、この方。私たちは知っているのです。この方の元に期待するならば、この方と出会いさえするならば、その人は平安が得られ、慰めが得られ、解決が与えられ、希望が与えられ、力づけられた新しい人生を歩む事が出来るからです。

私たちはそのためにこそ街を福音化していく、どんな小さな弱い人々にも届いていけるような、そういう働きにこそなされている、そういう働きにこそ私たちは使命が与えられている。

今日改めて、私たちは「街中の人が」とあるのでありますが、この飯島、公田、栄、横浜南部、そして日本へと、世界へと広がっていく大事な視点を持ちながら主の前に私たちの小さな事に全力を傾ける事の出来る者へとならせて頂きたいのであります。


お祈りを致します。
天のお父様。このようにして、今日又、私たちにあなたは臨んで下さいました。一人ひとりにみ手を差し伸べて下さいました。主よ、感謝します。どうぞ、主の哀れみのみ手によってお一人おひとりを生かし、支え、導いていてくださいますように。

尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン!