| 2003年5月11日 主日礼拝式 “ヨハネの福音書” 13章1〜7節 「“極みの愛”」 “池田 登喜子師” 宣教メッセージ |
| 今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は ヨハネの福音書13章1節から7節 です。新約聖書の189ページになります。 “ヨハネ”
はい、聖書は以上です。今お読みしました聖書の個所ですが、先ず初めに2枚の絵を見ていただきたいと思います。この絵はとても有名な絵です。この聖書の出来事を描いた2枚の絵です。 3節に「イエスは、」という言葉が出てまいります。そして4節には「夕食の席から立ち上がって、」という言葉が出てまいりますが、この夕食の席というのは、実はイエス様がこの地上で最後に弟子達と一緒に食事をとられた最後の晩餐といわれている席なのです。この最後の晩餐の絵を先ず見ていただきたいと思います。これがそうです。 「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。」という聖書の言葉ですが、2枚目の絵はこの処からとられた、弟子達の足を洗われたイエス様の洗足の場面です。 神であられる方が人間の世界にお下りになられ、ユダヤの国では1番貧しい、1番卑しい仕事としてあるのがこの客の足を洗うという事ですが、イエス様が弟子達の足を洗われた洗足の場面です。とても心を打つ絵です。 さて、イエス様のこのご行為について、最初の13章1節のみ言葉はこのようにいっています。「この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことをお知りになって。」とありますが、イエス・キリストの処刑の日がきたということです。 それを知られて、イエス様は弟子達を愛されました。ずーっと愛しておられました。そして、「その愛を残るところなく示された。」と1節の最後に書いてあります。文語訳では「極みまで愛し続けた。」と訳されています。 辞書を引いてみますと、「極みとは、それ以上無いという状態のことをいう。」とありました。ということは「極みの愛」とは、これ以上無いという処まで達する深い愛をいうと教えられたわけです。 「極みの愛」この幾つかの側面を考え、黙想していました。「極みの愛」の側面。「極みの愛」とは。私は涙が出てまいりました。「極みの愛」とは無条件の愛ということです。 五体不満足というご本を多くの方はお読みになったと思います。その著者であります乙武洋匡さんが生まれた時にほとんど足の無い赤ちゃんでした。それを見たお母さんが顔色を変えても、泣き崩れても、取り乱したとしても、或いは又倒れてしまったとしても誰も責められないような状態でその赤ちゃんは生まれてまいりました。 周囲の思いやりで1ヶ月会わせる事が出来なかった。1月後に母はその子に対面します。しかし、その母の口から出た言葉は「まー、何て可愛い。」という最高の言葉だったといいます。愛は不思議な力を引き出します。ですから洋匡さん、またお母さんの現在を私たちが見聞きする時に、本当に「まー、何て可愛い」という愛の言葉は不思議な力をその将来に引き出したんだなーと思います。 「クリスチャンであるこのお母さんの心から我が子への限りない慈しみを、神は見たとたんに湧き上がらせてくださったんだ。」と私が読みました機関紙の中に記してありました。この母と子の話しに、わたしは何回も読み直して、深い感動を覚えました。 足がほとんど無い赤ちゃん、手も肘から先が無い。この赤ちゃんを取り乱す事も無く、「何てかわいい。」と言って受け入れ、そのまま、ありのままの我が子を受け入れて、慈しみ愛する。無条件の愛です。 私たちの愛の水準というのは条件付です。限られた方法でしか愛せない。そして限られた条件の下でしか愛せないのです。そのような愛を判り易くある人が文章に書いてありました。そういう愛を「だからの愛」というのだと。 五体満足、だから愛する、愛せる。自分にとって誇れる存在だから愛する。美しい、かっこいい、だから愛する。自分に利益を与えてくれる、だから。自分に快感を与えてくれる、だから。自分の身内、だから。 突き詰めていけば、条件付の愛は自己中心の愛のように思われます。よーく見詰めてみる時に、そこには実は冷酷さも同居している、時に残酷さも同居している。利益を与えなくなれば捨ててしまう愛です。美しくなくなれば目移りしてしまう愛です。面倒くさくなれば手を引いてしまう愛。要求に応えられなくなればもう用は無いと思ってしまう愛。 このように条件付の「だからの愛」は計算ずくです。そしてとても気まぐれです。当てになりません。とっても脆い崩れやすい愛です。無責任なところもあります。 しかし「無条件の愛」はそのありのままを受け入れる。ある人は言いました。「でもの愛が五体不満足でも、五体満足でなくても、それでもあなたを愛する。」「それでもあなたを愛していますよ。」その『でもの愛』だと言いました。 先程お読みしました聖書の個所ですが、イエス様がたらいに水を入れて、洗っておられる弟子達の中に、主イエス様に反逆心を抱きながら欺いているユダが弟子達の群れに入って、平気を装っている。そのユダが弟子達の中に入っていました。 ある牧師はこう言いました。「なんとも憎むべき恩知らずの偽善者の態度よ。」このユダが、3年間イエス様と寝食を共にしたユダ、しかし、彼は敵の手にイエスを売り渡そうとチャンスを窺がっていた。裏切り者のユダがその中にいました。 この13章の11節を見ますと、「イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。」という言葉が心に突き刺さってまいります。知っておられた。ならばイエス様の心は痛みで一杯だったと思います。 しかし、そのユダの汚れた足をイエス様は奴隷のように仕えて、洗っておられました。自分を裏切る者さえも、それでも主イエス様はユダを愛されました。最後まで悔い改めのチャンスを与えつづけられたのです。 当時ユダヤの国では、一緒に食卓を囲んでいる者に愛を現すのに、一切れのパンを浸してそれを与える、貰ったその人は「私はあなたを限りなく愛しているよ。」というしるしでした。主イエス様は最後の晩餐においてユダに浸された一切れのパンをお渡しになりました。 なんという愛でしょう。極みの愛は裏切るものに対してすら、すなはち、受けるに値しない者にでも注がれる愛なのです。 条件付の『だからの愛』は自分に苦しみを与える、自分を裏切る、自分に痛みを与えるそういう相手を受け入れられません。愛する事が出来ないのです。でも、『極みの愛」は無条件の『でもの愛』なのです。あなたが例えそうであっても、でも私はあなたを愛さずにはいられないのです。そういう愛です。 極みの愛のもう一つの側面ですが、その相手を生かすために自己犠牲を惜しまない愛です。相手を生かすために自己犠牲を本当に惜しまない愛、これが極みの愛の特色です。 洞谷丸という連絡線が津軽海峡で台風の為に沈没した事は誰しもがご存知のところです。とても有名な話しがあります。ストーンという宣教師のお話しです。その洞谷丸に一人の宣教師が乗っていました。沈みゆくその船の上で自分の救命具を一人の青年に与えたのです。 救命具を与えるということは死を意味します。しかし、この宣教師は救命具を持っていないこの青年に救命具を渡しながら「君がもし生きて助かったならば、教会に行くように。」と勧めました。その後、この宣教師は船と共に海底に沈みましたが、その青年は助かりました。 常識では考えられないこの愛は何処から来るのでしょうか。皆さん、極みの愛の原点は実は十字架のイエス・キリストにあるのです。どうゆう事かと思われるかもしれませんが、主イエス・キリストは偽りの裁判で罪あるものとされ、棘の冠を被せられました。 棘のとげが突き刺さって肉を破ります。その冠を被せられて、両手両足に太い釘を打ち込まれました。聖書はイエス・キリストには何の罪も無かったと断言しているのです。しかし、人間の罪は、この世で最も清いお方、罪の無いイエス・キリストを十字架に付けて殺してしまったのです。 しかし皆さん、イエス・キリストは想像を絶する極みの中で、イエス様の頭、顔、両手、両足を御血で真っ赤に染めながら、奇蹟のような祈りをなさいました。その極みの苦しみの中でイエス様は「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか判らないのです。」 ご自分を十字架につけた者たちを恨まずに、罵らずに。ある人が処刑されたその時に、その人たちに対して「私はお前達を呪い殺してやる。」と言って死んでいった人たちもいます。 ご自分を十字架につけた者たちを罵らず、むしろその人の為にとりなしの祈りをなさった主イエス・キリストです。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか判らないのです。」恨みが無い、罵りが無い。とりなしの祈りがそこに有る。極みの愛です。 実は、このイエス様の愛が全ての人を活かす愛なのです。イエス様のこの愛が全ての人を活かす愛なのです。イエス様のこの十字架の愛が全ての罪を許す愛なのです。私たちは罪に苛まれる必要が無い。このお方の愛に私たちが覆われる時に、私たちの罪を皆この方が引き受けてくださったからです。 このイエス様の愛に、生きる本当の喜びが有ります。あなたはこの朝、何を必要としていますか。あなたはこの朝神様に何を求められますか。痛みが有られるでしょうか。涙があるでしょうか。自分でどうすることも出来ない問題を抱えていらっしゃいますか。 極みの愛の原点から主イエス様はあなたの全てに応えてくださるお方です。皆さん、どうぞ、この事実を知っていただきたいのです。あなたは愛されているというこのことなのです。全ての人が愛されているのです。その事を知っていただきたいのです。 主イエス様は極みまで、最後まであなたを愛し続けておられるお方です。この愛が私たちを永遠のいのちに生かすのです。但しあなたが拒むものでいない限り。 イエス様は自由意志をとても尊重しておられる。無理やりには、どんなに愛をもって願っても、無理やり押し付けにはなさらないお方です。イエス様は真摯でいらっしゃる。極みの愛をあなたが極みまで拒みつづけないならば、その愛があなたを永遠に生かすいのちを与えてくださいます。 I姉妹のあかしの中で、手の届かない所にどんどん行ってしまう我が子に、母の愛がとどかなくなりました。行って欲しくないところにどんどん行ってしまう我が子。空しい日が続いたと話されました。もう、切なくって、悔しくって、辛くって、いろいろな感情が沸き起こってきて、ただ涙が出てくるばかりです。 「それが私の祈りでした。」という感動のあかしを聞きました。涙しか出てこない、言葉が出てこない。でも、あなたを極みまで愛して下さったこのI姉妹を、極みまで愛しつづけてくださった活ける主はこうおっしゃるのです。「わたしはあなたの涙を見た。わたしはあなたの忍耐も知っている。」 これがみ言葉です。これが主イエス・キリストご自身のお言葉です。神のお言葉です。あなたは我が子の為に、手が届かなくなったといって空しく悔しく切なく思っている。でも、「あなたが流すその涙、わたしはその涙を見ているよ。あなたの忍耐も知っているよ。」と言って下さるイエス様が、その涙を確かに見ておられた。 極みの愛の主に祈り訴える者の幸いがそこにあります。小さな祈りが大きな力になることを体験できましたとI姉妹はおっしゃいました。小さい祈り、時に言葉にならない祈り、その祈りが大きな力になることを体験しましたとおっしゃいました。 そして、その母の祈りの応えの時がきました。娘のI.Kさんはこう言われました。「どう生きてもいい。私の自由意志の中で私は神を選んだ。そして、それは本当に良かった。」と。何と素晴らしい爽やかな言葉でしょうか。 もう少し時間が頂けるようなので、自由意志について少しお話しをさせて頂きます。私はこれを読んで感動したのでありますが、アフリカで奴隷の売り買いが行われていた時に、一人のイギリスの紳士が今にも売られようとしている奴隷を目の前にしました。 競りにかけられているその奴隷に目を向けました。このイギリスの紳士は買い値のせりをどんどん上げていきました。最高の値段まで行きました。奴隷はその紳士を睨みつけていました。「こいつ、俺を高く買おうとしている。遠い外国に俺を連れて行こうとしている。遠い外国で俺をこき使うつもりか。」と言って、憎しみに満ちた目でこの紳士を睨みつけているのです。 奴隷は最高の値段で買い受けてくれたその紳士から思いがけない宣言を貰うのです。自由の宣言を受けたのです。「あなたは今このときから自由です。何処へでも行って自由に生きなさい。」「自由に生きるのです。もう自由です。」こう言いました。しかし、感動の涙の中で、その奴隷は心の底からひれ伏して言うのです。「私は自由を持って生涯あなたに仕えます。」 主は「わたしは、あなたの為に十字架にかかったから、或いはあなたにこういう事をしたから、あなたはこうしてくれるだろう。」といった代償を決して求めないお方です。 I.Kさんが話しておられたように「私たちにはいつも自由が有って、選択は私たちに与えられている。」と言っていました。その自由意志をもってI.Kさんは神を選んだ。その事を境に生き方が変えられました。人生が変えられました。 あなたもどうぞ、あなたの自由意志の中で、極みの愛であるイエス様を、極みの愛を持ってあなたを愛しつづけるこの神様を選んでいただきたいと思います。今朝の第1礼拝でこの愛を選び取った人がいました。 「主イエス・キリストの極みの愛の中に自分の人生を委ねていきたい、このイエス様と共に歩ませてもらいたい。私の今までの自分勝手な生き方を悔い改めて、イエス様の懐の中に飛び込みます。」そして主イエス様を信じて受け入れた姉妹が居られました。 朝の姉妹に続いて、今日のこの日があなたの人生の祝福の記念日となるようにと祈るものです。「私はイエス様の、この極みの愛を持ちたもうこのイエス様、この極みの愛の中に自分自身の生涯を委ねます。」と決心してイエス様を心にお迎えしたその姉妹は今日の日が人生の祝福の記念日となりました。今日の日を覚えて帰っていきました。 2003年5月11日、私はこのチャペルでイエス・キリストを受け入れました。聖書を買ってお帰りになりました。皆さん、主のお言葉をお聞きください。共に聞きましょう。 「わたしは限りない愛をもってあなたを愛している。わたしは限りない愛をもってあなたを愛している。」主のこの言葉が私たちの様々な心の壁を打ち破って、あなたの心の奥底に届きますように。 「わたしは限りない愛をもってあなたを愛している。」極みの愛です。主は、神は、イエス様はあなたを愛しておられます。このイエス様の愛を今日あなたのものとして頂きたいということを、そしてあなたの素晴らしい記念の日として頂きたいということを心から願わされるものです。 お祈りを致します。 そして素晴らしい記念の日として、今日から新しい人生を歩む事が出来ますように。今み前に居られるお一人ひとり、今日初めて来られたお一人ひとりにも、神よ、この愛をもって、どうぞそのみ胸に抱きしめて下さいますようにお願いします。素晴らしい平安がお一人ひとりに与えられますように。 尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン! |