| 2003年5月18日 主日礼拝式 “使徒の働き” 16章11〜15節 「“この街を福音で満たすK”」 “池田博牧師” 宣教メッセージ |
| 今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は 使徒の働きの16章、11節から15節
です。新約聖書の239ページになります。 “使徒”
聖書は以上であります。パウロと一行が、前回見ましたけれども、マケドニアの声を聞きました。幻の中に「マケドニアに渡ってきて私を助けてください。」という声を聞いて、一行は予定・計画を変更して、そして遠い遠いマケドニア、今日のヨーロッパに渡った、ということであります。距離にすれば500キロ、600キロはあるところに、旅をして、マケドニアに渡ったわけであります。 そして、マケドニアのネアポリスというところに着きました。そこから約15キロと言われるのでありますが、「ピリピという町に行った。」(16:12)とあり、このピリピという町は「マケドニア地方第一の町で」(16:12)とあります。パウロとしては、その地方をまず第一の町、大きな町に行くのが、伝道の仕方のようであります。 そのピリピの町に行って、そしてそこで伝道を開始しよう、ということであります。このピリピの町というのは、それ以前、BC(紀元前)356年とあるのですが、あの有名なアレキサンダー大王のお父さんにあたるピリポス2世が、その近くにある金鉱山において多くの金がとれるということで、そこに町を建てて、そして自分の名前をそこに付けた、という所であります。 そして、時を経て、ローマの時代になって、この町はローマの支配化に置かれて、ここにありますように植民都市になります。ローマから約半数の者がそこに移り住み、半数はギリシャ人、そして一部はユダヤ人が住んでいたという町で、通称都市でもあり、また軍事が盛んな都市でもある、ということであります。 マケドニア第一の町ということで、パウロたちはそこに行きました。そして町においては、いつもならばユダヤ人の会堂が建てられており、その会堂に集まった人々に福音を語る伝道をする、というのが、いつものパウロたちのやり方であったのです。 しかし、当然初めての町ですから、右も左もわからない所において、この大きなピリピの町に会堂がなく、「どこで礼拝したらいいのか?どこで祈ったらいいのだろうか?」ということで探して歩いたところ、川があって、その川岸に行った、ということであります。どこでもそうだと思いますが、川には川原があって、そういう静かな場所があったわけであります。 ようやくの思いで、場所を探したわけでありますが、考えてみますと、このパウロたちは、「マケドニアの声を聞いて来た」ということでありますから、「誰かご一行様」とのぼりをもって迎えてくれていいのかと思いますが、誰も「助けてください!」と駈け込んでくる人がいたわけでもなく、まして大勢が集まっていて、「ここに来てください!」ということでもないなかで、彼らはひっそりと川原で祈りと賛美を始めたのです。 そうすると、そこに数人の女たちがいた、とあるのです。数人の女たちがいたので、その人たちと一緒に礼拝を持つということになったわけであります。そして礼拝をしていく中で、神様はそこに働いてくださった、ということがわかってきます。 パウロとしては、心の片隅のどこかには、「これでいいのかな?」という思いがあったかもしれないのですが、でもそれ以上にパウロの心を満たしていたもの、パウロの心から溢れていたものは、イエス・キリストによって救いをいただいたその恵み、そしてこの素晴らしいイエス・キリストを伝えたいという溢れる喜びが、パウロを支配していました。 ですから、集まってくる人たちはわずかですが、そのわずかな女たちに向かって、パウロは語ったのです。そして語って行く中で、一人の人が心を開きました。それが、もう一度見てみますと、14節にあります。 “使徒”
特にこのルデアという人が心を開いたようで、また聖霊もこのルデアの心を開いてくださって、パウロの話を心にとめるようにされた、とこうあるわけなのです。素晴らしいと思います。 確かに一方で、マケドニアの声を聞いてやって来たのに、「こんなわずかな人で、これでいいのだろうか?」という思いもありながら、しかし一方で、パウロはその語るチャンスが与えられて、そこにおいて、溢れる愛、喜びをそこに伝えたわけであります。 15節に、今度はこういう展開になっていくのです。 “使徒”
という展開になっていきます。皆さん、これはよく考えていただき、「なんてこれは素晴らしいだろうか!」、「なんとなにかこう恵みに満ち溢れてるだろうか!」、と思いませんか? 初めて出会ったこのパウロという人を通して語られたメッセージに、ルデアは心を開いただけでなくして、「この方こそ、この方こそ、私の救い主だ。」と心から信じることができたようであります。 そして心から信じることができた時に、彼女は、「自分だけではもったいない。家族も救われるように。家族も一緒に洗礼を受けたい。」ということで、彼女は子供たちに熱心にそのことを伝えて、そして子供たちと一緒に洗礼を受けたようであります。 さらに、彼女はパウロにこう言うのです。「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか私の家に来てお泊まりください。」とこう言ってるのです。私は、「ルデアの心がどれほど捕えられていっただろうか?」とこう思うのです。語るメッセージもさることながら、そこに表されているイエス・キリストの愛が、どんなにこのルデアの心を捕えたでしょうか? 私はピリピ人への手紙を改めて読んだ時に、2章の6節以下が、改めてここに記されているというのは、「きっとパウロはこの言葉を中心に、ルデアを中心の数人の女たちに語ったであろうか?」とそんな風にも思いました。 “ピリピ”
「ルデアさん、皆さん、知ってください、聞いてください。私もかつてはキリスト教徒を迫害する者でしたけれども、でも十字架のキリスト、そして復活したキリストに私は出会いました。そしてこの方に出会った時に、私はそれまでの心、自分がどんなに罪深いかを知りました。そしてその十字架のキリストの言葉の中に、私はそれまでのなんと罪深い自分のドロドロの姿を見せられたでしょうか? でもキリストの祈り、『父よ、彼らを許してください』という祈りの中で、私は罪が洗われました!赦されました!愛を知りました!愛によって変えられました!ですから私は、『もうそれ以後の私の人生はこのキリストのために全部を捧げていこう、このキリストに全部を賭けよう』、そう信じて従ったのです。そうして私はアジアからここまで来たのです。 ルデアさん、知ってください。キリスト、この方が、神であられた方が、人の姿をとってこの地上に来てくださり、人の姿をとって来てくださっただけでなくして、あなたの罪、私の罪のために、十字架にまでかかってくださって、そして酷い苦しみの中から、『父よ、彼らを許してやってください。彼らの罪を私がこの身に受けますから、彼らを許してやってください。』という祈りを捧げました。 このような愛が、このような許しの愛がどこにあるでしょうか?その愛が私を変えました。その愛が今あなたの心に注がれているのです。」 ルデアは、そのことがわかりました。心の中に染み渡りました。ルデアの心は変えられました。 ルデア、この人は「テアテラ市の紫布の商人であった。」と書いてあります。この紫布の商人というのは、今でもそうでありますけれども、紫というのは王のしるしの色です。そしてこのテアテラ市は紫の染色工場があって、そしてそれが当時の王侯貴族、あるいは軍人、あるいはまたお金持ちがとてもそれを好んでいたということで、この商人はとてもそれでお金儲けもできたことであろう、という風にも思いますね。 ですからこのルデアという人は、もともとはテアテラ市に住んでいたのですが、このどうもピリピの町にも家がありました。まあセカンドハウスでしょうか?別荘でしょうか?ですからまあ、豊かでもあったのであろう、という風に思います。そして、まあ成功した商人でもあったのでありましょう。 でも彼女はこう言うのです。「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか私の家に来てお泊まりください。」彼女はパウロの献身の姿を見たでしょうか?パウロの熱いメッセージに触れられたでしょうか?キリストを愛する故に、彼の生涯がどんなに変えられているかを見た時に、その心は通じていきました。その心は彼女の心も変えていきました。 「パウロさん、私もあなたの献身のように主に従っていきたい。私があなたの目から見て忠実な僕(しもべ)とお思いでしたら、どうぞ私の家へ来てください。泊まってください。私はこれまでの人生、これまでの商売の全てを主に捧げていきたいのです。これからの人生は主とともに歩んでいきたいのです。私は変えられました。ですから従っていきたのです。私を良しとして受け入れてくださるならば、どうぞ私の家に来てください。」 マケドニアの声を聞いて来たパウロたちでした。そこに、どんな大きなうねりのような招きがあっただろうかと思ったのですが、現実は数人の女でしかなく、救われたのはたった一人でしかなかったのです。 でもそのたった一人のこのルデア。そのルデアの心がしっかりと捕らえられ、変えられていったときに、やがてそれはピリピの教会の母体となっていきます。中心となっていきます。一人の人が変えられるとは、なんて素晴らしいことでしょうか! 皆さん、私たちは今こうして、本郷台の教会がこのような祝福の中に置かれております。でもスタートは、森昇兄弟というたった一人の兄弟の献身から始まったのです。 ご存知のように兄弟は、最初生田に住んでいて、大学の研究室に勤めていました。そこへ若い研究員が入ってきて、彼は熱心なクリスチャンでした。そしてしきりに、「森さん、教会に行きませんか?」と誘われて、「まあしかたなく、一度行ってみるか。」ということで誘われて行きました。それが生田丘の上教会でありました。 そして、そこで一人の宣教師と出会うことになっていきました。その宣教師の生き様、その宣教師の献身、その宣教師のキリストを愛する情熱に、兄弟は捕えられ、兄弟は変えられ、兄弟自身が主に出会っていきます。 そして兄弟はやがて結婚して、郷里に戻って、建てたその家で、すぐにその宣教師を招いて家庭集会を始めました。そしてやがて、「どうしても宣教師を送ってほしい。」ということから、宣教師が送られてまいりました。ご存知のあのエッテル先生ご夫妻、ご家族でありました。そこからスタートして、3年後に私がここに来るようになってきましたけれども、そして本郷台キリスト教会の母体が作られていきました。 一人の人の献身です。一人の人の主への熱い思いは、その人の人生を変えていき、家族、近隣の人々、その地域を変えていきます。皆さんの一人一人の主を愛する愛が、主に変えられたその愛が、どれほどの祝福となっていくことでしょうか。主はそれを愛でくださいますね。あなたの献身をどんなに喜んでくださるでしょうか。 考えてみるとパウロも、マケドニアに行くにあたって、「どんなにか、そこに躊躇もあっただろうか?」と思います。皆さん、私たちの人生も、「こうありたいと思った。ビジョンを持った。計画をした。でもなかなかそうならない。」ということがあるでしょう。願ったようにならない自分の挫折もあるでしょうし、「イエス様を信じて、従って、歩いてきている。でも現実はなかなか変わらないじゃないですか?問題ばかりじゃないですか?なんでこんなに挫折があるでしょうか?」というようなこともあろうかと思うのです。 でも、パウロもそうでした。「どうしてマケドニアまで来て、『こうなのだろう?』」というところもあったと思いますが、でもまた一方で、「もっと大切なことは従うこと、委ねること、期待することであり、そこに委ねた時に、一人の人の救いがやがてどんなに素晴らしい祝福になっていったことか、そのことを見ていくのです。 そしてもう少し先を見ていきますと、大きな壁にぶち当たっていくのです。16節以下を見て参りますと、こうあるのです。 “使徒”
パウロの一行は、礼拝する場所がないために、どうも安息日毎にその川岸に行って礼拝を守っていたようであります。水曜日の祈祷会もしていたかもしれず、毎日の祈りもそこに行っていたかもしれないのですが、いつもそこを行き来しているものですから、一人の人の目に留まりました。それが占いの霊に憑かれた若い女奴隷であったということであります。 いろいろな人に捕まるのですけれども、パウロたちにしてみると、「こういう人か?」という感じでありますけれども、その占いの霊に憑かれた女奴隷が、すごいことを言っているのです。パウロたちの後をついて来ては、こう言うのです。「この人たちはいと高き神の僕たちで、救いの道をあなたがたに述べ伝えている人たちです。」と宣伝してくれているわけです。なんかカッコいいことを言ってくれているわけでありますけれども、でも「幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、」(16:18)と書いてあります ですから、「なんかいいことを言ってるのに…」と思ったりするのですが、でも一番困ったのは、悪霊、占いの霊に憑かれた人が言ってるのですから、パウロたちが伝えている神様が誰であるかが、分かっていないのです。 ただ言葉としては、「いと高き神のしもべたちで」と表現していますから、かっこいいことを言ってくれてはいるのですが、でもその実はそれが誰であるか分からないで言っていることに対して、パウロたちは困り果てました。 そしてパウロは、18節を見ますとこう言うのです。 “使徒”
とこう命じたとあるのです。パウロは権威と力を持っていましたけれども、そう命じたらなんと即座にその霊が出て行き、そして、その女の人は正気に返ってしまった、ということです。 そのことは良かったのですが、でも一方でその占いの霊に憑かれていたからこそ儲けていた人たちがいたわけなのです。その儲けていた人たちが、今度は女の人が正気に返ったために儲けられなくなってしまったので、何とこのパウロたちを捕らえて、そして長官たちに引き渡して、こう言うのです。 “使徒”
と訴えられてしまいました。そして長官たちも、あるいは裏金を掴まされたのか、何か分かりませんけれども、「それは、とんでもないことだ。」と言って、そしてパウロとシラスを捕まえて、着物を剥いで鞭で打つように命じ、何度も鞭で打たせて、すごい事態になってしまいました。 鞭打たれて、肉が剥がれ、血が流されていくなかで、その二人は、今度は牢にぶちこまれてしまいました。そして、牢も奥の奥、最も奥深い所、じめじめした所に放り込まれてしまいました。 そこに足枷をかけられたパウロとシラスは、これまたすごい展開になってしまった、と思います。ルデアのことで光が差してきたのですが、でも今度は、捕らえられてしまって、鞭打たれてしまって、牢獄に閉じ込められてしまいました。 「マケドニアの声を聞いて来た結末がこれか?」彼らにとっては、何というか、納得のいかない、理不尽なそんな思いが心を支配しても当然な状況である、と思いますね。体はヒリヒリ痛みながら、「どうして、こんなところでこんな惨めな思いをしていなきゃいけないのか?腹が立ってくる!」とそれも当然と思いますね。 でも、そのパウロとシラスはどうであったかというと、25節を見ますと、 “使徒”
背中の肉が裂けて血が流れて、足枷がかけられているパウロとシラスが、何とそのじめじめした牢獄の一番深い所で、讃美を捧げ、祈りをしていた、というのです。 「よくぞそこまでの心境になれたものだ。」と思うのでありますけれども、でも皆さん、「キリストの愛に捕らえられる。キリストに従っていく歩みってすごいことだ。」と、パウロたちも自分で自分のことを驚いているのじゃないでしょうか? 体はヒリヒリ痛むのですが、それ以上に、困難な中にあっても変わらないキリストの愛が自分の心を支配している、というその現実に驚きながら、「主よ感謝します。こんな中にあっても私の心は変わらないでいられるのです。痛みの中にあっても、何かうれしくてたまらないのです。」と、そういう讃美、そういう告白があったでしょうか? それを見ていた周りの囚人たちが今度は捉えられていくのです。すると何か思いがけない地震が起きました。しかも大地震が起こって、そして獄舎の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、しかも皆の鎖が解けてしまいました。阪神大震災並の大地震がきたでしょうか?マグニチュード7.5以上の地震でしょうか?土台が崩れ、扉が開き、鎖までも解けてしまったとのことです。ですから、みんな囚人たちはたちまち逃げていってもいい、そういう状況になったのです。 目を覚ました看守は、びっくり仰天しました。「扉が開いただけでなく、囚人たちはもう鎖が解けたから、みんな逃げてしまっただろう。」電気も何も暗くてわからなかったのかもしれませんですね。 そして何と自害して死のうとしたわけでありますが、するとパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちは皆ここにいる。」と叫びました。暗闇の中で、張りのある声が聞こえました。その声の前に、この看守は驚いて、そしてぬかずいてしまうのでありますが、「誰一人囚人は逃げていない。」とこう言ったです。不思議です。 そしてその不思議な光景を見た看守は、今度はその姿を見て、「先生がた、救われるためには何をしなければなりませんか?」と言いました。するとパウロとシラスは「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」こう声をかけるわけですね。そしてやがてこの看守は、家族揃って洗礼を受けていきました。 皆さん、何か思いがけないと言いましょうか、本当に驚天動地の出来事の中で、「何ということが起こったのであろうか?」ということでありますね。牢獄、囚人たちがいるその集団、屋敷の中で、みんなが主イエスを信じる告白をして、そして洗礼式がそこに成される、ということであります。 誰もが、誰もが考えもしなかったことがそこに起きました。パウロたちがマケドニアの声を聞いて、そこに行った中で展開したことは、彼らの思惑ではなく、彼らの計画ではありませんでした。 神様が、人間的にはどうにもならない、その窮地に追い込まれたのでしょうか?予期しないことでしょうか?願わないことが起こったでしょうか?でも、そこにも神様に信頼していった時に、そこから何という門が開かれたでしょうか!不思議ですね。 人生のどん詰まり、行き詰まり、病に倒れ、苦しみの中に追い込まれる、もうにっちもさっちもいかない、どうしようもないという中にあって、「でも主よ、あなたは愛なる方です。あなたは無から有を作り出せるお方です。あなたにできないことはないのです。あなたを知ったことはなんと幸いでしょう。あなたに信頼できるということはなんと幸いでしょう。あなたのみ手に全てを、全てをお委ねします。」その告白の中で、主は何ということをしてくださったでありましょうか! このようにして一つの教会が誕生し、一つの教会が成長していくのであります。やがてパウロは、コリントの教会に書いた手紙の中にこういうことを書いてるのです。それはこのピリピの教会のことを言っています。 “コリントU”
ピリピの教会がどのような教会として成長したか、形作られていったか、その一端がここに出ておるわけでありますけれども、そこに救われた人たちの一人一人が、人生の危機の中から、どん底の中から、思いがけない事態の中から救われていった人たちが、メンバーの一人一人でした。ですから、「このようなことが起こり得たのかな?」と思います。 ですから私たちの人生に、困難に直面すること、思いがけない事態に直面する時、でもそれは決して、そこから私たちは、その先は闇しかない、絶望しかない、さらに死しかない、というようなことではありません。 どんな人間的な絶望の中にあっても、いやむしろそういった絶望しかないという中からこそ、その死を蹴破ってくださった、よみがえってくださったイエス・キリストが、私たちに復活の希望、私たちに永遠への希望を与えてくださるのです。 それを確信することができる時に、私たちはまずその置かれた状況を主の前に受容することができるように変えられていくのであります。そして受容できた時に、受け入れることができた時に、そこから変えられます。あなた自身の心が、あなた自身の考え方が、生き方が変えられていくのです。 変えられたその前には道が開かれます。道が開かれるとき、その道を通して、あなたの家族に、あなたの周りの人々に祝福が流れていきます。主はそのようにして私たちに、私たちの前に絶望がないことを示してくださいます。 マケドニアの声を聞いた、それに従ったパウロたちを通して開かれていく、その危機からの祝福への道は、私たちに、「希望のない、失望は何一つない。苦しみ、絶望は決してない。」ということを示してくださっています。その主を、今日、また新しくしっかりと心に刻んでいきたいのであります。 お祈りを致します。 天のお父様、今日またこのようにして私たちにあなたは、パウロたちを通して、何よりもイエス様ご自身が示してくださり、切り開いてくださいました復活の希望の中に備えられた、約束されたものの素晴らしさをお示しくださって、感謝します。お一人お一人のうちにあなたが行き届いてください。 尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン! |