| 2003年5月25日 主日礼拝式 “ピリピ” 2章5〜11節 「“イエス様の成功の秘訣!”」 “高 基弘牧師” 宣教メッセージ |
| 今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は ピリピ人への手紙2章5節から11節 です。新約聖書の352ページになります。 “ピリピ”
はい、聖書は以上です。今日はこの処から高先生に「イエス様の成功の秘訣!」と言う題でメッセージを取り次いで頂きます。 高先生の平康キリスト教会は世界に15人の宣教師を送り出しています。そして、その中の張先生は第1号の宣教師として日本に遣わされて来て居られます。その張先生が通訳をして下さいます。私たちの教会にとって、張先生は何度も来て下さって様々な奉仕をして頂いて感謝しています。それではお二人を拍手を持ってお迎えいたしましょう。 本当に尊敬する方々に出会い、共に礼拝を奉げる特権が与えられ光栄に存じます。私は張牧師の働きの応援の為に10年間毎年日本に来て奉仕させていただきました。日本に10年間通いながら、韓国の教会に1回も行った事がありません。小さくても大きくても日本の教会を訪問して、礼拝を奉げてきました。 ある程度、日本の牧師達や信徒達と出遭ったので雰囲気は判っています。しかしながら、皆さんの担任牧師池田先生とは4月に初めてソウルで出遭いました。10分間の会話を交わしただけで「この方は日本人らしくない。特別な方だ。」と思いました。韓国の牧師のように感じたのです。私と似ているところが結構ありました。 祈りに熱心で、肯定的で、積極的で牧会なさっている先生のあかしを聞きながら「日本の将来は明るい。私ももっと頑張ろう。」という恵みが注がれました。私の教会でメッセージを語って下さいましたが、そのみ言葉がどんなに神様を愛し、教会を愛し、特に信徒達を愛し養っていらっしゃるか、神の御心を忠実に成し遂げていかれる様子で私どもは皆祝福されました。 毎年日本に来るから、この度は必ず先生の教会に行って信徒達とその様子を確認したかったのです。この教会の周りを2週回って、隅々まで見てきました。今日一緒に食べる食堂の中も全部見てきました。横にある非常階段も見てきました。本当に嬉しかったです。皆さん、本当にお祝い申上げます。 神様が喜ばれている教会の様子。日本は国は非常に富んでいるけれど、個人個人はゆとりの無い生活だと思います。この教会はそれを全部爆発させて「そうではない。」というあかしを見せているようです。 神様はあるところに制限される方ではありません。いつでも地境を広げなさいとおっしゃるのです。私は皆さんのこの教会が本当にうらやましいです。私の土地は狭いのです。教会が狭いものですから、ダウンタウンから一番近いところの山奥のにある5000坪を契約し、そこにキドインを建設中です。完成されましたら、必ず池田先生がいらっしゃって、集会を持ち、この恵みを韓国人に伝えてくださいますようにお願いします。 今日はピリピ2章からのみ言葉を取り上げて、主が成功なさった理由をわきまえ、私たちの人生も成功に導かれるように学んでいきたいと思います。 イエス様こそ本当に成功した人だと信じる人は「アーメン。」と応えてください。実は彼はお金持ちではありませんでした。就職をした経験もありません。金を儲けた事もありません。学校に通ったという記録もありません。本を書いたこともありません。しかしながら成功した人物です。 神様が彼を高く上げて、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもの全てが膝をかがめ、その名を褒め称えたと書いてあります。そして全ての人が「イエス・キリストが主である。」と告白して、父なる神に栄光をあらわしたと書いてあります。 彼のように成功した人物は外にいません。笑い話を1つ紹介します。韓国には占い師が結構多いのです。ある病んでいる人が占い師に「どうすれば癒されるか。」と聞いたら、その占い師が「あなたはどうしても癒されないから、教会に行ってイエス様を信じれば癒されます。」と伝えたそうです。その話を聞いて私は占い師に対して感謝を表すことが良いのか悪いのか戸惑いました。 占い師たちも「あなたは占い師のようになっているよ。」と言われたら気持悪くなります。「あなたは悪魔のしもべではないか。」と言われたら憤ります。悪魔の奴隷達もイエス様が立派である事を皆知っています。天にある全てのお使いさん達も、地にある全ての悪魔達も主の前に跪き主イエス・キリストと告白するようになるんだと書いてあります。 イエスのお弟子達はどうでしたか。弟子達も成功した道を歩んで参りました。ローマのバチカンの礼拝堂に行けばペテロの銅像が建っています。82年度に私がそこを訪ねた時は足の親指の部分が無くなっていましたが、去年行ってみたら、足の指3つが無くなっていました。驚いてよく見てみましたら、たくさんの巡礼客たちが触ったりキッスしたりして、その3つの足が無くなったのでした。 彼もあまり勉強しなかった人です。イエス様が召される時にペテロに10円も残さなかったのです。1部屋を貸してあげたこともありません。就職を紹介した事もありません。たくさんの心配事のみを伝えて帰ったのです。しかしながら彼らは皆成功の道を歩みました。 その秘訣は何でしょうか。この秘訣は5節に書かれています。「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」ここに秘訣があります。 皆さん、此処の説明は謙遜に対する教えであります。私は外国語をよく喋らないけれども、全世界を回ってみました。やはり世界で一番礼儀正しく親切に生きる国民は日本人であることが判ります。日本人にとって一番の美徳は他人に迷惑をかけないという良さがあります。 感謝の表現、謝りの表現も一番優れた国ではないでしょうか。日本人と出会ったら挨拶を何回も交わさなくてはならず、いつも戸惑っています。何度も何度もお辞儀をします。 本当に良い文化であり徳だと思います。これは謙遜のあらわれの1つです。この謙遜を嫌っている人は一人もいません。もし謙遜を嫌ったらそれは傲慢な人です。自分だけが優れたと思ったりします。そんな人は社会生活に対応出来ません。 イエス様は本当に謙遜な人でありました。私は前に1回混乱した事がありました。イエス様は本当に謙遜な人でありますが、謙遜な姿を表わした事はほとんどありません。謙遜の現れと本ものの謙遜は違う事があります。イエス様が「ありがとうございます。」と感謝を表したことはありません。「全てがあなたのおかげです。」との挨拶は一度もなさいませんでした。 「私はいたらぬ者です。申し訳ありません。」ともおっしゃった事はありません。ただし、驚くべき表現があります。マタイ11章28節は皆さんご存知と思います。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」これは真理であり、正しいみ言葉です。 次の表現を見ますと「わたしは心優しく、へりくだっているから、」とあります。皆さん、もし私が「私は本当にへりくだっている人です。」と言ったら、皆さんは笑うでしょう。しかし、イエス様はいつも「わたしはへりくだっているのだから」と言います。 ここよりも遥かにおっしゃるのです。「わたしは謙遜な方だから、皆来て学びなさい。」と。我々の考える謙遜とは合わないところです。「わたしは謙遜な方だから、皆来て学びなさい。そしたら、あなた方に全き安らぎをあげます。」と。 私はこれを読みながら、難しい疑問を感じ、これが何の意味か深く研究し始めました。最近外国人も日本人の謙遜さを見習って、礼儀正しくやろうと努力しています。でも心は日本人のようにはならないのです。 「お陰様です。(でも、あなたは何の助になったのか。)」「至らないものです。(しかし、あなたよりは優れています。)」後半分が心から思うところです。最近は自分の誇りをたくさん喋るのが、もっと純粋な人だと思うぐらいです。 それでは、正しい主の謙遜さ、主の心は何であるでしょうか。主が成功して、私達も成功される道である謙遜とはどんな意味があるでしょうか。先ず伴う事なのです。謙遜とは伴われる心なのです。 6節、7節を見ますと「キリストは神のみ姿であられるお方なのに、神のあり方を捨てる事が出来ないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとった。」とあります。ご自分の姿を捨て、我々のレベルと同じようになられたのです。それが本当の謙遜なのです。 ローマ書はキリスト教の教令書です。ご存知のようにローマ書は11章まで人間の罪に対して、罪悪論、救援論そして神の摂理について語っています。そして12章からは主が我々の主になったところから、どのように生きればふさわしい生活が出来るかを示しております。 先ず、神様との関係を預言していますが、「あなた方はこの世を見習わないで、神に受け入れられる清い生きた供え物として自分をささげなさい。」というところから始まります。神に対してはこのように、しかし、教会に対しては、信徒達を自分より優れた者として認め、仕える者になりなさいと書いてあります。 もっと信徒の間の関係の良さが書かれているのです。簡単に説明しています。主は謙遜な姿です。喜ぶものと共に喜び、泣く者と共に泣きなさいと言う事です。伴う心を教えていらっしゃいます。 皆様、私達が神との関係を持ち始めるのは、我々が神の座に上がることを求めていく事ではなく、神様が我等のレベルに低くなさり、来られて、遭って下さる事から始まります。外の宗教は皆人間が努力して、神の座に上がるべく必死に努力していますが、キリスト教だけは神様が低い私のありのままのレベルに来られる臨在のところから始まります。 皆さん、経験されたと思いますが、周りで不思議と子供さえも神様に愛されて、神様との出会いが出来る恵みを見る事が出来ます。字を読めないおじいさんおばあさんも神様に愛されて、神様と生き生きとした人生を歩む事も見られるのです。 安楽な生活の中で暮らす事より、苦しい環境でありながらも、もっと輝いている、もっと喜んで生きる信徒達がいるわけなのです。どうしてこれが可能なのでしょうか。神様がその人の座に訪ねていかれたからであります。 子供の水準に行かれたからであります。おじいさんの水準のところに行かれたからであります。その痛まれている場に行かれたからであります。悲しむ人のところにいらっしゃるからです。 謙遜と言う意味はレベルでみて水平という意味なのです。建築関係者はいつも水平を持って働きます。あちらこちらの柱の上に必ず水平を保ちながら建て上げるのです。神様が私のレベルにこられた事から、私達の神様との出会いがなされるわけです。 不思議に、2番目はこのような立場から、利益が、祝福が保たれます。韓国のことわざで「悲しみは分かち合うと半分になり、喜びは分かち合うと2倍、3倍になる。」という表現があります。 人との間の心の分かち合いも、このような利益があるのに、神様との交わり合いはもっと利益が保たれるわけです。皆さん、主がこの世に来られてたくさんの奇蹟を見せてくださいました。われ等は驚くものだと言いますが、主のレベルではこれは奇蹟ではありません。神様は神様自体の良い業をそのまま見せただけなのです。 主はパリサイ人達がたくさんなしるしを求めた時には見せなかったのです。見せ掛けのしるしは顕さなかったのです。愛されるものに対して、その人の為に伴って祝福を与えたのです。そのしるしの内容は壊れたものをやり直してあげる程度でした。 そのしるし自体が彼を金持ちにしたのではありません。一時的な祝福が永遠に続く祝福ではありませんでした。嵐の中で恐れ怖がっている弟子たちにこう安らぎを与えたのです。定常の環境になるわけです。 5つのパン、2匹の魚の奇蹟はもっと優れた奇蹟なのです。それはイエス様の心が顕れた事態なのです。人々がそのまま家に帰ると皆餓え乾いていて倒れそうな感じだから、可愛そうに思われて只愛を示しただけなのです。 1食だけ一緒に食べたのです。全てのしるしは伴った人への愛の業です。あの死んだナザロを生き返らせ、そのあと2人死んだ人を生き返らせる奇蹟があります。若い青年と美しい少女であります。彼らが生き返って200年、300年住んでいたという記録はありません。 生き返られた後に正常的な人生を歩んで又召されたと思います。全ての主の奇蹟の根本的な心は病んでいる人と伴っていきたい、それを平常に戻してあげたい、その愛の心だけでした。このように神様が伴われる時には必ずわれ等に利益が伴われます。 これからは皆さんも主と伴う人生を歩むんだということを熱く知っていただきたいと思います。神様のわれ等に対する態度は愛なのです。神様の我々に対して愛を示すレベルはどのくらいでしょうか。聖書を見ますと同情とか哀れみとかという表現をしています。 へブル書を見ますと、イエス様はいつも哀れみと同情を顕すお方として示しています。シンパテサイというギリシャ語は神経に繋がって共に感じるという意味です。あるところが痛んだら全身が痛くなるのです。 肉体だけのつながりの痛みではなくして、心と繋がっている痛みなのです。皆さん、子供が病んで高熱を出した場合、どんな心になるでしょうか。親の立場は肉体の痛みは無いけれど心の痛みは大きいのです。これは子供とお母さんが連結されているからであります。 親達は皆「子供が癒され、その痛みが自分に負わされたらいい。」という心も持っています。主が愛する程度はこのような憐れみ深さであります。ヨハネの3章16節を皆さんご存知でしょう。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」 ここでひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。このように。ニコデモがイエス様を訪ねて交わす話しの1部分なのです。先ず生まれ変わらなくてはいけない。何の意味か判らなかったのです。あのイエス様はおっしゃいました。「モーゼが荒野で蛇をあげたように人の子もまたあげられなければなりません。」 荒野で不信仰のイスラエルの民、マムシが噛んで氏の危機になった時に、モーゼはこのように祈りました。「民が罰せられるより、私が罰を受けるようにして下さい。」神様はその蛇を作って高く上げなさいとおっしゃいました。その蛇を見上げた人たちは皆生き返りました。その荒野の毒マムシは彼らを苦労させなかったのです。 その木に架けられた蛇はイエス・キリストを意味します。イエス様が我々の替わりに十字架で死なれるように、私もそのように木に架けられるのだ。これが神様が私達を愛した証拠なのです。 愛というのは、いろんな感情で表されますが、愛する事から嬉しくなるのです。幸いになるのです。そして恋しくなるのです。愛するから悲しくなる場合もあります。苦しくて、愛することだけで憎むようになります。妬みも愛するから出る場合もあります。 此処に出ている「この世を愛された。」というのは、悲しい愛なのです。愛する世の人びとが皆逆らって滅びの道を走り、この世の罪の悪魔の奴隷の状態になっていることを悲しんでいる神様の心が表されます。 神様のこの悲しみ、苦しみは何時終わるのでしょうか。その相手の病、問題が解決され、完全に回復されるまで続けられるわけです。唯一の方法はイエス様が我々の替わりに全ての罪を負うしかありません。聖書はそれを**したと書いてあります。替わりに担ったということです。 主が皆さんをこのように愛されていらっしゃるのです。信じるなら「アーメン」と言いましょう。 ピリピ1章6節がピリピのキーです。「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」 主は私達の為に今も良い働きをなさっていらっしゃる事を知っていただきたいと思います。私は28年間同じ教会で牧会してきました。熱心に信徒達を養って教えてきましたが、信徒達の心が神様の心と違った面があるのが判りました。 知識の問題ではなくして、情緒的な問題です。人々は皆救いに関心が集まっています。勿論救いは大切なものです。地獄から引き出されたからです。神様の裁きから引き上げられましたから。勿論救いはそのようなものですから大切なものです。 しかしながら、神様は救いよりももっと別のところに関心があります。。「あなたはわたしの子となった」ということに関心があるのです。救われる事は神の子となる産みの苦しみの1段階に過ぎない。我々は救われる事のために何もやった事は無いのです。それは賜物、プレゼントを受けた事によるのです。 イエス様がこの世に来られ、我々の替わりに全ての罪科を背負って死なれ、そして甦られ、み霊を送って下された、これはイエス様のプレゼント、神様の賜物に過ぎません。この救いは神様の業であり、神様の賜物であり、これからは神様の子供になった、親子関係に神様はもっと関心があるわけなのです。 私は男だから生みの苦しみを経験したことはありません。子供を産んだお母さん達に聞いてみましょう。子供を見るたびに産みの苦しみだけが湧いてきて痛くなるのですか。私の家内も1度生んだ後に「二度と生まない。」と言ったことがあります。2年後には又生むのです。「生まないと言ったじゃないか。」「最初の子を見た後は、もうひとり欲しくてしようが無かった。」と言いました。もう、産みの苦しみを既に忘れたわけです。その子供が大切なのです。 主が我等の救いの為に成し遂げられた救いの業は驚くばかりのことです。イエス様は生まれる時もわれ等より卑しいところ、あの馬小屋で生まれたわけです。飼葉桶に、衣服も用意されていなかったから、一般の衣に包まれたわけです。家畜小屋で生まれた、その時天の高いところには神の栄光あれ、そんな卑しいところに生まれたのに、天使達は神に栄光あれと歌うのです。 イエス様の為に神様が栄光を受けたところは只2箇所あります。主の最後の処を見てみましょう。十字架の上で「出来るならこの杯を取り除けて欲しい。」と祈ります。神様がイエス様に応えてくださったのです。「もう既に栄光を受け取った。これからも栄光を受けるのだ。」とおっしゃるのです。 イエス・キリストが卑しいところに生まれ、十字架を通して我々を贖ってくださるその業に於いて地獄から、悪魔の奴隷からわれ等を引き上げて、神の子とされる、その業に対して、天使達は「栄光あれ.栄光あれ。」と賛美するわけです。 私は神に対して犠牲は表現しません。イエス様も我々の為に犠牲を払ったという表現はありません。十字架の犠牲を払ったにもかかわらず。何故ならばイエス様はこの犠牲をすぐ忘れるからです。愛している子供に対してそれを乗り越えるのです。 愛しないまま犠牲を払う事は可能です。愛のレベルはどれくらい犠牲を払うかによって比べられます。皆さん、子供の為に迫害を受けた事がありますか。「子供の為に迫害を受けた事などないよ。」と言って皆笑うのです。 「子供の為にたくさん犠牲を払ったのですか。」と聞くと、「少しだけで、あまり犠牲を払った事は無いよ。」と答えます。「そしたら、子供は親がやったように、十分の一くらいは恩返ししたか。」「全然そんな事はしなかった。」 聖書に無い教訓が1つあります。父母達に「子供を愛しなさい。」という表現はありません。もう本能として、父母には全部与えてあげたから。父母は子供の為に犠牲を払いながらも、犠牲感を感じないのです。只愛しているからです。 神様はそのように私達を愛されています。神様がそのように皆さんを愛している事を信じましょう。実感してください。そして皆さんにこれからもっと主を愛するようになっていただきたいと思います。 勿論主がわれ等を愛される事、われ等が主を愛する事は表現が違うのです。質が全く違うから表現できませんが、私なりに出来る限り愛を示せばいいのです。 韓国の教会史の中で有名な一人の先輩殉教者がございます。南北動乱の時の事です。牧師先生の二人の子供を共産主義者が銃で殺しました。その殺した犯人が捕まえられ処刑される直前にその牧師はその人を救って下さいました。自分の養子とさせたのです。その養子となった人は今も牧会者の道を歩んでいます。 それが人間の努力によるものでしょうか。それは努力して生まれるものではありません。湧いてくるものです。見せ掛けや真似は出来ますが、本来の愛はもっと奥から湧いてくるものです。皆さん、たまに会う人には愛を示す事が出来ても、毎日出会う人にはどのように心をこめて愛せるでしょうか。毎日会う人にこのように愛を示せるでしょうか。 孫牧師はいつも右手を空けて歩いたそうです。何故なら、主がいつも自分の手を取っていらっしゃるから。いつも左手に荷物を持っていたそうです。冬も右手には手袋をしませんでした。手袋をつけた手をイエス様に握られたら感触が柔らかくないからです。彼は神秘主義者であるのでしょうか。孫牧師は主の臨在をそのように感じていました。 神様が我々の水準の処まで来られ、私と伴われたように、私も神様の臨在の処に寄り添っていきたい。皆さん、神様に対して片思いを持たないようにして下さい。片思いは苦しい事です。道が見えず兎に角疲れるものです。愛というのは伴う時にもっと浄化され、もっと満ち溢れるものなのです。 皆さんのように主を愛する信徒がいれば、日本の未来は明るいです。私は池田先生が神様の臨在の前に跪いて祈る方である事が判りました。義務的にはそれは出来ない事です。神様の臨在をいつも経験なさるから出来るのです。皆さんがこのように祈り運動に深くかかわっているのを聞いて嬉しくてたまりません。 私も主の心を抱こうと思ってたくさん努力して参りました。私のパスポートの中にはサインがありますが、私のサインはインマニエルだそうです。神様は私と伴う、どの国に行っても神様に伴われるということです。 そしたら、私のやる仕事は何があるか。私は恵まれた後は、朝早く起き上がったら必ずこう口ずさむのです。「目覚めた瞬間から先ず主と出会いたい。世の人々の仕事が私によせて来るのを拒みたい。」 もう私の意識とは関係なく、目覚めたら世のものが全部入ってくるのです。今日はこの仕事がある、この約束がある、こんなものが残っている。どうしようか。いろんな思い煩いが入ってくるのです。 孫先生が右手を空けて歩いたなら、私は別の事をしたい。意識が戻る時「主よ愛します。」と告白する事です。感情も湧いてこないのです。でも、眠気があるから愛する気持が湧いてこないのです。しかし、不思議なのは「主よ愛します。」といい始めたら、しばらく後に心が熱くなるのです。 その時から、祈り始めたら***に導かれる祈りが始まるのです。毎日はそのように出来ません。目が覚めて「主よ愛します。しかし、眠いのでもっと寝ます。」そんな日も結構あります。皆さん、神様と伴う人生をお願いします。神様が愛されております。皆さんの担任牧師が神様と伴う働き人であるように、皆さんも神様と伴う人になっていただきたいと思います。 手を合わせてお祈りしましょう。私は何処にいても、私なりの祈り方が有ります。私はみ言葉を述べ伝える使命を持っている牧師です。私はみ言葉を語りました。皆さんはそのみ言葉を受け止めました。皆さんのお祈りを代わりに他の牧師がやるようにはしないほうがいいです。牧師だけが祝福されたら、皆さんに祝福がいかないわけです。 皆さんが主に直接祈られると、主が皆さんに応えてくださり、親密な答えを常に与えてくださいます。皆さんを愛しておられる主に、皆さんの愛の告白を表し、一緒に祈りたいと思います。 お祈りを致しましょう。 インマヌエルの信仰、主よ愛します。私も信頼する愛の反応がもっと深まり、高くなりますよう心を熱くさせてください。主の愛に感謝します。 尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン! |