| 2003年6月15日 主日礼拝式 “ ルカ11章1〜2節” 「“アバ父と呼べる恵み”」 “池田博 主任牧師” 宣教メッセージ |
| 今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は ルカの福音書11章1節から2節
です。新約聖書の123ページになります。 “ルカ”
聖書は以上です。これは、先程も一緒に祈りましたが、「主の祈り」をイエス様が教えてくださっている場面で、その原型になっている、と言われるところでありますが、今日はその最初の「父よ」というところに、後で目をとめたいと思います。 今日は、「父の日」ということでありますけれども、週報の中にワンポイントの文章が書いてあるのですが、ちょっとそこを読ませていただきます。 子供にとって、「お父さん、お父ちゃん」と呼べる親がいるということは当たり前なのですが、しかし素晴らしい恵みであります。ある子供はお父さんと呼べる父親がいません。ある子供は父がいても呼べない関係になってしまっています。父親の存在が恐怖に感じられたり、父親とは名ばかりで交わりがほとんどなかったりするからです。 子供にとって当然あるはずの父親との健全な関係がないとき、どんなに辛く悲しく厳しい現実になることでしょうか?しかし、「イエス様は私たちに本当の父、愛の父、裏切らない父を紹介してくださったのです。」と書いてあります。 振り返ってみると、私も父がいて、「ああ、幸いだった。」と思います。教会のおじいちゃんとしても、ちょっと以前の方は知っててくれています。よく、「父親の背中を見る」、「おやじの背中」とこう言ったりします。 うちの父親は農家の生まれで、小さい時は次男坊で、そして貧しかったので、いわば昔の時代で小僧に出される、というようなことでありました。丁稚(でっち)小僧に出されて、そういうところから育ってきました。 ですから、貧しさとか辛さというのを、しっかり身についてしまったというのでしょうか?私が戦後、田舎に疎開して、本当に貧しい生活の中で、父親は朝早く起きて、そして一斗(いっと)缶というのがありまして、あの一斗缶を自転車の後ろにつけて、それで小1時間あちこち歩いてくるんです。 何をしてくるかと言うと、あまりきれいな話じゃないのですが、馬糞(ばふん)を拾ってくるのです。拾ってきたその馬糞を、裏庭に溜めて、そしてそれを肥料にしました。我が家は田舎に疎開したものですから、飛行場から2〜3キロ離れたところにありまして、そこを開墾して畑を作っていて、荷車でその肥料を運んで、作物を作るという生活でありました。小学生の私にとって辛かったというか、何か恥ずかしかったでした。 でも振り返ってみると、一生懸命生きているその父の生き方、なりふり構わず生きることに全力を投球しているその姿は、何かやはり自分にとって大きな、本当に生きる大切さを教えてくれた、と思います。ですからそういう意味で、私は幸いであると思います。 でも、父親が既に小さい時にいないご家庭、例えいてもあまりにも厳格すぎて恐い父、いやな父、避けたい父、先程証しされた北川さんも「家を飛び出した」と言っておられましたが、いろいろな親子関係があると思います。今ここにおられる皆さんお一人お一人、父親と自分との関係、親と子の関係がどうであるのでしょうか?しばし心に留めていきたいと思います。 昨日、私がインターネットで、「本当に父親を、あるいは親を尊敬できるっていう人はどの位いるか?」と調べたのですが、できなかったのです。「父の日」ということで調べたら8,000も項目があって、到底調べ様がありませんでした。そこで、「父を尊敬する人」と書いたら、「そういう項目はありません。」とでました。結局わからなくて、今日その数字出せないのは残念です。 でも、「そんなにはないのかな?」と思います。心から尊敬できて、心から父親に育てられたことを誇りに思うという人は、「なかなか、いないかな?」と思ったりいたします。しかし、それは父親の問題である以前に、人間の不完全さとか、人間の弱さとか、もっと人間の罪深さ、といったことにあると思います。 例え、子に対して、あるいは妻に対して、きちんと立ちたいという願いがありながら、でも現実にそうならない場合が一杯ありますし、裏切られることもあるし、いろいろなことにおいて私たちは不条理の中に置かれてしまう、ということがあると思います。 聖書を見てまいります時に、聖書の中にイエス・キリストは、数多く神様を父として紹介しています。フィリップ・ケラーという方が調べた内容を見ますと、旧約聖書において神を父として表現しているのは7回以下であるということなのです。でも新約聖書において、特にイエス様の生涯を書いた4つの福音書の中で、イエス様が神を父として紹介しているのは少なくとも70回は超えている、ということなのです。 ですからイエス様は、この新約聖書において、いかに神を父として私たちに紹介しているか、そこに焦点合わせ、ウェイトを置いているか、ということがよく分かります。 数多くある神を父として紹介している中から、今日は1つだけ、でもとっても大切なこととして、イエス様がきっと語ったであろう箇所に、目を留めてみたいと思います。それは同じルカの福音書の15章の11節以下になります。134ページになりますが、そこをお開きいただいて、しばらくお読みいたします。 “ルカ”
以上でありますが、ここは、教会に少し来ていれば、そしてクリスチャンであるならば、誰でも知っている、放蕩息子の話なのです。主人公は放蕩息子です。今読みましたところにあるように、その弟息子は親から財産をもらって、そして遠いところへ行って放蕩三昧、湯水のように使って、その財産を使い果たしてしまった、ということであります。放蕩息子という題がついているように、一般にここはこの弟息子、今流に言えばドラ息子、これが主人公であると言うことができるわけです。 でも皆さん、ここの本当の主人公は、そしてイエス様が主人公として私たちに紹介したかったのは、息子ではなくして、父親である、ということであります。父親であるということにまず焦点を合わせて見てみたいのですが、その父親としてここに登場する父親、これはどう皆さん感じられるでしょうか? この父親を見て、弟が父に「お父さん、私に財産の分け前をください。」と言って、それで父は身代を二人に分けてやった、とあるのです。「弟息子がどんな息子なのか?」について、既に親は知っていたはずです。それなのに、「財産をください。」と言ったら、「ハイ」と言って渡してしまっているこの父親は、お人好しと言ったらいいでしょうか?あるいは子供になめられていると言ったらいいでしょうか? 子供の要求通りに分けてやってしまっている父親ですが、「これは父親失格じゃないだろうか?」と思えてしまうような、父親の姿であります。「もっと厳しくして、ビシッとすべきだ。」と、何かこう言いたくなるような、そのような印象もあるところであります。 でも皆さん、このお話はイエス様が誰かをモデルにして書いたり、言ったお話ではありません。どこかにあって、「ああ、そうだな」と思えるような話を、ここにイエス様は例えとして話されたのでは決してないのです。 これはイエス様のオリジナルです。イエス様が大切なこととして話しておられて、もっとイエス様にとって「神様が誰であるか?」をよく知っていますから、神様が人々に紹介するにあたって、「神様が父として紹介するならばこういうお方である。そして人間にとって、いかにあなたがたの良き父であるのか?」ということを頭において紹介しているのが、ここに出てくる父である、ということです。 そういう目で見ていく時に、そこから何が教えられてくるのでしょうか?また、何をどう聞くことが大切なのでしょうか?それを、きちっと心にまず留めながら見ていきたいと思います。 最初のところに、身代を欲しいと言って分けています。そうすると、今度は13節を見ますと、その弟息子の方は、 “聖書の書名”
とこうあるわけであります。甘い父親、お人良しの父親と言われて仕方ないようなことが13節に展開していきます。 弟息子はもらった財産をしっかり持って、そして遠い国に旅立ったとあります。「遠い国に旅立つ。」これ皆さん、何を表しているでしょうか?それは、父親の目が届かない、あるいはもっと権威の届かないところに行ってしまう、ということであろうと思います。 そしてそこで弟息子は、放蕩して湯水のように財産を使ってしまっていました。この一つ一つを見ていきますと、これは一人、この弟息子の問題ではなくして、弟息子という形を通して、「この弟息子の中に実は私たちの姿がある。」ということを、イエス様はおっしゃりたい。そうおっしゃろうとしている、ということに気付いてくるような、そんな気がするのです。 神の前の人間、神は愛をもって人間を作りました。でもある誘惑を通して人間は神に背きました。背いた人間に、神は決して力ずくでそれをおしとどめようとはなさいませんでした。彼らの自由に任せました。それは人間に、従う自由、従わない自由、意志の自由を、与えられたからです。 ですから人間は神に敢えて背きました。そして己が自由、信ずる者は自分だけだと、それしか信じられない、背を向けました。「いや、それ以外信ずる者は弱い者だ。」とそう思いつつ、「人間は自由を謳歌した。」と言えばそうですが、しかしその謳歌をし、自由に生きたその結果、その果ては何であるかと言うならば、放蕩して湯水のように財産を使ってしまったのです。 何々をする自由ということでありますけれども、しかしその自由はやがて、そのする自由そのものによって自分が縛られていき、自由は束縛になって、その人をやがて死にすら追いやってしまいます。人間の弱さもそこにあるし、人間の罪の姿がそこにあります。 そして「遠い国」とあるのですが、神の目から届かないところに自由に生きていると思っていました。しかしその先を見て、改めて読んでみますと、 “ルカ”
人間は神から離れて自由で、もはや支配されず、何の主権も及んでいない、と思っていたけれども、でも神様は私たちの姿の一つ一つ、全部を知ってくださっていて、さらにはその心の深いところまでをきちんと見通しおられる、ということを、ここで知ることができます。 そしてそれを知る親にとって、「その親の心は如何に?」と思います。皆さん、子を思う親の心って、こうありますよね?子を思う親の心、これはほんとに深いと思いますね? 5月の母の日礼拝の時に、母と子のお証しがあって、飯田さん親子が証ししてくださいました。飯田さんのお母さんの証しが、心に留まりました。娘が遠いところに行ってしまったというか、親の目からもう届かないところに行っているような、その姿でありますが、その時に母親は、その娘に対して、娘が帰ってこようが帰ってこまいが、娘が食べようが食べまいが、娘のために毎日毎晩心を込めて精一杯の食事を作り続けた、ということでありました。親の心、母の心、そう思いましたね。 でも皆さん、母親でも、その親でも、父親でも、もうこれまで、これ以上はどうしようもないという、限度や限界もあると思います。この息子は、トコトン身も心も持ち崩してしまって、ボロボロになってしまって、どうにもならないところまで行ってしまって、「もはや人間でない。奴隷の一人だ。」と、いなご豆を食べなければ生きられないほどのところに生きながら、誰も顧みられないほどの状態になってしまいました。 そしてその先を見ていきますと、その息子の足跡にこうあります。 “ルカ”
身も心もボロボロになってしまって、あの出て行く時に羽振りがよかった弟息子、でも今や見る影もなく、そして誰にも顧みられないようなそんな状態になってしまって、「どういう顔をして家に戻っていくのか?いや、戻る顔はない。しかしそこに帰るしかない。」そういう息子です。 そういう息子が重い足をひきずりながら一歩一歩と近付きました。その時に父親は、彼をまだ遠かったのに見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした、とあります。体もぼろぼろで、もう汚くて汚くて、臭くて、近寄ることもできない状態になってしまっていたと思いますが、でも父親はその彼を自ら見つけて近付いて、そして走り寄って抱き、口づけをしている、ということであります。 子を思う親の心もあるのですが、それを越えてしまった時に、もはや感動して、もはやもう子供ではないし、もう死んだものとしてみるしかないと思うほどの、その極限の状況からと思うのでありますけれども、でもここで父はそういう子供をしっかりと抱きしめています。 そしてその先を見ますと、こういう展開になっていきます。 “ルカ”
イエス様がここで伝えたいこと、私たちへのメッセージ、それは、「私たち一人一人に対する神さまの目がそれですよ。あなたがたはどんなに神なしの人生を例え歩んだとしても、どんなにおのれを神として、おのれを良しとして歩んできていたとしても、それは一切問いません。」 ここにある父の姿、それをもし一言で言い表すとするなら、それは「許しの父」と言えると思います。私たちの過去が、現在がどうあったとしても、父は全てを赦して受け入れてくださいます。 私たちはお互いを振り返る時に、お互いの心の内側を探る時に、一人として自分の中に痛みを持たない人、傷のない人、問題のない人はいません。そしてそれ故に、どんなに私たちは傷ついているでしょうか?でもその一つ一つを父なる神は知ってくださって、そしてその私たちを、自ら近付いてくださって、抱きしめてくださいます。イエス様は、神様はそういう方だと、ここに紹介しているのであります。 そしてもう一度、最初のところでありますけれども、ルカの11章のところでありますが、そこに目を留めて終わります。ここに主の祈りを教えられたとき、その最初の言葉として「『父よ』とそう祈りなさい。そのようにまず祈り始めなさい。」と教えてくださってるのです。 ここにも父ということが言われていて、そしてそれはとても大切です。ここで「父」と言う時に、イエス様がおっしゃりたいことは、この「父」という言葉、原語は「アバ」という言葉が使われていて、アバというのは実は幼児語であるわけなのです。ですから直訳するならば、「お父ちゃん」と言いなさい、とあるわけなのです。 イエス様はなぜここで幼児語のアバなのでしょうか?皆さん、幼児というのは、お父さんに向かって、もう何もかもお父さんに寄りかかりますね?何もかもお父さんに任せたいですね?「お父さんに任せさえすれば大丈夫だ。」と、幼児はそう思いますね?中学生、高校生になると全然変わっちゃって、「親父は課長止まりだ。」と偉そうなことを言うのが、もう中学生以上になった息子であります。そういう息子と父親じゃないのです。 幼児です。幼児にとってお父さんは、何でもできて、何でも受けとめてくれて、そして時に叱りつけられるけれども、「ダメだ。」と言われるけれども、でも幼い子供は父親に飛び込んで行きます。泣いて飛び込んで行きます。何があっても飛び込んで行きます。それが幼児と父との関係です。辛いこと、悲しいこと、どんなことがあっても、父に飛び込みさえすれば大丈夫です。 イエス様は、「そのアバをあなたがたにも使いなさい。」と言われました。イエス様にとって神様がアバ父であるから、あのゲッセマネの園において、そのあとすぐに十字架につけられる、その直前のイエス様の祈りが、「アバ父よ、願わくはこの杯を取ってください。この十字架を取ってください。」と祈っているところがありますけれども、極限の祈りの時、イエス様は、「お父ちゃん!」と思わず叫んでいます。 そして、そのお父ちゃんに全部を預けるならば、「もう後はお父ちゃんがいいようにしてくれる。最善以下を決してなさらないと信じて委ねることができる。それが父だ。さあ、私にとって、一番よく知っていて、確かで、私自身がそうより頼んでいる神様、その神様をあなたがたにも「『アバ父』と呼んで、飛び込んで行ってほしい。」と、そう紹介してくださっています。 「『アバ父よ、さあ、あなたの良きようにしてください。』と、私の命も、生涯も、問題も、何もかもお任せします。あなたの一番良いようにしてください、主よ。」そう祈り、そう紹介してくださるイエス様です。 今日、私たちにとってどうでしょうか?神様があなたにとってどういうお方でしょうか?どういう関係に今あるでしょうか?「アバ父よ」とそう呼べる関係に招いてくださっている、この招きに応じて、今日からアバ父よと呼んでみようではありませんか?そしてアバ父から豊かな助けをいただこうではありませんか? お祈りを致します。 天のお父様、あの放蕩三昧の息子に自ら近付いて口づけしてくださったその主は、「『アバ父よ』とまた近付きなさい。」と、そう私たちに声をかけてくださっております。父と子、私たちにとってどんなにそれはとっても大切なものであるかを教えられるところでありますが、今日また改めてそこに目を留めさせてくださいました。一人一人にとってどうかそのことが自分のこと、確かなこととして受けとめることができますように。 尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン! |