2003年6月22日 主日礼拝式
“使徒の働き” 17章16〜21節

「“この街を福音で満たすM”」

“池田 博牧師” 宣教メッセージ

今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は 使徒の働き17章16節から21節 です。新約聖書の241ページになります。

“使徒の働き”
17:16 さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。
17:17 そこでパウロは、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ、広場では毎日そこに居合わせた人たちと論じた。
17:18 エピクロス派とストア派の哲学者たちも幾人かいて、パウロと論じ合っていたが、その中のある者たちは、「このおしゃべりは、何を言うつもりなのか。」と言い、ほかの者たちは、「彼は外国の神々を伝えているらしい。」と言った。パウロがイエスと復活とを宣べ伝えたからである。
17:19 そこで彼らは、パウロをアレオパゴスに連れて行ってこう言った。「あなたの語っているその新しい教えがどんなものであるか、知らせていただけませんか。
17:20 私たちにとっては珍しいことを聞かせてくださるので、それがいったいどんなものか、私たちは知りたいのです。」
17:21 アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。

はい、聖書は以上、そこまでに致します。今日はパウロがアテネに行って、そこで伝道をし、そこで起こった出来事に目を留めてみたいと思います。

アテネ、皆さんもご存知ですね。ギリシャの主都アテネです。アテネは今日ギリシャの主都であるだけでなく、遥か昔からギリシャだけではなく、当時の世界のアテネでもあったわけであります。

あらゆる学問の源はアテネにあると言っても良いほど、優れた文化の高い街であったわけであります。皆さんご存知のように、哲学の基であるソクラテスとかプラトンとかアリストテレスといった人たちがいました。紀元前の人でありますが、今日の哲学の基を生み出した人たちです。

又ユークリッド、この人は数学者で、幾何学は彼によって大成されて、19世紀まで彼の書いた「ソイケア」という幾何学の原論は世界の教科書でもありました。その他芸術に於いてもそうでありますし、スポーツに於いても古代オリンピックは今日の近代オリンピックの元になっています。

今日のオリンピックは今度21世紀の最初としてアテネで開かれますが、古代オリンピックはどれくらい行われたかご存知ですか。紀元前約8世紀から紀元後4世紀ごろまで1,100年にわたって4年毎に294回開かれています。信じられないほど長い間行われていたということです。

こうしてアテネ、ギリシャの文明は世界の潮流を生み出していったわけであります。アレキサンドリアが今残っていますが、世界にこのギリシャ文明を基とした都市が残っています。アレキサンドロス大王は紀元前4世紀に世界を征服して、ギリシャの文化を各地に残して、ギリシャ語を世界の共通語として用いて、何と新約聖書はギリシャ語で書かれている。

一つひとつをみた時に、いかにギリシャ文明が人々の心を浴していたかが良く判ります。そのアテネにパウロは導かれていったわけであります。アテネの人たちにするならば、パウロは田舎のローカルな人です。何を知っているだろうかと興味津々で見る、そんな人でしかないのです。

パウロの目で見る、これが大切です。最初の16節に目を留めてみたいのです。パウロはこういう風に言っています。「さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。」これがスタートであります。

アテネに来ました。彼はあのソクラテス、プラトン、アリストテレスをとは言っていないのです。オリンピックを見てみようとも言っていないのです。パウロの心に留まったことは満ちている偶像であったわけであります。

確かに一方において、高度な文化を生み出し、育み、謳歌していたアテネ、ギリシャですが、でも一方に於いて、そのギリシャに何処にでも転がっているのが偶像であったという事であります。

パウロの心はそれを見た時に、憤りを感じたという事であります。そして、パウロは17節を見ますと、「そこでパウロは、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ、広場では毎日そこに居合わせた人たちと論じた。」とあります。

日曜日には礼拝の為に会堂に行ったけれども、日曜から金曜日の間は毎日街に出て行ってそこで論じた。いうならば、路傍伝道したと言ったら良いでしょうか。会う人毎にパウロは議論をしたでしょうか、もっと伝道したという事であります。

18節にこういう風に書かれています。「エピクロス派とストア派の哲学者たちも幾人かいて、パウロと論じ合っていたが、その中のある者たちは、「このおしゃべりは、何を言うつもりなのか。」と言い、ほかの者たちは、「彼は外国の神々を伝えているらしい。」と言った。パウロがイエスと復活とを宣べ伝えたからである。」

パウロは熱心に熱い心で語ったと思うのでありますが、でも、ギリシャ人からするならば「このローカルな人間は何を言っているのか。」と言っています。「このおしゃべりは、何を言うつもりか。」と言っています。てんから小馬鹿にしている感じですね。

下の注を見ますと、さえずる者とありますが、小鳥が囀っているかのようなパウロの言葉を小馬鹿にして聞こうとしない、ただ興味だけで聞いているだけのこと。さえずるという言葉を注釈書を見ますと「小鳥がごみ箱で餌を漁ってチュンチュンやっている」そんな描写だとあります。

さしものパウロもそんな風に言われて、心に憤りを感じたとありますが、それ以上に彼の心は戦いを覚えたのかなとも思います。でもパウロはそういう彼らと真正面から彼らの言葉に「売り言葉には買い言葉」と議論したり喧嘩したりはしない姿がここにあります。

囀る者が何を言おうとしているのかというこの言葉、「彼は外国の神々を伝えているらしい。」パウロがイエスと復活とを宣べ伝えたからである。イエス・キリストと復活を大胆に力強く語ったのでありますが、彼らにしてみるならば、外国の神々だと言っている。

次のページの19節に目を移してみますとこうあります。「そこで彼らは、パウロをアレオパゴスに連れて行ってこう言った。『あなたの語っているその新しい教えがどんなものであるか、知らせていただけませんか。私たちにとっては珍しいことを聞かせてくださるので、それがいったいどんなものか、私たちは知りたいのです。』」

丁重な言い方はしていますが、でもそれは表面の挨拶の言葉であって、心に於いてはどんなにか軽蔑しているかという事であります。その軽蔑をパウロが鋭く洞察できないはずはありません。でも、洞察したパウロはその彼らに議論を吹っかけたのではなくして、アレオパゴスに連れて行かれるその彼らに従っていき、彼らを受け止めている姿がここにあるかなと思います。

皆さん、私たちは「一日の長」とありますが、人より少し先んじている、長じている、優れている、何かが出来る、知っているという時に、そうでない人々に対して、そうでないことに対して何処かで見下したり、裁いたり、小馬鹿にするというようなことが無いでしょうか。

まして、当時世界に冠たるギリシャ人にしてみれば、当然な事のようにも思えますが、そうした驕り、傲慢な態度に1つ心を探られる思いが致します。21節には「アテネ人も、そこに住む外国人も皆何か耳新しい事を話したり聞いたりする事だけで日を過ごしていた。」とあります。

耳新しい事を話したり聞いたりする事だけで1日を過ごしている。「なんとギリシャ人て悠長な人たちだなー。」豊かさといえば豊かさかもしれませんが、でも同時にそこには心の貧しさも見えるような気も致します。

そして、パウロはアレオパゴスに立ってこう言います。「そこでパウロは、アレオパゴスの真中に立って言った。『アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。』」

小馬鹿にされて、軽蔑されて、見下されているということは火を見るよりも明らかなんですが、パウロはその彼らに向かって、「あなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。」と言うのです。偶像をみて憤りを感じたのでありますが、その偶像を拝んでいる人たちに対して、「あなたがたは宗教心にあつい方々です。」と言っているのであります。

パウロはそういう風に言う事を通して、ギリシャ人の宗教心を受け止めながら、彼らの心の方向をきちんと見てあげながら、「でも、それは決して正しい方向を向いているんではない、正しい仕方で宗教を持っているんではない、それは実はあなた方自ら心に光が照らされなければいけないんですよ。」というパウロの思いがしっかりと底流にある中で、このことを発していると思います。

次にこういう風に言います。「私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。」

格好な材料がそこに転がっていたと言えばそうですね。パウロは実に鋭い眼差しで鋭い洞察を持って見ていますから、何をみて何を見逃して何処に自分の心を置いているかがはっきりと見ることが出来る。そう思います。

多くの偶像がはびこっている中で、ワーと思うところが有ったのでありますが、でも、同時にきちっと一つひとつを見ていった。見ていった中に、心にとまったものが有った。それは「知られない神に。」という偶像、そう彫られた石の像だったでしょうか、何かが有った。

それに目が留まったということです。この「知られない神に。」という言葉をどうゆう風に受け止めるでしょうか。何をそこから聞く事が出来るでしょうか。

ギリシャ人は一方に於いて、世界の冠たる優れた哲学を、文学を、思想を、芸実をそしてスポーツをと、彼らは何を見ても何一つ優れていないものは無いほどの民族であったわけであります。でも、こと宗教となった時に、彼らの心はあまりにもアンバランスであった。

あれも神とし、これも神とし、山も神とし、樹も神とし、石も神とし、何処かの国と同じようであります。こんな風に考えたのでしょうか。「私たちは知りうる限り神なるものをきちんと拝むべく、それを刻んでいった。けれども、私たちがどんなに知りえようとして探っても、尚知りえない中で埋もれた神々が有るでしょうか。

もし、そのような神様がいたならば、その神様はとっても悲しむであろう。誰からも拝まれないで、刻まれないでいる事はどんなに悲しい事だろうか。」と思って、「知られない神」という石仏を彫ったのでしょうか。それってすごい宗教心の厚さを地で行っているのかなーと思います。

しかし、「知られない神」と刻むその偶像こそが、全てを知っているかのように言っているギリシャ人の心の曇りでしょうか。宗教心の曇りでしょうか。宗教に対する見えないその状態を証しているでしょうか。パウロはそこに大事な焦点を合わせました。

そしてこう言うわけです。「あなた方にその知られずに拝んでいるものを教えましょう。」こう話しを展開していくわけであります。そのようにしてパウロは天地万物を創造した神様に彼らの心を移し替えていくわけです。

でも、私は自分自身の過去を振り返っても「そうだなー。」と思いますが、日本人の多くはそうかなーと思います。私は全くクリスチャンホームでない家庭に育ちました。ですから、宗教の本質が何であるかを全く知らない中で育ってきたわけです。

私の父親はとっても素直で信心深い人でした。田舎に疎開して2部屋ほど借りまして、住むことになりました。まもなく、父親は一生懸命に工作をしていました。やがて出来上がったものを見ますと、それは神棚でした。とても綺麗に神棚を作って、そこに札を置いて、榊を置いて神棚を整えました。

古ぼけた仏壇があって、それをきちんと納めて仏様として拝んでいました。何処で買ってきたかは判りませんが七福神の熊手が有りまして、それを神様として飾ってありました。柱には厄除けのお札をぴちっと貼ってありました。

そして、自分は体にお守りを幾つか付けていまして、自分の体が守られるようにとのことでしょうか、様々な神々を家の中に祭り、体に付けて、縁日とかがあると繁く通って、本当に宗教心厚い生活をしていました。

神様漬けの中で生活しているといった感じであります。私はそんな父親の中で育ちました。小学校の4年生か5年生になった頃、時々「博。榊をあげなさい。」「仏様にご飯を上げなさい。」とか言われてあげました。

その時は、そこにある小さな鐘を「博。2回鳴らすのだ。」と言われて「チン、チン」と鳴らすのです。でも私は2回ではなく、何故か16回鳴らしました。それには深い意味が有るのですが、それはさておいて、それをやっていたら「博。何故そんな事をするんだ。」とすごい剣幕で言われました。

その時の父親の顔が凄い形相だったのです。私はその瞬間に悟りました。父親は普段穏やかでとてもいいおじいちゃんであるのですが、たかが鐘を16回鳴らした時のその様相を見たときに、凄い怒りが有るのです。その怒りの顔を見たときに、私の中に「あー、おじいちゃんは祟りを恐れているな。宗教心深いかも知れないが、要するにそれは恐れから来ているものだな。」それを私は悟りました。

私たちは多くはそうした事で縛られていないでしょうか。皆さんも教会に来て本当に神様が誰であるのか、救いが何であるのかを知る以前の私たちの心の中には「新車を買ったらお払いをしてもらいましょう。」そしてピシッとしたお守り、5000円から有ります、10,000円、20,000円、30,000円あります。

「やっぱり30,000円がいいか。ご利益が有るから。」と言って、30,000円のキンキラキンのお守りを新車につけたりしますね。病気になります。何か先祖の祟りではないだろうか。事故に遭います。何故事故だろう。私たちはそのようにして恐れる心を、宗教心の厚い陰にあって自分の心がいかにそうした祟り、不安の中で縛られていることであろうかと言う事であります。

パウロは偶像が満ちているその中にギリシャ人がどんなに優れた知能を持っていたにしても、彼らの生活に於いて、彼らの心に於いてその宗教心がいかに鈍り曇っているかを彼は洞察していました。ですから、「知られない神」に象徴されている彼らの心の曇りをきちっと正した。

そして、パウロは24節でこう言います。「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。」

いかに明解でしょうか。いかに闇から光に照らされたかのようにして、神様がそこにきちっと定義されていることでしょうか。これは一人パウロだけが持ったものではない。パウロもかってはイエス・キリストに出会う以前に於いては、神は知っていたが、神を信じていたが、でも恐れていました。

律法に縛られていました。律法を正しく守る事に必死になって、祟りを恐れていた事が判ります。でも、今聖書に出遭いました。聖書の神に出遭いました。イエス・キリストに出遭いました。その時にパウロの目から鱗が落ちていきました。心の曇りが晴れていきました。

誰が神で、その神がどのようなお方であるかがはっきりと知ることが出来ていったのであります。それをパウロはここでも大胆に伝えていくのであります。29節に「神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。」とはっきり言っています。

そして31節に「なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」

一人の人即ちイエス・キリストを神様はこの世界にお遣わしになりました。この一人子イエス・キリストが何と、神のみ子であるにもかかわらず、十字架に架けられて殺されるという、こんな大矛盾があるはずが無い。でも敢えてそれをする事で人類の罪を神ご自身が自らの御一人子イエス・キリストを犠牲にして、身代わりにして、救いの道、人類の滅びない道を開いてくださったのです。、

この十字架と復活、これ以外に救いは無いのです。大胆に語りました。しかし、それを聞いた人たちの反応が有ります。32節です。「死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、『このことについては、またいつか聞くことにしよう。』と言った。」

神が誰であるのかが明らかにされて、イエス・キリストが明かにされて、イエス・キリストの復活、十字架と復活、これによってこそただ1つの道が開かれたのです。しかし、それを聞いたギリシャ人は、知識が勝っているギリシャ人は、己を義としているギリシャ人は、自分の価値観に全てを拠り所としているギリシャ人は嘲笑うのです。

悲しいですがこれが事実です。そしてこの事実は又多くの私たちの姿であるでしょう。私のかっての姿です。イエス・キリストの話を聞いても、聖書の話を聞いても馬耳東風上の空です。本当に聞く耳を持たなかった自分であった事を恥ずかしくもあり、己を義とした自分の罪深さを本当に知らされます。

でも、そんな中に有って、34節にこうあります。「しかし、彼につき従って信仰にはいった人たちもいた。それは、アレオパゴスの裁判官デオヌシオ、ダマリスという女、その他の人々であった。」

これもまたとっても大切かなと思います。人には時も有ります。そして、どんなに多くの人が嘲笑って、一向に聞く耳を持たない人々の間にあって、又聞いてあげようと言って帰っていった多くの人たち、でも、その中にも心に触れられた人がいます。

敢えてここに裁判官デオヌシオとあります。裁判官、当時の高い地位にある人デオヌシオと記されている。又ダマリスという一人の女性の名前も敢えて記されている。特別な名前でありますが、この二人の名前を通して、さーそれはあなたです。

今日あなたの心の中に「そうだ、自分も信じてみよう.真の神がこのように明らかにされ、こんな者の為にイエス・キリストが十字架にかかって身代わりになって死んで下さった。そんなお方がいるとはつい知らなかった。その方を信じていこう。」

細い声、しかし確かな声として聞く事ができた人は幸いです。その人の心は主が確かに見て下さいます。そして、確かに聞いて従うその方はイエス・キリストによって備えられた救い、永遠のいのち、永遠の天国への道が開かれていきます。

そうなっていく時には、それまでの偶像に縛られたでしょうか、祟りを恐れていたでしょうか、不安に慄く心が有ったでしょうか、それが消えていきます。そして祈りが生まれます。祈りそれは神との交わりです。祈りを通して神と交わるそこから私たちは平安を得ることが出来ます。

平安、それは私たちの生活を、私たちの人生を豊にしていきます。さらには私たちはそこから生きる力、希望を頂く事が出来ていきます。更に、私たちは毎日を感謝する事が出来るようにと変えられていきます。

神とともに歩むと言う事がどんなに素晴らしいか、それはあなたが信じて従ったところから、信じますと告白するそこから始まります。そして、確実に開かれていくのであります。この素晴らしいイエス・キリストを通して唯一開かれたこの救いを今日も神様は私たちに提供していて下さいます。あなたのものとして、新しい歩みを始めていただきたいのであります。


お祈りを致します。
天のお父様、今日又私たち一人ひとりにあなたは、パウロが偶像のはびこっているアテネに伝道した事を通して光を当ててくださり、そして私たちに語りかけてくださいました。どうぞ、お一人おひとりに尚あなたが届いて下さいますように。

救い主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン!