| 2003年6月29日 主日礼拝式 “使徒の働き” 18章1〜18節 「“この街を福音で満たすN”」 “池田博主任牧師” 宣教メッセージ |
| 今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は 使徒の働き18章1節から8節
です。新約聖書の243ページになります。 “使徒”
聖書は以上であります。パウロの伝道の足跡を見ているのでありますけれども、今日はコリントの街に行きました。皆さん、コリントという言葉というか、コリントと聞いて何か自分の中につながることはあるでしょうか?あまりないかもしれませんね。今日初めて聞いたでしょうか? 先週アテネを見ました。アテネと言えばオリンピックとか、ギリシャの今日の首都とか、いろんなことでつながってると思いますが、コリントと言うとあまり聞きなれないかもしれません。でも実はこのコリントは、とても大事な街でもあるのです。今日は、その中でコリントの特徴と言いましょうか、忘れてはならない2つの点を申しあげたいと思います。 その1つは、コリントの街は、まずどこにあるかちょっと地図を見ていただいて、そしてもう一つそこに建物が映っておりますけれども、アテネから100キロくらい離れたところにあります。 このコリントと言うと、コリント式の円柱というのが有名です。いろいろ調べたら、ここにフランスのマドレーヌというとってもおいしそうな名前の教会があって、ここはあの前の柱が円柱です。そしてこれが、何とコリント式です。コリント式の特徴は柱頭、頭のところにあって、あそこにいろいろな模様があって、そこをきちんとでたものを調べたかったんですが、あんまりでませんでしたので、この大きな建物を映しました。コリント式の円柱と、その柱頭が有名であります。 ですから、建築の世界ではとても有名で、この建物も現代の建物であるわけなのですが、そんなふうにして、コリント式というのが、もう実は紀元前4000年頃からこのコリントという街は、陶器もあって、とても土質が良いということもあったようですが、建築にも優れていて、むしろギリシャの出発はこのコリントからあった、という風にも言われています。 そういうことで、建築に特徴が一つあると言うことができます。でももう一つの点でのコリントの特徴があります。それは、アテネは文化の香り高い街でありましたが、でもコリントは文化の香りではなくして、歓楽と淫蕩の街ということなのです。 そしてここには、さまざまなそうした関連のものがあったのですが、特にその中でアフロデートという神殿がありまして、これは、愛、快楽の女神、ローマではビーナス、エジプトではカデシ、アラブのアスタロテと並んで、このギリシャのアフロデートというのは、いわゆるその時代の特徴を表していたようであります。 なんとこの神殿には1000人もの娼婦、売春婦がいたということなのです。聖であるべきそこに、なぜか娼婦がいるということです。古代の特徴でもあることなのですけれども。 そこに象徴されるように、この街は不品行、汚れ、好色、そういった不道徳が満ち溢れている街です。「コリント人のように振舞う」という言葉があって、それは不品行の代名詞であった、不道徳の代名詞であった、と言うほどに、この街はそういうことで知られた街ということです。言うならばこの時代のソドム、ゴモラのような街で、いつ天から火が下って、硫黄が下って、滅ぼされてもおかしくない、そういう街でもあった、ということであります。 パウロはアテネを去って、そしてなぜかそのようなコリントの街にやってきました。しかもそのコリントの街に腰を据えて、1年半伝道をしたということであります。なぜそうなのでしょうか?アテネはわずかな滞在で去りました。 でもこのコリントの街には腰を据えて1年半伝道した。この後エペソに約3年伝道したという記録があるのですが、それに次いで長期にわたってパウロが滞在したところであるわけなのですが、なぜパウロは時間をかけて、腰を据えてそれをしたのでしょうか?そんなことを心に留めながら見ていきたいと思います。 そこにありますように、アクラとプリスキラというこの二人は、とても熱心な素晴らしい人たちであるわけですが、彼らと一緒に生活をしながら、天幕作りをした同業者でもあり、それをしながら伝道した、ということであります。 今日は、そのコリントで伝道して、後にそのコリントの街にある教会に宛てた手紙、それが「コリント人への手紙」であるわけなのですが、その手紙を見ていますと、コリントの教会の様子、そして何が問題なのか、そういったことが浮き彫りにされます。 ですので、少しそこに目を留めてみたいと思います。コリント人への第1の手紙に目を留めたいと思いますので、290ページを開いていただきたいと思います。最初に1節から3節をお読みします。 “コリントT”
パウロは教会に手紙を書くにあたって、こういう挨拶の手紙、こういう書き出しをしているわけなのです。ここで大切なこと、目を留めるべきことは、2節の中にあるのですが、そこに「聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なる者とされた方々へ」とこうあり、ここに目を留めたいのです。 コリントの教会は、この後見ていくと、びっくり仰天するようなことがいっぱい出てきます。でもおしなべて、でも教会全体で見た時に、それは主の目で見た時に、パウロの中に、「コリントの教会、すなわち聖徒として召されている彼ら、聖徒として召されている一人一人なんだ。そしてさらに、キリスト・イエスにあって聖なる者とされた方々だ。」という風に言われているところであります。これが大事です。これがとっても大切なことです。そこにまず目を留めて、それを心の中に刻んでおいていただきたいと、そう思うのです。 そして、そのことを語ったパウロは、それから先、こういう展開になっていきます。10節から少し読んでいきますと、 “コリントT”
こう書いてあるわけなのです。クロエの者からの知らせが届きました。手紙の質問が届きました。いろんな情報が入ってきたという中で、パウロは、最初の丁寧な挨拶、大切な挨拶をしたその直後から、そこに単刀直入に書き出しているわけです。 「さて、兄弟たち、私は私たちの主イエス・キリストの御名によってあなたがたにお願いします。どうか皆が一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。」と、こう言っているわけです。「お願いですから、仲間割れしないでください。」とこう言っているのです。 どうもコリントの教会の中に仲間割れがあったようです。いわゆる軍派ができていた、とでも言うのでしょうか。具体的に「『私はパウロにつく』『わたしはアポロに』『私はケパに』『私はキリストにつく』と言っている。」というのです。何かいつのまにか色分けができちゃった、と言うのでしょうか? 本郷台キリスト教会に5人の教職者がいます。「私は主任牧師先生につきたい。」「いや、私は登喜子先生につきたいわ。」「私はかっこいい月井先生につきたい。」「いや、木島先生がいい。」「若いユース牧師、恵賜先生。」となると、お互いに仲間割れします。本郷台には、そういう風に思っている人は一人もいませんね? 私はいろいろな相談を受けたり、悩みを訴えられたりする中で、しばしばあるんですね。教会が仲間割れどころか、分かれてしまって、2つになってしまって、2つの教会ができてしまって、ある人数がすっかり別の教会に移ってしまったりする、そのようなことがあるのです。コリントの教会だけではなく、今日も起こりうることなのです。 その後さらに深刻な問題がでてくるのですが、このコリントの教会に手紙を書くにあたって、パウロは、他の手紙をいろいろ見ていきますと、その中では、彼らの信仰の励まし、彼らの霊的な養い、そしてさらには彼らの徳を立てる、乾徳(けんとく)のための励まし、そういったことが手紙の中心になっています。 ところが、このコリントの手紙はそうではなくして、いきなり仲間割れ、分裂、分派の話をしなければならないほど、現実の様々な問題が、噴き出していると言うのでしょうか、そんな状態であるということを、ここで見ることができるわけなのです。 そしてパウロは、その先にこういう風に言っています。17節に目を留めたいのでありますが、 “コリントT”
パウロは、「パウロにつく」とか、「アポロにつく」とか、「ケパににつく」とか(ケパとはペテロのことですが)、そういう誰々につくのではなくして、みんな誰もがキリストについているのです。なぜならば、あなたのために十字架にかかって、死から贖いだしてくださったのは誰ですか?キリスト以外の誰がそんなことができたでしょうか? 大事なことは、「イエス・キリストがあなたにとってどんなに大事なお方であるのかについて、もっと深く、もっと真剣に、もっといつも新しく心の中に感謝して、そして今日も新しくその主に従うことを主に誓って、今日を始めること。」、それが大切です。 キリストがあなたの心の中から薄れていないですか?心の中に絶えず新鮮に、十字架を崇めることのできる者となっていただきたいのです。「十字架の言葉は滅びに至る人々にとっては愚かであっても、救いを受ける私たちにとっては神の力です。」十字架を軽く見たり、十字架が遠のいたりしたときに、そこでは十字架が愚かな存在になります。愚かというのはつまりあなたにとって、あなたを支え、あなたを生かし、救い出すほどの力になっていないということです。 でも、その十字架にしっかりとあなたが結びついて、十字架の言葉に聞き従っていくならば、そこには神の力が働いていきます。そこにはもはや分裂、分派はありえないのです。「十字架をしっかり見上げましょう。十字架にしっかり従っていく者となりましょう。」ということであります。古くて新しい大事なメッセージ、そう思います。 そして第2番目のことでありますけれども、5章、そこに今度はこういうことが言われます。 “コリントT”
と、こうあるのです。不品行がコリントの街にはびこっていますが、何とそのはびこりが教会の中にも同じようにあるのです。あなたがたもかつてそのような中にあって、心が傷ついてズタズタになって、もうそこから抜け出したい、救われたい、と願ってこそ教会に来て、願ってこそ教会に来て救われていったはずです。 それなのにクリスチャンになって、なお不品行があって、しかも異邦人の中にもないほどの不品行が教会の中に起こっています。それが現実でありました。そのことを深く深く憂い、そして痛んでいるパウロがここにおります。そして、様々な訴えをそこにしていくわけであります。 6章を見ていきますと、そこではそういうことを、1節には、 “コリントT”
そして、4節、5節には、 “コリントT”
と、そういう問題を教会の中で主だった人に訴えて、きちんと仲裁して、そして祈って、神様の前に解決していくべきことなのに、教会の外にそれを持ってゆき、この世の人たちによってそれを裁こうとしているという、なんと教会が乱れきっているのか、それをよくよく感じさせるところであります。11節を見ますと、 “コリントT”
かつてはそうだったのですが、その中で苦しんでこそ教会で救われたはずなのに、またそれを繰り返しているのか?と訴えているところであります。さらに7章に移りますと、そこには手紙に訴えられたことが言われております。 “コリントT”
と、こうあるわけでありますが、男女間の乱れ、近親相姦、そういったことが教会の中で起こっている、という現実であります。このようにして、このコリントの教会は、何と世の中にあるものがそっくりそのまま教会で起こっている、という現実があります。ふと、パウロは「1年半、腰を据えた。」と言っているのですが、それにしてこうであるという現実に、何か本当に心が痛みます。 そしてさらに、8章に移っていきますと、今度はこういう問題も起こってきます。 “コリントT”
というようなことから、「この偶像に捧げた肉について」ということがあります。一見、あまり関係ないことのように見えるかもしれません。でも、やはり日本は偶像の国ですから、ありうるかもしれません。私なんか割合と身近にあって、こういう過去のことがありました。 例えば父親がおいしい物、大事な物を買ってくると、「博、仏壇に上げとけ。」と言うのです。必ず買ってくると、仏壇に上げるんです。物によっては「神棚に上げろ。」と言うんです。住み分けがよくわからないんですが、とにかくそうして、そしておもむろに食事の時間に、今度はそれを下げてきて、食べるという感じですね。何かお供えをして食べるから、「清められてるかな?」、「おいしいかな?」、とかそんな感じで受けとめておりました。 でもクリスチャンになったら、ことは違いました。父親は相変わらずやってたわけなんですけど、私はもちろんそれはしません。そうすると、なんかこう、仏壇なんかに上げられた物が、「わっ、汚れてる」、「触りたくない」「食べたくない」と、何かそういう風に変わっていきましたね。 ですから皆さんも、「そういったことあるかな?」と思いますね。何故なら日本は偶像の国です。色々な意味で偶像との関わりがあると思うのです。そういう時に、パウロはここにこういう風にキチッと言っています。 “コリントT”
これは、皆さん、とっても大切なことですね。「偶像に捧げたら食べたくない。嫌だな。汚れてる。」と思ったりするのですが、「でもよく知りなさい。偶像なる神はいないんですよ。偶像は人間が考えて人間が作った神なのであって、実際に存在しないものを神として拝んでいるだけのもので、存在していません。だからそこに上げられたからと言って汚れてもいないし、上げられたからと言って食べてはいけない、というものでもないと、そういうものに縛られる必要はありません。私たちを創った神様は創造なる神様だから、その神様の前に汚れたものは一つもないのです。」ということを言っているわけです。だから、捕われる必要はないのです。 しかし、また同時にパウロは、とっても深い配慮をしているわけなんですね。以前そういうものにとらわれてきた、私もそうだったわけでありますが、とらわれてみた時に、今度は何かにこだわっている自分がそこにいることに気がつきますね。 でもクリスチャンは、「全然こだわらない。何にも心配ない。」ということで食べている姿を見た時に、まだそこまでいっていない良心の弱い人、初心者にしてみれば、「どうして、ああなのですか?」という風になりかねないです。そうなる時にパウロはこう言います。「『もし私が偶像に捧げても、何の問題もないんです。汚れていないんです。』と食べることで、その人の良心が痛んだり、その人がつまづいたりするならば、私はその人のつまづかないために絶対に肉は食べません。偶像に捧げたものは食べません。」と言っているのです。 これは深い配慮ですね。捕われなくていいのですが、自由にされたその自由の心、良心を持って、弱い人のつまづきにならないために食べない自由が、そこにあるのです。そのようにして、一つ一つきちんと光の中で、光に照らされた行動をしていることが、ここにはっきりしております。そのことも教えられます。 そして今度はその先に、賜物のことで、12章以下に、御霊の賜物ということが出てまいります。このことも大事なことでもあるのですが、 “コリントT”
と言って、ずっと御霊の賜物についてのことが触れられております。そしていろいろな賜物が与えられていて、コリントの教会にはいろんな賜物が与えられていて、信仰の賜物、癒しの賜物、奇蹟を行う賜物、預言の賜物、霊を語る賜物、異言を語る賜物、異言を解き明かす賜物、といって9節以下に書いてあるのですが、このようにいろいろな賜物のある人が、コリントの教会には一方においてはいた、ということなのですね。 この世の汚れを持ち込まれていて、そういう人たちがいるかと思うと、また一方においてはとっても優れた霊的に高い賜物を与えられている人たちもいました。そしてどこかでそういう賜物を持った人たちが、その与えられた賜物を誇ってる、と言いましょうか。それ故にそうでない、それがない人たちを見下しているかのような、そういうこともあるような、そういうことに対して一つ一つ、パウロはここでも、大切なこととして教えていくのですね。 13章には、いろいろな賜物があるのだけども、「でも愛がどれだけ大切か。愛にこそ目を留めなさい。」と、あの愛の憲章、愛の憲法が13章の4節以下にあります。そして14章に入りますと、 “コリントT”
「何よりも愛です。愛が基調になければ、どんなにあなたが素晴らしい、優れたものを持っていたとしても、それは決してあなた自身にとって得にはならないし、キリストの名が崇められるようになっていかないですから、ですから気を付けなさい。」と言っています。そして14章の終わりの方には、32節から33節で、 “コリントT”
と、こう教えているわけなのです。神様はいろいろな賜物を与える方なのだけれども、その賜物を持った、与えられた、ということは、その人が特別に優れていて、そして人の間でも崇められるような、そんなことでなくして、ここでは神様は秩序の神なのです。ここでは、混乱の神ではなく、秩序の神であり、平和の神です。 与えられたものを、神様に用いさせていただきますと、謙虚にそれを生かしていく時に、初めてその賜物が人のあるいは徳を立て、キリストの名を高めることができるようになっていくのです、と教えるわけですね。 最後に15章以下には、今度は復活ということにふれていくのであります。「復活」、これは人類に与えられた最高の希望であるということを、ここに告げております。そして全体として、この手紙を通してパウロが語っておきたかったことが何かを、まとめたいと思います。 まず第一に、それはこのキリストの時代、ギリシャがいかに文明の進んだ国であったか、民族であったかを、改めて知ることができるわけであります。その意味において、時代を超えてこのギリシャは、今日を表していると言うこともできるでしょうか? 今日、私たち人間一人一人は、どんなにそれぞれの存在そのものが尊いものであるか、誇るべきものであるか、大事なものであるかを、お互い自覚しているところであります。 でも、私たちは、どんなに一人の存在が尊くて誇るべきものだとしても、同時に私たちは弱い存在であり、流されやすい存在であり、私たちはキリストによって生かされて、キリストによって守られていかなければ、絶対に私たち一人一人は神様の前に立ちえるものではありません。人がただ人間を誇った時に、そこには必ず分派が起こり、分裂が起こってしまいます。だから私たちは、誇るのはただキリストであるということを、しっかり心に刻むことが大切です。 そして、第二に、コリントの教会が淫蕩の街でもあった、ということです。今日でいうならフリーセックス、本当に今の時代を象徴する言葉と思います。人間はそれぞれに与えられた欲望のままに生きていい、自由な自分の欲望に生きていい、それが人間なのだ、ということであります。 しかし、欲望のままに生きる人間がやがてどうなっていくのでしょうか?このコリントの街がそうであり、また今日もそうであります。やがて、自分の欲望のままに生きる、その果てにおいて、人間はその欲望に支配されていきます。その欲望に自ら身を滅ぼしてしまう、そのような者であることも知っていきます。 ですから私たちは、欲しいままにふるまうことの恐さを知って、御霊によって支配されていきます。肉に支配された生き方でなく、御霊に支配された生き方をしていくことがどんなに大切でしょうか? ガラテヤ書の中に言われておりますが、「あなたがたは御霊によって歩みなさい。そうするならば、あなたがたの肉があなたがたを支配することがないからです。」とあります。私たちは自由にふるまうことは確かに許されているけれども、でもその肉が自ら自身を滅ぼしてしまうことを知る時に、御霊によって歩むことがいかに大切か、しっかりと心に刻んでおくことが大切である、ということです。 そして最後に、復活のことでありますが、人間は自ら築いた文明、理性、そして知識や経験、それは素晴らしい、誇るべきものでありますけれども、でも決してそれを絶対化していってはなりません。人間がそれを絶対化する時に、もはやそこは絶望しかありません。 神は、人間のその限界を超えたその先に、復活という希望を与えています。この希望にこそ、私たちは目を留める時に、私たちの理性、知識、経験といったものに限界を見出して、その先に永遠の希望が与えられてこそ、私たちはそこに素晴らしい生きることの喜び、意味を見出していくことができるのです。 パウロはそのようにここで締めくくっていくわけでありますが、本当にそれは私たちにとってもそうです。主が私たちにキリストを通して、十字架の贖いを通して救い、復活を通して、復活によって、永遠への希望が与えられています。そこに私たちは目を留め、その喜びを見出していきたいと思うのです。 最初にパウロは手紙において、「聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた」とあるのでありますが、その内側にある醜い、肉的な、自己中心的な、汚れた、そんな人々、そんな教会なのでありますが、でもあなたが信じて、救われている限りにおいて、聖なるものとされています。 ですから、そこには復活を通しての永遠の希望が与えられています。私たちのこの地上に、このような素晴らしいものが与えられていることを、もう一度心に留めながら、コリントに与えられたメッセージを、今日私たちのメッセージとして受けとめていきたいのであります。 お祈りを致します。 天のお父様、今日またあなたがここに臨んでくださいまして、一人一人に御目を留めてくださいまして、一人一人に御言葉を語ってくださって、感謝いたします。それぞれ置かれたところで、どうぞ主が臨んでください。一人一人がどうぞ主にあって、希望が与えられていきますように、お願いいたします。 尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン! |