2003年7月6日 主日礼拝式
“使徒の働き” 18章12〜18節

「“この街を福音で満たすO”」

“池田 博牧師” 宣教メッセージ

今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は 使徒の働き18章12節から18節 です。新約聖書の243ページになります。

“使徒の働き”
18:12 ところが、ガリオがアカヤの地方総督であったとき、ユダヤ人たちはこぞってパウロに反抗し、彼を法廷に引いて行って、
18:13 「この人は、律法にそむいて神を拝むことを、人々に説き勧めています。」と訴えた。
18:14 パウロが口を開こうとすると、ガリオはユダヤ人に向かってこう言った。「ユダヤ人の諸君。不正事件や悪質な犯罪のことであれば、私は当然、あなたがたの訴えを取り上げもしようが、
18:15 あなたがたの、ことばや名称や律法に関する問題であるなら、自分たちで始末をつけるのがよかろう。私はそのようなことの裁判官にはなりたくない。」
18:16 こうして、彼らを法廷から追い出した。
18:17 そこで、みなの者は、会堂管理者ソステネを捕え、法廷の前で打ちたたいた。ガリオは、そのようなことは少しも気にしなかった。
18:18 パウロは、なお長らく滞在してから、兄弟たちに別れを告げて、シリヤへ向けて出帆した。プリスキラとアクラも同行した。パウロは一つの誓願を立てていたので、ケンクレヤで髪をそった。

はい、聖書は以上です。パウロの街街の伝道を見ておりますが、今日は又先週に引き続いてコリントの街の事について触れてみたいと思います。

今日から下半期に入りまして今日はその第1主日であります。これから教会で夏に向けて様々な活動があります。今ありました韓国のチームが来て下さいます。あさって来るのは高尺教会、その後にオンヌリ教会、昨日は又別のサラン教会も来たいと言って来たりして、何故か韓国から本郷台教会に来るお客さんが多いのです。

しかも、3人や5人ではなくして15人とか20人とか大勢で来るものですから、皆さんに奉仕をして頂かなくてはならないのですが、此処にダイヤモンドチャペルが与えられて4年がすぎて、少しずつ整ってきた時に、待っていたかのようにいろんな形で働きがなされております。

昨日までも、沖縄から北海道まで数は少なかったんですが、大事な研修が行われまして、そこに来た方々が大変恵みを受けたという事であります。そんな風にこの教会が用いられております事に感謝であります。

韓国チームが来るにあたって、向うからの要望があって、是非一回日本の伝道の歴史、特に横浜は日本伝道の歴史の大事なスタートがそこにあったということで、それを学びたいので、その講義をして欲しいということです。

結局主任牧師がやる事になりました。そうしましたら、宣教委員会の委員長の稲葉さんが「先生、これとっても良い資料です。」と言ってこういう資料を渡して下さいました。これは横浜の市民グラフというものです。これは古いのですね、1979年、ヘボン博士来日120周年記念ということで「ヘボンと横浜」という題で特集されています。

私はこれを読ませて頂いて、とっても勉強にもなったのですが、改めて独りの宣教師が日本に来る、外国に行くということは本当に大きな大きな犠牲があるし、神様のどんなにか期待と恵みの中でなされているかを改めて感じました。

ヘボン、皆さんヘボンさんといえばローマ字でおなじみですよね。でも、ヘボンさんはローマ字を教えるために日本に来たのではなかったことが判ります。そうではなくして、宣教師として来られました。此処にヘボン略伝が書いてありますが、これを読んで本当に胸を打たれました。

少しそのことを紹介したいと思います。ヘボンさんの正式な名前はジェームス・カーチス・ヘップバーンというそうです。何処にもヘボンとは出てこないのです。ヘップバーンをヘボンと通称で呼んでいたようであります。

このヘボンさんは1815年3月13日ペンシルバニアのミルトンという処に生まれて、長じてプリンストン大学に学んだ。ところが当時アジアコレラというのが流行ったために、この大学が閉鎖されてしまって、1年あまりで卒業し、次いでペンシルバニア大学で医学の勉強をしたようであります。

そこで医学博士となって、地方で開業し、クララさんと結婚された。ところが、詳しくは書いてないのですが、東洋伝道、宣教師となって東洋に行く事を志して、1841年ボストンから出帆しシンガポールに留まって、華僑の師弟を教育し、自らも中国語を学んだといいます。

ところが、アヘン戦争がおこって、それが終わった時に、中国のアモイに赴き医療と宣教に従事したが、夫人が病気の為にディビットというお子さんを連れて帰国します。そして、1846年3月15日にニューヨークに着いて、そこで開業します。

その開業がとても評判が良く名声と富を得ます。ところが一方で、与えられた3人のお子さんが次々に病死をしていきます。そこで、ニューヨークでの生活に区切りをつけて、もう一度アジアに行ってみようという志が与えられていきます。

「名声を捨てて日本伝道へ」とありますが、1853年ペリー艦隊が浦賀に入ったまもなくに、ペリー提督と一緒に来ました。、日米通商条約を結ぶ立役者となったハリスという人が居ます。このハリスもとても熱心なクリスチャンで、貧しい中に生まれ育って、語学が有能であったために通訳をしながら、日本に来て、大事な通商条約を締結していくわけであります。

彼は熱心なクリスチャンであったために、既にアメリカに居る時から日本に行こうとしているヘボンに対して何くれとなく資料などを提供していました。ヘボンさん家族は1859年4月24日に来日しました。この1859年が日本プロテスタント伝道の開始の年であります。

4月にスタートしたのでありますが、神奈川に着くのはその年の10月になります。そこで医療を施しながら伝道もしていきます。でもそこには、簡単に申上げましたが、お子さんの犠牲があり、奥様の病気があり、私たちが今日宣教師としてアフリカやパプアニューギニアとかに行く危険と同等の、決断を伴う大きな犠牲の元になされた宣教活動かなと思います。

そんな風にして日本に来たヘボンさん、そして、ヘボンだけでなくして、同時にこの横浜には様々な宣教師が遣わされて参ります。ブラウンという宣教師も有名ですね。シモンズ、フルベッキ、リギンス、ウイリアムスそしてバラー、トムソン、こういった宣教師それぞれがそれぞれの過程の中でいろんな犠牲がありながら、でも志して、日本にやって参ります。

まもなく婦人宣教師も1870年代になって送られて参ります。一番古いキダ婦人宣教師は日本に来て、横浜でフェリスを始めますが、続いて共立女学院それからソウシン、横浜英和、更にしばらくして関東学院、明治学院といったミッションスクールが立ち上げられて参ります。

それぞれが日本に来ての様々な戦いがあるのです。苦労があります。でも今日そんな人たちの祈りと犠牲の中で豊な実が結んでいる事も確かであります。今日皆さんの中でもこうしたミッションスクールのご出身の方も多いと思います。

ヘボンさん一人を取り上げても、どれだけ多くの犠牲があっての働きであるか、そのことを心に留めさせるのであります。

さて、今日のパウロのコリント伝道をそんなことと併せながら見ていきたいと思います。先週も見ましたように、コリントの町はアテネと並んでギリシャを代表する町であります。アテネが文化都市であるならば、こちらは商業都市、もっと快楽の都市、そして淫蕩の町として有名でありました。

パウロはそういう町こそ伝道したいとの熱い思いがあって、自らすすんで選んで行ったわけであります。1年半腰を据えて伝道したとありますが、その結果そこに教会が立ち上がり、多くの人々が救われていきました。でも、同時にそこはその町にあった様々な習慣的な良くないものがみんな教会の中にそっくりあって、教会が立ち上がったにも拘わらず、既にいろんな問題が起こっていくわけであります。

コリント人への第1の手紙の最初から分裂があり分派がありといったことから始まって、様々な不道徳の問題が起こっているという事で、山積みの問題の中でパウロは伝道し、1年半後に次の町へと移っていったわけであります。

今日読んだ最後の部分、18節を見ますと「パウロは、なお長らく滞在してから、兄弟たちに別れを告げて、シリヤへ向けて出帆した。プリスキラとアクラも同行した。パウロは一つの誓願を立てていたので、ケンクレヤで髪をそった。」とあります。

「これって凄い決意の現われかな。」と思います。パウロは伝道旅行するにあたって、いつも迫害され、いつも命からがらのところで、命がけで伝道していたわけです。でも、何故かこのコリントに於いてはそうした迫害の中の命がけよりももっと心に深く決断するところ、覚悟するものがあったようであります。

ですから、敢えて誓願を立てて髪をそったとあります。それ程の事であったという事が判ります。そして、次々と問題が根深く広がっていくのが判ります。

パウロが去った後コリントにはもう一人の有能な器、アポロが遣わされて行きます。彼はアレキサンドリア生まれのユダヤ人でありますが、雄弁学を学んだ有能な器でありました。彼が行って伝道し、彼が行って牧会すると多くの人々がそこに集まってきて、救われていきました。

アポロファンが生まれていくのです。今日で言えば追っかけさんみたいな人たちが大勢いて「私はパウロよりもアポロにつきたい。」という人たちが大勢出てくるというような事になっていきます。

何時頃であるかは定かでないのですが、パウロもそこに来ます。パウロはあの12使徒の中の最も重鎮、指導者でありました。ですから、又この教会は大きな揺れもあったのかもしれません。ですから「私はむしろペテロにつきます。」「ペテロのファンです。」という人たちが起こって来た訳であります。

そのようにして偉大な指導者が行く事によって、次々と問題が広がって複雑化していっていることが判ります。でも、同時に教会には必ず祈りの人が生まれます。その中で本当に心を痛めて、真剣に涙してとりなす人が興されるのであります。

数少なくとも真剣に祈る人がいて、その人が手紙を書きます。その人が訪ねていきます。そして「パウロ先生、教会は今こんな事が有って本当に厳しい中に置かれています。」ということで手紙を書いた。

この手紙を書いたところが、後で触れますが第2の手紙を見ると、どうも第1の手紙を読んだ教会の人たちは「あー、自分達の事だ。自分達は本当に間違っていたんだ。」「変わらなければいけない。悔い改めなければいけない。」「主の前に出よう。」という風になって行ったかというと、そうではなかった。

主にある教会にもかかわらず、パウロが伝道したにもかかわらず、パウロが「是は是、非は非」愛の忠告、厳しい忠告を率直にしていったことに対してコリントの教会の人たちは反発をしていきます。

彼らは感謝どころか怒りがぶちまけられていきます。そして、成る程ありがちかなと思うんですが、今度はパウロ個人への攻撃に変わっていったのであります。「パウロ先生、あなたは私たちに偉そうに伝道してくれたけれども、あなたは本当にそうなんですか、ペテロを中心としたイエス様に直接指導を受けた、薫育を受けたあの12弟子ではないですか。あなたはその仲間じゃないではないですか。」「使徒の資格はないじゃないですか。誰が使徒にしたのですか。」厳しい注文をつけてきます。

更には日本的表現ですが「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。」とありますが、一寸そこを見ておきたいと思います。コリント第2の手紙10章10節を見ますと、パウロに対してこういう事を堂々と言っているのであります。

「彼らは言います。『パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ったばあいの彼は弱々しく、その話しぶりは、なっていない。』」言いにくい事をよくも言ってくれるものですね。日本人はここまでは言わないですね。日本人は建前と本音をきちんと使い分けますからね。

表面だっては言わない。でも、陰では「あの牧師の説教は聞くに堪えない。」とか。日本人はそうなんですが、欧米人は建前本音が無くストレートです。ですから言いたい事を平気で言ってしまう。「彼は弱弱しくって、話し振りはなっていない。」というのです。

アポロの説教と比較するならば説教ではないという感じかも知れません。そのパウロの手紙がこの第2の手紙でありますが、しばらく前の2章のところに一寸目を留めてみたいのです。この手紙の全体を読みますと、そこにパウロの心情が吐露されています。パウロの個人的な思いがどんなに率直に表れているかがよく判ります。

“コリント第2”
2:1 そこで私は、あなたがたを悲しませることになるような訪問は二度とくり返すまいと決心したのです。
2:2 もし私があなたがたを悲しませているのなら、私が悲しませているその人以外に、だれが私を喜ばせてくれるでしょうか。
2:3 あのような手紙を書いたのは、私が行くときには、私に喜びを与えてくれるはずの人たちから悲しみを与えられたくないからでした。それは、私の喜びがあなたがたすべての喜びであることを、あなたがたすべてについて確信しているからです。
2:4 私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらに、あなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を知っていただきたいからでした。
2:5 もしある人が悲しみのもとになったとすれば、その人は、私を悲しませたというよりも、ある程度「「というのは言い過ぎにならないためですが、「「あなたがた全部を悲しませたのです。
2:6 その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、
2:7 あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。
2:8 そこで私は、その人に対する愛を確認することを、あなたがたに勧めます。
2:9 私が手紙を書いたのは、あなたがたがすべてのことにおいて従順であるかどうかをためすためであったのです。

皆さん、じっくり読んでいった時、そこにはパウロの深い思い入れが伝わって参ります。どれほどコリントの人々を愛しているか、どれほど思っているのか、どれほど良かれと願っているのか、良かれと願うからこそ、愛する故にこそ非は非として彼らを愛の忠告をもって指摘しているではありませんか。

そのパウロの思いとは裏腹に、彼らは率直な反応をぶっつけていき、パウロ個人の非難へとも発展していってしまう。そういう姿があります。

パウロの手紙が新約聖書の中に13あります。パウロは実に多くの教会を伝道しました。でも、コリントの教会は例外的な教会でした。コリントの教会は特別な教会でした。これほどの、パウロ個人をも非難するような教会は他にありませんでした。

でも皆さん、このコリントの教会を今日に当てはめて考えてみたときに、むしろ他の教会よりもコリントの教会こそが歴史を越えて今日の教会、私たちの姿、今日の私の姿をもそこに反映していないでしょうか。その一端が此処に滲み出ていないでしょうか。

私たちは誰しもが欠点を持っているもの、誰しもが弱さを持っている。でも、その弱さや欠点は私たちは自分が変わりたいと思いながら変えれないでいる、変わらない自分がそこにいることに苦しんでいる、そこに積極的に、率直に愛の忠告をしてくれる者がいるということは何と素晴らしいことでしょうか。

そして、それは、その人を思う愛、更には主がその人をどんなに深く思えばこそパウロは敢えてそこに出て行ったと思います。コリントの教会がパウロの熱い思いの中で出向いていった伝道の場所であったのです。でも、それ以上に熱い思いをもって、コリントを愛していたのは、コリントの町の人々を愛していたのは、崩れきった人々を愛していたのは主イエス・キリストご自身であるということです。

イエス様が愛していてくださっていたからこそ、パウロはそこに遣わされて行ったのです。パウロも或いは何処かでもう忍耐の紐が切れて、もうやめたと言っても良かったのかもしれません。でも、パウロは切れずに忍耐しつづけ、祈りつづけそして彼らの痛みを痛みとして担っていったのであります。

エペソに3年を過ごした中に、パウロはもう一度、この手紙の中には出てきませんが、そこからコリントをもう一度訪問したであろうと言われています。訪問したけれども彼らから受け入れられなかった。撥ね付けられてしまって、涙の中にもう一度帰らなければならなかったということが言われております。

でも、パウロは2度でも3度でも訪問し、手紙を書き、彼らを愛した。

皆さん、やがてこのギリシャはどういう国になっていったでしょうか。西にローマ東にギリシャ、西の教会と東の教会、西方キリストと東方キリスト、ローマ正教とギリシャ正教という2つの大きな流れが生まれてきます。今日ギリシャ正教からロシア正教へと、その流れの中でこのギリシャが歴史の中で重要な働きをしていく事になります。

皆さん一人ひとりが今置かれているところで、苦しい厳しい辛い中にあるでしょうか。でも、主は故無くあなたをそこに置いているのではない。あなたが痛むことで、あなたが忍耐する事で、耐え忍ぶその中から、あなたを通して神様は必ず祝福の流れがそこから始まっていく。

試練があなたの将来の門口になっていくように主はご計画していて下さるのです。教会がそうであって、地域がそうであって、この横浜の地も神様が選んでくださって、日本で最初の宣教の地となり、命を賭けてあのヘボン先生やその他の多くの宣教師達がこの地を愛して、日本を愛して下さったのであります。

そこに建てられた、この本郷台の教会です。そして、そこにいるお互い一人ひとりです。皆さん一人ひとりがそれぞれの置かれた中で、主の取り扱いを受けるかもしれませんけれど、それは主の期待の中にあって置かれている事を覚えたいのであります。

イエス様は私たち一人ひとりの労苦を知っています。黙士録の中に手紙もあります。「わたしはあなたがたの行いを知っています。わたしはあなたがたの忍耐を知っています。愛を知っています。信仰を知っています。わたしはあなたを覚えている。」と言って下さっています。

その主の前に私たちは主の期待に少しでも沿う事が出来るように祈りをもって、忍耐をもって励んでいきたいのであります。主を見上げつつ。


お祈りを致します。
天のお父様、感謝致します。このようにしてあなたが此処にご自身の恵みのみ業を顕してくださいましたことを覚えて真に感謝致します。それはまた私たち一人ひとりが主の期待に沿う事を通して、あなたがやがてどのような祝福のみ業をなそうとしておられるのか、そこに目を留めさせていただける幸いを感謝致します。

主を見上げます。主に期待します。お委ねします。

尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン!