| 2003年7月27日 主日礼拝式 “エペソ” 4章11〜16節 「“教会は愛のうちに建てられる”」 “池田 博牧師” 宣教メッセージ |
| 今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は エペソ人への手紙4章11節から16節 です。新約聖書の345ページになります。 “エペソ”
はい、聖書は以上です。今日はこの後総会もあります。そういうことから鎮まっておりました時に、このところのみ言葉が導かれましたので、このみ言葉を背景に「教会は愛のうちに建てられる」という事でご一緒に聖書を見てみたいと思います。 教会ということですが、私たちはごく自然に教会という言葉を使っております。日本語に訳された教会は教える会と書くわけですが、何か日本人らしい訳かなと思います。日本人は何でも勉強する事が好きという感じがします。最近は少し変わってきているようですが。 教会という言葉は、元々はギリシャ語ではエクレシアという言葉が使われています。これは直訳しますと「呼び出された者の集まり」という意味です。呼び出された者の集まりが教会だと聖書は言うのです。 又、聖書のマタイの福音書16章16節を見てまいりますと、イエス様の弟子達の一人、ペテロはイエス・キリストに対して、信仰告白といいますが、イエス・キリストが誰であるのかという自分の告白をするわけであります。 そこでペテロはこう言っています。「あなたは生ける神のみ子キリストです。」と告白するわけです。キリストは確かに人だった。ナザレから出た人である。でも、本質はそうではない。神のみ子、神ご自身が人となって、この地上のわたし達の間に住まわれたお方で、そして救い主として来られたという告白であります。 イエス様は弟子達から初めてそのような告白を聞いた時に、とてもそれを喜ばれ、ペテロに対してこう言いました。「わたしはあなたのその告白の上に教会を建てます。」こう言われました。その告白の上にということと、先ほどの呼び集められた人の集まりということを1つに考えますと、教会というのは、すなはち、イエス・キリストを主と告白した人たちが呼び集められて集うところ、そこが教会です。それが教会です。 当然ながら、建物とか組織に加わるとかではなくして、イエスを主と告白した人たちが集まってなされる、それが教会ですと教えられています。それからもう1つ、今エペソ人への手紙の4章を読みましたが、その1章の23節をみますと、そこにはこう書いてあります。 「教会はキリストのからだであり」とあります。これは又大変に興味深い表現であると思います。ついでにコロサイの1章18節を見ますと「キリストは教会のかしらです。」とあります。この2つを併せて、頭はキリストであって、体は教会ですと聖書は表現しているわけです。 ですから、教会というのは信仰告白をした人たちの集まりである訳ですが、同時にキリストと命の繋がりがあります。命のつながりをもって、頭と体という密接な関係がある、それが教会ですということです。堅苦しい事を申上げましたが、先ずそのことを心に留めておいて頂きたいと思います。 わたし達はいろんなきっかけで教会に来ます。家族に誘われた、友人に誘われた、自分で捜してきた、いろんなきっかけで教会に参ります。そして、来てみて聖書を読み、或いは話しを聞き、友だちに教えられ、導かれて「あーそうか。成る程。」と理解し納得し「それならば私も信じます。」と告白して、多少の学びをして洗礼を受ける。 洗礼を受けますとそこの教会の会員になるわけですが、会員になりますとごく自然な事として責任が伴って参ります。月定献金、什一献金そして奉仕、交わり、そんな事を通して教会の働きが出来ていくわけでありますが、でも、そういう形、事柄の責務を伴うわけであります。 その伴う責務も大事な事と思います。教会は「そんなことは面倒くさい。」とか「そんなことはどうでもいい。」というようなところではないわけです。でも、同時にわたし達は聖書が語っている本質を心の中にしっかりと持たなければならないということを聖書が語っている。 それが先ほど言うように「かしらなるキリストと教会が命のつながりです。」というのがそれであり、イエスを救い主として告白する事がとっても大事な事であり、それが本質・基本であると心に留めたいと思います。 更に聖書を見てまいりますとイエス・キリストご自身がそういう事をきちっと教えておられるのをみる事が出来ます。今日はその所も見ながら、更に私とイエス・キリストの関係、教会との繋がりを見ていきたいと思います。 ヨハネの福音書3章を開いていただきたいのです。イエス様はいろんな人に拘わっておられて、その人その人にきちんと向き合って大事な事を教えておられますが、ここでも一人の人にきちんと向き合っておられます。それはニコデモという人に向き合っておられるところです。少しそこを読んでみます。 “ヨハネ”
ニコデモとのやり取りが此処につぶさに書かれています。初めて読むとこの会話は何だろうと思われるところがありますが、クリスチャンになってみますと、ある程度判ってまいります。そうしますと「このニコデモってものわかりが悪いなー。」「霊的でないなー。」と思われるところであります。 でも、これはとっても大切なことを一人の人にずーっと向き会うことを通して、私たちに対するメッセージがあるということを覚えます。先ずニコデモという人について1節にこうあります。「パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。」これがニコデモの紹介であります。 先ず「ユダヤ人の指導者」とありますが、これは注解書を見ますと、当時ユダヤには70人の国会議員がいた。****という国会議員でその中の一人であったということを意味しています。今日の国会議員といえば駄目人間みたいな印象ですが、当時のユダヤの国会議員はそれはそれは最高の名誉であり、人格品性全ての面で最高の人物ということであるわけです。 そして、パリサイ人というのは当時の教会では最も熱心な忠実な教会の人であり、しかも彼はその中の長老、役員でもあるということなのです。ですからニコデモは体面からいうならばトップクラスのハイソサイアティーの人ということが出来ます。 イエス様はナザレから出てきた人でしかない訳ですから、世の中的には遥かに立場の上の人ということがいえるニコデモでありますが、そのニコデモがイエスの元にやって来た。2節「この人が、夜、イエスのもとに来て」とあります。 何故夜か。そんな高い地位の人があまり名も無い、しかし、注目されているキリストの元に来るという時に、どこか人をはばかるところがあったでしょうか。知られたくないというところ、でも、「あの人には何かがある。評判が違う。」ということでもって、ニコデモはどうしても会って自分の心のうちを打ち明けて、解決が与えられたらいいなという強い願いを持ってやって来た。 そしてこう言います。「「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」これがご挨拶です。 丁重な挨拶といえばそですが、何となく慇懃な挨拶です。お世辞ぶった挨拶であるわけです。高い位の人はそういったきちんとした挨拶が身に付いていているのかなーと思います。そんな風にして挨拶をした。でも、イエス様はそれを聞いていて、それを遮るかのようにして、3節でこう言います。 「イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」こういう答えをするわけです。2節の挨拶をプツンと切ってしまって、ニコデモが持っている心の内側のいろんな物をひっくるめて、イエス様はこの人が何故此処に来たのかをきちんと判って、結論としての答えを此処に言っておられる。 「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」という答えです。私たちもこのやり取りを聞いた時に、頓珍漢な答えをしているかなーと思わないでもありません。何か突拍子も無い答えとも取れなくも無いのです。 でも、同時に私はクリスチャンとして、それが何を言わんとしているかが一方でよく判るわけです。クリスチャンとなるということは、先ほどのようにイエス・キリストを救い主として心のそこから信じる事なんだということです。そういう風にしてイエス様を救い主として信ずる生まれ変わり、新しい出会いがなされなければならないということがあるわけです。 「新しく生まれ変わらなければ神の国は見ることが出来ませんよ。」と言われた。その答えを聞いたニコデモはそれに心の混乱もあっただろうと思いますがこう言います。「「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」 こんな答えをしたわけです。頓珍漢といえばそうですが、でもこれはまともな答えといえばまともかなとも思えます。その通りだという事にもなるわけです。でも、その答えの中に既にイエス様はニコデモが心の中に持っていた悩みが何であるかが明らかにされてきたといってもいいのかなとも思います。 頓珍漢、でもそれは真実な心の発露、正直に打ち明けられたニコデモの心の内側だった。「老年になって」と言っている。当然相当な年配である事がわかります。誰でも人生長く生きてきて先が短いとなった時に、やっぱり死の事を考えるでしょうか、人生に終わりがあることをひしひしと感じるでしょう。 それを感じた時に、人は誰しも来し方自分は何をしてきたのか、本当にそれで良かったんだろうか、彼は確かに有能な優秀な人間としてやってきて、誰からも非の打ち所のない人間としてやってきた、でもそれで良いのか。更には、人の為に良かれと思って善行も積んできたかもしれない。そんなニコデモであるのかなーとも思います。 でも、自分の終わりが近い事を知った時に、過去の一つひとつを振り返った時に、私たちは自分を決してそれで良いと納得できるような事にはなっていかない、それが私たちだと思うのです。 よいこともしたかも知れない。でも、あの事もこの事も決して良かれと思う心の半面に於いて、人を傷つけおとしめてしまった。自分の立場を守らなければならないために蹴落とした事があった、罪のいくつかも思い出されてくる。そして、そこから来る罪責感もある。 一つひとつ見ていった時に、自分の人生の総決算をするにはあまりに自分は出来ていない。でも、外側からは立派な人、人格者、この人なら間違いないと思われているそういうニコデモです。しかし彼自身は内側を見たときに、自分に向き合えない、自己対峙出来ない自分の姿がそこに有って、まともにキリストのもとに行けなかった彼は夜密かに真剣な思いと願いを持ってやって来ている。 そして、イエス様はその彼に逐一細かいやり取りはしていません。兎に角生まれ変わる事が大事です。キリストに出会うことが大切です。キリストの前に自分を出して、光に照らされて、自分に非があるならばそれを悔い改めて、イエス・キリストを信じる時に、イエスキリストがあなたに代わってやがて十字架に於いてなされる事が何であるかを知ることが出来た時に、そこに赦しがある、そこに計りしれない神の恵みが用意されている。 更には永遠の先に命が備えられている。イエス・キリストの十字架の復活を通して与えられる光がどんなに素晴らしいか、キリストはこのみ言葉に対してその国の最高の人材であったかも知れないが、キリストは確信を持って大事な事を大事な事としてきちんと此処で語っているのです。 5節に「イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。』」と言っています。 水と霊、これは具体的には洗礼と聖霊を心に戴いて、悔い改めてイエス・キリストを素直に主と受け入れる事のできるように変えられていく経験をいっているわけであります。「肉によって生まれた者は肉です。」あなたがこの地上においてどんなに有能な人物人材として生まれて、その頂点を極めたかもしれないが、でもあなた自身判っているでしょう。 判ってきているそのように、あなたはいざ自分の人生の総決算をと思って、そこに向き合ってみた時に、自分はとんでもない、人にどう見られようが、自分が自分で絶対に納得できない心の内側の濁ったもの、汚れたもの、もっとどろどろしたものが自分の心の深いところで自分を覆っている。 それが肉です。肉は何処までいっても肉です。そこからあなたが救われる道、あなたが変えられる道、あなたが新しくされる道はたった一つです。それは霊によって生まれることです。イエス・キリストを通して開かれた十字架と復活によって、あなたが変えられる事です。 人類に、世界に、宇宙に、それ以外に私たちが信じて救われるべき道、救われる名は他に無いのです。キリストは力強く大胆にそう語ります。この先の14章6節に「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」とあります。 わたしは只一人そのためにこそ救い主として来たのです。イエス・キリストのこの確信の言葉です。でも、この時残念ながらニコデモは「判りました。自分はそのとおりです。悔い改めます。信じます。」とスーっとなっては行かないのです。この先を見ていきますと、もやもやとして、3章の16節に入っていくわけです。ニコデモはどうしちゃったかなー。 この後ニコデモはどうしたのでしょうか。こんなにもイエス様に向き合って、ここまで自己対峙できた人は他にいないであろう。そのニコデモの先はどうだったでしょうか。聖書はそれを記しているのです。19章39節を開いて下さい。 「前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。」とあります。 これはどういう場面かと言いますと、やがてイエス様は十字架に架けられて殺されていったわけであります。まさかの出来事がそこに起こり、弟子達もイエスを見捨てて逃げてしまったという程のことであります。誰もがこのまさかの出来事の中に向き合うわけであります。 何故かこのニコデモが死体になって十字架から取り下ろされて葬られようとする時に、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかりという大変な量を持ってきたというのです。皆さん、ニコデモがあれから去って、さよならしているなら、こんな事をするはずが無いですね。 イエス様に出会ったニコデモはその後深く自分を振り返ったでしょうか。振り返れば振り返るほど「新しく生まれなければ」というキリストの言葉が彼の心を捉えて放さなかった。やがて「判りました。主よ、私は信じます。従います。」そう確かに何処かで言ったに違いない。 そして、密かにキリストの弟子になったでしょうか。やがて十字架でなくなられるイエス様、でも彼は「新しく生まれなければ」という延長線で「自分が新しく生まれ変わるために、私に代わって、私のあのどろどろしたもの、私にとってどうする事も出来なかったあのことを、この十字架に於いてこそ成し遂げてくださったんだ。」それを深く深く判ったに違いないのです。 ですから、彼は出来る最高のものを持って葬りをしたいと思った。こうして、ニコデモは確かにイエス・キリストに出会いました。そして、皆さん一人ニコデモに出会って下さったキリストは今日あなたにも出会ってくださいます。あなたの人生に主は出会ってくださいます。時にあなたのその前に立ちはだかってでも出会ってくださいます。 まして、あなたに自分の人生の総決算をどうしたら良いんだろうと思い悩むその人の前には諸手を上げて「さー、私のところに来なさい。わたしに任せなさい。」そう言って下さるのです。皆さん、誰が人の人生、永遠を「さー、わたしにまかせなさい。」と言える人がいるでしょうか。イエス様はそれを言えたのです。 そして、それを完全に成し遂げる事の出来る只一人のお方です。今日もそのイエス様が手を広げて招いて下さっているのです。そして教会はその中で、確かに主とであった方々が集まるところであります。 もう一度最初に読みましたエペソ人への手紙4章16節に目を留めたいと思います。「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです」これが教会ですとあります。 皆さん、体という時に、体にはいろんな器官があります。目の器官、耳の器官、手の器官、足の器官様々な器官があります。いろんな器官があって、でも体は1つですから、そのいろんな器官が1つ体の頭からの命令に従って、それが働く時に、1つの体としてより完全な機能を果たしていきます。 教会はそのようにして、教会の頭であるイエス・キリストが示してくださるビジョンがある。それはキリストの頭である想いであって、それはあなた方に「わたしが主です。」そしてそこにあるその教会に与える私のビジョンだと言ってくださるのです。 この本郷台に主はミッション3000というビジョンを与えてくださいました。そして、今日まで9年目になっていますが、さまざまな事を通して業がなされてきて、いろんな働きが祝福の中で導かれてきて、感謝しているわけであります。 しかし、尚尚先に向かって進んで行く必要があるわけであります。そしてもう1つ、それは、それぞれの器官はそれぞれの果たす使命が与えられています。手は手の器官、足は足の器官です。足は決して手の働きは出来ません。してはならないのです。 だからあの人のように、この人のようにではなくして、あなたがあなたとして1つのあなたの持っている使命と喜びを何処まであなたが喜んで出来るか、それが同時にあなたを通して1つである体が祝福されていく大事な使命です。そういうのです。 今週私はこの1冊の本を読んで非常に感動しています。この人はビル・ウイルソンという人です。ニューヨークのハーレムという最も荒れ果てた町、廃虚の町、死の町の中で特に子供達の為に伝道していて、今何とそのハーレムの中から2、2000人の子供達が集められているという素晴らしい働きをして世界に注目されている方です。 その方が何と日本に来ただけでなく、本郷台で研修して下さるということです。これを読み改めて感動いたしました。何故、この人が自分の生涯をそこまで命がけになっていったかが良く判りました。 ニューヨークの新聞に或る日こんな記事が載ったそうです。街角に青いクールボックスが捨てられていて、その中に小さな子供の死体が入っていた。推定4歳、衰弱しきって体重は11キロほどしかない。「この子だ〜れ」というタイトルで小さなコラムがニューヨークの新聞に載った。 ビル・ウイルソンさんはそれを見た。それを読んだ。その時に彼の心は震えました。その捨てられたクールボックスは自分が今子供達に伝道しているその目と鼻の先である。でも、今こんな形でそれが誰であるか判らない形で捨てられて、死んでいる、それを見たときに、彼はこの子供に何かしてあげられることが有ったんではないか、しかし自分は何もしてやれていない。恐らく、そんな近くにいたから、日曜学校にも1度や2度は来た事が有るだろうか。 でも、この子だーれ。名前がわからない。当然私も判らない。そんな中でビル・ウイルソンは慟哭します。「主よ、許してください。この子供に何一つしてやれなかった。こんな者を許してやってください。」そう涙の祈りをして、その出来事が更にこの人をしてそのハーレムの中で命がけで伝道する事へと駆り立てていって、その働きが世界に知られるようになっていった。 でも、更にその先を読んで私は感動するのです。それはビル・ウイルソン自身の事が書かれています。彼はボストンに生まれ、お父さんはバスの運転手であった。でも、家族を養うほどの収入が無くて、やがてカリフォルニアのサンフランシスコに移っていく。そこでもきちんとした生活が出来ず、今度はフロリダに移っていき、そこで一生懸命に働くけれども、でも養えない。 その上、お父さんは結核にかかって入院してしまいます。残された母と子。或る日の事、お母さんはビルを連れて街を歩いていて、町外れの配水管のところに二人で座った。黙っていた。やがて口を開いて「こんなこと、これ以上我慢が出来ないわ。あなたは此処で待っていて。」そう言って母は逃げるようにそこを去っていった。 ビルは母が何時帰ってくるだろうかと待った。夕方になって帰らない。夜になっても帰らない。翌日朝になって帰らない。2日目帰らず3日目帰ってこない。何一つ食べないお腹をすかせたままで彼は何処に行くにも行くところが無い。その配水管の上で一人頭を垂れていたのです。 するとそのことを見ていた一人の青年がいました。デイブという青年。彼は3日目にビルに声をかけるのです。「君はどうして此処に居るんだ。」ビルは押し黙っています。「判った。君は僕と一緒にキャンプに行かないか。とっても良いぞ。」ビルはキャンプが何であるか全く判らぬまま、その誘いに乗ってみた。 行ってみて初めて判った。それはキリスト教の教会が主催している青年キャンプであった。彼はうまれて初めてキリスト教に接するのであります。語られた先生のメッセージ、そこに十字架の愛が語られた。イエス・キリストが私たちの為に十字架にかかって死んでくださったのだという愛のメッセージが語られた。 このビル少年はうたれます。感動して「あー、こんな僕の為にイエス様は死んでくださったのだ。」彼はキリストの愛の中にとかされていきます。そして、信じるのです。信じたときに、彼の心の中に不思議な変化、平安が彼の心を一杯にしていきます。 そして彼はクリスチャンになり、やがて周りの人や主任牧師が期待してくれて、その中で献身して神学校に行き、卒業して、自分が通ってきた過去を知り、同じように悲しい辛い目にあっている子供の為に自分の人生を賭けようという決心を持って子供伝道に打ち込んでいくのです。 そして打ち込んでいく中で、あのハーレムとの出会いが有りました。彼は何万という子供達を集めているのでありますが、子供です、貧しいです、お金が無い。でもこの子供達の集まる場所は何としても欲しい。彼は思い切って8万ドルもする大きな会堂を信仰を持って買うのです。お金が一銭も無い中で買っていきます。 でも、不思議です。いろんな人からいろんな形での献金が届けられて、やがてそれが彼らの子供達の礼拝の場となっていきます。そして今、それはアメリカで注目され、世界で注目されるというような働きになっている。 でも、そのことが問題であるのではなくして、一人の子供の為に命を賭けている、それがキリストの愛、突き動かしているキリストの愛の中で彼は命を賭けています。 教会が様々な働きをするという時に、それは教会の計画企画ではないのです。一人ひとりがその自分の使命が与えられるでしょうか。自分が通ってきたその傷のゆえに、更に自分の重荷として背負おうとしているでしょうか。 今日もこれから総会が開かれますが、作業所が立ち上げられようとしていますが、これも教会の計画ではない。障害を持った子供たちの為に、何としてもこれを立ち上げたいという熱い想いの中から生まれようとしているものです。 一つひとつがそうです。ミニストリー、それは一人の人に与えられたその人の使命を活かそうとしている働きの集まりです。教会はそのようにして、一つひとつ私たちの内にある主の救いの恵み中でなされていく働きが集まっていくものであります。 そして、先ほどの16節の最後に「結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられる」とあります。義務感ではない。教会の計画ではない。ましてや事業ではない。本当に愛のうちです。一人ひとりが愛を戴いて、愛の中に自分がこんなに豊かなものを受けている、ですから、その愛にお返しをしていきたいのです。 それが器官として一人ひとりが主にお返しをし、教会を建てあげていく働きです。お互い今日又一人ひとりそれぞれが主の声を聞いて応答していきたいのです。 お祈りを致します。 お一人おひとりが、どうぞその中で本当に主にお出合いして、主の為に何ができるでしょうか、私たちの持てるものをもって主にお返しさせていただきますとの願いを持って、主の教会がこの地上に永遠のみ国の建設として立ち上げられますように。主よかえり見祝福してください。 尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン! |