2003年8月3日 主日礼拝式
“使徒の働き” 2章14〜24節

「“私の霊を注ぐ”」

“木島 正敏師” 宣教メッセージ

今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は 使徒の働き2章14節から24節 です。新約聖書の210ページになります。

“使徒の働き”
2:14 そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。
2:15 2:15 今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。
2:16 これは、預言者ヨエルによって語られた事です。
2:17 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
2:18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
2:19 また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。
2:20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
2:21 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』
2:22 イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。
2:23 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。
2:24 しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。

アーメン。以上です。今この教会の中で、セルという働きが少しずつ広がっています。ある方は既に二人三人と聖書を読む約束をして、1週間に1回集って、み言葉によってどのように養われたか、或いは自分が弱さを何処で感じたか分かち合いをして、交わりをし、祈って又互いの問題を分かち合って祈り、又人々のためのとりなしをするという小さな交わりがあちこちで開かれていると思います。

私もそのような交わりを幾人かの方と持っておりますが、とても素晴らしいなーと思います。これが私の信仰生活に本当にリフレッシュを与えているかなーと感じられます。先日そんなことの中で、なかなか此処から広がっていかないなーと思っていたら、その交わりの中で、ある人が「実は。」と言ってとても真剣にこんな話を致しました。

「職場で上司の方の甥子さんがもう胃がんで3週間と保たないだろうと言われた。その言葉を聞いた途端に、私の心の中に何か言うに言われない大きなうめきを感じて、何とかしてこの方に神様の言葉を伝えたいと思ったのです。持っていた聖書を手渡しました。『これをどうか届けていただけませんか。』とその上司に届けたのです。

いつもなら相手にしない方が『ありがとう。』とその聖書を受け取られた。ところが、でもどうした事でしょう。私はそれ以上何も出来なかった。何処からどのようにして話をして良いか判らなかった。何を語ったら良いのか。自分は本当に何も出来ないんだと驚き愕然としました。」という話でした。

又、ある方から夜電話がありました。その方は教会員ですが、ご自分の実のお父さんが「今まさに、この1ヶ月保たないだろうと診断を受けてかえって来ました。このときに自分の中に言うに言われない何か悶えを感じました。」と話しされました。

私は又此処で悶えと言う言葉を聞きました。うめきという言葉を聞いたのです。「昨日一日自分が本当に苛まれて、何故自分はこの父親に福音を語れないのだろう。長い間父親とまともに話したことも無かった。だけど、今はどうしても父親に福音を語りたい。伝えたい。でもどうしたらいいか判らない。

そう思ったときに、朝からずーっと今に到るまで自分は悶々としていました。そして思い余って電話しました。先生、どうしたら良いでしょう。」という電話でした。

確かにそれは大きな事です。でも、私の心の中にはハレルヤ、ベルが鳴っていました。まさにこの悶え、まさにこの滅び行く人をこのままにしては置けないという悶えにも似た想いがこの1週間の内に聞こえてきた。

こうしてみるとT兄弟のぎりぎりのところで、O姉妹が一生懸命仕えておられますが、兄弟が勝ち取られて、奥様が勝ち取られて、そして今も尚、このぎりぎりの状況の中で、このご両親との祈りがはっきりと積まれて、教会中がそのために祈っております。

私たちは決してこういうぎりぎりの状況の中で、事態が死で終わるだけではない。また病だけで終わるわけではない。そこで、どうしてもこの人々に誰かが福音を伝えなければという想いに駆られた人たちが居るということは、これは大きな恵みです。

先週立て続けに緊急電話がありました。でもこれは問題が問題ではない。その中でどうしてもこの人々の為にいのちを伝えたい、祈って下さいという魂を思い遣るおもいがあふれているというところが素晴らしいとこなんです。

続けて本当に祈っていきたいと思いますが、そういう事を思わされたときに、私の中に浮かんできたのが今読んだみ言葉だったのです。これはどういうことであったのか。これは一見するとペンテコステの記念礼拝のメッセージのようでもあります。しかし、此処には大切な真理が明らかにされていると思います。

二つの面が有り、その一つはこれが教会誕生の瞬間の産声であり、そしてまた、教会が世に向けた第1回目のチャレンジのメッセージであるということです。そして、もう一つは、その事実であります。教会がこの地上に誕生して、福音を語り始めたという事実であります。この二つのことにわくわくするでは有りませんか。これを読んでいてそう思います。

先ずはこのメッセージですが、この小さな群れ、12人の弟子達とそれを取り囲む120人の人たちが居ました。しかしこの大エルサレムのイスラエルの人の中では大海の一滴みたいな存在で、一声も声をあげたことの無いような人たちの群れがそこに居たのです。

彼らといえば、50日前には自分達の師である方が十字架に付けられるのを目の前にしながら逃げ出した者たちでした。何か、自分達の弱さに圧倒されて、ただただそっと世の片隅で座っていたような彼らでありました。

その彼らが突然に語り始めた。その第1のメッセージはこうでした。「『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」教会はそうメッセージを語り始めたのです。此処から教会の地上に対するメッセージが始まっていった。このとき以来教会は全ての人という言葉を用いるようになったのです。

「わたしは全ての人にわたしの霊を注ぐ』と神はいわれる。教会は語り始めたのです。日本の教会は既にその立つところに於いて負けているのではないかとよく思います。路地裏の小さなところにあって、一寸した看板が出ていて「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。」

疲れた人でなければ来れない。重荷を負った人でなければ来れない。偶々来た人にメッセージを語る。ほとんどの人は町にいて、大通りにいて全く教会には目を留めない。ところが韓国に行ってみると違いますね。韓国では大教会が町の中心にある。

中世の面影を残すヨーロッパに行ってみると、町の中央に1セット必ずあるのが区役所と井戸と教会です。町の広場ですね。教会は町の中心にあって、人々にメッセージを語るところであります。ところが、日本では路地裏で小さな群れが優しく集っている。

これも素晴らしい。弱った人、痛い人、本当にそういう所でこそ癒される人が居ますが、しかし聖書的かというと、そこのところが大事ですが、この人にふさわしいかではなく聖書的かとなってくると、聖書的にはこうです。

全ての人、どんな人にでも教会は語りうるメッセージ、伝える救いが用意されている、これが聖書なのです。120人がそう語りだしたのです。スタートはこうだったのです。ところが私たちはそのスピリットを日本人的に、心情的に変形していっているところがないでしょうか。

この霊が注がれるというのは、これはイエス様の十字架と復活に非常に深い関係が有ります。ヨハネの福音書の16章を見ると7節のところに、イエス様は十字架に付けられる前に、弟子達にこういう風におっしゃいました。

「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします」

もしわたしが死んで、よみがえり、天に上っていけば、その時わたしは聖霊なる助け主をあなた方のところに遣わします。そのお方が来ると、罪について、義について、裁きについて世にその誤りを認めさせます。

皆さん、今この地上で誰が義について、裁きについてその誤りを正す事が出来るでしょうか。どんな風に真実がゆがめられ、白が黒といわれ、黒が白といわれる今の世の中かが、新聞テレビを見れば判ります。本当に白が黒といいくるめられる時代です。

本当に驚くべき時代です。悪いもの、目をひそめるべきものが最先端をいっていると言われ、政治家は黒を白といって上塗りしていく、こんな時代です。そして、それに影響されているのが私たちです。クリスチャンといえども例外ではない。

どんなに福音の教理をもってしても、私たちは義について、裁きについて過ちを正す事は出来ないのです。私たちの心の中に聖霊様の火が渦巻いて、イエス様に対する熱い思いが私たちの中にあって、この方を私たちが一心に見詰める、このときに初めて人々は私たちに触れて、その道がどんなにずれているか判ってくる。教会がその役割を持っている。

私たち一人ひとりがその役割を持っているのではないでしょうか。これがなかったらこの地上は果てしなく落ちていくかのような、怒涛のように崩れていくかのように見えて仕方がないのです。皆さん、どう思いますか。

私たちはきちんとした聖書観、世界観を、このみ言葉に立った時初めて持つのです。余にも物分りの良くなっているところがあります。ですからみ言葉はこう言っています。「その方が来ると裁きについて、義について過ちを認めさせる。わたしは全ての人に霊を注ぐ。」

全ての人に対して私たちはメッセージを持っているのです。この全てという時に、これは数的にすべてという意味もありますが、この続きを見ると、17節にはこうあります。「すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」

こうありますから、ここには若い者、青年、老人、娘、息子とありますから、老若男女あらゆる世代を全部含めて全てなのです。教会は全ての世代、全ての者にメッセージがある。そして、満たす霊が豊に満ち満ちているということであります。

私たちのこの教会にはミッション3000のビジョンがあります。あらゆる階層、あらゆる人々、あらゆる年代の人々に届くメッセージを具体化する。ただそれは概念的なものであってはいけない。もっと具体的に。そうあればこそノアの働きがあります。保育施設ノア、これは小さなお友だち、その若い母親父親達に対するメッセージの大事な取っ掛かりであります。

サッカースクール・エスペランサ、これはスポーツ好きの少年達の集まりです。子供達に「教会学校に来て座っていなさい。神様のみ言葉を聞きましょう。」と言っても誰も聞きませんよね。この子たちはサッカー場で走り回るのです。大声をあげて疲れきるまで走るのです。彼らに届くエスペランサの働きもとっても大事です。

190名の子供達が集まっています。1つの学校に何人行っていると思いますか。今子供達が少なくなって、100人も行っていないのですよ。だから、190人というのは二つの学校を併せた位の人数の子供達が来ているということです。そしてその背後には家族があるのです。ですから教会はこの子供達そして家族に届くための取っ掛かりをこうやって自ら作り上げた。

そして今作業所です。障害を持ち重荷を負っている子供達と家族に届くための働き。もっともっとたくさんいろんな働きがあっていいんですね。全ての人にわたしの霊を注ぐという時に、それは単に此処に福音のメッセージがあるという事ではない。それを具体的にこの人たちに信頼関係を持って、み言葉をはっきりと伝えて、私たちが何者であるか、何を目指しているかを、交わりを持って、福音のメッセージを人格を通して語るとき霊は伝わっていくのです。

ですから、この働きはとっても大事です。もっともっとどのような働きができるか。先日韓国チームが短期宣教という事でここに来ました。最後の夜の1日前の夜に此処で国際交流プログラムというのをやりました。

あの若者達、一人ひとりを見たら日本の若者達とあまり変わらないような彼らですが、彼らはここでテコンドーをやりました。大統領警備隊にいたという若者がテコンドーをやりました。その後で女性達が韓国歴代の王朝で王様に奉げる踊り、花踊をやりました。優雅だったですね。素晴らしかったですね。その後で韓国の村村で今も続いている鳴り物、太鼓をやりました。

私たちだったらどうですかね。「教会の中で空手、柔道ーーーやめときなさい。」「ここで日本舞踊、一寸ちがうなー。」と思いますねー。「此処で太鼓を鳴らすのは神社みたいだから止めましょう。」ということになります。

しかし、韓国の教会の器の大きさといいますか、自国の文化をきっちりと若者達に受け止めさせて、しかも、彼らは素晴らしい福音のメッセージを携えておりました。その後でさっといっせいに着替えてここに来た時に、彼らは、来週私たちは此処で一寸真似して披露しようとしていますが、ガスペルを披露しました。

いやー、この霊性、この素晴らしさ。私たちはこの可能性を見せられて初めて判ってきます。日本の文化には確かに仏教神道の、異教の要素がたくさん入っています。ですから、ついクリスチャンは退けていきます。でも私たちは同時に根無し草になってしまう。日本人であるかどうか判らなくなってしまう。

日本のものは全部悪くて、西洋式のピアノ音楽、オルガン奏楽が素晴らしい。そうすると、盆踊りの好きな人たちは絶対に教会に来れなくなります。和楽が好きな人は来れないわけであります。武道が好きな人は何か教会では罪人の集まりで、そんな趣味を持っていてはいけないように私たちを思わせてしまう。

私たちには何かそんな排他的なとこが有る。私はその晩本当に開かれたような気がしました。これを全ての人たちに私たちはメッセージを持っているのではないか。そういう風に感じました。もっともっとこのことについて私たちの心の門戸が開かれていったらいいと思いました。

「全ての人にわたしの霊を注ぐ。」今盆踊りが盛んです。この人たちが熱狂しているものを私たちは冷ややかに見詰めているだけでいいのか。この教会の中に、この人たちを取り込む何かが出来るのではないか。やはりそのように心が悶えないでしょうか。

私たちは全ての人に届くメッセージを持っている。囲碁は本当に素晴らしい。そういう面で一つの小さな破れを作ったかに思います。囲碁教室から導かれている人たちの心が本当に耕されているなーと思います。もっともっと輪が広がっていったらと思います。

次にメッセージもさることながらこの事実です。教会が世に対してメッセージを発信し始めたということ、このところが素晴らしいと思うのです。これをどういう風に表わしたらいいか。今まで閉鎖的な群れであった弟子の群れが突然に開放的な群れへと変えられていったというところです。

閉鎖的な群れ、閉鎖的であるということは内側に様々なよどみを生じさせていくなーと思います。まさに当時のイスラエルの民がそうでありました。彼らはイスラエルの一国が神様に祝福されれば良いはずではなかったのです。神様はイスラエルの一番の基礎であったアブラハムにはそうはおっしゃらなかった。

「わたしはあなたを祝福し、あなたを祝福の基とする。あなたの名は祝福となり、地上の全ての民族はあなたによって祝福される。」アブラハムもその約束を聞きました。イサクもその約束を聞きました。ヤコブもその約束を聞きました。先ずイスラエルが祝福され、全世界はイスラエルによって祝福されるはずでした。

ところが、まさにイエス様の時代、教会がスタートしたこの時代、イスラエルはその目当てを失っていました。彼らはローマ帝国の支配下にあって、内部抗争に明け暮れていたのです。教会にしろ、一つの群れにしろ、それが閉鎖的になるときに、決してそこで醸成されて真実のものが生み出されるよりは、それは澱んで、内側で様々な膿が発酵していくということであります。

サドカイ人とパリサイ派という二つの大きなグループがイスラエルにありました。彼らはこの時代に遡る事数十年前に血で血を洗う大抗争事件を起したのです。そして未だに彼らは二手に分かれていた。そういう時代に、イエス様がこの地上に生まれてこられたときに、彼らは共にイエス様を捕らえて十字架にかけた。

そして、生まれてきた教会を迫害しようとして内部抗争も起こった。世界の祝福となるどころか、彼らはこうして自らの中で苦しんでいたのであります。イスラエルには二つの湖があります。非常に象徴的なことですが、このガリラヤ湖と死海にたとえる事が出来ます。

ガリラヤ湖はヨルダン川の上流にあって死海はヨルダン川の最下流にあります。ガリラヤ湖は北のレバノン山脈からの雪解け水を受けてとうとうと水が流れ込んできます。しかしその水はそこから流れ出てヨルダン川を通って死海に流れ込みます。

ところが死海にはそこから先に流れ行くところがなく溜まる一方です。そして蒸発していく一方なのです。一方のガリラヤ湖は絶えず水が流れ込ていくので水が循環し、そこには豊に豊に魚がいるのであります。ペテロもヨハネも漁師をしていたのであります。漁業が盛んであったのであります。たくさんの魚がそこにはいたのであります。ところが死海は文字通り受け入れるばかりでそこは澱んでいき、死の海となっていったのであります。

非常に閉鎖的なグループがどんな事になっていくかを表わすのであります。この弟子達の交わりは3年以上にわたってイエス様と生活し、彼らはこの上ない訓練を受けたのでありますが、しかし、今彼らは一言も世に対して発信しない、閉鎖グループとしてそこにいたのです。

打ちのめされていたのです。彼らは何も世に対してメッセージを持っていなかったのです。持っていなかったかのようです。しかし、聖霊様が下られた時に彼らは11人が11人全員が立ち上がって、メッセージを語り始められました。このときに、澱んでいたものは一掃されて、彼らはフレッシュな清新な霊が彼らを覆ったのであります。

そして、全ての人が自分の語る人々に対して祭司の役割、神様の言葉を伝える役割を果たし始めたのであります。今一つの図でご説明します。これが普通の教会です。牧師が居られて、教会員がいます。礼拝をしているところです。今私たちも寸分変わらずこのようにしているのですが、この教会は牧師が語り信徒は聞く、或いは牧師が語り信徒は居眠りをする。そのような状態です。

来る週も来る週もこのようにして牧師は語り信徒は聞きます。そこのメッセージがいかに福音的であろうと、どのように霊的であろうと、牧師は語りつづけ信徒は聞きつづける、そうするとその聞いているメッセージが素晴らしければ素晴らしいほど慣れてきてしまうのです。

チャレンジが無くなってくる。「あら、先週の方が一寸素晴らしかった。」「今週は先生、一寸鈍くなっているんでは。」と批判家になってくるのです。「いやー、今日は聞き応えがあったぞ。」「今日は私が眠くなったところを見ると一寸鈍かったのではないか。」

もしこれが繰り返されて、何の意味があるでしょうか。たまに一人二人入ってきても、そこに澱んだ空気を感じて、たちまちにして同化させてしまう。これを繰り返している時、牧師は死に物狂いで、本当に主の前に静まってメッセージを用意しても、そして、信徒は牧師の為に一心に祈っても、でもそれが何をそこから生み出していくでしょうか。

そして、此処には言葉にならないメッセージが伝わっていきます。それは信徒は「自分達は決して牧師先生みたいにはなれない。」というメッセージです。そして牧師は「自分は何でも出来るんだ。」というメッセージです。「うちの先生は凄い。自分は駄目だ。」というメッセージ。駄目とは言わない、自分は何もする必要がない。そういうメッセージが伝わっていきます。

これが言葉のメッセージではなくして、無言のメッセージが伝わっていきます。週毎にそう教育されていくのです。自分達は座っているだけ、先生は一生懸命語ってくれる。そういうメッセージが伝わっていくのです。どこかで破れなければこれは閉鎖グループです。澱んでいきます。

そして信徒は段段賢くなっていくのです。たくさん聞きますから、いろんな本を読みますから段段知識が高まっていって、知識は人を昂ぶらせていくわけです。「あら。今日の先生のメッセージは神学的に同意できない部分がある。」とか、「自分の神学的視点からすると。」とかになってくる。内部抗争が始まりかねません。

こういう教会の何処に魅力があって、世の人々は来るでしょうか。という事になりかねない。繰り返し繰り返しこのことが行われていきます。しかし、この弟子グループは今敗れたのです。敗れていきました。どのように破れたか、それは牧師先生が外に行って、本郷台駅の前で拡声器を持って伝導したというのではないのです。

信徒達一人ひとりが自分の交わりの人々に対して福音を伝え始めた。それはセルを通して、ファミリーを通して、どのような方法を持ってしても信徒達が語り始めた。皆さんどなたかに福音を語ったことがありますか。語ったとたんにあなたは悟る事があります。未信者にあなたが福音を語ったとたんに、あなたは今まで決して知らなかったことを体験します。

それは、語った者でなければ判らないのですが、語った瞬間に自分のあり方がウッと正されるということです。自分はただ語ればいいと思っていたけれども、自分はその途端にこの人に対して牧師になるのです。牧会者になるのです。

体験がありますか。語らない人にはその責任を絶対に感じる事が出来ない。客観的に「聖書にはこう書いてあるみたいよ。」という風にはいかないのです。聞く人は必ずあなたを自分の霊の先輩として見るのです。あなたが真理の使者として見えてくるのです。語った人はその瞬間自分はただの友人だったのに霊の先輩になっていく。牧会者になるのです

後で此処に戻りますが、第1ペテロ2章5節にこのようにあります。「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」

これは誰に向かって言っている事でしょうか。誰が生ける石であり、誰が聖なる祭司なのでしょうか。これは一人ひとりに、今み言葉を開いているあなたに向かって神は語っておられるのです。あなたなのです。あなたが生ける石であり、あなたが霊の祭司なのです。

かって、マルティン・ルターはこの処に目が開かれました。「そうだ、祭司とはローマ教皇ではないのだ。ローマ教会のピラミッド階層の聖職者たちをいっているのではないのだ。貴族のような生活をしている聖職者たちのことをいっているのではない。信徒一人ひとりが神の祭司なのだ。」万人祭司という考えに目覚めた瞬間であります。

第1ペテロの2章9節にいきます。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」

誰に言っているのでしょうか。宣教師に言っているのでしょうか。牧師に言っているのでしょうか。全員、今このみ言葉に接している一人ひとりに主は語っておられるのです。しかし、何故しかしと言うか、私たちがしかしと言うからです。しかしに対し主はしかしとおっしゃる。

「あなたです。あなたです。あなたが選ばれた種族であり、王である祭司なのです。」「えー。俺。」しかし主はおっしゃるのです「あなたです。」と。

私たちの教会のファミリーの働き、セルの働きはまさしくこれを具現するための働きです。ひとりの人がもう聞いているだけではない。聞いた私たち一人ひとりが誰かに向かって牧師の役割をしていく。万人祭司です。

一人ひとりが聞いて、居眠りをして、適当に礼拝をして帰っていくのではない。私たちは聞いて、燃やされて、そして次には私たちは遣わされていって、誰かに福音を伝えて、牧師の役割を果たすのです。もう、居眠りをする人はいないです。立って語りながら居眠りする人はいません。私たちが誰かに福音を伝えながら、霊的に居眠りする人はいないのです。

私たちは伝えたら、その人を気遣うようになるのです。「伝えたあの人は受け取ってくれたかしら。」「伝えたあの人はどうだったかしら。私にこの間、反感を見せたけど、あの人はどうしたら和らげられていくでしょう。」「あの人はどうしたら真っ直ぐ核心に立ってくれるでしょう。」気遣うようになるのです。

先ほど申上げたこのお二人は心が痛んだのです。「語ろうと思ったのに、どうしたら伝えられるのか、なんと自分は。」と言い始めたのです。居眠りしている人は絶対にこのようには思わない。霊的に居眠りしている人はこうは思わないのです。

神学的にいうと、ルターはこう言いました。「語る事は出来ても、でも、絶対にこの問題は誰かに、魂に重荷を持ったときに起こる牧師の霊です。」そして全ての人が牧師であり祭司なのです。この図の矢印はいのちの流れを表わしている。いのちの流れとは私たち一人ひとりが誰かのところに遣わされていく流れのことをいっているのです。

この週、私たちは様々に遣わされていこうとしています。或る人は休暇で地方に出かけていくかもしれません。又残る人たちはファミリーをやるかもしれません。セルをやるかもしれません。この週は又サマーフェローシップが用意されています。このサマーフェローシップこそセルをやるための訓練の場所なのです。

どのように福音を語っていいか判らない人がそこで具体的に訓練を受けるのがサマーフェローシップであり、ハーベストスクールなのです。皆さん、この流れの中に居る事によって私たちはいのちの流れに入っていくのです。澱まないのです。

私たちが一つのところに留まる時に必ずそこから発酵するものを抱えてしまいます。流れの中にあるときに私たちは豊ないのちの流れに入る事が出来ます。


お祈りを致します。
天のお父様、感謝します。あなたが私たちを王である祭司、生ける石としてこの教会のミッション3000の働きの中で、いのちの流れの中に遣わしてくださいます。主よどうぞ私を用いて下さい。私が主をそこで決して得られなかった主の深い知識をいただく事が出来ますように。

お委ねして、尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン!