2003年8月17日 主日礼拝式
“イザヤ” 53章10〜12節

「“苦しみの後にあるもの”」

“月井博牧師” 宣教メッセージ

今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は イザヤの福音書53章10節から12節 です。旧約聖書の1114ページになります。

“イザヤ”
53:10 しかし、彼を砕いて、痛めることは、主のみこころであった。
もし彼が、自分の命を罪過のためのいけにえとするなら、彼は末永く、子孫を見ることができ、主の御心は彼によって成し遂げられる。
53:11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。
私の正しいしもべは、その知識のよって多くの人を義とし、彼らの咎を彼が担う。
53:12 それゆえ、私は多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物として分かちとる。
彼が自分の命を死に明け渡し、そむいた人たちと共に数えられたからである。
彼は多くの人たちの罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。

先週の火曜日に、私は非常にガクッときたことがありまして、それまで一生懸命取り組んでいたことが、ガラガラガラと崩れる感じで、「ウーン、これはだめかな?」と思ったんです。でもそういう希望を失いかけたところで、やっぱり主が語ってくださいました。「いや、この中で信じる。その中から栄光が表される。」そのように主の促しを受けて、なかなか信じられない状況だったんですけれども、信じることにしました。

そうしたら、もうその次の日あたりから、状況がグッと展開してきまして、本当に以前よりよい状況というのが生まれつつあります。そのような中で、主が私に語ってくださったことを、ちょっと皆さんと分かち合いたいという風に、今日は思いました。

この聖書ですけれども、今読んだ箇所は、はっきりとイエス様の十字架の姿を描写しています。でもこのイザヤ書という書物は、実際にイエス・キリストがこの世界に来られる約7〜800年前に書かれた書物です。イザヤという人はだいたい紀元前の740年から680年くらいまで生きていたと言われますので、その時代に書かれた書物が、このようにしてそれから8世紀たってから、今から2000年前、イエス様がこの地上に来られる時に、実際に実現したということです。

でもなんとなく、「後からこれは書いて付け足したんじゃないか?」と思えるくらい、その描写は明らかです。でも、実際にこれは、イエス様が来られる前の700年前に書かれたんです。私たちの持っている旧約聖書は、これはユダヤ、今のイスラエルの国の、ユダヤ人たちの持っている聖書と同じです。このイスラエルの人たちは、イエス様が来た時に、イエス様を拒んで、いつの間にか、この聖書に書かれているみ言葉を、預言を、成就させてしまったんです。

でもこのイザヤ書のみに関わらず、この旧約聖書全体、旧約聖書はイエス様の来られる400年前に既に書き終えてあって、完結していたんですけれども、それ全体がイエス・キリストについて書かれています。イエス様は言われました、「聖書は私について書いているのです。」こうはっきりと言える人はまずいないですね。ですから、旧約聖書全体が、イエス・キリストを証ししています。

そして、その中でもとりわけこのイザヤ書という書物は、イエス様についてさらに事細かな描写が描かれています。その1箇所ですけれども、10節のところを読んでみますと、こうあります。

“イザヤ”
53:10 しかし、彼を砕いて、痛めることは、主のみこころであった。
もし彼が、自分の命を罪過のためのいけにえとするなら、彼は末永く、子孫を見ることができ、主の御心は彼によって成し遂げられる。

「しかし彼を砕いて痛めることは主の御心であった。」ここで書いてある主というのは神様です。天の神様、唯一の神様、まことの神様が考えておられたこと、ご計画しておられたこと、ある意味で願っておられたこととは言えないんですけれども、その心の中心にあったことでした。

「もし彼が自分の命を罪科のためのいけにえとするなら」とあります。「罪科のためのいけにえ」、何かいかにも宗教的な言葉ですね。でもこの罪科、そしていけにえ。実際にはこの様子を見て、私たちがこれはいけにえなんだ、いけにえとは宗教的ですが、要するに身代わりの奉げ物です。

「この方が罪過のためのいけにえとなるところを、私たちが見た時に、心を刺されるように。」と神様は願われたのです。なぜでしょうか?罪過とありますけれども、これは私たちがしてきた様々な悪いこと、また、私たちが神の前にあって、ふさわしくない状態のことを言います。私たちは皆それを持ってるんですね。

どうして、ついそういうことをしてしまうのでしょうか?例えば、「つい嘘をついてしまう」、「ついある状況の中で盗んでしまう」、「ついきつい言葉で人を傷つけてしまう」、「また実際に暴力を振るってしまう」、「また極端な場合には殺人をおかしてしまう」、これが実際の私たちの身の回りの様子で、私たちの内側に起こっていることです。

なぜそういう風にしてしまうかと言うと、本来私たちの心の中には、私たちを創造された、私たちの創り主である方が住まうべき場所があるんです。でも、そこからその方を追い出して、代わりに別のものが、その心の中を占めていますから、様々な争い、葛藤、闘いがあるわけです。

これらのこの争い、葛藤、そういったものは、どこから来るんでしょうか?それは、本来私たちの心の中に占めるべきところを占めてるお方は追い出されて、そしてその代わりに、私たちの欲望と言いますか、願いと言いますか、希望と言いますか、そういうものがどっかりと腰を据えてるんですね。

「私たちがこうなってほしい」とか、「こうなりたい」とか、いろいろな願いや希望があるわけですけれども、「現実の世界はなかなかそうはいかない」、「そうは動かない」、そういうことがあるので、その狭間で葛藤が起こってくるわけです。心の中で闘いが起こってくるんです。そういうところで私たちは苦しみます。

ですから、私たちの苦しみの原因は、やはりそういう自分の内側にあるんです。「現実が如何ともし難い」、「こうありたい、と思いながらそうならない」、という状況、そこに私たちの人間の苦しみがあります。

あの仏教の開祖であるお釈迦さんは、「その辺のことを追及しよう。知ろう。」としたわけですね。「なぜ病があるのか?なぜ死があるのか?なぜ人は苦しまなければならないのか?」、そこの解決がなければ、いくら王子様として生きていても、そこになんの真の喜びも見出すことはできない、ということですね。それで求道の道に入ったわけですけれども、その結果として、結局開いた悟りは、それは無という世界ですね。これはある程度正しいと思います。

とにかくなかなか、「こうあってほしい。」、「こうなりたい。」、「こういう関係でありたい。」、そう願いながら、現実はそうでありません。それだけじゃなくて、そのくらいだったらまだいいですけれども、今度はそこに欲が加わってきますから、人間の間の関係と言うのは、民族と民族との間の関係にそのままなっていきます。民族間の争い、闘い、そういう人類の歴史は繰り返しです。

どこに問題があるかと言うと、「こうありたい」、「これが欲しい」、そういう私たちの内側にある、希望や、願いや、欲望の、そのもっと根底にあるのは、実は自分へのこだわりなんですね。お釈迦さんもその辺が見えてきて、やはりこれは無の境地を開かなければならない、と悟ったわけです。

でも、私たちの内に、自分が存在している限り、自分はやっぱりあるため、なかなか自分を押しのけて無になる、というのは難しいですね。私はそんなに自分にこだわっていませんが、「お国のためにだったら生きる用意があります」、「自分の宗教のためだったら殉教する用意があります」と言う人もいたりしますが、でもその人たちも実際には自分にこだわってるんです。

かつて私も、「自分の国のためにだったら死ねる。また必要だったら死にたい。」というふうに思っていました。けれども、それは、自分がいて、自分の家族がいて、自分の国があって、あくまで自分の延長上のことに過ぎないんですね。

イスラム教のために殉教する人、また自爆攻撃をする人もいて、「これをすれば天国へ行ける。」とか教えられたりみたいですけれども、でも自分があって、自分たちの民族があって、その辺の民族を超えてる宗教があって、ですからそのような行為をするわけで、やはり自分というものの延長上で行動しているにすぎないわけです。

ですから、なんと言っても、私たちの問題は、自分へのこだわりですね。これが、どこまでいっても、夫婦で長く生活していても、やっぱりどこかでうまくいかなくなったり、ぎくしゃくしたりする時に、どうしてもどこかで自分にこだわってるんです。ですから、なかなか歩み寄れないですから、「これをどうしたものでしょうか?」と言われても、どうにもならないんですね。

でも、何よりも私たちを創られた神様ご自身が、この問題を一番よく把握されておられました。私たちの心の中には、本来私たちを創造された方が住むべき場所があります。そして、その場所を再び回復するために来て下さったのが、いま聖書で読んだこの方です。

このキリストについてこのように書かれているみ言葉があります。ピリピ人への手紙の2章6節からですけれども、このようにあります。

“ピリピ”
2:6 キリストは神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
2:8 キリストは人としての性質を持って現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

私たちは、「なんとか悟りを開いて、無我の境地になれたらば、もっと生きることも、生活することも楽だろう。」と思うわけですけれども、そしてそんなことで座禅を組んだりする人たちもいるわけですけれども、でも本当の意味ではそうなれないんです。そこに、代わりにその場所に座る方と言うか、その場所を占める方が本当に来られない限り、どんと腰をおろしているその自己へのこだわりと言いますか、それを押しのけることはできないわけです。

でもこの方が、本当の意味でご自分を無にする必要のないお方でした。この「神の在り方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり」とあります。神の姿であられる方なのに、もしも神の姿であられる方であるなら、ご自分を無にする必要はないんです。

なぜかと言うと、神はご自身だけで清い方、正しい方、そして愛に満ちておられる方です。どこにも欠けのないお方です。ですから問題ないんです。無にする必要はまったくないんです。でもその方が、自分自身を無にした、とあります。そして仕える者の姿をとって、人間と同じようになられました。

先日ある若者と話していた時に、彼が言うに、新約聖書を一緒に読んでいるんですけれども、「聖書を読んでも、キリストがあれこれしたということが書いてあって、そして十字架に掛けられたっていうことが書いてあるだけじゃないですか?これに何の意味があるんですか?」というふうに聞かれました。

そうですね。聖書は、まあ、イエス・キリストが、「旧約聖書は私について書いています」と言っていて、新約聖書を読んでみたら、「イエス・キリストが生まれた時のことが書いてあって、そして実際に宣教を始めてから、どのようなことをして、そして十字架に掛けられて死んで、そして3日目によみがえった。」と新約聖書の方の大部分において書いています。旧約聖書もイエス・キリストのことを書いているとしたら、聖書全体がそれだけを書いてるわけです。でも、「誰の人生の書いているか?」、「どなたの人生を描いているか?」が問題です。

このイエス・キリストの、実際に新約聖書に書かれている歩みを見てみますと、皆この方のところにくる人々は、病を持った人、また、心の傷ついた人、皆癒されていきました。皆回復されていきました。足なえは飛び跳ねて帰っていくようになり、らい病人は癒されて、目が見えない人は見えるようになりました。

「ヘーッ!本当にあったのかな?」というふうに読むだけでなく、本当にそこに書いてあることをその通り読んで見てください。イエス・キリストからは命が溢れ流れ出ているのです。イエス様が実際死んだ女の子を死からよみがえらせました。また、死んで棺桶に入っている若者、墓場に連れて行く途上の若者を、その通りがかりの所でよみがえらせました。また、死んで、もうお葬式もして、墓に入れたその男性を、4日してからよみがえらせました。この方からは命が流れ出ていたのです。また、嵐に対しても、命じればピタッと止まりました。大自然も彼の言うことを聞いたのです。

そのような方はどこにおられますか?疑いの目を持って聖書を読んだらあまり意味を持って迫ってきませんけど、でも本気で読んでみてください。こんな方がいるんでしょうか?先ほど読んだ聖書の個所の通り、この方は神の御姿であられた方なのです。ですから命が流れ出ていたのです。この方は命の君なのです。命の源なのです。私たちの命の源である方なのです。目が開かれて読むならば、そのように読めるのです。

ですから、その命の源である方、命の君である方が、ご自分を無にしてこの世界に来られました。それはこの私たちの悲しい状態、苦しい状態、ここに解決をもたらすためでした。どのようにしてでしょうか?それは、私たちの一番本質的な問題、自分にこだわっていることからくる、様々な人を傷つける言葉、悪い言葉、またそこから、悪いことも、盗みも、犯罪もあります。この世界の悪いことといったら、枚挙しても暇がないくらいです。

また、イエス様は、人類が始まってから、またこれからの未来の人類に至るまで、その人たちが犯す罪をその身に引き受けました。なぜそのようなことができたのでしょうか?それは命の君であるからです。神様だけがそれをできるんです。神様だけが私たちと一体になることができるんです。神様があなたに語りかけておられます。私は、あなたが心を開くならば、あなたの心にはいるんだよと言っておられるんです。

ですから、この方だけが私たちの罪を全てご自分のものにすることができたのです。ですから、11節にこのようにあります。「彼は自分の命の激しい苦しみの跡を見て満足する。」この方の激しい苦しみというのは、もう言葉では伝えることができないんですね。

もちろん肉体的にもこの上ない苦しみでした。両腕に釘を刺されて、そして呼吸するというのは、そうしてぶらさげられた状態で呼吸するというのは、とっても苦しいことです。なかなか呼吸ができない状態です。しかも体の全体重がその両手の釘と足に刺された釘にかかっています。

でもこの方にとって痛みは、そのような肉体的な痛み以上に、精神的な、心理的な痛みの方がもっと遥かに大きかったのです。それは、この方が私たち一人一人が持っている悩み、苦しみ、痛みを全てその身に受けられました。しかもその悩みや苦しみや痛みは、自分たちはまるで被害者のように思ってますけれども、実際にはそういう自分の欲とか、願いとか、葛藤からくるであって、汚いものなのです。それらをご自身の身に全て受けられました。その苦しみは言い様のないものだったと思います。

ですから激しい苦しみの跡、肉体の苦しみよりも遥かに辛いものです。天の父もこの時までは、このイエス様が私たちの罪の身代わりとなるその時点までは、共にいてくださいましたけれども、汚いものを一手にその身に受けた方を、もう見守ることはできなかった、共にいることはできませんでした。なぜなら、神は清い方だからです。

ですから、お父さんと常に一緒だったこの方、イエス様はその関係が断ち切られました。これほどまた辛いことはないのです。ですから死ぬ間際に、このようにイエス様は叫ばれました。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」これ以外の箇所でわが神と呼んでいるところは他にないんですね。

イエス様にとって、父なる神と一体であった方ですから、いつもお父さんと呼んでいたこの方が、この場所でだけわが神と呼ばなければいけなかった、それは切り離されたからです。これは何にも増してこの方にとっては心理的に痛いことでした。徹底して痛みを通ったんですね。

「彼は自分の命の激しい苦しみの跡を見て満足する。」にも関わらずです。ここに満足する、という言葉があります。もちろんこの方は私たちのために徹底的に痛みを通った方で、そして死後を体験された方です。これは命の君だからこそできることです。他の誰にもできないことなんです。

だから、イエス・キリストが十字架につけられた、というのは意味のあるのです。でもこの方が3日目によみがえりました。よみがえった方だからこそ、「自分の激しい苦しみの後を見て満足する。」と言っておられるわけです。他の聖書の箇所に、このように言っている箇所があります。ヘブル人への手紙にこうあります。

“へブル”
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。
イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをもものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

注目したいのは、「イエスはご自分の前に置かれた喜びの故に」と語っているところです。イエス様はこの激しい苦しみの中を通りながらも、でもご自身が見ておられたのは喜びです。喜びをしっかりと見つめて、この方はこの激しい痛みを通られたのです。それはどんな喜びでしょうか?

それはこのことによって、ご自身がもっておられるこの神の命、限りない命、豊かな祝福された命、その命が人類に流れ出るようになるからです。その意味で、十字架は神の命の流れ出る場所です。ですからイエス様は、その喜びにだけ目を留めて、激しい苦しみの跡、苦しみを通られました。この神の命は私たちのものです。

本来神様が占めるべき場所に占める自分へのこだわりを押しのけて、占めていただく方はこの方です。ですから、こう言うんですね。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」この方があなたの、その自我へのこだわりを置き換える方です。

クリスチャンの信仰というのは、どれだけ自分へのこだわりから自由にされてるか?、ということで、その人の信仰が計られます。また逆に、どれだけその人の心にこの方を見つめる目がしっかりとしているか、そのことによって私たちの信仰の度合いが計られます。

「私の正しい僕は、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼が担う。」私たちはこの十字架につけられたイエス・キリストを、自分の罪のためだったと見て心が刺される、その人を神様は神の前に正しい人としてくださるのです。そして神の前に正しい人とされた人はもちろん、そのようにして十字架から流れ出る神様の命を体験して生きていくことができます。

でもどのようにしてその神への血が私たちから流れ出るのでしょうか?クリスチャンになったからといって、問題や困難や、また悲しみや苦しみから、いつも自由であるというわけではありません。でもそういう問題が、また困難が、苦しみが起こってきた時に、私たちはそこから逃げなくていいのです。神の命が流れる原則は同じです。その中に留まるのです。

世の中にはいろいろな苦しみがあります。「会社が倒産した」、「病気が辛い」、「結婚関係がもう破局を迎えている」、「自分は何のために生まれてきたのかわからない」、いろいろな苦しみを通りますけれども、どうしても私たちがすることは、その苦しみから逃れようとして、逃げようとするんです。

自殺も、ある意味で、これは逃避ですね。ある人たちはそういう現実の苦しみから逃れたいがために、麻薬などに手を出します。なんとかして苦しみから逃れたいというふうに考える、逃れる道を探します。でも苦しみの中に留まる、しかもイエス様がここでなされたように、希望を持って留まる、喜びを見て、その苦しみの中に留まる、そこから神様のわざはなされていきます。

私たちはいろんな讃美を教会でしますけれども、そういう賛美のいくつかを作った日本人がおられます。岩淵まことさんという方ですが、この方は、小学校の1年生になる娘さんが、ある時に脳腫瘍だという風にわかったのです。そして、すごく落ち込みまして、もう今から17〜8年も前のことですが、でもその時にこの岩淵まことさんは、既にもうクリスチャンになっていました。

そしてその中で本当に夫婦で心を合わせて祈り、真剣に取り組んだんです。この娘さんは、あきこちゃんというんですが、あきこちゃんのために祈り、また一緒に祈って、何度も危篤の状態になるんですが、その状態を何度も回復して、2年後位に天に召されていきます。

でもこの子が、最後の会話は、お父さんがあきこちゃんに「あきこ、イエス様が見えるかい?」と聞いた時、そしてこの子が「うん。」と言って、そして天に召されたということです。イエス様を見て、目を離さない、そういう親子の交わりの中から、彼は天に召されていったんですけれども、それは本当に悲しいことですけれども、でもその中で彼は歌を作りました。「父の涙」という歌です。ちょっと読んでみますと、

「父の涙
心に迫る父の悲しみ
愛するひとり子を十字架につけた
人の罪は燃える火のよう
愛を知らずに今日も過ぎていく
(本当に愛を知らないんですね)
十字架から溢れ流れる泉
それは父の涙
(でもこれは神の命でもあるんです)
十字架から溢れ流れる泉
それはイエスの愛
父が静かに見つめていたのは
愛するひとり子の傷ついた姿
人の罪をその身に負い
父よ彼らを赦してほしいと
十字架から溢れ流れる泉
それは父の涙
十字架から溢れ流れる泉
それはイエスの愛」

最愛の娘を失うということは、大きな悲しみだった、と思いますけれども、でもこの歌の中に私たちがはっきりと見て取れるのは、その大きな悲しみの中にあってもっと知ることができた神様の愛、そして神様にある平安です、希望です。今もこの岩淵まことさんはあちらこちらに神様の愛を述べ伝えて、讃美しています。最後に、こういうみ言葉があります。

“Uコリント”
7:10 神の御心に添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。

とあります。神の御心に添った悲しみは救いに至らせるというんですね。でも世の悲しみは死をもたらします。実際にそうですね。でも、「神の御心に添った悲しみ」と、「世の悲しみ」と、何か違いがあるんでしょうか?ないんです。悲しみは悲しみ、同じなんですけれども、でもそこで私たちが神様の前に出て悲しむならば救いに至り、またそこに大きな慰めと力がある、ということです。

ですから、これはただ単に、私たちがどう立つかによって違うんですね。でもこれは命と死を分けます。苦しみもそうです。私たちがどう立つかによって命と死を分けるのです。ですから、この命をいただいている人たちが、命を流しながら生きることは大切です。あなたがこの命を流して生きているならば、悲しみの中にある人、苦しみの中にある人が命に触れることができるのです。

私たちのためにご自身の命を、激しい極みの痛みを苦しんでくださった方、この方に目を留めているならば、私たちはどのような苦しみの中も通ることができます。希望を持って、信仰を持って通ることができます。そこに神様は考えられないような奇跡をなされます。この神様の命に、さらに触れて生きていこうではありませんか?


お祈りを致します。

愛する主よ、あなたが苦しみと痛みの極みを通ってくださったことをありがとうございます。私たちはあなたに目を向けます。あなたを見つめます。どうぞ主よ、その痛みが自分のものであったことを私は覚えます。どうぞ主よ、私たちが遭遇する困難や試練の中で、あなたが信仰と希望の中に生かしてくださって、どうぞ私たちを勝利者としてくださいますようにお願いいたします。

尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン!