2003年8月31日 主日礼拝式
“コリントU” 5章13〜16節

「“キリストの愛が取り囲んでいる”」

“池田 博牧師” 宣教メッセージ

今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は コリントU5章13節から16節 です。新約聖書の320ページになります。

“コリントU”
5:13 もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。
5:14 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。
5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
5:16 ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。

はい,聖書は以上です。先日忙しい最中に私の兄嫁が突然死でもって亡くなりまして、21日、22日の木曜金曜と私と兄弟達が行って、泊って葬儀をしてきました。その時に私にとって甥っ子になる兄の長男と夜にゆっくりと話す機会がありました。

彼は電子工学を専攻し、大学院まで行って、今の最先端のIT産業それもアメリカの大きな会社に就職が出来て、とても喜んでいました。好きな事が出来るといって打ち込んでいたのであります。

でも、皆さんIT産業の不況の波が押し寄せてきました。その中で、アメリカははっきりとしているといいましょうか、突然リストラに遭う事になり、本人はその前に希望退職いたしました。そして今、それに近い日本企業に勤めていますが、その彼といろんな話をしていたのであります。

彼は30代なかばを過ぎていますが、まだ独身なのです。「誠、君はまだ結婚していないんだ。」と言いますと「叔父さん、結婚は出来ませんよ。」と言うのです。「どうして。」「どうしてって言ったって。こんな不況の時代に、混沌としている時代に、僕は結婚に対して全く責任を果たせないです。

結婚して家庭を持って、家庭を守るとか子供を育てるとかいう事を考えたら、これからの将来、この時代、この社会がどうなっていくか全く見えない、混沌としていますから、責任を果たせません。ですから結婚できません。」そう言うのです。

「あー、そうか。」と思ったりしたのですが、彼は本当に真面目に仕事に生きている人間だという事を改めて感じました。いろいろ話していきましたが「ところで、叔父さんはもう年金を貰っているの。」とこう言うのです。

退職していれば60から貰えたでしょうが、「65になったので現役だけれども少しは貰い始めたんだ。」と言ったら「あー、いいですねー。僕なんか厚生年金を取られるばかりで、自分が年いったときには貰えるという保証は何処にもない。もう確実に貰えないでしょう。年金は破綻するでしょう。」と彼は言うのです。

「なるほどそうかなー。」と思ったりしましたが、親も心配し周りも心配してくれるけれども、それでどうにかなるわけではない。世の中益々暗澹たる中にのめり込んでいってしまう。何の見通しもない。そして、「正直なところ自分でもどうしていいのか判らないんだ。」

そんな事を淡々と話すのです。私も「なるほど、なるほど。」と思いました。今失業率も高いのですが、若者がフリーターとか、定職についても何時首になるか何時会社が駄目になるか判らない。そんな中でまともな職につく事への不安、恐れというよりも、それをする事に対する気力を失い、惰性に生きている。そういうものを感じる気がいたしました。

厳しい時代なのだと改めて肌で感じたのであります。そんなことを討論する中で、時間かける中で、少しずつ心に触れることが出来るようになって、「叔父さん或る意味で幸せだね。」と言うのです。「自分の中にしっかり自分の生き方を確信できるって素晴らしいなー。」「一度教会に行ってみたい。」と言うのです。

そんなことで話が済んだのですが、でも、なんかこう私の中に残りました。本当に日本を含めた世界が同じだと言っても良いと思いますが、今がどういう時代なのかという事を改めて感じないではいられない。

でも、そんな事を考えている時に、同時に私の中には「それでは、何時どの時代に全て良かった、誰もが充足し誰もが幸せに暮らせる時代があっただろうか。」「それもなかった。」「聖書を見ていくならば、いつの時代も、罪を犯して堕落したその最初から、世界は混沌とした中に置かれていたんだなー。」という事を改めて感じました。

人類が最初に混沌の世界に入っていったのはノアの洪水の時であります。創世記の6章5節を見ますと「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」とあります。もう、この時に人々がどんなに悪を計り、罪が増大していったのかという事がはっきりと描かれているのです。

やがて、その時代を救う道はただ一つ、洪水によって滅ぼすしかない。そして新たにノアの家族から人類を再生しようと、神の哀れみの手がそこに伸べられたのだとあります。しかし、ノアの家族が生き延びていきますが、でも、創世記の11章を見るならば、やがて地の表に人々が満ちていった時に、又そこでもこういうことが書かれています。

11章の3節。「彼らは互いに言った。『さあ、れんがを作ってよく焼こう。』彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。『さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。』」

バベルの塔を築いた事であります。そこにあるのは何か。それは神に対抗して己を神として、人間が昂ぶって、塔を築いたということであります。それを神がご覧になって、これまた人類が自らを滅ぼすという事のゆえに彼らを散らして、言葉が通じないようにしたという神の処置がそこになされている事が書かれています。

それが人類の歴史。そして、それに近い事がずーっと起こって、繰り返されているという事でもあります。旧約聖書のゼパニア書を見ますと、具体的にはバビロン捕囚という紀元前600年ごろの事が背景としてありますが、でもそれは1つの時代を象徴して全時代にも共通する事として預言者が語っているところであります。

その1章14節以下を見てまいりますと「主の大いなる日は近い。それは近く、非常に早く来る。」とあります。この主の日が近いという事が旧約聖書には繰り返されるのであります。主の日、それは終末、終わり、神の裁き、それが来るということが繰り返し預言され、繰り返し宣言されています。

その主の日が近いと警告しているのです。そして、その15節を見ますと「その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、やみと暗黒の日、雲と暗やみの日、」と預言されています。さらに「わたしは人を苦しめ、人々は盲人のように歩く。」と書かれています。

これは、時代を象徴し、歴史も象徴しているのかなとも思います。荒廃と滅亡の日、やみと暗黒の日、暗闇の日が続くとあります。そして人々は盲人のように歩く。私は何か象徴的な表現のように思いました。

盲人、それは暗闇の世界です。そしてそれは道を失った姿、そして又向かう先が見えない姿。それを象徴していると思います。そのように人々は迷っている。人々は行き先が判らないんだとあります。それは終末に向かう過程でもある。そう預言されているのであります。

しかし、聖書はそこで終わっていない。その宣告で聖書は終わっていないのです。それで終わったらノストラダムスと何ら変わらない。その先のゼパニア書3章14節を見ますとこうあります。「シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。」

そして17節「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」

時代は暗黒であって、時代は暗闇に向かってただただ進んでいるだけである。しかし主はその暗闇の世界に光を投じて下さって、救いをそこにもたらして下さって、「シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。」と言ってくださって、宣言して下さって、救いの手を延べて下さる。

だから、主はあなた方の只中にいて下さって、救いを成就してくださるゆえに「あなた方は喜び楽しみなさい。その愛によって安らぎが与えられるのですよ。」と言ってくださっているのです。

自らを罪に渡してしまった人間は、己を良しとし、己を義とし、己を神としてしまったゆえに、彼らの刈り取り、彼らの最後は滅びしかなかったのだが、神の哀れみが、神の救いの手がそこに伸べられて、彼らに新しい希望の光が神の側からもたらされた。素晴らしい救いの希望が与えられている。

旧約聖書の中に繰り返しその事が述べられています。そして、その希望はイエス・キリストに於いて成就し、そのイエス・キリストに於いて完成に向かって大きく開かれたという事であります。そんなことを深く思わせられています。

この度、本当に私達は恵みのチャンスが与えられました。ニューヨークからビル・ウイルソン先生をお迎えする事が出来ました。前前から特に恵賜師の心の中にその思いが興され、祈って取り組んできた中から、本当に突如として、思いがけず、素晴らしい恵みの機会が与えられました。

皆さんも、それぞれいろんな恵みを頂いたと思います。最初は250人という枠を設けたのですが、到底入りきれないし、受け入れてほしいという要請もあって、結果として400人以上の方がみえました。本当に陰で仕える奉仕者の皆さん大変だった事ですが、本当ににこやかに仕えてくださいました。一生懸命仕えてくださいました。

出来る限り仕えてくださって、本当に嬉しく思いましたし、それ自体の恵みもあったかなーと思います。それぞれメッセージの中で語られたと思います。それぞれ決断させられる事があっただろうか。そういう風に思います。

私もそうです。様々な恵みを頂き、チャレンジを与えられました。そして今、この時点で私の心を捉えている大事なみ言葉がありました。それが最初読みました第2コリント4章14節のみ言葉でありました。それは私の心を深く捉えました。

「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。」これはビル先生がメッセージのある個所で語られたところでありました。それは、「パウロの人生を支えたみ言葉がこれだ。」とビル先生は言われたのです。

私は、皆さんの多くもそうだと思いますが、パウロの生涯を支えたみ言葉、出来事、それは何といっても、使徒の働き9章に出て参りますダマスコ途上の経験であろうと思います。あの電撃的な経験。「あんな経験が出来たら僕の人生ももっともっと素晴らしいものに変えられるのになー。」と思うようなところでもあります。

そこにこうあります。

“使徒の働き”
9:3 「ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
9:4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。
9:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
9:6 立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」

そして、告げられた事は15節にこうあります。「しかし、主はこう言われた。『行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。』」

この事こそ、パウロを教会の迫害者、キリストの迫害者から一転して弟子であり、奴隷として喜んでキリストに仕えていった原点であり、原動力であったといえる所であります。彼はどんな事があっても、どんな苦しい時にも、命の危機に瀕する事があっても、「あのときの復活の主が共にいてくださる、あの時語ってくださった主は今も共にいてくださる。」

それは彼を支えていたはず。そして、どんな時でも、あのところに戻っていくならば、此処に回帰するならば、そこで又力を得て、希望を与えられて、やり直す事が出来るであったろう。何といってもあの復活の主に出会ったダマスコ経験こそパウロの全ての原点であったといえる。そう思いつづけていた事でも有りました。

しかし、ビル先生は「あれは確かに大事な経験であったけれども、でも、パウロの根底を支えていたものは、それではなくしてこれです。『キリストの愛が私を取り囲んでいるからです。』これです。」と言われる。

私は衝撃でした。そして、同時に深く心に刻まれました。納得しました。「成る程そうであろう。」私の心はそこで又震えた事でもありました。

「キリストの愛が取り囲んでいる。」このところでありますが、他の訳を見てみますと、例えば新共同訳では「キリストの愛が私達を駆り立てているのです。」と訳されています。素晴らしい訳だと思いました。又口語訳では「キリストの愛が私達に強く迫っている。」と訳されていました。リビングバイブルでは「キリストの愛に動かされている。」とあります。

「取り囲んでいる」というのも素晴らしいのでありますが、「駆り立てられている」私が何かしようということへ駆り立ててそこに押しやっている、それがキリストの愛だといっているのです。

パウロの生涯を見ていくならば、今第2コリント5章の14節をみていますが、その先の11章を見るならば、どんなに彼が試練から試練を通ったかということが良く得判ります。11章22節以下を見るとこうあります。

“第2コリント”
11:22 彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。
11:23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。
11:24 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、
11:25 むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
11:26 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、
11:27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。
11:28 このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。
11:29 だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。
11:30 もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。

仮に私がこんなところを通ったならば、もうたちまち「牧師辞めます。」と辞表を出したところかなー。誰もこんな辛いところを耐えられるか。どうして神様は此処までたすけの手が伸べられないのだろうか。いつも心の中はそのように蠢いていたのだろうなーと思います。

パウロはそこでの弱さを感じたけれど、でもその弱さの中にあって、彼を駆り立てていたものは「私を取り囲んでいるキリストの愛だ。」改めて、愛が現実のパウロをどれほど深く捕らえて動かしていたかを感じないではいられなかったのです。

でもまた、皆さん、愛と一言で言いますが、キリストの愛とは私達が考える愛の定義とは違うであろうと思います。私達が考える愛は、愛がもしそこに湧き上がってくるとすると、そこに愛するにたる価値があるゆえに愛が湧き上がってくるでしょうか。愛するという行為がやがて愛がそこに返って来るという見通しがある。

愛するゆえに返されてくるであろうか。常に私たちの愛は相対的で、必ずそれに足る何かがそこにあるゆえに愛する条件付の愛であり、もっとはっきり言うならば自己中心の愛です。自己愛です。私達が愛というならば、「最早それ以上のものではないなー。」という風に思います。

でも、此処で愛というときに、パウロの心の中を支えていた愛は、他のところではっきりとこういう風に言っています。ローマ人への手紙の5章8節でパウロはキリストの愛がどういう愛かをはっきりと言っています。

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

私達は本当に罪人だと思わずにはいられない。愛が何であるかを探っていった時に、自己愛、自分に何か価値があるゆえに愛するしかない愛、もしそれが報われなかったり、それが結果として空しくなった時には、私たちの愛はたちまち消えるだけではなくして、憎しみにすら変わっていき、その相手に何をしてしまうか判らないほどに私たちの愛はそんな愛でしかない。

直ぐに変質してしまい、直ぐに憎しみに変わってしまう愛でしかない。そんな私達は心を探ってみるならば、身近なものにさえその人を裁くでしょうか。その人に怒りを持つでしょうか。さらには悪すら計ってしまう者、そうですね。

むしろ、赤の他人ならば拘わりない、でも、身近だからこそ、そこに怒りや裁きや悪を計る事をしてしまう、そんな私達。愛というけれども本当の所を探っていったならば、愛など欠けらも無いのかも知れない。愛はなくてはならない大切な大切なものであるということが判っていても、愛せない現実がある。それが私達。

神に対して、少なくとも、むしろ神を知るものにとって、知るゆえに私達はある瞬間からその神を信じない者になってしまう。何故ならば、信じたけれども、祈ったけれども、これだけの事をしたんだけれども、でも、神はそれに報いてくれない、答えてくれない、最早神は信ずるに足りないと言ってしまう。

それだけが残ってしまう。神など信じないと言って呪ってしまう。そんな私達。そんな目をもつ私達。あるいは、「神が愛ならどうしてこんな事が起こっているのか、神が愛ならどうして不幸がこの世の中にあるのか、苦しみや病気があるのか。」と言って文句を堂々と言っている自分。

誰しもが、例外なしに自分の事しか考えない自分の姿、それがまさしく罪人の姿。私たちの罪人としての姿であると思います。

ローマ人への手紙6章23節によるならば「罪から来る報酬は死です。」とあります。罪の結果、罪の罰は死とはっきりと宣言されています。であるとするならば、罪人である私達は皆が死刑囚、例外なしに死刑囚。そんな私達です。

自分の内側を探ってみたら、本当にドロドロした自分の姿が見せられてくる私達です。そんな私達、でもここに「私達が罪人であった時」と有ります。私達はキリストの光に照らされた時、み言葉に照らされた時、神の前に出た時に、改めて自分の心の姿がどんなに罪深いものであるか、罪人そのものであるかを知る。

でも、同時に、そんな私たちの為にキリストが死んでくださった。キリストが死んでくださったとあるのです。キリストはそこでは鞭当てるとか、正しい道を示したとか、矯正したとか、何をせよと命じたとかではない。死んでくださったのです。

黙って。何処ででしょうか。十字架においてです。私はその十字架の死を思ったときに、あの1冊の本を書かないではいられない思いに駆り立てられていきました。その中に、本当に、何処を見ても、だれを取り上げても自分の姿の二重写しを感じないではいられなくて、1冊の本になりましたが、キリストは死んでくださったのです。

そして、惨い惨い血が滴る苦しみの中から「この罪を彼らに負わせないで下さい。彼らを裁かないで下さい。彼らを許してください。彼らをわたしは愛しているからです。彼らを愛さないではいられないから。一人ひとりわたしの身代わりのゆえに許してください。」と主は言われた。

キリストの愛は十字架における贖いの愛。贖罪愛といいますが、身代わりになって自らの命をそこに捨ててくださったという贖いの愛です。

皆さん、その愛を深く知った時に、私たちの心は溶かされないでしょうか。私たちの心は突き動かされないでしょうか。「パウロを動かしたのはそれです。取り囲まれている愛です。」と言われた時に、私の心も「そうだ。然り。アーメン。」そう言わないではおれませんでした。

わたし達は聖餐式でパンと葡萄酒を頂き、「あー、今日の葡萄酒はおいしかったねー。」「パンも少し美味しかった。」とか。それはそれでいい事です。私たちは本当に美味しい葡萄酒とパンを頂きます。でも、イエス様が受けてくださった杯、それはそんなものではないのです。美味しい葡萄酒ではなかったのです。

杯。「この杯を取り除けてください。」と言われたその杯の中にあるものはドロドロとした汚れ果てた私たちの罪です。蛆虫です。汚れはて黴菌に満ち満ちたものです。それを一気に飲み干して下さった。それが十字架です。

私たちはそのようにして一から十まで全てわたしの代わりに受けてくださったイエス・キリストの杯のゆえに、私たちに注がれている愛を深く心に留めたいのです。

昨日、私たちはN姉妹を中国に送りました。ある方々にとって「また行くんですか。何度も行きますねー。良くいきますねー。」という感じかもしれません。けれども、姉妹は昨日も羽田から家内が託した手紙に対する返事としてメールを送ってくれました。

「登喜子先生、今搭乗口です。貴重なお手紙を拝見しました。私は出発させて頂けるだけで恵みです。今朝からずっと辛かったお腹も空港に来て突然楽になりました。これで飛行の気圧変化から助けていただけます。主のケアは至れり尽せり。このお方を思うと涙が止まりません。お仕えさせて頂けるなんて何と有難い事でしょうか。」姉妹の言葉です。

姉妹はやはりこのキリストの愛に突き動かされている。此処で送る時に、姉妹はニコニコしていました。にこやかでした。「おー、今日は元気なんだ。珍しく元気なんだ。」そう思っていました。でも、実際はそうではなかった。辛くて、本当に痛さを堪えている姿がそこにあった。そんな中にあってキリストの愛が彼女を覆っていたゆえに、私たちにはそのにこやかさが伝わってきたのだと思いました。

いつも、病気を抱えていて、最悪の事態が何時起こってもおかしくない中にあって、しかも度々物事が簡単に通じないあの中国の地において、何度も何度も危機に瀕しながら、でも、キリストの愛に突き動かされて、来て欲しいという叫びに、いのちのパンがなんとしても欲しいという前に、彼女はこの度も出て行きました。

キリストの愛に捉えられる姿がそこにあります。今日皆さん方一人ひとりにもキリストの愛が注がれています。あなたの人生で、あなたの今直面している問題、行き詰まっているんでしょうか、でも、キリストの愛があなたを捉えた時に、あなたに必ず糸口が与えられて、解決、勝利が与えられていくと信じてやまないのであります。主を見上げましょう


お祈りを致します。
天のお父様、今日もこうしてあなたが此処に臨んで下さって一人ひとりに愛のみ手を差し伸べてくださっている事を感謝致します。どうぞ、一人ひとりにあなたからのみ手に応答するものとして導いてくださいますように。

尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン!