| 2003年9月7日 主日礼拝式 “ヨハネ” 6章16〜21節 「“わたしだ恐れることはない”」 “池田 博牧師” 宣教メッセージ |
| 今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は ヨハネの福音書6章16節から21節 です。新約聖書の169ページになります。 “ヨハネ”
はい、聖書は以上です。今読みましたところから今日は「わたしだ。恐れることはない。」主から私たちにかけて下さる言葉に目を留めたいと思います。 この夏、休みを頂いて家内の郷里・沖縄に行きまして、10日間過ごしました。帰る前日、7日の日に大変な台風に遭いました。沖縄は直撃されまして、まる1日台風にみまわれました。滞在期間中Yさんの家に滞在していましたが、彼女の家は高層住宅で10階建ての団地で、その6階に住んでいました。 沖縄は台風銀座ですから建物は頑丈なのです。ですから瞬間50メートルを越える強い風が吹いたのですがびくともしないで、6階から一日台風を眺めていました。初めから、台風の目にはいって、また次に荒れていく全てを見た感じでした。 外を見ると、下では木が倒れ、枝が飛んで、看板が飛んでいるといった、すさまじい感じでした。バスは止まり、飛行機も全便止まったという大嵐だったわけです。でも、外には出れませんが、家の中は本当に安全でした。安全なところにいるという事を実感しました。 皆さん、私たちの人生にも嵐、思いがけない試練というものが色々と押し寄せてくるかなと思います。生きる事に行き詰まったり、絶望したりするといった嵐。或いは仕事上の行き詰まりといった嵐。或いは又精神的な悩み、人間関係に行き詰まる、或いは子育て、夫婦、親子家族問題。いろんな事で私たちは様々な嵐に見舞われるかなと思います。 そんな嵐に出会うときに、本当に私たちは翻弄されがちであります。そういうときに、私たちはどういう風に向き合うのか、受け止めて、それを乗り越えていくのか、これがとても大事な事だと思うのです。 先日西山栄二兄弟が突然交通事故で亡くなりました。本当に遺族にとっても、私たちにとっても大変にショックな試練であったと思います。私はかねがね信徒の方から色んな、突然の試練困難にぶっつかって、どうしたら良いか判らないという相談を受けたりします。 そんな事から、日毎の祈り、朝毎の祈りとして、信徒の皆さん一人ひとりに祝福があるように、今日が一日本当に祝福されるようにと祈り、また、信徒一人ひとりが災いに遭う事がないように、事故に遭う事がないように、病に倒れる事がないようにと、そんな祈りを毎朝致します。 いや、そうしないでは一日が始まらない。始める事が出来ない。そんな思いでもあります。そして、私自身が本当に真剣に祈る時に、そこが私にとっての第1の心に抱く平安の場所だなと思います。そんな風にして一日を始めます。 聖歌の472番“人生の海の嵐”というのがあります。独唱もしたいのですが、時間がありませんのでまた別の機会にさせていただきます。歌詞だけを一寸見ていただきたいのです。大変に素晴らしい歌詞です。 ♪♪♪人生の海の嵐に、もまれきしこの身も、不思議なる神の手により、命びろいし 人生の嵐がやって参りますが、でも、イエス・キリストはその時の避け所である。イエス・キリストは私たちの安全の場所である。イエス・キリストは私たちの防波堤になってくださる。 皆さんはイエス・キリストの内、そのような平安な場所を発見しておられるでしょうか。それを持っておられるでしょうか。そこにいつも逃げ込む経験をしておられるでしょうか。キリストは私たちにそうなってくださる素晴らしいお方です。 今日のみ言葉に目を移したいのでありますが、ヨハネの6章18節に目を留めたいと思います。ガリラヤの湖の事が書かれてあります。「湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。」とあります。 ガリラヤ湖は山に囲まれた盆地にあるので、時々やまおろしがあって、突如突風が吹いて、嵐がすさぶようです。ですから、漁師はいつも恐れていたのであります。この時も突然の嵐が押し寄せた。弟子達は船を漕ぎ出すにあたって、そういう事を心配し、お祈りをして船を漕ぎ出したであろうと思います。 でも、もしこの弟子達が「我々は漁師だから、このガリラヤ湖は隅々まで知っている。大丈夫だ。」と多寡を括って、祈りもしないで、船を出したとしたならばどうだろうか。イエス様は求めをしない者に対して、祈らない者に対して、助ける事は出来ないのです。
イエス様は「求めなさい、そうすれば、与えられます。」とおっしゃっています。一寸そこをみておきたいのです。マタイの福音書7章7節にこうあります。「 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」 これはイエス様がおっしゃった山上の教えの中の1つであります。多くの教えの1つでもあります。でも、このところはイエス様の教えの中核、中心の大事な教えでもあります。イエス様が私たちに多くを教えてくださった中でも特に心を留めなくてはならない事として教えてくださいました。 ある方は、この前にも主の祈りで唱えましたが、主の祈りの解説がこの処にあるんだということを言われました。「求めなさい、探しなさい、たたきなさい。」とありますが、それは祈り求める事です。そして、祈り求めるならば、主はそれに答えてくださる。 イエス様は私たちの必要を全部ご存知で、助けたいと思っておられるんだけれども、手をそこまで伸べるんだけれども、でも、私たちが祈らなければ、求めなければ、叩かなければ、助けようにも助けてあげようかどうか躊躇されるのかなーと思います。 それ以上に、更には、私の心の扉も叩いてくださっている。叩かれて私たちは戸を開けるならばとあります。「本当にあなたの方から求めなさい。あなたの方から私のところに来なさい。」と言われるのです。イエス様は決して私たちに無理やりに、私たちの意思を超えて、自由に入り込むという事は決してなさらない。 ですから、求めなさい。とっても大切な事だろうと思います。そのように私たちは祈る事を通して主に近づき、祈る事を通して主を体験し、祈る事を通して主と親しく交わる事のできるようになって、私たちの人間としての本来のあるべき姿がそこに出来上がっていくのです。成長していくのです。 ある方が「人間は祈る動物だ。」と言いました。これもうがった言葉かなと思います。人間だけが祈る事ができる。その祈りこそ人間を真に人間たらしめるものなんだ。すなはち、神の前にへりくだり、造り主なる神を、私たちは祈りを通して、そこに祈りのパイプが出来ていった時に、私たちのあるべき姿、そしてそれが本当に素晴らしいものに変えられていくかが、神様を通して、イエス様を通して与えられていくのです。 しばし、私たちは「どうあがこうが、駄目なものは駄目。なるようにしかならない。」といって、諦める生き方をしがちです。羽仁もと子さんの言葉によると、人間には「どうせ、駄目だ。」という諦めの黴菌が巣くっていると言うのです。だから、諦めという黴菌を捨てなければいけない、排除しなければいけない。あの方は生活しつつ、祈りつつこれを教えているわけです。 祈りがどんなに大切か、私たちにとって、それが私たちの心を、生活を、人生を豊にしていく大事な大事なものという事であります。 この弟子達が嵐に向かうわけですが、その前の16節を見てみますと、「夕方になって、弟子たちは湖畔に降りて行った。」とあります。既に此処に、弟子達が夕方から夜の過程の中で、不安とか恐れとか、何か問題が起こってくるであろうような予測がそこにあろうかと思います。 ですから、弟子達はそんな湖に向かっていくにあたって、祈りつつスタートしたであろうと思います。次の事として、この弟子達は祈って船を漕ぎ出したわけですが、どういう祈りをしたのかと、私はふと思いました。 嵐が予測できた時に、二つの祈りがあるかなと思いました。一つは嵐が来ないように祈ったか、或いはもう一つは嵐が吹いてもその中で守られるように祈ったか。どっちの祈りをしただろうか。それは判りませんが、その祈りがどのように主によって答えられていったかはこの先で判ります。 私たちが祈りをする時、この二つはとても大切なのかなーと思います。試練に遭わないように祈るのか、試練に遭ってもそれに負けないよう強くなるように祈るのか。皆さんはどうですか。先ほど主の祈りを致しましたが、その中では「我等をこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。」と祈りなさいと教えられています。 ですから「アーそーだ。」と判ります。私たちの祈りは先ず「こころみに遭わせないで下さい。試練に遭わせないで下さい。」と嵐が来ないようにと祈る事だと言えるのかと思います。強がりを言って「どんな事があっても大丈夫なように。」と無理をする事はない.嵐が来ないように祈りなさい。これが一つです。 しかし又、同じ聖書が別のところではこういう風にも教えています。それは第1コリントの10章13節になります。「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」 此処をみますと「あなたがたのあった試練は」と、それが前提になっています。ですから「試練はあるもの、避けられないものですよ」と教えてもいます。試練に遭わせないで下さいと祈る、でも、私たちはそう祈ったら最早、試練から治外法権になって一切試練は来ません、クリスチャンは特別です、という事ではなく、やはり試練はあるのです、ということです。 その違いもまた大きいのでありますが、その先に行きます。もう一つイエス様はヨハネの16章33節後半でこう言われています。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」 ここも、「世にあっては艱難があります。」と、それが前提になっているわけです。ですから、試練は避けられないものだということが前提になっていて、クリスチャンである無しに関係なく、あるものはあると此処に言われているのです。 しかし皆さん、その先が素晴らしいじゃないですか。「しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」とあります。これはイエス様の勝利宣言の言葉です。勝利宣言です。「世に対して、試練に対して、どんな事に対しても、わたしは勝利しました。」究極の勝利者です。イエス様はそう宣言して下さっているのです。 ですから、クリスチャンである限りに於いて、同じように試練はあるけれども、困難に直面するけれど、嵐はやってくるけれども、でも、私たちの主は既に、この嵐に勝利してくださった、試練に打ち勝ってくださった。究極の勝利者です。 私たちの戦いが勝利の戦いだという事が言える訳です。これは素晴らしい事ではないでしょうか。クリスチャンが私たち一人ひとりが持つどんな弱さや困難も、やがて、キリストに於いて勝利できる中に置かれている、約束されているということは素晴らしい事です。 皆さんの困難や試練の中にあって、どうしてよいか判らない事があるかもしれない。見えないかもしれない。にっちもさっちもいかない中に置かれているかもしれない。でも、主よ、あなたは「勇敢でありなさい。わたしは既に世に勝った。」と言ってくださっているではありませんか。 あなたのその勝利宣言にしたがって私を勝利に導いて下さい。そう祈る事です。私も毎朝そのようにして、信じて祈っている。その中で現実が変わらなくとも、主にあって、必ずその中に恵みを見出す事ができるとそう信じるのです。 西山さんの事故の死は本当に突然やってきて、本当に辛いものがありました。家族にとって本当に大変な事だったかなーと思います。私もその場に駆けつけました。でも、もうその時はほとんど即死状態でした。外見からすれば、傷はあるのですが、何故心臓は止まってしまっているのだろう、何故呼吸が止まっているのだろうと思えるほどに見えたのであります。 でも、ほとんど即死状態だという事を知った時に、本当に痛みました。昨日、葬儀が終わりまして、兄弟のお兄さんが帰る前に私のところに来られて、「その知らせを聞いた時、私の目の前は真っ暗になってしまって、ただ一人残された弟がこんな事で死んでしまうということで呆然として、どうしていいか判らない中に佇んでいました。 やっとの思いで此処にやって来て葬儀に出させて貰いました。でも、今私の心は不思議な平安が与えられています。不思議です。弟がクリスチャンになったという事をまもなく知りましたが、その時に、弟が変わっているのをみて『アー、良かったなー。』と思ってはいました。 でも、最後はこんな死に方で、と思ったりはしましたが、しかし、昨日今日の葬儀を通して、神様がどういう方なのかを知ることが出来て、本当に私は弟を通して心の中に何か光を得る事が出来ました。先生、本当に感謝します。ありがとうございます。」と言われました。 現実の問題は大きく圧し掛かっているのではありますが、でも、兄弟は素晴らしいあかしを残して天に帰っていかれた。いや、天に凱旋されたなと思いました。この地上に、人間的には本当に一杯な重い辛いものを持っているのでありますが、たった一点イエス・キリストによって私たちに天に開かれたパイプの上に私たちに希望が与えられる。素晴らしい事だと思いました。 私たちも、何時何処でどのようなそれ以上の試練に直面しないとも限らない中に置かれているのかなと思いますが、でも、イエス・キリストは究極の勝利者です。勝利宣言をしてくださったお方です。それ故に、私たちに平安を与える事のできるお方。 弟子達は、そのイエス・キリストを師と仰いでいました。嵐の中に祈ってスタートしましたが、思いがけない中に彼らはおじ惑いました。でも、その嵐の只中にイエス様は歩いてこられた。嵐の中、海の上を歩いてこられた。そして「わたしだ。恐れることはない。」と言われました。 誰が人間的に考えて嵐の中を歩けると考えるでしょうか。そんな事を誰ができるでしょうか。ただ一人、イエス・キリスト、ただ一人復活されたイエス・キリスト、ただ一人死を持って死を滅ぼして、復活して私たちに永遠のいのちの世界を開き、天国の門を開いてくださったこのお方、このお方こそが、嵐の中、嵐に全く支配されずに、嵐の中で翻弄されているものに「わたしだ。恐れることはない。」と言ってくださることが出来るお方です。 そして、何と不思議な事に「それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。」気がついたらもう目的の地に着いた。イエス・キリストにあることのゆえに困難が何時しか安易に解決されていく事になっていった。 思いがけない結果がそこに生まれてきた。それは私たちの計算では思い過ごしでもなんでもない、ただイエス・キリストにあることゆえに、キリストが私たちに開いて下さる世界、解決してくださる道筋であります。 その主が今日も私たち一人ひとりの主、あなたの主です。私の主として近づいてくれます。「恐れることはない。私である。」と。その主に名を呼んで近づきたいのであります。 お祈りを致します。 主よ、感謝します。この地上で最も惨めなあの十字架の中で、あなたは最後を遂げられました。でも、その中にこそ人類の絶望の中からの光、救いが備えられている事を覚えて、真に感謝致します。お一人お一人の上に主が臨んでください。 尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン! |