| 2003年9月28日 主日礼拝式 “マタイ” 24章14節 「“福音を宣べ伝える”」 “木島 正敏師” 宣教メッセージ |
| 今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は マタイの福音書24章14節 です。新約聖書の45ページになります。 “マタイ”
これは有名なイエス様の終末についてのお話しの中での大切な1節です。参加者も此処に数名来て下さっていますが、金曜日から、私たちは一般には祈りのミニストリーと言っていますエリア・ハウスが始まっています。 ウイークデーのコースと終末のコース合わせて五十数名の方が参加して学んでおられます。教会にはその他に、ハーベストスクールが今進行中です。木曜日ごとにハーベストスクール、日曜日ごとにビデオでもやっています。 そして、これらは春と夏と冬のフェローシップと言いますが、1泊の交わりと学びの時、祈りの時、その学びをした人たちの継続的な学びの為にあるのです。これら、かな言葉が一杯出てきて、プログラムが一杯あって、何の事やら訳が判らないと思われるかもしれませんが、参加された方々は皆さん「アー、これは本当に自分にとって、自分の奉仕にとって先ず必要な事だ。」と理解なさると思います。 全ては自分の為であるよりは、どうやって自分が受けたこの福音の恵みをきちんと判るように、混ぜ物をせずに次の人に手渡していけるかという備えの為の訓練のプログラムだという事が判ってくると思います。 決してそこで学んだ事を留めておく事は出来ないというプログラムです。私たちの教会にはたくさんのそういう伝道・宣教のための働きがあります。先ほど案内がありましたが、今日の午後1時半からこの地域を祈りつつ行き巡って、祝福の為に、又伝道の耕しの為に、祈りながら歩く“祈りのウォーク”があります。 そして又、サッカースクール“エスペランサ”、それからファミリーサポート“ノア”保育室、更に、いよいよ工事が始まろうとしている作業所“まってる”など、数多くのプロジェクトが目白押しです。 本当に教会はその点で「忙しいなー。」と思いますが、でもこの全てが、何の為に有るか。それは、この地域の人々とどのようにしても触れ合って、祈りつつ、その人々に奉仕の手、愛の手を差し伸べ、福音を真っ直ぐに手渡していけるようにと、そこに大きな大方針があるわけです。 これらを総称して私たちの教会では“ミッション3000”−この街を福音で満たすーの大ビジョンの中でこれを行っているのであります。ですから、更にこの中から、どのようにしてこの地域と世界に対して、私たちが福音を伝える事が出来るか、ユニークな働きが興されていくように、私たちは期待しています。 自分自身のことを言いますと、私は1972年に救いを受けました。非常に閉鎖的で24時間プライバシーのない寮生活の中で、イエス様を信じたものですから、たちまちに周りの人の知る処となっていきました。 興味を示す者、反感を示す者、同情する者、揶揄する者、様々でありましたが、幸いに私には一緒に救われた友がいました。月井教育牧師です。それで、二人で交わりを持ちながら、恐れる事を知らないで友人達に福音を語りました。 幸いにしてそれは多くの実りを得ましたが、後で考えると随分若さと馬力に任せていたなー、なんと自分は間違いをしたのだなーと判る事があります。その事は後でお話しします。 大宣教者パウロ自身も信仰をもって福音を語り始めて、彼も失敗して苦いところを通らねばならなかったのだなーと思います。使徒の働きの9章を見ると、そのときのことがこう書いてあります。彼がクリスチャンたちを迫害して、ダマスコの町まで行きました。 その途上で、イエス・キリストの光に照らされて、彼は真理を悟りました。その直後から彼は福音を語る者とされました。彼は聖書の知識を誰よりも豊富に持っていました。理解も進んでいました。ですから、たちまちにして、彼の中でイエス・キリストが救い主であり、この方によらなければ救いはない、その事によって聖書の全てを理解するようになりました。 そしてそのように語り始めたとの記述があります。使徒の働き9章22節に「しかしサウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。 多くの日数がたって後、ユダヤ人たちはサウロを殺す相談をしたが、」とあります。 自分たちの仲間で、不倶戴天の敵であったクリスチャン達を何処までも執念深く追い求めていくサウロ、そのサウロを彼らは信頼していましたが、彼が一転してクリスチャン側について、「イエス・キリストは救い主である。メシアである。」と語り始めたのですからユダヤ人達は驚いた。という事であります。それは、パウロだってイエス様に出会ったときに同じ事だったわけです。 ですがユダヤ人達はパウロが福音を語るのをみた時に「これは聞くべきメッセージだ。」と耳を傾けるよりも、「許せない。これは裏切り行為だ。」あるいは「差し出がましい事だ。」と見たのかなーと思います。それは理解できますよね。態度が一転したわけですから。 しかし、一方ではパウロの語り方、パウロのユダヤ人に対する接し方、そこにユダヤ人達の反感を買うような、うろたえさせるような、彼の中に語る愛の福音にそぐわない物が最初の段階であったのかなーと思います。 そして、ついにその事からパウロを受け入れないばかりでなく、殺そうと言うほどに反感を募らせていったとも思わされるところです。そうでないかも知れませんが、私にはそう読み取れました。それは、自分の中にそんな疑似体験があったからです。 でも福音は自分の内に留めて置けない、自分が主に出会って、この方によって本当に自分が救われた、イエス・キリストの血潮によってのみ自分が罪の裁きから免れ、愛を知らなかったものが神の愛に触れて、愛の人として生きていける希望を見出した時に、全く新しい生き方を自分が出来ると判った時に、この方の恵みを私たちは伝えないではおけない、語らないではおれないという迫りを皆さんお一人ひとり感じられたのではないでしょうか。 救われてそのまま黙ってしまった人を、私は今まで一人として見た事がありません。救われて直ぐ黙って、そのまま口をつぐんでしまった人を知りません。問題はその後で、一日二日たって、冷えていくということはあるかもしれません。 本当に救われた直後の、自分の中の大きな喜びの衝撃を活かさない手はないと思うんですが、私たちはそういう風に内なる迫りを感じるのです。これが福音を語る第1の理由かもしれません。 しかし、イエス様は私たちの愛するお方、私の信頼するお方、私の希望を置く方、私がその模範として眼を向けている方がおっしゃったのです。「あなた方は行って福音を伝えなさい。全ての者に伝えなさい。」とおっしゃったのです。でも、私たちはその部分に耳を傾けるのが中々出来ない者でもあります。 私たちはこの愛する方、この私の羊飼いである方、この方が「行って伝えなさい。」とおっしゃった言葉にもう一度耳を傾けたいと、この礼拝の中でそう思います。又この福音は“one of the いのちの道”ではないのです。この方以外には救いの名としては与えられていないとあります。 「わたしが道である。わたしがいのち。わたしが真理。」とおっしゃる方は「これは唯一の道です。」とおっしゃるのです。わたし達は時々そうは思っても、この救われていない家族、友人グループの中にいますと「あー、うちの主人には主人の行き方があるのよ。法華経でいいの。」「うちの息子はイスラム教でいいの。」という風に、それぞれの生き方があるのだから、私は私の道を選んだんだからと思うとすれば、これは大変なずれであります。 何故なら、救いは個々にしかない。よくこの事は批判を受けます。クリスチャンは独善的、他のものは全部間違いで自分だけが正しいと思っている。そういうそしりは受けるのですが、でも、本当の光に照らされてみたら、これは重大なことです。 誰かが水に溺れて沈もうとしている時に、そこに小さな板切れがあって「それで済むわ。」と思うか、自分には絶対に助かる浮き輪があって、これを投げてあげれば助けられたのに、投げてあげなかったとすると、それは誰の罪でしょうか。私たちはそんな理解が時々おぼろになってしまいます。 この間、私たちの教会に、もう一つの弟子訓練のプログラムであるMDCというコースがありますが、その授業の中で私は皮肉な実験をしてみました。お昼が近づいて、皆そろそろお腹がくーくーなっていました。おもむろに私は鞄の中からビスケットを取り出して、眺めて、私一人が食べ始めました。 そしたら彼らは「あれ、先生。」と言いました。「これは私が自分のために持ってきたので、誰にもあげません。」と言うと彼らは皆びっくりした顔をしていました。クリスチャンは同じ事をしようとしています。 私はいのちをもってこの方を楽しんで、この方によって私の心は熱くされて、この方に「ハレルヤ」と言って手を上げていながら、他の人にその宝を与えない。私たちはそのような愚かな事をしています。私は「実は、これは実験だよ。」と言ったら、安心したように皆ガバガバと食べてしまいました。 良いものはいい。問題はどのようにして人々に分かち合えていくのかという処にあります。その事を深めていきたいと思います。それはまた後の事です。 マタイ24章の14節に目を留めますが、「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」これはよく読んでみると驚くべき事です。 どのように驚くべき事か。それはこの私たちの今住んでいる世界には必ず終わりがあるという1つの聖書の流れがあります。昨日と今日と何が違うか。段段寒くなってきている。昨日は一寸湿っぽかったが今日は爽やかな日だ。当然の様に私たちは思いますが、イエス様は「必ず終わりが来る。必ず何処かで世界には終わりが来る。」と言われています。 それは沢山の前兆が此処に並べられています。飢饉だ、地震だ、戦争だ、民族対立だ、とあります。しかし、ここにあるのは、終わりが何時来るかを決める最終的な決め手は核戦争のボタンではない、大地震でもない、大災害でもない。 世界の終わりが来る決め手は福音宣教だ。全世界に福音が述べ伝えられるという事が決め手である。これは驚くべき事です。この世の終わりの鍵を握っているのは福音を伝えるべき我々だという事です。アメリカの大統領でもない、国連総長でもない。予測しようとしても出来ない地震の地滑りでもない。そういうものではない。 私たちが福音を全世界に述べ伝えることが、この世を終わらせる鍵である。イエス様は明示して下さったのです。これはどういうことでしょうか。これを文字通りにとると、こういう風に書いてあります。 「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」全ての国民にあかしされる。一国一国にあかしされると見る事が出来ます。それで私は少し統計を調べてみました。 ソ連崩壊後次々と国が生まれたりして、しょっちゅう数字が変わっていますが、今現在全世界には237の国と地域があるそうです。その237の国と地域を見渡してみると、今現在どの国にも例外なく教会があって、日曜日に礼拝が奉げられている。この事が何時実現したのでしょうか。 これは20世紀に実現したのです。イエス様が語られたのは紀元1世紀だとすると、2000年間そんな事はなかったのです。でも、20世紀後半になってこの事が実現したのです。全世界237の国と地域全てに教会が存在して礼拝が行われている。北朝鮮に於いてさえ、サウジアラビアでさえ、何処の国でも教会があって礼拝が行われている。 例えそれがショーウインドウのようなものであっても、そこに神の国は述べ伝えられている。これは驚くべき事です。ジャーもう終わりが来るのではないかと思われますが、このみ言葉の真意を私たちはもっと深く見なければいけません。 全ての国というのがマルコの福音書では“全ての民族”となっています。全ての民族という言葉に目を留めていきますと、Nationを国ととるか民族ととるかですが、民族ととると全く違う要素があります。「こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。」とあります。 民族も色んな数え方があるそうです。日本は単一民族の国だといいますが、よく見るとアイヌ民族がいます、大和民族がいます、沖縄の人を琉球民族ととるか大和民族ととるか議論の分かれるところです。色んな定義がありますが、ある宣教団体はこういうデータを出しています。 全世界を見渡した時に、全世界にはおよそ7000の民族がいる。正確な数字でいうと7148だそうですが。その民族のうちで福音がきちんと聖書と言う形で伝えられている民族は、旧約聖書新約聖書を併せた形で自分たちの言語で書店に行って買って読む事が出来る民族はたったの383だそうです。 7000の内の380でしかないのです。少なくとも新約聖書のみだと891だそうです。モンゴルではつい最近1998年まで新約聖書しかありませんでした。いまは新・旧約が揃いました。 部分的に、例えばヨハネの福音書だけだとかルカの福音書だけとかを持っている民族もいて、それは672です。合計すると既に聖書をどのような形でか自分の言葉で読む事の出来る恵みに預かっている民族は1950です。 つまり7148の民族の中で神様の言葉・福音に自由に接する事の出来る民族はたったの1950ということで、残り5200の民族には未だ福音は届いていないということです。英語を喋れるとか、スペイン語を喋れるとかいう人は別ですが。 それで、ある宣教団体は大きな計画を立てました。これでは世界の終わりは来ない、全世界に福音は伝えられた事にはならないという事で、ウイックリフという聖書翻訳を特別に中心としている団体は2020年までに残りの5200の民族全てに福音を伝える為に、言語翻訳を完成させるという大プロジェクトを今始めています。 誰がやるのですか。それは私たちの中からそれに携わる人が出ないといけないのです。聖書翻訳が緊急に必要とされていることです。少なくとも5200人の聖書翻訳者が出る必要がある。1つ新約聖書を翻訳するのに早い人で5年、遅い人で15年といいます。そのために奉げる人が必要だということです。 そして、それを助ける為の沢山な働き人が必要になります。こういう人が出て初めて、文字通り全ての民族に福音が伝えられていく事になるのです。この全ての民族にということは、特に私の心を捉えた部分です。 私自身の事をしばらく話させていただきます。私はモンゴルとシベリアの国境にあるツーバという地域が、1975年にこのチャレンジを受けた時以来、私の中から離れられなくなりました。 様々な統計とか資料にあたってみました。ツーバ族は人口30万の人々がロシアの中で自治共和国を作っている。そしてその一部は国境を離れてモンゴルにも住んでいて、トナカイと馬と羊を遊牧している。そんな民族であるということを知りました。 その当時、全世界でチャレンジがありました。本当に皆さん、全世界の教会が全ての民族に福音を伝える事によって、この世界が、イエス様が来られて、新しい世界が来る終末の時を迎えようと思っているのだったら、1つの教会が1つの民族の為にターゲットを定めて、祈り始め、この民族の為に何かが出来ないか祈りましょう。そういうチャレンジでありました。 私の中にはツーバ族のことがずーっとありました。それは1975年の事でありましたが、東西冷戦の最中でありましたから、そこには誰も外国人は入っていけませんでした。それから時代は下って1990年にソ連が崩壊しました。1992年にツーバ族の地域に訪れる機会が与えられました。 実際にツーバ族の地域に行ってみて、この地域が全く福音とは拘わりのなかった、イエス・キリストの名前さえ知らない地域である事を私は見ました。沢山の人々に出会いました。村から村に行ってみました。でも、一方で非常に大きな落胆も感じました。 何故なら、自分は一体何者かということです。日本では安楽な生活に慣れて、小さな子供を抱えて塾の先生をしていましたが、あの子供達を連れてきて、此処に住む事ができるだろうか。行く事すら凄く難しい土地です。モンゴルに行くにも容易ではなかった。更にその主都ウランバートルからツーバへ行くには1200キロを行かなければならない。 考えただけで気が遠くなる。そして、そこは居住許可証を取るのがほとんど不可能。そんな事を考えたら、あまりにもふさわしくない。そう思いました。何か落胆の思いを持って日本に帰ってきました。 ところが、主はそういう思いをもって祈っている時に、私の中に全く別な光を下さいました。それは自分が行くのではなくて、そのモンゴルでは急速に福音が広がっていましたが、そのモンゴル人たちを牧会・訓練する事によって、モンゴル人宣教師達がそのツーバの地域へ行けばよい。 これはいとも簡単。彼らは馬でも何でも乗っていくし、彼らにとってマイナス40度の寒さは昔から馴染んでいる寒さ。どんな不便も彼らにとっては当たり前の生活という彼らに委ねたらよい。そういう思いでした。それが結局私をウランバートルの牧会と教会開拓に向かわせる事になりました。主はそのように導いてくださいました。それが1995年の事でありました。 つい最近この8月にモンゴルから二人のお客さんがここに来て、皆さんと良い交わりを持っていただきましたが、彼らが良い知らせを持ってきました。皆さんが祈ってくださっている私たちのモンゴルの教会の中ににタシカナ臨在教会というのがありますが、この教会からツーバ族出身の女性が聖書学校で訓練を受けました。 私も聖書学校で彼女を教える機会がありましたが、彼女が今、知る限り初めての在外の宣教師としてツーバの地に行っていて、それを教会は支援しようとしている。思い返してみて、今年は2003年、これはあまりにも不思議な事だと思いました。 1975年ツーバのことを初めて聞いて、あれは難しいと思ったのがその17年後、更に11年たってこういう風になっていった。不思議だな、でも、素晴らしいなー。こうしてツーバの地に福音宣教が始まったなー。と思わされました。 民族が1つずつ福音に接していく、これはとっても大事な事だと思います。ですが、更に深くイエス様の思いを掘り進んでいきますと、マタイの14節24章のみ言葉はそれ以上にもっと深いことをイエス様が語っておられるんだなーということが判ります。 それは「すべての国民にあかしされ」という時に、全ての国民とは一人ひとりのことをイエス様は言っている。国民とか民族とか、十把一絡げのことを言っておられるのではない。一人の生きて生活をしている人々のことをイエス様は気にかけておられるのだということが判ります。 これは福音書の何処を見てもイエス様の1番の関心事です。一人という、あなたという一人の事をイエス様は言っておられる。考えてみれば当然の事です。私たち一人ひとりがいのちに至る道だ、確かにそうだと判る。或いは提示されて「はい、信じます。」と言えるか。それとも、自分はノーというかという、その機会が与えられなかったら、それは不公平です。そういう意味で、この一人ひとりがとても大事な意味かなーと思います。 こういう意味でいくと、別の統計を見ますと、全世界の25%の人、60億の人口の内の15億の人は福音を理解できる形できっちりと聞いた事がないであろうといわれています。日本はもっと厳しい状態です。日本には7765の教会があるということですが、一教会あたり15,000人から20,000人に福音を伝える責任がある。人口比で言うとそうなるそうです。 一教会が20,000人に一人ひとり福音を伝えると、日本に関する限り世界が終わりますが、現実は1教会当たり平均35人しか礼拝に来ていないといいます。私たちもミッション3000では足りないわけで、最終的にはミッション15000とならなければ、この福音は満たせない事になります。 でも、言わんとする事はこういうことです。私たちが相手にしているのは、塊としての人では無くして、一人ひとりだということです。聞いた人が正しく、私が伝えようとしている福音が命と死を分ける境目であるということを理解しなければいけないし、選び取れば即ありのままでイエス様の愛を私たちは体験する事ができるということを提示しなければならないということです。 だから、伝える人が鍵だという事です。私たちは情報を伝えているのではない、聞かせる為の機械的なメッセージを提示しているのでもない。それは、伝える人が本当に愛の中に生きて、そのようにそれを伝えるかどうかにあるわけです。 伝える人が鍵です。私は一番最初に申上げました。自分が福音を語り始めた時に多くの失敗をしでかした。学内で救われましたから、お互いが「俺」「お前」の関係でした。その中のある一人がイエス様を信じました。後には彼は献身をしました。 その献身に先立って、決意した時に彼は私に相談の手紙を書いてきましたので、私はアドバイスを書きました。それに対して彼は返事を送ってきました。その手紙を読み始めたときに、喜びで一杯になるはずでした。彼は救われて、献身し、その決意を私に伝えようとしている。 その手紙を開いた時、最初は喜びで満ちていたのですが、次第に手が震えて、わなわなとなって、思わず足の力が抜けて座り込んでしまいました。その手紙にはこうありました。 「お前は俺に福音を伝えてくれた。このイエス様の救いは本当に自分にとって必要だった。そして、自分はこの方に出会った時に喜びに満たされて、今日の自分がある。今この方に俺は全生涯を奉げて仕えようとしている。だけれども、お前には言いたいことが山ほどある。 お前はこの間の手紙もそうであったが、いつも俺に対して教えようとする。何か押し付けようとする。俺はそれにどうしてもいつも反発を感じながら、『でも自分が悪いのだ。』と思う戦いを感じていた。この際はっきりその事を言っておかなければならない。」と書いてあったのです。 思わずひざまずきました。彼をどんなに自分が傷つけていたのか。イエス様の福音を伝えながら、まるでさも自分が教師でもあるかのように、自分がイエス様に代わって彼に教え込んでいるかのように彼に押し付けていたのではないかなー。彼は本当にそれと戦いながら、しかし神様の哀れみで、その中から主の恵みだけを見詰めていた。自分の裸を見せられた気がしました。 皆さん、福音を伝えようとするあなたは眠り込んではいけません。あなたは語る必要があるのです。しかし、語った時に判ります。何と自分は肉の肉に過ぎないんだろう。この人を助けようと思いながら、その人を自分がコントロールしようとか、自分の思い通りに変えようとするとか、不思議な力を自分の中に感じて、相手はそれを自分が判る10倍100倍も感じて迷惑に思っているだろう。 そして、それが返って来たときに傷つきます。福音を語ろうとしていたのに、相手は自分からこんなにも傷を負っていたのだ。恥ずかしい思いがします。でも、これはどうしても私たち福音を語ろうとする者が現場で学んでいかなければならない事です。 自分は何と主の愛の示唆とはなりえないものか。座って学んでいけないものをこの現場で感じます。悔い改めて私も泣きました。震えました。もう語りたくない、人に触れるのが怖いとも思いました。 でも、主は優しくおっしゃいました。「そのあなたをわたしは期待しているんだ。」皆さん、私たちは学んでいかなければいけない。そして、私たちは語りつづけていく事によって精錬されていかなければならないのです。 ただ座っているならば誰も傷つけないし、そんな軋轢を感じないでしょうが、しかし、何も学ばない。私たちは一人ひとりの人に「どうやってこの兄弟姉妹に福音を伝えたらいいのか。」悩んで伝えようとする時に、初めて自分が何者であるか、この私を通して主が本当に圧倒的に働かれるんだということを学んでいくのです。 全てを奉げます。先ほど唄いました。だったら私たちはこのドロドロした事、失敗も奉げる。その時主は私たちに痛い思いもされますが、しかし私たちを通して圧倒的ないのちを人に注ぐ事がお出来になるのです。美しい歌で終わってはいけません。主は私たちに福音を語るように、出て行くように、主を飾るように勧めておられる。 このメッセージ、この迫りを私たちはキャッチ出来ると信じます。 お祈りを致します。 尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン! |