2003年10月5日 主日礼拝式
“エペソ” 2章1〜9節

「“恵みによる救い”」

“池田 博牧師” 宣教メッセージ

今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は エペソ人への手紙 2章1節から9節 です。新約聖書の342ページになります。

“エペソ”
2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、「「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。「「
2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
2:7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。
2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
2:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

はい、聖書は以上です。今日は“恵みによる救い”ということで、ご一緒に見てまいりたいと思います。最初に、最近読みました本で心に留まった処の一部を読むところからはいっていきたいと思います。

ロバート・フルガムが書いた「人生に必要な知恵は全て幼稚園の砂場で学んだ」という長いタイトルの本です。その本の強調点は簡単です。「人生如何に生きるべきか、何をなすべきか、どのように存在すべきか等という問題に対する答えは高度な知恵にあるのではなく、とても単純な知恵にあるということです。」

この著者は判り易い例話としてこの様なことを書いています。


「外に出かけたら車に注意しなさい。」これ以上無いほど単純な言葉です。けれども、或る時はその単純な一言が図書館に溢れる知識よりも貴い時があります。学位を幾つも習得しており、5ヶ国語を流暢に話せる人が、道路を横切ろうとして車に轢かれて死んでしまいました。

この人には博士の学位や5ヶ国語の能力よりも「外に出かけたら車に注意しなさい。」という言葉のほうがもっと重要な真理だったのです。
(うがった事を言っていますね。更に著者はこう展開していくのです。)
丁度そのように神を信じなさい。これは単純明快な大切な真理です。


その単純明快な真理を私たちはどう受け止めているのでしょうか。これを幼稚な事だと退けるでしょうか。そうではない。これ以上無い単純明快な真理です。そして、その真理に心を留め、その真理に身を委ねる事のできる人は、単にこの地上ではなく永遠にあなたに素晴らしい世界を開いて下さる、それが神です。

成る程、私たちは知識を得る、学問をする、さまざまな事を経験していく中で、ともすればそれによる知識や経験が単純な真理を退けやすい。そんな風に思います。

さて、今日の聖書の言葉ですが、まず、1節に目を留めてみたいと思います。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、」とこうあります。あなた方が神を知るということがなければ、罪が本当はどういうことなのかということは判らないでしょうということを言います。

まだ、罪を知る或いは罪を認めるということがなければ、正しく神を知ることも出来ないでしょうと言います。今のところは、まさにその事を指していると思います。

「あなたがたは」という書き出しがありますが、2人称の呼びかけではありますが、でもこれは全ての人、人類ひとり残らずが対象であります。全ての人間の誰もが罪科と罪の中に死んでいると聖書は断言している。大事な真理の言葉であると言えるかと思います。

「誰もが罪科と罪の中に」という言い方でありますが、それを少し及言して言えば、人間に1つの平等があるとすれば、それは、全ての人間は罪人であるという平等だと言うのです。どんな人間も例外無しに罪人であると聖書は言っている。この事もその裏づけの1つでもあるわけであります。

そういう意味に於いて、罪という下に全てのものが支配されているといえるわけであります。次のところを見ますと「自分の罪科と罪」という言い方がなされています。この罪科と罪というのはまさに人間は罪そのものに支配されていて、誰も逃れる事は出来なくて、そこに蠢いているのだという事の象徴の中にあるとも理解できるところであります。

でも、聖書は又罪科と罪を使い分けているところもあります。罪科それは行いの罪、行動による罪だとあります。罪というのはハーモレヂアという言葉でありますが、それは的外れという意味でありますが、もう少しいえば、それは傾向・性質ということで、人間は生まれながらに罪に傾く傾向・性質を持っている、だから結果として行動の罪がそこに起こってくる。

そして人間は、すべからく行動の罪があり、罪の傾向に支配されているのだとここで言われているのであります。更にその先を見ますと、「罪科と罪の中に死んでいた。」とあります。死んだ存在だとあります。よく、生ける屍といいますが、体は生きていても、生きている私たちの存在そのものが罪科と罪の中にしっかりと支配されきっているゆえに、最早、無力、死んだも同然、いや、死んでいると聖書はそう言っています。

同じ事をイエス様はこういう風な言い方をしています。そこに一寸目を留めてみたいと思います。ヨハネの福音書8章にイエス様はパリサイ人、当時の宗教家たちとやり取りをしているのですが、そのやり取りの中の最後の方の1節だけを読んでみます。34節です。そこにこうイエス様が言っておられます。

「イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」奴隷というのは主人の元にあって、主人の意のまま、そして奴隷は一切口出しは出来ないし、述べることも反抗する事も許されない。反抗した為に殺されても何の文句も言えない。それが奴隷。

あたかも、そのように、あなたがたは罪を行っている。その罪が主人となってあなたを支配していて、あなたはその罪から最早どうにも逃れられない。罪のもとにあって、罪に完全に支配された状態ですよ、と言っておられる。

もう1箇所、今度はパウロという人の言っていることに目を留めてみたいと思います。ローマ人への手紙7章18節19節です。パウロという人は神様を信じて、神様の律法、旧約のモーゼの教えを硬く守る人です。正しく生きた人。欠けなく行ったともいっている。そんなパウロであります。

でも、復活のキリストに出会いました。神様の光に照らされてみた時に、彼は律法を行っているその心の深い処に光が当てられて、自分の内側を見てみた時に、こういう言い方をしていかなければならないようになっていきました。

「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。」

此処に「したいと思う善を行わないで」とあります。私たちは誰もがそうです。例外無しに、よいことをしたいという心を持っていない人はいないわけです。そして、よいことが何であるか心の中で計る、良し悪しを判断する良心も私たちは皆備えています。

よかれと願う事をする、判断するその良心によってよき事をしようと願いながら、それをしようとする、誰もがそんな願いを持っていて、又それを行っていて、それによって、家族愛、兄弟愛、友人との友情或いは社会の一員として良かれと願い、よき事をしようと誰もがそう思っているのですが、

しかし、そう思っている自分の中に、そう思いながら、その良き事を願う心が、ふとした、或いは中傷誹謗が飛び込んでくるでしょうか、この人に良かれと思ってした事が、あまりいい顔をしてくれない、喜んでくれない、「余計な事をしてくれたわ。」となった時に、私たちの良かれと願う行動もその思いも一瞬にして消え去ってしまって、

心はあれほど良かれと願って、良心に恥じない事をしようと思っていたはずの心に怒りがでてくるでしょうか、許せない心が出てくるでしょうか。じっとしておられない自分の内側の疼きが、憎しみが、いろんな事が渦巻いてきてしまって、さっきまでの自分と今の自分の違いに、自ら驚く。

ですから、パウロは言うのです。「私には善をしたいとの願いがいつも有るのにそれを実行する事は出来ない、いや、それどころか、かえって悪をしてしまう。」善がなくはないけれども、善をしたいと思っているけれども、しなければならないと一生懸命頑張っているけれども、でも、出てくる言葉は呪う言葉、怒りの言葉、ぶちまける言葉、不平の言葉、批判の言葉。

そんな事がなんと一日のうちにも繰り返されてしまう事でしょうか。ひょっとした事から、私たちはそういう風に変わってしまう、そんな自分でしかない。果たしてそこに善があるといえるだろうか。良心が生きているといえるだろうか。

とんでもない、自分は決して良き事など出来るような、そんな者ではないとパウロは厳しく自分に光を当てています。私たちも一つの警告は、よいことを願って、あの人のためによいことをしたはずなのに、どうして判ってくれないのですか、どうして通じないんですか。

そうなっていった時に必ずや人を誹謗していきます。人を批判していきます。人を裁いていきます。そうなった時に、最早誰一人例外なく自分が見えなくなっていきます。そして、自分を義としてしまいます。そのようにして、自分自らの内側に有る恐ろしいまでの姿に唖然とする自分と向き合います。

聖書は言うのです。それ故にあなたがたは罪科と罪の中に死んでいるものなのですよ。」と。「一つとして、良き事を図っても出来ない姿がそこにあります。」と聖書は言います。

更に、エペソの2章2節に目を移してみます。そこにこうあります。「そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」

此処に2つのことが大事な事として言われています。先ずその1つ、それはこの世の流れに従うということです。これは、何となく世の中の習慣的な物に人間は流されやすいという風に取れますが、此処はもっとはっきり、もっと強い意味があるということです。

単なる習慣的なものではなくして、それは人間の心を晦まし、思いや考えをゆがめさせる悪しき霊の働きとしての流れです。私たちは、しばしば、自分の内側が「何でこんな醜い事をいつも心の中で思ってしまうのだろう。」「いっつもそれに囚われているのか。」「どうしてそこから逃れられないのだろうか。」と言う。

でも、そう嘆きつつ、いつもそこに留まっている現実が有る。まさにこの世の流れに従っている、逆らえない姿があるのですよと言っているのです。それからもう1つ、それは「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って」とあるわけです。

これは、いろいろと長く形容されていますが、一言で言えばサタンを指している。私たちは自分自身の内側の善があるはず、でも何か別のものに心が染まってしまう自分がそこに有る。それは、何か悪しき霊のようなものがそこにあると言っているのですが、更に明解にここでは、それは実は背後にサタンが全てを支配しているのだと言っているのです。

そのようにして、あなたは自分の心の内側の深いところで、実は決してあなたは良かれと願っている心が良きものに支配されず、むしろ悪しきものに支配され、流され、そしてそこにきちんと目を向けていった時に、それを実は操っているサタンがいて、あなたを究極に於いて滅ぼす力があなたを支配している事に目を留めなければならない。

聖書は単に道徳の教えではなくして、この世界がどのような原理で、どのような力で支配され動いているのか、人間を動かしているのか、人間がそれに支配されているのかについて、はっきりと語っているのであります。

ですから、私たちは色んなところで自分自身の内側がもはや自分ではないものに支配されている。良かれと願う心以上に、何と人を貶める事に自分の心が動いていることか。そんな自分を見せ付けられます。そして、どんなに努力しても、その努力は空しいものにしか帰ってこない。

どうでしょうか、皆さん、そういう自分、そういう現実、そういう弱さ、そんな法則に自分が捕らえられいるなと思わないでしょうか。

もう1箇所別な面から聖書を見てみたいのであります。それは、今度は旧約聖書イザヤ書の43章1節から4節です。

“イザヤ”
43:1 だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。
43:2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。
43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。

神はこう私たちに語っている、このように宣言して下さっている。当然な事でありますが、神様は私たちがどういう存在であるのか、如何に罪に支配された罪の奴隷であるのか、罪に死んだものであるのかをよくよくご存知であります。

罪深く汚れ果てて、最早どうにも箸にも棒にもかからない存在だということを、よくご存知です。でも、神は「わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」と言っている。そして「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」こう言っておられる。

何故そう言われるのだろうか。神様は私たち一人ひとりの存在を愛していてくださるのだというのです。存在、それは少し漠とした言い方ですが、私という、池田 博というひとりの人間の存在です。その池田 博が生まれてこの方、どういう人生を生きてきて、どういう悪い事をしてきて、どんな罪をやって来て、のうのうと牧師などやっていて、とんでもない、悪の権化みたいなものだと、きっと主の目から見るならば、そんなものでしかない私です。

でも、その私を主は名を呼んでくださって、「池田 博よ。」と名を呼んでくださって、「さー、あなたは私の目には高価で貴い。」と言って下さる。それって何でしょうか。私の内に私という存在の種が、小さな小さなからし種、そんな小さな種でもそこに主は目を留めてくださって、今はどうあれ、どんな風に人に見られ、どんな罪を犯し、とんでもない人間であったとしても、「さー、あなたは貴いんだよ。」と言って下さる。

そして「わたしはあなたを愛している。わたしの愛の、最高の愛の対象だ。」と言ってくださっている。神様の言葉に圧倒され驚くのであります。

そして、最後にもう一度エペソ人への手紙の2章に戻ります。2章の4節以下であります。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、「「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。「「」

このお方が居られる。このお方が間に立って下さっている。このお方の十字架がそこに立っている。イエス・キリストの十字架。それは罪の裁きの象徴。罪の裁きの極限。罪の支払う報酬、それは死。それはまさに十字架に顕されている。満面に顕されている。

しかし、全く同時にその十字架は愛の象徴、極限の愛の表れ。イエス・キリストは自らの命を捨てて下さいました。十字架に渡して下さいました。罪に対する死が、そこに厳然として処罰として行われました。イエス・キリストの死です。

そして、まさにその死が同時に罪のゆえに死んでいる私たちが生きる為でした。いのちを与えられる為でした。復活する為でした。永遠のいのちに生きる為でした。そしてみ國へ導く為でした。

私たちはからし種程の善も行う事が出来ない、そんな存在ですが、しかし、キリストの愛はそんな小さな存在を、精一杯キリストにその身を委ねていった時に、キリストの愛ゆえに、キリストのいのちゆえに、十字架の贖いのゆえに私たちはそこから新しい可能性が生まれてきます。

皆さんそうではないでしょうか。こんな者のために愛してくれている、何処にその良さがあるのか自分では判らない、でも、愛されている事実・現実が私たちの内に愛を呼び覚まし、私をして生きる力をそこから勝ち取っていく事が出来ます。

愛は生み出します。愛は力があります。愛は罪に打ち勝っていくのです。そのようにして私たちは罪ゆえに罪科と罪ゆえに失ったものを、キリストのゆえに、十字架のゆえにもう一度取り戻してくださって、私たちを生かすものとしてくださる。

ですから、私たちの救いはただただ恵みの故、そして、たった1つ、信じるという信仰の故に、私たちは生きることの出来るもの。素晴らしい希望の中に置かれている。その主をしっかりと見上げて、その主を感謝したいのであります。


お祈りを致します。
天のお父様、本当に私たちはあなたの前に、何者でもない、いや、何者でしょうかと、そう言うしかない、そんな私たち。でも、その私を見て「わたしの目に高価で貴い。わたしはそのあなたを愛している。そのあなたの名を呼ぶ。」と言って下さっています。

この朝此処に居られる一人ひとり、例外無しに全ての人にあなたは、同じ目、同じ愛、同じ約束を与えてくださっている事を感謝します。

尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン!