2003年10月19日 主日礼拝式
“ヨハネの福音書” 4章3〜10節

「“わたしに水を飲ませてください”」

“月井博牧師” 宣教メッセージ

今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は ヨハネの福音書4章3節から10節 です。新約聖書の163ページになります。

“ヨハネ”
4:3 主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。
4:4 しかしサマリヤを通って行かねばならなかった。
4:5 それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。
イエスは旅の疲れで、井戸の傍らに腰をおろしておられた。
時は6時ごろであった。
4:7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。
イエスは「私に水を飲ませてください。」と言われた。
4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
4:9 そこで、そのサマリヤの女は言った。
「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」
―ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。―
4:10 イエスは答えて言われた。
「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者が誰であるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。
そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」

はい、聖書はそこのところまでです。ここに、人生がどうしてもなかなかうまくいかない女性がいました。この水のことから始まって、イエス様はこのサマリヤの女と話をするのですけれども、でもある箇所で、イエス様がこの女性に指摘します。「あなたには夫が5人あったが、今あなたと一緒にいるのはあなたの夫ではないからです。」と言われました。これは本当に彼女の人生をずばり言い当てたので、彼女は驚いてしまいました。

実際の時間ですけれども、「時は6時頃」というのは、これはユダヤの時間であって、現代の時間に直すとお昼の12時頃です。ですから、この砂漠地帯では一番暑い時です。水を汲みには行かない時間ではあるのです。むしろ人がいない時間を選んで水を汲みに行ったというところに、少し「あまり人に会いたくない。」という彼女の気持ちが表れています。

彼女は夫が5人あったということですから、そのまま読めば「結婚を5回した」。もしかしたら同時並行とかあるかもしれませんが、素直に読んで、結婚を5回して、全てがうまくいきませんでした。そして彼女は、どうも6回目の結婚はしていないようです。「あなたと一緒にいるのはあなたの夫ではないからです」と言っているのですから、どうも同棲状態で、結婚するまでの勇気はもはやなかった、というところであります。

結婚を5回して、その結婚が全てうまくいきませんでした。彼女は男運が悪かったということなのでしょうか?それともつきがなかったということでしょうか?恐らくそういうことではないですね。彼女の結婚生活がうまくいかない、その原因がありました。

どうやらその結婚生活がうまくいかない原因は、彼女の内側にありました。問題は彼女の内側にあったのです。こういう風に、何回やっても何回やってもうまくいかない、同じパターンが繰り返される、という時には、しばしばその根はもっと深く、生まれとか、育ちにあることが、よくあります。

「彼女の育つ家庭で何かトラウマ的な経験があったか?」、「それともその出生の時点で何か問題があったか?」、わからないんですが、でもどうも男性とうまく良い関係が持てないというのが、恐らくこの女性の問題であっただろう、と思います。

そしてしばしば、そのようなあまり良い関係が持てないという時は、その原因のところにどこかで、例えば「この女性の父親であるお父さんを裁いていた。」とか、そのような原因が必ずあったという風に思います。

私も、ちょっと、この彼女ほどではないんですけど、良くないパターンを、長い間繰り返してきたことがありました。私は地球の裏側まで行って、世界で最高の女性を見つけて、そして結婚したと今でも思ってますし、神様にそのことを感謝してるんですけれども、でも昨年まで私は定期的にその家内と大ゲンカしてました。

でも、だいたいパターンがあるんですね。どういうパターンで夫婦の間でケンカになるかというと、決まって私の家内が、私たちの子供たちの誰か一人を激しい口調で怒る時なのです。その時に、どういうわけか、私は腹の虫がおさまらないんです。どうしてもその間に割って入ってしまう、という問題を抱えていました。もう前後の見境なくと言うか、「もうこの先はどうなってもいい。」という気持ちでつい割り込んでしまうんですね。

それまでは、母親と息子とか、母親と娘の間でのケンカというか、母親が強い口調で怒っているんですけれども、そこからは、親子ではなくて夫婦のケンカになってしまいます。しかも、かなり激しいケンカになります。そして昨年、そういうことを考えた時に、思い当たったことがありました。そういえばこの感覚、「『どうしても見てられない。なんとしても割り込んでしまえ。』という、そこのところの感覚は、実は結婚してからではないな。」ということに気が付きました。もっと以前からあったのです。

ずっとその記憶を辿って行った時に、実は、私の場合は父親との関係にあったのです。私の父親は、性格的には律儀な性格ですが、どういうわけか暴力的だったんです。私の産みの母をずっと、思い浮かべると、叩いてる場面ばかりが思い浮かぶんですけれども、母に対して暴力を振るっていました。

私が小学校5年の時に離婚したんですけれども、それから半年ほどして再婚しました。再婚した相手はとても理性的な素晴らしい女性だったんですが、それから何年かしてから、やはり暴力を振るうようになりました。私はこの義母に感謝しているんですけれども、色々な意味で私の人生の転機になりました。とても関係が良かったんですけれども、その母に対してもやがて暴力を振るうようになりました。

小さい頃は、私は父親が暴力を振るっているのを見て、ただ泣いているだけだったんですね。泣いて見ているのが精一杯でした。でも、中学校くらいになってきてからはそうはいきません。やっぱり母親が殴られているのを見て、割って入りました。そして、父親に言いました、「殴るんだったら俺を殴れ。」そういう風にして、ある意味で母親を守ってきた部分がありました。

高校くらいになってから、そういう父親を、父親に対する反発というのは記憶にある限りはもう小さい頃からずっとあったんですが、「この世界で嫌いな人は誰か?」と言われたら、父親ほど嫌いな人はいなかったのです。

高校に行ってからは、ですからもうそういう父親とは口をきくことはありませんでした。でも、夜中に、時々、私は2階建ての家の2階に住んでいましたけれども、下の方から悲鳴が聞こえてきました。その時にはガバッと飛び起きて、下に飛んでいきました。大体夜中に父親が何かあって、母親に暴力を仕掛けている時なのです。ですから飛び出して行って、やはりそこに割って入りました。

そういう生活をして、そういう中で、父に対抗する時には、どうしても、ますます憎しみは強くなりました。敵対心が強くなります。そしてもちろんそういう父親を軽蔑して、軽蔑しきって、成長してきました。

それで、その親子のケンカに私が割って入るというのは、やはりそれととてもつながりがありました。というのは、私はそういうことでは、新しくできた家庭を、無意識のうちだった、と思うんですけれども、「その家庭の平和を保っているのは自分だ。」という意識がどこかにあったわけです。ですからやはり、結婚生活を始めて、そうした時にやはりその時の意識はそのまま残っているわけですね。

ですから、家の中で兄弟同士がケンカするのもとても辛いんです。だから母親が息子を怒っているのもとても辛いんです。それで、割って入りました。「その時のその感覚というのはどこから来ているか?」と言うと、やはり強い、激しい憎しみを父親に対して抱いたからで、その感覚というのはずっとそのまま残っています。

そのようにして、ある意味では悪いパターンの生活が繰り返されてきたわけですけれども、ある時にそのことがはっきりと見せられて、悔い改めました。イエス様の前に悔い改めました。そして父親のところにも行って、謝りました。そして許してもらいました。

この女性の過去において、どういうトラウマ的な体験があったのか、わかりませんけれども、恐らく男性に対して、どうしても良い関係を持てない何らかの気持ちが潜んでいた、という風に思います。でもそういう事柄を突き詰めていってみる時に、やはり彼女の内側には、ある意味で「男性を裁く」、そのような思いが必ずあっただろう、ということを思います。

そんな中で、こういう惨めな人生を生きてきていた、このサマリヤの女ですけれども、でもこの彼女の内側には乾きがありました。飢え渇きがありました。それは真の神様に対する飢え渇きです。それでイエス様がこの女性の全生涯を一言で言い当てて、説明されたので、この女性は驚いて、「この人は何か知っている。この人は先生だ。」という風にみたわけです。

それで、彼女が日頃疑問に抱いていることを、そのまま持ち出しました。それは、彼女にとっては、「どこでどのように礼拝したら、真の神様と出会うことができるのか?」ということでした。20節のところに、

“ヨハネ”
4:20 私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。

そしてここから、礼拝場所の話し合いになっていくんですけども、でもイエス様は、この会話が始まった時に、実は彼女に生ける水を与えようとして始まっているんですね。この10節のところで、

“ヨハネ”
4:10 「もし、あなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。
そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」

その会話の流れの中で、この女性は言うわけです。

“ヨハネ”
4:15 「先生、私が乾くことなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」

そこからこの礼拝の話になります。そして、このサマリヤ人たちは、ゲルジム山という山で礼拝をしていたのですが、ユダヤ人たちは「違う。」と言います。「どういう風にしたら本当の神様を礼拝できるのでしょうか?」ということだったんですが、イエス様は彼女を会話の中で導いていって「真の神様を礼拝するのはエルサレムでもなくこの山でもない、そういう時が来ます。しかも今がその時です。」というふうに言われているんです。

この女性は、そういう神様への渇きの中で、人々の間で語られていることを聞いていました。「やがて救い主が来る。メシヤが来る。その人が来られた時には、全ての物事を明らかにしてくださる。」それでこの女は聞いていた話をします。

“ヨハネ”
4:25 「私はキリストと呼ばれるメシヤが来られることを知っています。」

26節で、そしてイエス様が言われます。

“ヨハネ”
4:26 「あなたと話しているこの私がそれです。」

この女性は自分の人生を全て言い当てられて、そしてかねがね聞いていた救い主が自分の目の前にいる、ということを知らされて、この時に思いました。「これは神様だ。神様がこの方を私のところに遣わしてくださったんだ。」この時に、この女性の心の中に喜びが沸き起こりました。

私も経験があります。1972年の5月5日、その日に、「ああ、自分の人生を全て今まで見守ってくださっていた方がおられたんだ!しかもこの方は、自分の人生をこれからも、さらに良いものへと導いてくださる、全てを益に変えてくださる神様なんだ!この方が自分に今働きかけてくださっているんだ!」ということを知った時に、私の心はもう喜びで一杯になりました。

そしてその喜びを、もうもはや自分の内側に抑えておくことはできなかったのです。早速自分の友人たちにそのことを話して回りました。そのうちの一人が木島先生だったわけです。この女性も同じようにして、その場に水がめをおいて街に飛んで行きました。ですからこの瞬間に、この女性は生ける水を飲んだのです。永遠の命に至るその水を飲んだのです。神様との本物の出会いがここにありました。この水を私たちは今日も、今ここで飲むことができます。

最初のみ言葉はカットしていただいて地図の方を見たいと思いますが、この地図で見るとわかる通り、イエス様は、普通のユダヤ人がおよそしないことを、あえてしています。この時にイエス様は、ユダヤ地方、この地図の下の方から、ガリラヤ地方、この上の湖のある辺りに行こうとしておられたんですけれども、普通はユダヤ人はこのような道を通ってガリラヤに向かいます。つまりエルサレム周辺からエリコという街に下っていって、それからヨルダン川沿いにずっと上っていって、そしてガリラヤに入っていきます。

ちょっと遠回りなんですけれども、ここでこの女性が言っているように、ユダヤ人はサマリヤ人とは全くつきあいがなかった、というよりもむしろ、ユダヤ人はこのサマリヤ人たちをとても軽蔑していました。ですから普通はこの道を通るわけです。

でもこの時にイエス様はむしろこの道を通っていかれました。距離的には近いわけですけれども、その辺にあるのがこのサマリヤという地域です。イエス様はユダヤ人たちが普通しないことをあえてなさいました。それはここに、神様に乾いた一人の女性がいたからです。

イエス様は神のみ姿であられる方なのに、あえてそのことに固執されないで、人の姿をとられました。この世界に来てくださって、私たちの間に住み、私たちの間を歩まれました。6節のところで、

“ヨハネ”
4:6 「イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。」

と書いてあります。そして女に頼みます。「私に水を飲ませてください。疲れを覚えます。喉の渇きを覚えます。」

実際、福音書の他の箇所を読んでみるならば、イエス様は必要をご自分で満たすことができる方です。1万人の群衆に対して、5つのパンと2匹の魚で食事をさせることができたお方です。旧約聖書に、イスラエルの民と共に砂漠を上っていかれたのはイエス様だ、という風に、ヘブル人への手紙の著者が言っています。つまりこの方は、固い岩から水を出すことができるお方だったのです。

でもその方があえて肉体の疲れを覚えながらこのサマリヤの街までやってきました。そして喉の渇きを覚えて、「水を飲ませてください。」とお願いしました。ここにはイエス様のとても深い、深いへりくだりがあります。魂を救うためのへりくだりです。

サマリヤへの道でイエス様はお疲れになりました。実際には十字架に向かう途中、一晩中一睡も出来ず、十字架への道は辛いものでした。イエス様は憔悴しきっておられました。また、一晩中からかわれ、あざけられ、勝手なことをされて、食べ物も飲み物も与えられず、その上に十字架につけられて、十字架の上では血はどんどん流れていきます。脱水状態でした。

ですから、十字架の上でイエス様は、「私は渇く」というふうに言われたんですね。これはとても不自然な言葉です。もっと自然に訳すならば、「もう私は喉が渇いて渇いて仕方がない。」、そういうことです。十字架の上で疲れの極限を覚えて、渇きの極限を体験されました。それはイエス様が通らなくてもいい道でした。でも私たち一人一人のために、イエス様があえてそこを通られたのです。

ですから、イエス様の十字架は、神様の私たち全人類一人一人に対する語り掛けです。イエス様が十字架の上で叫んでおられます。「私に水をください!」そしてそのように言っておられる方がどのような方であるかを皆さんが知ることができたら、皆さんの一人一人はこの方に水を求めるのです。

イエス様は、この人生がどうしてもうまくいかない女性の問題もその身に引き受けてくださいました。み言葉に、「裁いてはいけません、裁かれないためです。」とあります。実際、この女性はどういう形かで男性に対する裁きの気持ちがあったのです。

しかし、彼女の人生がうまくいかなかったのは、それ故でした。なぜかと言うと、裁いたが故に、その裁きを自分の身に負ってしまっていたのです。あなたが裁く通りにあなたがたも裁かれ、あなたが量る通りにあなたがたも量られるからです。この女性はその内側に持っていた問題故に、自分の人生をとても不自由にしていました。思うようにならなかったのです。

でも私は確信しています。ここで神様の生ける水を体験したこの女性は、やがてイエス様が十字架につかれてから、再びサマリヤに福音が持ち行かれます。その時にもっとはっきりと、「イエス様が何のために死んでくだったか?」を彼女が知った、と確信しています。それは、イエス様は彼女のその裁く思い故に自分の身に招いてしまっている不自由さ、その不自由さの結果をその身に引き受けられたのです。そこから始めて、そのことを知って始めて、私たちは人を裁くことから自由になります。

私たち一人一人も、彼女のようなものではないでしょうか?はっきりと強い心で誰かを憎んでいるわけではないかもしれないけれども、でもあなたの心に人を裁く思いはないでしょうか?誰かを冷ややかに見ている目はないでしょうか?誰かに冷たい視線を向けてはいないでしょうか?それらはみな裁く思いから出ているのです。そして、その裁く思いは私たちをとても不自由にします。

イエス様が願っておられるのは、その裁く思いの変わりに、私たちがとりなすことです。祈ることです。あなたは祈っておられるでしょうか?イエス様はこの女性の裁く思いから来る結果を、ご自身の身に引き受けてくださいました。皆さんの裁く思いから来るその結果もご自身の身に引き受けてくださいました。

イエス様を信じれば、自動的にそこから解放されるわけではありません。そのことをはっきりと知って、そして私たちが実際に神様の前に出て、「ごめんなさい。」と言う時に、私たちは人を裁く思いから解放されます。彼女自身はその裁く思いから、イエス様が十字架についてくださったが故に、裁きから来る、その身に招く裁きから無罪放免されました。不自由な訳の判らない人生から、もっと自由な、自分でしっかりとコントロールできる人生へと変わっていきました。

私たちも、この方が私たちに備えてくださっているものを、もう一度受けとめたいと思います。ただイエス様が神様らしいから信じるのではなく、あなたが今現在抱えているその問題を解決する解決者として、あなたの人生をさらに祝福してくださるために、十字架にあえてついてくださった方、この方を見上げたいと思います。

この方は私たちがそのように不自由になっている状態から解放してくださいました。あえて十字架について、私たちの裁く思いからくる結果をその身に刈り取ってくださいました。この方に私たちの目を向けたいと思います。


お祈りを致します。

愛する主よ、あなたが私たちの只中にあって、そして語ってくださったことを有難うございます。どうぞ主よ、私たちをさらにあなたの御前に立たせてください。あなたが私たちの人生に生ける水を流してくださるために、十字架についてくださいました。あなたの用意してくださったものを、私たちが心の底から受け取ることができますように、どうぞ助けてください。

尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン!