| 2003年10月26日 主日礼拝式 “ローマ人への手紙” 12章3〜8節 「“主はあなたを必要としています”」 “池田 博牧師” 宣教メッセージ |
| 今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は ローマ人への手紙12章3節から8節 です。新約聖書の283ページになります。 “ローマ”
はい、聖書は以上です。今日はこの処からメッセージの題は“主はあなたを必要としています”ということでご一緒に考えてみたいと思います。 我家にもう30を越えた子供達が小学生の時に作ったジグソーパズルがあります。当時流行っていまして、2500ピースというかなり大きな物に挑戦したのです。1メートル×1メートル50程もあるでしょうか。 買ってきた時は、箱の中に袋があって、そこに2500個のピースが入っているわけです。それを広げて置いておいても1つや2つ無くしても全く気がつかないで終わってしまうかなと思います。言うならば1つのピースは2500分の1でしかない。ですから、値打ちもそれだけでしかない。無くなっても気がつかないかもしれない。 でも、箱の中には完成図が描いてあり、それを見ますと、本当に美しい自然の絵であったり夜景であったりする。「よし、これを造るぞ。」という感じで挑戦が始まるわけです。なかなか難しいものです。たまに私も手伝ってみました。 1つをもって「さーて、これは何処だろう。」と捜すわけですが、なかなか当てはまる場所がなくて、長時間挑戦して「あー、此処だ。」と判りますと、それはそれは嬉しいのです。思わずそのピースを撫でたりして。 そして、ついに2500個が終わりますと、歓声を上げてお祝いをしたいといった感じであります。たかが1つのピースであります。でも、それがキチンと当てはまるべきとこに当てはまる、これって言い様のない喜びであります。 2500ある訳ですが、そのたった1つが欠けただけで、それは未完成であり欠陥品となる。もう20年以上前の話しですが、いまだに飾ってあります。あれがたった一つでも欠けていたら、きっと、ずっと昔に処分しただろうと思うのです。 2500が全部あるがために、いまだにそれを置いておくわけであります。2500あるピースの1つでも欠けたら完成品ではない。1つの存在がとっても大事だということです。 さて、聖書のことばに目を留めてみたいのであります。今読みましたローマ人への手紙12章の4節、5節に目を留めてみたいと思います。「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」 聖書はこういう風に教えています。聖書は私たち一人ひとり人間の存在についてこういう風にして、体の器官或いはキリストとの関係に於いても、そこに人間の大事ないのちの繋がりといったものを基点に教えているといったところに何か深い意味があるかなーと思います。 木島先生が肝臓を悪くしたということであります。私はその話を受けて最初は本当にびっくりしました。最初は風邪と思っていた。でも、熱が下がったかと思うと又上がりという中で龍先生の上郷院に行って、一寸普通じゃないということで、肝数値を検査したところ、既に1000を超えていたということであります。 GOPとかGPTとかありますが、普通は大体2桁であり、1000というのは異常なのです。「至急共済病院を紹介しますから行ってみてください。」ということで行って、念のために最高値が幾つであるかもう一度検査したら、何と今度は2000を越えていたということです。 先日ようやく面会が可能になり面会しました。聞いたところ、何と最高4700までいってしまった。ものの本によると5000を越えたら肝臓そのものが壊死してしまうかもしれないという限界のところまでいっていたということで、本当にびっくり致しました。 でも、同時にそのときは数値も下がってきて、4桁から3桁、そして100台になってきているということで、安堵しながら、もう一息良くなるようにとお祈りした事でもありました。 肝臓と腎臓は肝腎といって、人間の臓器の中で最も大事なものといわれてもいますが、この肝臓の事を、気になりまして、インターネットで調べてみました。「肝臓というのは消化を助け、解毒をし、代謝をしまた栄養を貯蔵する、とっても大事だ。」とありました。 「肝臓は人間の臓器の中で一番大きくて、重量も1200から1400グラムで、平均1300グラムあり、そこで大事な大事な働きをしているのです。」とありました。また、その肝臓を構成している細胞は3000億有るということです。 そして、その3000億の細胞によって、肝臓が果たしている役割は500有るということです。これは、言葉を代えていえば、3000億人が500の化学工場で働いて、さっき言いました多くの働きをしているのだということなのです。 500の化学工場といえば、日本中の化学工場を全部併せてそれくらいだろうかとも思いました。そこで働く人間が3000億人、地球上の全人口は約60億人でその50倍の人がひとりの人の肝臓で働いているということです。 その3000億人が毎日私たちが飲み食いする一つひとつにきちんと対応し、消化を助けたり、代謝をしたり、悪いものが来たら解毒をし、大事なものをグリコーゲンにして貯蔵して必要な時に提供するといった、とっても大事な働きをしている。 これは臓器のたった一つのことであります。よく五臓六腑といいますが、大事な臓器が多く有るということです。その一つひとつがなくてならない大事なものであって、それが体を健康にし、人間がそこに存在するという為になくてならないということなのです。 ついでながら、皆さん、人間の持っている細胞はどのくらいかご存知ですか。60兆といわれています。先日一寸読んだ知識によりますと、人間のたった一つの細胞の中にDNAがある。そのDNAの総延長は約2メートルだというのです。それを60兆全て繋いだら天文学的な長さになるということであります。 私たちたった一人の人間です。でもその一人の人間、私という存在が此処に居るという事のために、地球大、宇宙大の規模のものがそれを生かすために、それを構成している。その1つが欠けても人間は最早健康が損なわれるだけではなくして、生きるということ自体に拘わってくる。そんな大事なもの。 今読みました4節によると「 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、」とあります。人間の器官がどれくらいあるか、何百何千とあるでしょうが、その器官の1つとして同じ機能の物はなく、でもどれ一つ欠けても最早人間として健康ではなくなるし、存在そのもの、命にも拘わってくる。なくてならないものであると言う風に言われるわけであります。 人間にとってそのように大事な存在、神はそこに目を留めてくださって、私たちを生かしてくださっている。次に大事な点は5節にあります。「大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」 私たちの体にとって、何百何千あっても何一つ欠けてはならない存在である。そのように私たち一人ひとりの存在もキリストとの関係に於いて、大事な大事な存在なんですと聖書は語っているのです。 しばしば、私たちは自分ひとりの存在について「自分は駄目人間だ。」「自分は行き詰まった。」「自分はもう生きている気力もない。」そのようにして、相対的に存在価値をそんな位置付けをしてしまい易いのかなと思います。 どうしたって、人との間に生きている私たちですから、人との関係がいつも私たちのときに価値基準であり、存在基準であり、生きている意味があるのかないのか、勝つとか負けたとか、憎いとか、色んなことでもって、私たちはそこで自分の存在がいつも翻弄され、存在の意味が何なのかそこで問われる事があるのかなと思います。 しかし、聖書は私たち一人ひとりの存在について「あなた方の存在はキリストとの関係に於いて存在する。そうする事があなたの存在の真の意味をそこでしっかりと持つ事が出来、そこからあなたの生きる目的が見えてくる。そしてあなたの存在はキリストの前に無くてならない存在なのですよ。」と言って下さる。 体の機能が一つひとつ違うように、私たち一人ひとりの存在も個性があり、違いがあって、能力の差はあるけれども、でもそれで優劣があるのではない。あなたにふさわしい最高のあり方、生き方がある。それは神様があなたを最高の存在のために目的を持って造られたからだということです。 もし、皆さん、私たちがそういう優劣がなくして、全く同じ存在であったら、それこそ嫌でたまらないでしょうね。誰と会っても同じ顔をして、同じ考え方をして、同じようで何の差もないとしたら。クローン人間が出来たらそうなるのかどうか判りませんが。神様はそういう風には造っておられない。 十人十色、千差万別、違いがあってこそ存在の意味があって、大切であって、欠けてはならないんだと言って下さっている。体に多くの機能があるように、あなた方一人ひとりもキリストという関係の中であなたの存在の意味が初めてきちっと位置付けられていきますから、それが大切ですよと教えている。 その先を見ますと、6節には「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、」と教えられている。 私たちは親から生まれて、親の性質を受け継いで「あの親から生まれたから、俺はこんな人間になっちゃった。」と親を恨んでみたり、環境に当たってみたり、自分自身に八つ当たりしてみたりと、私たちはいつも周りに不満をぶっつけていて、生きる事に疲れたとか、嫌だとか、何の為に生きているのかとか言ったりするのであります。 ですが、それは根底的に私たちがどういう関係の中で自分が存在しているかという関係の中の自分をきちっと見えていないからだと聖書は教えていて、神様は一人ひとりに存在の意味と価値をもって、恵みの中で私たちを活かして下さっている。恵みの故に私たち一人ひとりに異なった賜物を与えてくださっている。 異なった賜物、誰一人同じものはない。異なる故にこそ、その異なった働きの中で、キリストの体としての機能が果たされるということです。キリストが頭、そして体という中にあって、頭であるキリストの設計図の中にあって、一人ひとりがとっても大事な意味を持っているということであります。 私自身もそうでありましたが、自分が教会に行くきっかけがあって行きましたが、その時はひょんなきっかけで教会に行きました。何か問題を抱えているということではなく教会に来ました。聖書を読み出した時に、自分自身が少しは存在する価値があるかなと。「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい。」「敵をも愛しなさい。」凄いけれども、でもそんな生き方を、高い目標に生きていったら素晴らしいかなとも思っていた私でした。 でも、受験に失敗した時に私は自分の存在そのものが意味無しだと自暴自棄に陥ってしまって、閉じこもってしまうという、自分の弱さ、限界に突き当たってしまいました。その時「祈りは聞かれない。」「神などいない。」そんな中に自分が入り込んでしまいました。 でも後で振り返ってみた時に、それは神様の愛の取り扱いだった。私自身が「やればできる、ある能力があるとか、そんな中で見ている自分という存在は正しく見えているようで見えていない。 要するに、自分が意味付け、価値付けているだけであって、神の目から見た時に何とそれは傲慢で、箸にも棒にもかからない存在で、自分勝手で、自分中心で、どうにもならない人間であるのかということについては全く見ようともしないし感じようともしない、そんな自分だった。」ということがわかってきたときに、不思議に「誰でも私について来たいと思うものは、自分を捨て、十字架を負って私に従いなさい。」とこうあった。 その言葉の前に私は打ちのめされました。同時に又光を発見したのです。「自分を捨てて従え。」「ああそうか。こんなつまらない、こんな厭らしい自分を捨てて、従っていってみる、そこに何か有るだろうか。」と思って従っていったときに、そこから何か不思議な光を見ました。 もう、閉じ篭っていましたから、教会も行かないし、人とも会いたくなかった私でしたが、何か行ってみたくなって行きました。牧師に会いました。牧師はこう言うのです。「池田さん、あなたは素晴らしい発見をしました。自分を捨てて従えと言うのはあなた自身を全て神様に委ねてご覧なさい。そこから道が、光があなたに投じられてきますよ。」 それって私にとってなからうとこでした。そこから私の人生は変えられました。自分で生きていると思ったけれども、そうではないし、やれると思っていたけれど、そうではないし、そんな自分が本当に神様によって生かされているんだ、神を目当てに生きるんだということに変えられていった時に、そこから自分自身の有り様が位置付けられてきたなと思います。 皆さん、どうでしょうか、皆さんも「人生は自分で切り開いていく、パイオニアだ。」と言って頑張るかもしれないけれど、何処かで必ずや行き詰まって、「俺の人生はこれまでか。」とか自暴自棄になったり、神も仏もないと言ってしまうかもしれない。 けれど、実はそれは神様の愛の鞭、愛のみ手の取り扱い、そこであなたは本当にギブアップした時に「あー、自分という存在が小さくて、弱くて、取るに足りない、でも、キリストの中に飛び込んだときに、そこから自分が生かされている存在であり、守られている存在であって、自暴自棄になって、八つ当たりしている自分が自分の至らなさ、弱さ、足りなさ、我の強さ、自己中心といったものが、一つひとつ削られていき、そうしたものが洗われていった時に、 キリストとの関係の中で、私たちはその存在を見い出していける、そこにあなたの新しい世界が、新しい価値観が、永遠の希望が与えられてくる。イエス・キリストはそのためにこそこの地上に来てくださった。神であられる方が人の姿をとって来て下さった。来て下さっただけでなく、清いお方なのに罪とされて、十字架にかかって死んで下さった。 正しい、清い方であるならば、なぜ「お前達はわたしにこんな事をして滅ぼそうとしているのか。」と言って、彼らに自分をぶっつけていいはずだし、もし権威と力があるならば彼らを滅ぼしていいはずだったキリストでありますが、十字架に貼り付けにされながら、血を流しながらキリストは「父よ、彼らを許してやってください。彼らは自分で何をしているのか判らないのです。」 自分の存在意義をしっかり持っているかに見える、でも、彼らは本当のところ自分が誰であるか判らない、その彼らの罪を「わたしを裁く事で、彼らを許してください。」そう祈られました。それこそ十字架の意味です。そして、それは私たち存在の根底をきちっと意味付ける大事な出来事です。 今日、皆さん一人ひとりのためにイエス・キリストが十字架にかかって下さったということは、わたし達一人ひとりがどう生きるべきか、そのことをきちっと根底に答えを与えて下さる素晴らしい、そして愛なる希望の出来事であります。 今日もそのようにしてキリストは私たち一人ひとりを意味なくそこに置いたのではない。必要なんだ、一人ひとりが必要なんだ。誰一人欠けてはならない。弱い存在とか、足りない存在とか、そういうことではない。どの人も必要な、わたしにとってかけがえのない存在です。 ですからその先に、色んな賜物の事が書いてあります。奉仕であれば奉仕をし、教える人であれば教えるし、勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。 色んな賜物の事が書いてありますが、一人ひとりに神様は賜物として与えられているということも素晴らしいことです。大事な事です。賜物というのは与えられるものです。生まれながらの私たちにない物です。神様が与えて下さる。 生まれ変わった時に、けちで舌を出すのもいやだという、そんな私たちであるのかもしれませんが、そんなけちな私たちが、惜しみなくとまではいかなくとも、十一献金をしよう、主のためになにかの役に立つならば、そうしていこう、それが喜びと変えられていく。奉仕もそうです。私たちは、奉仕というものは簡単に出来るものではない。恩がなければ、受けた何かがなければ黙って奉仕って出来ないものかなと思います。 でも、こんな私がイエス様によって救われたって、どんな恵みなのだろうか。こんなもののために「父よ、彼らを許してください。」と自分の命を犠牲にして、とりなし、愛して下さった。なんという恵みでしょうか。そのことが心の中に判ってきた時に、少しでも何か自分でやれる事をさせていただきたいとうことです。 教えるとか、指導するとか、これは元々あったものが聖別されて、神様によって更に用いられて、そうした賜物かなーと思います。一つひとつが、なに一つとして神様から受けないものはないのです。そして、受けたものがあるならば、それは喜んで仕えていく時に、又仕える事を通して、与える事として、恵みは注がれていきます。 犠牲になるというと、そこには義務的なものがでてきます。そこには喜んでするという時に、その喜びは、それをする事によって、倍になってきます。そのようにして、私たちはキリストにある、キリストの関係に於いて、私たちがそこにきちんと立つことが出来た時に、その価値観が、生き方が、方向が、皆変えられてきて、それは単にこの地上だけの事ではなく、永遠に対しても私たちの目が開かれていきます。 やがて誰もが死を迎えます。でも、その死が何であるのか、死後の世界がどういう世界なのか、誰一人知る由もない。でも、キリストにあるときにイエス・キリストは復活してくださいました。復活は私たちへの永遠の希望です。 キリストは「わたしはいのちであり、よみがえりです。わたしを信じるものはたとえ死んでも生きる。」と言っておられる。人間の肉体の死はひとつの関門にすぎず、キリストは第1号の復活者としてよみがえって下さって、キリストを信ずるものは、キリストの故にキリストを通してキリストのいのちによって、わたし達に永遠の希望が与えられる。 天国という希望は私たちを又究極的な希望であると思います。そのようにして、キリストは私たちに存在の意味を教えてくださるばかりではなく究極にまで希望を与えて下さるお方です。その方を、私たちがこうして主として与えられる事が、礼拝の主として与えられている事が、救い主として与えられている事がどんなに素晴らしい事でしょうか。 今日共にそのことを心に刻みながら、感謝しながら、新しく主を見上げたいのであります。 お祈りを致します。 ですから、一人ひとりの内に尚その意味がはっきりと心の中に刻まれていきますように、ご聖霊の導きを求めます。お委ねします。 尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン! |