2003年11月2日 主日礼拝式
“ルカの福音書” 6章12〜16節

「“主はあなたを生かしてくださる”」

“池田 博牧師” 宣教メッセージ

今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は ルカの福音書6章12節から16節 です。新約聖書の109ページになります。

“ルカ”
    
6:12 このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。
6:13 夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。
6:14 すなわち、ペテロという名をいただいたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、
6:15 マタイとトマス、アルパヨの子ヤコブと熱心党員と呼ばれるシモン、
6:16ヤコブの子ユダとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。

はい、聖書は以上です。第3主日はビジョン礼拝ということで、来年に向けての大事な時を迎えます。来週は総会であります。そんなことで先週から第2礼拝は特にビデオ礼拝として主任牧師のそこへ向けてのメッセージをお互いに聞こうということで、今日第2回目としてご一緒に与えられたみ言葉から見ていきたいと思います。

先ず最初にこの賛美を聞いていただきたいのです。

♪♪♪♪驚くばかりの恵みなりき その身の穢れを知れる我に♪♪♪♪

もっと聞きたいところです。これはこの間ありました大和田広美コンサートの中の1節だけを聞きました。皆さん、ほとんどの方はご存知ですね。アメージング・グレース“驚くばかりの恵みなりき”という賛美で知られています。世界中で最も知られた賛美の一つ。

アメリカではこれは第2の国歌といわれている。それ程よく知られた歌であります。何故でしょうか。それは賛美の唄いやすさもあるのですが、何よりもその作者の故なのです。この作者はジョン・ニュートンという人です。この人はイギリス人でありますが、1725年に生まれ、本当に数奇な波乱万丈な人生を送った方であります。

そういう中から生まれた1つの歌であります。此処に簡潔にまとめた文章がありますので、お読みしたいと思います。


ジョン・ニュートンの母親は神を信じる敬虔な夫人でしたが、ニュートンが7歳になる前に亡くなりました。母に祈られていた少年、彼はその母の死が耐えられない辛いことであった。そのことから、彼の心はどんどんと悪に進んでいき、非行化をし、やがて学校を中退して、父親が船乗りでしたが、その船に乗って船員になりました。

同時に彼は放蕩に耽るようになりました。次々と船を代えた彼はやがて西アフリカの海岸地方で奴隷を売るという、人間として最低の仕事に手を染めるようになりました。そのうちに奴隷船の船長となり、血も涙もない残忍な男に成り果てたのです。

ところが、1748年の3月10日船でアフリカから英国に帰る途中で大嵐に遭いました。いのちが風前の灯という処に追い込まれた彼は、生まれて初めて信仰書を開く気持になりました。そして、聖霊はその本に書いてあるメッセージを、やがて彼がキリストを信じ受け入れる為の種として彼の心に植え付けられたのです。

それからしばらくして、彼は見事な改心を経験し、船を下り、牧師となり、リバプールでの伝道活動を始めました。しばしば、彼は大きなホールを借り、大伝道集会を開きましたが、その都度、多くの群集が改心した元船長のあかしを聞く為に大勢集まってきたということです。

彼は82歳で天に召されましたが、最後まで、彼の生涯を劇的に変えた神の恵みにびっくり仰天する事を止めませんでした。死期が近づいた或る日、彼は講壇に立ち大きな声でこう言ったのです。「私の記憶はほとんど薄れた。しかし、2つの事だけははっきり覚えている。

その1つは私が途方もなく大きな罪びとであったということ。もう1つはキリストは途方もなく偉大な救い主であったということ。」驚くばかりの恵みなりき。


ということで、このニュートンのたった一つの詩でありますが、でもそれは世界中の人の心を捉えていきました。それは彼の人生・生涯でのあまりにも大きな転換が彼自身を変えたばかりでなく、多くの人々の心を動かしていったということであると思います。

もう、滅びて当然、そんな一人の人間をイエス・キリストは近づいてくださいました。イエス・キリストは捉えて下さいました。イエス・キリストは生まれ変わらせてくださった。その人を本当の意味で生かしてくださったのです。

イエス・キリスト、それはあなたを生かす方です。今日はそのことを先ず念頭に置きながら、ご一緒に聖書を見てまいりたいと思います。

先ほどお読みしましたルカの福音書の6章12節13節にもう一度目を留めてみたいのです。「このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。」

これはイエス・キリストが12弟子を選ぶ時の事であります。徹夜の祈りをされたとあります。そして、選んだ12人が次に出てくるわけですがペテロとかアンデレとかヤコブ、ヨハネとかです。彼らは漁師です。

そして又、その先にアルパヨの子ヤコブと熱心党員と呼ばれるシモンとあります。熱血漢、求心的な生き方をしている、そういう人を弟子に選んでいます。そして、最たる人はイスカリオテ・ユダです。

皆さん、イエス・キリストがこの地上に来られて、ご自分の教え、やがてキリスト教となっていくわけですが、その大事な大事な母体つくりをする時に、或いは後継者を造るにあたって、イエス・キリストが選んだのは、イエス・キリストが対象にしたのは、漁師とか熱心党員とか又、計算高いユダといったような人たちでありました。

当時宗教はユダヤ人にとって中心的なもので、ユダヤ教有ってのユダヤの国でありました。ですから、熱心な人たちはいくらでも居た。熱心な宗教家、信仰家、忠実な人たちは幾らでも居ました。でも何故かキリストはそういう人たちから選んで、ご自分の教えを彼らに教えながら、それを弟子として残していくという風にはなさらなかった。

此処に出てくるような人たちは、およそ宗教とは無縁な人たちで、信仰といったらほとんどゼロで、人間的にいうならばもう荒削りもいいとこで、箸にも棒にもかからないといった人たち、そして、計算高く金にのみ目が行くようなそんな人たちであります。

そういう人たちを何故、キリストはご自分の弟子とされたのか。そういう人たちを何故、対象にされたのか。キリストはこの世の秤で計るならば、どうにも計る事が出来ないような、社会的にみるならば外れた人たち、そして人間としてみるならば本当にどのようにしたらその人がまともな人生を歩めるのだろうかというような、そんな人たちを敢えて対象になさった。

そういう人たちを弟子として選ばれたということです。イエス・キリストはご自分の大事な教えというものを当時の宗教家達を選んで、それを彼らに教え込んで、体系化しようとしたのではなくて、そういう者を脇に置いておいて、キリストが目を留めてくださったのは一人の人間、しかも自分でどう生きたら良いのか判らないような人たちに目を留めておられたということであります。

私たち一人ひとりにおいても、そういうそくみを誰しもが持っているのではないでしょうか。そして、私たちはしばしば自分自身がどう生きて良いのか判らないような迷う者でもあるかと思います。でも、イエス・キリストは弟子達に目を留めてくださった、そのように私たちにも同じように目を留めて下さるということをこの処から心に留めさせられます。

キリストは具体的に選んだ12人を色んな点から導いておられるのが判ります。そこに少し目を留めて見たいと思います。先ほどルカの福音書6章16節までお読みしましたが、その先17節にこう有ります。

「それから、イエスは、彼らとともに山を下り、平らな所にお立ちになったが、多くの弟子たちの群れや、ユダヤ全土、エルサレム、さてはツロやシドンの海ベから来た大ぜいの民衆がそこにいた。」

既にこの時イスラエル中に評判になっていたようで、多くの人たちがやって来た。その多くやって来た群集を前にしてキリストが何をなさったかといいますと、その後に有ります。

「イエスの教えを聞き、また病気を直していただくために来た人々である。また、汚れた霊に悩まされていた人たちもいやされた。群衆のだれもが何とかしてイエスにさわろうとしていた。大きな力がイエスから出て、すべての人をいやしたからである。(ルカ6:18)」

キリストは大勢の群集を前にして教えも説きました。でも、その中で特に穢れた霊に着かれたとか、病気の人たちの求めてくる人の一人ひとりにキリストは近づいているのが判ります。群衆の中で本当に助けて欲しい、群衆の中で何を必要としているのか、その人たちに手を述べておられるキリストの姿が此処に有ります。

弟子達はそういうキリストの行動に目を留めていきます。今度はもう少し先に目を移してみますと、7章1節にこう有ります。「イエスは、耳を傾けている民衆にこれらのことばをみな話し終えられると、カペナウムにはいられた。ところが、ある百人隊長に重んじられているひとりのしもべが、病気で死にかけていた。」

此処でも群集が多く居るのが判りますが、今度はキリストは一人の人に目を留められます。更にもう少し先6節には「イエスは、彼らといっしょに行かれた。」とあります。そして、その一人の人をお癒しなさるということが此処にでて参ります。

同じような事が次のページの11節以下にもあります。「イエスはナインという町に行かれた。」とありますが、そこでも一人のやもめとなった母親の一人息子のことが出てまいります。その一人息子に対して、13節に「主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と言われた。」と声をかけておられるのです。

群集の多くの人たちの弱さとか病とかに目を留めると同時に、たった一人の人を大切にしておられる此処にイエスの姿があります。そのために出かけていき、死んでしまったというやもめに対しては、かわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と慰めのことばをかけ、その子供を甦らせるという奇蹟をもってイエス・キリストは顧みておられる。

弟子達はそのような一つひとつを見て、キリストがこの地上に来られた目的が何であるのか、何をしておられるのかを通して、彼らの心がそこで養われていくのが判ります。今度は8章の22節でありますが、こうあります。

“ルカ”
    
8:22 そのころのある日のこと、イエスは弟子たちといっしょに舟に乗り、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。」と言われた。それで弟子たちは舟を出した。
8:23 舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になった。
8:24 そこで、彼らは近寄って行ってイエスを起こし、「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです。」と言った。イエスは、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。すると風も波も治まり、なぎになった。
8:25イエスは彼らに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

キリストが神の権威を持って自然界を支配するのを弟子達に見せておられるところです。キリストが誰であるのか、弟子達はこの一つの出来事を通してはっきりと垣間見たと思います。イエス・キリストが神のみ子であること。

更に今度は9章1節に目を移してみますと「イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになった。それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。」こうあります。

此処は又、大きな転換期であります。イエス様は弟子達を連れて色んな所に行かれ、色んな場面をお見せになり、自分が誰であるかきちんとお教えになった。その弟子達に対して、今度は二人ずつ1組にして派遣したとあります。

このとき弟子達はどれほどイエス様の教えをきちんと身に付けていて、訓練されていて、整えられていて、出て行ってよい働きが出来ただろうかと思うのですが、あの荒くれの男達ですから、幾ら凄い場面を見たとしても、圧倒されるような事が起こったとしても、彼ら自身が何処まで変えられているだろうか、ほとんど変わってないかもしれない、何も変わってないかもしれない。

でも、イエス様はその彼らを遣わしていったのです。奉仕につかせているのです。「イエス・キリストが誰であるか、兎に角語ってご覧なさい。あなたの見たこと聞いた事を語ってご覧なさい。」そう言って派遣しているのです。まあ、そこに特別な力を与えられたとありますが。

イエス様は人間を訓練する時に、何々大学を卒業したとか、資格があってとか、試験が80点以上であるとかは一切ないのです。テスト無しです。そして派遣しているのです。「さー、あなたが聞いた事、あなただ心に感じた事を、兎に角語りなさい。伝えなさい。」とおっしゃっているのです。

彼らは出来るはずなかったのですが、その彼らが本当に何が出来なくて、少しでも何が出来たのか、彼らは出て行って、ぶっつかって見て、更に失敗してみて、彼らはそこから身に付けていく。

私たちの主はそのようにして、クリスチャンになって何が出来る出来ないではなくして「さー、あなたも恵みを受けたんだから、その恵みを持って出て行きなさい。」という主の派遣の姿勢が此処に窺がえます。

そして、もう少し先を見ていきますと、成る程弟子はそうだなということが判るのであります。9章の46節です。「さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。」とあります。

派遣されて帰って来た弟子達、信任されて帰って来た弟子達、でも彼らの話題は自分は何が出来たかではなくして、自分たちの間で誰が一番えらいかということで、彼らの関心事はそれ止まりでしかない。そういう弟子達です。

それから51節以下を見ますと、そこにイエス様がエルサレムに向かって歩いていかれるところがでて参ります。サマリヤの町にお入りになった。「しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。(53節)」とあります。

「弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」(54節)」彼らはオアネルケという渾名を貰っているのです。オアネルケ、雷の子。短気で即座に「もう聞かないならば彼らを滅ぼしてしまいましょう。イエス様。」と言ってしまうほど短気な人たち。

それがイエス様の弟子であったわけですが、「しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた。(55節)」とあります。一つひとつこうして教えているのです。誰しもが不完全で、誰しもが出来ないだらけの者ですが、でも、ぶっつかって、失敗して、自分の裸の姿を曝け出しながら、でも、イエス様はきちんと方向付けを与えてくださって、今ここで何が身に付けるべきなのかを教えてくださって、一人ひとりがきちんと整えられている姿がそこにある。

キリストは私たちを生かしてくださるお方です。一人ひとりをふさわしく、あなたにふさわしい人生を、あなたにふさわしい賜物を、あなたにふさわしいキリストの弟子としての歩みを主は持っておられるのです。

あなたが託すならば、委ねるならば、従うならば、出て行くならば主はそれをしてくださる。そして主はそれを願っておられるのです。

昨日一人の青年のあかしを聞きました。感動いたしました。彼は父親との関係に於いて、親子断絶の極たる状態であったようであります。口を利かないだけではなくして、徹底して親を無視した生き方をしていたというのです。

時に気に入らなければ、親に殴りかかったという事も何度もあったということです。母がクリスチャンで教会に導かれていました。色んな事を聞いて私たちも祈りにおえていましたが、高校生のときに、バイクで暴走して、事故を起こして、即死して当然のような大事故になりました。でも九死に一生を得て助かりました。

そこに神のみ手があったのでありますが、しかし尚彼の心は変わらずにいたのです。でも、時の流れの中で、その彼の心を少しずつ少しずつ主は捉えてくださって、教会に導かれるようになっていきました。そして救いを頂いていくのであります。

最近の事でありますが、エリアハウスを通して、親子関係のことが探られていきます。エリー・レオを通して父親との関係が探られていきます。又月井先生を通してきちっと彼自身の有り様について指導されていきました。

彼は変えられてきました。何が変えられたか。自分が神様との正しい関係をもつ為には、どうしても父親との関係を正さなければならない、それ無しに父親としての神様との関係が修復されないという事が徹底して判ってきます。

祈っていた時に、父の前に謝ろうという気持に変えられて行きました。不思議でした。ありえないことでした。考えもしなかったことでした。でも、聖霊は彼に迫りました。

或る日、家に帰って父親に謝りました。父親もそれを聞いて素直に受け入れてくれて、やがて二人で握手をし、彼は父親に祈って欲しいと願い出て、祈ってもらい、その後で二人は抱き合って涙の中に和解したという事であります。彼は今献身して、MDC生として主に仕えています。主は彼をそこまで変えてくださっている。

主は一人ひとりに目を留めてくださっている。あなたの人生を生かすために、主はどんなに心砕いて、あなたに近づこうとしていて下さる。その主の愛と哀れみをしっかりと受け止めたいのです。その声を聞き分けて、従順に従う者でありたいのであります。


お祈りを致します。
天のお父様、私たちは逆らう者です.私たちは弟子達と同じように自分にいつも関心を持っている者、自己中心な者、独り善がりな者、自分の事だけをいつも大事に考えてしまう者であります。

そんな私たちを主は受け入れてくださって、そんな私たちのためにご自身のいのちをも差し出してくださいました。小さな小さな者にもいのちを差し出してくださるあなたの大きな大きな愛の中に今日もこうして私たちは包まれている事に誠に感謝致します。お一人おひとりに尚届いてください。

尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン!