2003年11月23日 主日礼拝式
“使徒の働き” 3章1〜10節

「“ペテロとヨハネ”」

“池田 博牧師” 宣教メッセージ

今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は 使徒の働き3章1節から10節 です。新約聖書の212ページになります。

“使徒”
3:1 ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
3:2 すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。
3:3 彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。
3:4 ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。
3:5 男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。
3:6 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、
3:7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
3:8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。
3:9 人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。
3:10 そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。

はい、聖書は以上です。今日はペテロとヨハネ、この二人の弟子に目を留めたいと思います。ペンテコステのの出来事の後に起こった出来事がこの3章であります。イエス様は12人の弟子を選ばれました。選ばれた弟子達というのは、先先回も言いましたが、決してその時代の優れた人たち、特別な人たち、有能な人たちを選んだのではない。

でも、このペテロとヨハネは、今日、キリスト教会の中で最も有名な人で用いられている人であります。私は未だ行った事がないのですが、カトリックの総本山であるローマのバチカン宮殿はペテロの殉教した場所の上に建てられたということです。それはペテロが如何に教会にとって大事であるかという事が象徴的に顕されていると思います。

そして、世界中には聖ペテロ教会、聖ヨハネ教会が数え切れないほど有ります。名前も英語で言えばピーターとジョンというのはありふれた名前で、太郎と花子のような何処にでもある名前で、それ程世界中でポピュラーになっている名前であるかなーと思います。

そのペテロとヨハネにイエス様はどうして目を留められたのだろうか。この二人を何故用いられたのだろうか。今日はこの3章の中からそこにスポットを当てて見たいと思います。先ず1節に目を留めてみたいのですが、「ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。」とあります。

初代の教会に3000人が導かれた、3000人が教会員になった。ですから、12弟子達ははどんなに忙しかっただろうかと思います。毎日毎日、朝から晩まで3000人をどう指導するか、どういう活動するか、また悩み事相談事も有ったかも知れない。そのように目が回るほどの忙しさの中にある人たちであります。此処をみますと、その忙しい最中のペテロとヨハネが午後3時の祈りの時間に宮に上って行った。

本郷台教会も朝の祈りはしている、早天の祈りは大事にしています。でも午後3時の祈りはやった事がない。午後3時って、皆さん、忙しい盛りですよね。めまぐるしく動いている最中ですよね。3時はおやつの時間でもあります。文明堂のカステラを一切れたべて、午後の紅茶をがぶっと飲んで、後は忙しい、忙しいと走り回らなければいけない。そんな時間かなーと思います。

でも、何故か此処では、午後3時の時間に二人は上っていっています。ペテロとヨハネは忙しさに忙殺されていなかったと言えばそうも言えます。忙しいんだから、それを誰かに任せて、自分達は「指導しなければいけない。」と言って、その仕事に没頭していたというのでもない。

当然指導者として祈り会を導く為に上って行ったと言えます。そこにあるのは如何に祈りを重んじていたか。朝も勿論祈っていたでありましょう。でも午後3時の祈りも大事にしている。どのようにそれが取り決められたかは別として、午後3時の忙しい最中の祈りもそれを怠惰にしないできちっと守っている。

これが「3時は忙しい最中だから、個人の祈りにしよう。二人で祈りましょう。」と言って祈り会を任せたならば、当然それは崩れていっていたと思います。でも、そうしないで、二人はそれを大事な事として、その時間に宮に上っていっている。イエス様はそのように祈りを大事にした二人を用いられた。そう思いました。

私も色んな所に祈りのセミナーに招かれて奉仕に行きます。何処に行っても必ず私は「朝の15分があなたを変えます。あなたの人生を、生涯を変えます。」と力説するのです。そうしますと、ハット目が覚めたように、皆さんが「そうですか。」「そうですよね。」「クリスチャンですから、当然ですね。」となっていくのです。

皆さんはクリスチャンですから祈りをしていないはずはないし祈りの大切さは判っています。又強調もされるでしょう。しかし、どんなに強調されて知っていても、奨励されていてもなかなか実践されていないのが祈りなのかなーとも思います。皆さんは如何でしょうか。

毎日朝の15分祈りをきちっと守っているでしょうか。更に午後3時、これは決められた事ではないですから3時でなくても良いのですが、自分で何処かに時間を定めて、もう一回とか、この時間こそという風にして、祈りをきちっと主の前に出て、静まってみ声を聞く時を持っているでしょうか。

このペテロとヨハネは大事にしていました。大事にしたその二人を主は用いられました。お互いも本当に祈りを重んじる時、その中で主は素晴らしい事をしてくださると思うのです。その素晴らしい事はその先を見ていきますと判ります。

先ず2節を読んでみますと「すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。」と足のきかない人の事が出てまいります。

すると今度は、その先「彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、『私たちを見なさい。』と言った。男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。

すると、ペテロは、『金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。』と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。」こういう展開になっていきます。

先ず目に留まるのは、この時、ペテロとヨハネはこの足のきかない男に目が留まったということが判ります。でも、2節で判りますように、この足のきかない人は偶々その日そこに居たのではなくして、この男は毎日そこに運ばれて来ていたということであります。しかし、目に留まって、立ち止まって、向き合ったのはこのときだった。ペテロとヨハネが祈る為に上って行ったそのときだった。

皆さん、私たちも普段何気なく歩いたり、毎日当たり前にしている行動の中で、それまで全然心に留まらなかったのに、或る日ぱっと目に飛び込んでくる、気がつく事があるのではないでしょうか。

そして、あなたが祈りをもって主に近づいた時に、主はあなたの心の目を開いて下さる。そして、普段見えないものを見せてくださる。聖霊があなたの心を捉えたときに、初めて見えてくる世界もあります。或いは更に、人々の心の内側を見ることが出来る。

ペテロとヨハネは只の無学の人々に過ぎなかったのです。ペテロはでしゃばりで、無学の癖に「俺は一番偉い。」としょっちゅう言いたがるような人でした。ヨハネの性格は短気でボアネルゲ、雷の子という渾名をイエス様に付けられた。それ程彼は短気だった。

ですから、性格的に言えば本当に極端なそんな二人であった。主はその二人がこうして自分の至らなさ、足りなさ、弱さを知っているが故にこそ、「祈り無しに自分の日々は無い、自分の主への服従は無いだろうな。」という事から祈りを重んじたでしょうか。

そして、祈る彼らの心は開かれていきました。毎日そこを通っていたけれど、祈る為にそこに来た時に、彼は一人の男の人に目が留まったのです。その男の人に対して、4節を見ますと大胆にも「私たちを見なさい。」と言うのです。

皆さん、「私たちを見なさい。」等と初対面の人に言えるでしょうか。「お前は何者だ。」と喧嘩でも吹っかけられるのかなと思ったりします。私たちは自分に自信が無ければこんな事は言えないなーと思います。いや、自分の自信ではなくして、本当に霊の力を頂かなければ出来ないと思いますね。

ペテロとヨハネは祈りの中に歩んでいました。祈りの中で近づいていました。祈りの中で聖霊を頂いていました。ですから大胆に、その人が心の中に何を持っているのか、今何を必要としているのかを洞察する事が出来た故に、「さー、私を見なさい。」とそう言えたと思います。

その次に、このように言うのです。「男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。すると、ペテロは、『金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。』」

私は此処のところは「彼らは貧乏でお金を持っていなかったんだ。」と自分でも理解し、そういう風に読んでいたのです。でも、ふと今回読み直してみたときに、2章の45節を見ますと、弟子達もそうですが、そこに導かれた皆が持ち寄った資産を売って、そのお金を必要に応じて分配していたとあります。

皆で分け合っていたのです。ですから、「12弟子達は何時何処で必要になるか判らないから札束を少し余計に入れていたのかなー。」と思いました。それなら、この時萬札かなにかを出して「そうか、これで何か美味しい者を食べなさい。」と言って上げてもよかったかなーと思うのです。

でも、ペテロは「金銀は無い。」と言います。「金銀ではない。」と言うのとは違います。大きな違いです。そうです。あなたを幸せにするのは、あなたが今必要としているのは金銀ではない。私が持っているものだ。そして、それを与えよう。「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」これは凄いですよね

霊の目をもって洞察しました。何がその人に一番必要なのか。鋭く洞察しました。お金を何十万与えようとも、それは尽きて無くなるし、贅沢三昧をする事だけであって、そんな事ではない。金銀ではない。必要なのは霊の生まれ変わりであり、いのちである。ペテロはそれを洞察して、金銀ではなくして、「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」

そこに、何と奇蹟がおこっていったことでしょうか。そして、その人にとって自分も考えなかったほどの幸せをそこに見出しました。イエス・キリストは私たちに一番必要なもの、更には、本当は無くてはならないものを知っておられて、それを与えるべくこの地上に来てくださったのです。

そして、それを与える事の出来る人、それは、あなたの心が主の前に貧しくなって、空しくなって、祈り求めて主の前に出る事のできるその人。ペテロとヨハネは自らの貧しさを知って、祈りをもって主の前にでました。そのときに、見えないものが見えてくるようになって、素晴らしい主の業をなしたのです。

私はこの群れの中にもペテロとヨハネのように主の前に自らの貧しさを知って、祈りをもって主に新しくして頂いて、聖霊を頂いている方々の多く居る事を知っています。ある方々はその中で不思議な癒しの賜物、癒しの力を頂いて、祈りを通して、その人の祈りによって癒されましたという報告を聞きます。そしてみ名を崇めます。アー主は本当に素晴らしいなー。主を崇めます。

又ある方は祈りを通して人の魂を導く知恵と力が与えられます。悩みをもって訪ねてきたその人を主の霊を頂いて導く事を通して、見事に生まれ変わって、主を信じて、救われていく人が興されていく。「イエス様を信じました。先生。祈って下さい。」来た時の顔とその時の顔は変えられて、本当に感謝になっている人を見かけます。

又、ある人を通して主はくすしいことをされます。祈っていたら、ある方を訪ねていくように、そして、その方に物を持っていくように主が導いてくださる。それを持っていった時に、何とタイミングよくその人がそのものを必要としている、その場に届ける。そして共に主は本当に素晴らしいと崇めることがあります。

ある方はやはり祈っていて導かれて、お訪ねしてみた時にその人が自分の霊も魂も体もにっちもさっちも行かない、行き詰まっていて、どうしていいか判らない中に追い込まれていて、これからの自分の人生をどうしたらいいのかとうめいている、そこに訪ねていき、共に涙して、共に主の前に祈る。そこに光が、そこから新しい導きが与えられる。そのような方々が居ります。

主は皆さん一人ひとりをペテロとし、ヨハネとして用いようとしています。あなたが主の前にへりくだり、主の前に祈る時にあなたを用いてくださるのです。そして、それを必要としている人があなたの周りに又居ます。

この前、半徹夜祈祷会をした時に、k姉妹が用事が有って、車で行こうとした時に、ふっとそこにあったテープをもって車の中で聞いたら、何とそのテープが今から約4年以上前の1999年10月21日の祈祷会のテープだった。

皆さんこの日は何の日でしょう。この日6月から始まったこのダイヤモンドチャペルの話が10月13日に契約しました。ところが何と翌14日はy銀行が0解答を持ってきまして、とんでもない大変な事になってきました。

ところが、私が本当に主の前に悔い改めて、17日の日曜日に4回の礼拝で私の悔い改めのあかしとメッセージの中から皆さんが悔い改めて「私です。私こそ主でない銀行を大事にしていました。銀行に頼っていました。」と祈りました。主はその悔い改めの祈りをお聞きになったのです。

ですから、翌々19日の火曜日にy銀行が来て、信じられない事ですが「仕切り直しして、私たちの銀行から借りてください。」と言ってきたのです。その後の祈祷会であったわけです。私は改めてその事を思い起こしました。

その時に、もう一つの大きい出来事があったことを私は思い起こしました。それは、あまり話した事が無かったのですがこういうことです。

実はY銀行が断ってきた時に即動いて、相鉄不動産の元副社長の岡さんが動いてくださって、Y銀行が駄目ならm信金にお願いしましょうということになりました。岡さんと私はm信金に行きまして、支店長にお会いして「こういうわけで一つよろしくお願いします。」とお願いしました。

ところが、しばらく時間がたって、4年前の今ごろですが、一旦断ってきたのです。断ってきた時に私は何処かで「Y銀行があるから。」と思いました。岡さんに知らせましたら、「そうですか。判りました。祈ってもう一度行きましょう。」こう言われたのです。私はその姿勢に打たれました。

そして、アポイントをとって、岡さんと二人で電車で行きました。待ち合わせて、祈って、支店に行きました。支店に行った時に岡さんが支店長に向かって非常に熱っぽく語られたのです。もうその語り方たるや、私は思わず身を引くようなそんな思いでした。

あることを通して如何に神様が働いて下さったかを語られたのです。それはものすごいインパクトが有りました。支店長はじっと聞いていたのですが最後に「判りました。もう一度やってみます。」と言ったのです。

後日談になっていきますが、この方は本当に自分の首を賭けて、本店で理事長に掛け合ったようでした。やがて勝ち取って本郷台に4億円を融資するということが決っていったわけです。今年の2月に後の支店長になった方が教会に来て下さったのですが、その方のお話しでは、何と前支店長はその事を通して、本店の融資部長に破格の昇進をしたということを聞きました。

更に、今年の新年の挨拶でこの理事長が本郷台のやり方を学べと言ったそうです。断られても再度挑戦して勝ち取ったということですね。それを我々の今年の年頭の言葉だといって力強く語られたと聞きました。あー、本郷台が用いられているかなと思いました。

一人の人を祈りに追い込んで、その祈りを通して働く時、一つの店ではない、一人の人でない、その銀行全体を動かしていき、主はことを成し遂げて下さるお方である。今朝、皆さん方一人ひとりが、主が期待しておられる、主が選んで下さっているヨハネ、ペテロである。

皆さんはどのように応答するでしょうか。今ビジョン礼拝で皆さんが祈っているところでありますが、皆さんがそれぞれのところで主に仕える、それぞれの賜物を指名、祈りを持って仕える時に主はあなたをどのように用いるでしょうか。そして、あなたが用いられる事を通して、教会がどのように地域に用いられるようになっていくでしょうか。

ミッション3000のビジョンはそのようにして地域に主の業、主の働きを深く浸透させていく。それはペテロで有りヨハネであり皆さん一人ひとりであるということを深く心に留めたいのです。主は一人ひとりを用いようとしておられます。その主に答えていきたいのであります。


お祈りを致します。
天のお父様。今日又あなたが此処に臨んで下さって感謝致します。主ご自身が一人ひとりをどのように用いようとしておられますか。どのように生かそうとしておられるでしょうか。

主がそれぞれをあなたの期待の器として選び遣わそうとしている事を覚えます。どうか一人ひとりがその主の期待に応答出来る者として下さいますようにお願い致します。又その事を通して、一人ひとり個人を祝福され、その一人ひとりを通して家族が祝福され、それが又その地域をも祝福の渦の中に豊に反映させてくださいますことを覚えます。

どうかそのようにして、一人の人の主への信頼と主に祈り求める事が、どんなに大きな結果を生み出していきますか。主よあなたの豊なめぐみをもう一度覚えさせていただいて感謝します。お一人おひとりを祝福してください。

尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン!