2003年11月30日 主日礼拝式
“イザヤ書” 7章10〜15節

「“インマヌエル”」

“池田 博牧師” 宣教メッセージ

今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今日からアドベント、待降節に入って参ります。今年はイザヤ書の中から聖書を見てみたいと思います。今朝はその最初で イザヤ書7章10節から15節 です。旧約聖書の1042ページになります。

“イザヤ”
7:10 主は再び、アハズに告げてこう仰せられた。
7:11 「あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。」
7:12 するとアハズは言った。「私は求めません。主を試みません。」
7:13 そこでイザヤは言った。「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。
7:14 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。
7:15 この子は、悪を退け、善を選ぶことを知るころまで、凝乳と蜂蜜を食べる。

はい、聖書は以上です。今日から待降節を迎えております。ローソクが1本灯りました。待降節を迎えて、教会もクリスマスデコレーションが飾られます。今年もまたクリスマスを迎えられる、イエス様のご降誕を迎えられる、本当に嬉しい事です。

毎年の事です。でも変わらないですね。私は今年洗礼を受けて45年になります。45年前洗礼を受けた最初のクリスマスの事がとても印象に残っていて、懐かしく思い出します。それを一寸ご披露したいと思います。何故かその時の写真が見当たりませんので、写真はまたの機会にさせて頂きます。

この事を昨日のように覚えていて新鮮です。不思議ですね、決してマンネリ化しない。それは、イエス様が生まれたということは、世界に2つとない大事な素晴らしい出来事であったということが大きいし、その事を通して人類にいのちが与えられ、人類に救いがもたらされた。これこそが人々の心を時代を超えて、環境を越えて和ませているのかなーと思います。

世界中、街の中何処でもクリスマス一色です。でも、街の中の人たちが本当のクリスマスが何で有るのか知らないで、それはクリスマスセールであるという感じで、本当のクリスマスが何であるのか知らない中でも、明るい雰囲気を味わっているのかなーと思います。

クリスマスツリーがあったり、リースを飾ったり、ポインセチアがあったり、或いは七面鳥を食べたり、いろんな事がクリスマスでは行われ、それもこれも皆がクリスマスを心から祝う気持の現われとして、いつも新鮮に感じている故にこそということかなーと思います。

皆さん如何でしょうか。今年もそんなわくわくする気持で、喜びに溢れる思いで、共に迎えたい、そんな思いがするのです。そのクリスマスにちなんで、今日はイザヤ書の7章で有りますが、特に7章14節の言葉に目を留めたいと思います。

「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」とあります。この預言の言葉を改めて私も此処を冷静に読んでみて「イザヤはどうだったんだろうか。」と一寸思ったりもしました。

それは「処女がみごもっている。」。「え、処女が身ごもっている。そんな事があるのか。」と。イザヤは神様からその事を聞いたときに、これを果たして語っていいものなのか、語っても皆は「そんな馬鹿な話は無い。」「常識で考えてありえないことを何故言うのか。」と突き上げを食うかもしれないし、信用されなくなるかもしれないし、私自身の存在がどうなっていくんだろうかと思うイザヤの心境を感じないでもなかったのであります。

しかも、この時代、後から見ていきますが、人々は不信の時代・神から離れた時代、イスラエルの民でありながら、神の民でありながら、でも、全くその心は神から離れてしまっている時代にあって、イザヤがそう語るということは抵抗もあっただろうかと思わないでもない事であります。

でも、イザヤは、そういうことがありながらも、それを超えてはっきりと確信をもって語ったのであります。「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」と語ったのであります。

その語られた言葉の意味についてもう少しみてまいりたいと思います。先ず、イザヤが語った時代背景を見たいと思います。10節にありますように、アハズという人が出てまいります。これは当時の南王国ユダの王様でありましたが、紀元前735年ごろといわれている時代です。

当時世界を治めていた最も強大な国はアッシリアでした。大国アッシリアの前にイスラエルは国の大きさから言えば四国ほどしかない。そんなちっぽけな国です。もし、攻められればひとたまりも無く滅ぼされてしまうそんなイスラエルであります。

アッシリアが攻めてくるらしいとなった時に、北王国イスラエルと南王国ユダ、そしてその隣にもう一つアラムという国がありますが、その三国が同盟を結んで防衛線を張ろうではないか或いは隙を狙って攻め入ろうではないかといった会議がもたれた訳であります。

しかし、アハズという王様は臆病なのか賢いのか、その辺は定かでないのでありますが、彼はこういう風に考えます。三国で同盟を結んでみても、我々が持っている力はたいした事は無い。むしろ此処は大国アッシリアと同盟を結んで隣の国を攻めてもらった方が得策だという判断をするわけです。

それで、密かに特使を遣わして、貢物を持ってアッシリアに行くわけであります。それをスパイが漏れ聞いて、北王国イスラエルとアラムはとんでもない事だということでもって、今度はその二つの国の兵隊達は隣の南王国ユダに攻め入ろうということになっていったのです。

その事が7章にあって、1節を見ますとこうあります。「ウジヤの子のヨタムの子、ユダの王アハズの時のこと、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、エルサレムに上って来てこれを攻めたが、戦いに勝てなかった。ところが、「エフライムにアラムがとどまった。」という報告がダビデの家に告げられた。すると、王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。」

エフライムとは北イスラエルのことでありアラムとはシリアの事であります。この二国が攻めてきた。ところが幸いにもあるところで戦線が止まっていた。止まっていたけれどもその知らせがアハズのところに届いた。すると王の心もエルサレムの民の心も林の木々が風で揺らぐように動揺したということであります。

アハズは賢い判断だと思った、得策だと思った。でも彼が取った態度は、いずれにしても、神様を信頼し、神様にお祈りして、神様の助を求めようという策ではなかったのです。それなりに賢くやっているつもりだけれども、やっている行動そのものが不安定であった。

やっている行動が誰のバックアップも無いもので、この上なく動揺したということであります。風前の灯といった感じでありますが、そんな情況が此処にあります。そして、10節から12節を読んでみますと、

「主は再び、アハズに告げてこう仰せられた。『あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。』するとアハズは言った。』私は求めません。主を試みません。』」こう言っているのであります。

アハズは「神様を私は煩わしません。」と言っているのです。何か、彼なりに「自分たちの事は自分達でやります。」と言っているのです。でも、そういう言葉の背後にあるもの、内側にあるものは、彼自身が神様が何であるのかよく知らないし、もっと神様に対する信頼が彼の中には無い。

ですから、不信極まりなく、頼れるものは目に見える軍事力であり、兵隊達であり、人々でしかないというアハズの悲しい現実がそこにあります。その悲しい現実は、此処ではイザヤとのやり取りでありますから、多少なりともイザヤを通して心が神様に向いているかのように見えますが、でも現実のアハズのとっている態度は全く違っていた訳なんです。

一寸そこを見てみます。先ず列王記第2の16章を見てみますとこうあります。

“列王記U”
16:10 アハズ王がアッシリヤの王ティグラテ・ピレセルに会うためダマスコに行ったとき、ダマスコにある祭壇を見た。すると、アハズ王は、詳細な作り方のついた、祭壇の図面とその模型を、祭司ウリヤに送った。
16:11 祭司ウリヤは、アハズ王がダマスコから送ったものそっくりの祭壇を築いた。祭司ウリヤは、アハズ王がダマスコから帰って来るまでに、そのようにした。

アッシリアの王に会うためにアハズはダマスコまで来て、その王に会った訳です。そこにアッシリアの国の祭壇が築かれていた。その祭壇を見たときに、アハズ王はその祭壇の詳細な作り方について図面と模型を送ったとあります。

アハズがそれを送って、祭司ウリアがその通りにイスラエルの神殿にそれを作ったということです。信じられない事ですが事実です。祭司それは牧師です。王様が何処かの国に行って、その国は素晴らしい国であった。そこにある祭壇を見て「この国が立派で素晴らしく強力な国であるということはそこに有る祭壇とそこに祭ってある偶像様が立派であるからだ。」と判断するわけです。

ですから、その図面と模型を頂いて、早速送るわけです。貰った池田牧師は「これは素晴らしい。あの大国のあの神様は今度は日本の、本郷台の神様にしましょう。」と言って図面通りに祭壇を造って、像を刻んで、此処に奉るわけです。

「皆さん、今度の新しい神様です。私たちの拝む神様はこの神様になりました。来週からこの神様を礼拝します。」皆さん拍手、いいえ、そんな事は有り得ないですね。でも、あたかもそのような事が此処でなされているのです。

王も王なら祭司も祭司、王の言いなりになっている祭司。そのようにしてユダは全く神様に対して心を鎖してしまっている。そして、もう一つ歴代誌の第2の28章24節を見てみますと、それを裏付けるもうひとつのことがあります。

「ついで、アハズは神の宮の器具を集めた。彼は神の宮の器具を断ち切ってから、主の宮の戸を閉じ、エルサレムの町かどの至る所に祭壇を造った。」とあります。

街を福音化したのだけれども、突然それを打ち切ってエルサレムの神殿の戸を閉じました。そして、そこに新しく祭壇を築き新しい偶像を安置し、町々角々にその偶像を置きました。ということをしている。

そして、22節を読んでみますと、「アッシリヤの王が彼を悩ましたとき、このアハズ王は、ますます主に対して不信の罪を犯した。」とあります。不信も神への逆らいも罪を犯す度合いも、此処までするのか、その極まりが此処にあります。その極限のような罪の状態です。

神が誰であるのかが判らなくなってしまっている程の彼らの罪の姿です。そういう状態に対して神様がイザヤを通して語ったのが先ほどの7章14節であります。「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。」

“それゆえ”、「あまりにも罪がはびこりすぎているから、あまりにも不信だから、あまりにも神から離れすぎてしまっているから、神が誰であるかも知らないほどになってしまっているから、わたしは新しいしるし、奇跡的なしるし、処女が子を産むというようなしるしをもって、彼らにもう一度立ち返るように、このような奇蹟をするのが誰であるのかを彼らが知ることが出来るように。」と言って、神は敢えてイザヤを通して預言されたと言う事であります。

何処までも、あくまでも彼らを愛し、訪ね、求めていかれる姿がそこにあるのです。でも、アハズはノーです。閉ざしました。閉ざし続けました。やがてその事はイスラエルの国そのものが滅びていく。

735年と言いました。それから十数年後の722年にイスラエルがアッシリアに滅ぼされていきます。先ず北イスラエルがアッシリアに滅ぼされていきます。南王国ユダはそれから百数十年経った紀元前586年に新しい大国バビロンによって滅ぼされていきます。

そして、イスラエルの国はなくなります。彼らはバビロンの捕囚の民となっていきます。然し、神様のみ手は変わらなかった。神様の彼らへの救いの手は伸べられ続けられました。そして、ついに、イザヤの預言から735年、今から2000年前に神はその預言通りの事をなさって下さったのであります。

それは、暗闇の極限のそのもう一つ極限の中にある当時の人々に向けてです。先ず、マタイの福音書の1章に目を留めたいと思います。

“マタイ”
1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
1:19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

こうしてイザヤの預言がこのときに成就したと聖書は付けております。ヨセフに告げられる前に実は同じことをマリアに告げられているのです。その事はルカの福音書に書かれてあります。そちらにも一寸目を留めたいのであります。ルカの1章26節以下です。

“ルカ”
1:26 ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。
1:27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。
1:28 御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
1:29 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
1:30 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。
1:31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
1:32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
1:33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
1:34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
1:35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。

こういう経緯の中で、マリアが先ず御使いガブリエルを通して告げられて、彼女は、その先の38節にも、「『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。』」とお委ねして、懐妊する事を受け入れていった。

ところがその時は未だヨセフには伝わっていなかった。そして、身重になった事が判った時に、当然ですが、ヨセフは本当にびっくりしました。ヨセフはどういう態度をとったかと言うと、マタイの福音書に戻りますが19節に「夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」とあります。

未だ結婚していないので、婚約時代であったので、婚約破棄をして、おおやけになればこれは大変な事になるので、姦淫罪で石打の刑になるであろうか、という事でもって、ヨセフはマリアの事を思って内密に去らせようとした。

迷いながら、苦しみながら、その決断をした時に、20節に「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」という声を聞くのであります。

聖霊によるのです。マリアはそのようにして聖霊による懐妊をしていく。当然な普通の結婚によって生まれるはずの子供が、そうで無くして、何故このような奇蹟、ありえないことをもってして、敢えて、イエス様の誕生を神様は予定されたのか。

只一つです。罪の無い子として生まれる為です。人々は罪の中に生まれて、罪の中に滅びるしかない。それが人の罪に支配された姿。それゆえ、あのアハズもそうであり、その時代がそうであり、全ての時代でそうであって、全ての人が罪という支配の中で罪の奴隷となって滅びるしかない中に置かれている。

神の哀れみの御手がそこに伸べられている。ずっと伸べられ続けていました。不信の罪がありながら、背きの罪がありながら、罪を良しとしているそんな中にありながら、神は人類を哀れみ続けました。救いの手を伸べつづけられました。

そして、遂に2000年前にイエス・キリストをこの世に生まれさせる事をご自身の中で定められたのでありました。神であられる方が、この穢れ果てた罪の中に生まれるということは、どんなことであったでしょうか。それは私たちには計り知れないことです。

私がゴキブリが大嫌いですが、大好きだとして、ゴキブリのために私は私の命を奉げます、神様、私をゴキブリにしてください。ゴキブリのために私はゴキブリになって生涯奉げます。考えただけでぞっとします。

でも、神様が人間の姿になって人間を救おうとされるということはもっともっと低い穢れ果てた状態です。ありえない出来事です。でもあり得ないことを敢えてなさった神様の愛、哀れみ、それがどんなに深いことでしょうか。

今、私たちはそのようにしてこの地上に生まれてくださったイエス様、しかも王宮に生まれたのではない、皆にもてはやされて生まれたんではない、あのベツレヘムの飼葉桶の中で生まれました。汚い汚い最も汚い中に生まれてくださいました。それは罪深い人々の心の姿を象徴しています。

でも、そこに生まれてくださったのです。そこからいのちの始まり、愛の始まり、そして、永遠の救いの始まりとなる為に自らそこに降りてくださいました。全てを捨てて、そこに身を置いてくださいました。あなたを救うために。あなたを愛する為に。あなたがいのちを得て永遠の救いに預かる為に。只一つ、その事のために、主は降りてきて下さったのです。

ですから、クリスマスは何時でも私達に新しい喜びを与えてくれます。今年も主を心から喜びを持って迎えたいのであります。


お祈りを致します。
天のお父様、こうしてあなたが、こんな罪深いものを愛して下さって、高価で貴いとも言って下さって、私たちに救いの手を伸べてくださいました。その身に全てを負って下さって身代わりに死んでくださいました。主よ、感謝します。

その愛の中に今年も私たちがこうして招かれている事を、生かされている事を感謝します。どうぞ、お一人おひとりが主を崇めて、主を賛美して今年のクリスマスも迎えることができますように。

尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン!