| 2003年12月7日 主日礼拝式 “イザヤ書” 9章1〜7節 「“平和の君”」 “池田 博牧師” 宣教メッセージ |
| 今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は イザヤ書9章1節から7節 です。旧約聖書の1045ページになります。 “イザヤ”
はい、聖書は以上です。今日はローソクが2本立っています。そして、アドベント・待降節第2週であります。クリスマスが1週1週近づいてくる、とても楽しみなところで、喜ばしいところであります。寒さも加わる中で、でも何か心暖かになってくる、そんな感じも致します。 今年はイザヤ書の中から待降節を見てまいりたいと思いました。先週は7章から「インマヌエル、神が私たちと共に居てくださる」というところを中心に見ました。今日は9章の今読みました中から、神様が私たち人類に与えてくださったメシア・救い主、イエス・キリストがどういう方なのかという事について、聖書は前もって生まれるずっと昔からそれを預言という形で語っています。 その事は、やがてそれが成就してみた時に、まさにその通り、100%その通りという処に聖書の素晴らしさがあります。聖書の正しさが裏付けられます。そして、聖書のめぐみ豊かさが伝わって参ります。という事で今日は9章の中から大事な幾つかのことについて見てまいりたいと思います。 最初1節と2節をもう一度読んでみます。「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」とあります。 3点を見ますが、先ず最初に「苦しみのあった所に、やみがなくなる。」とあります。この表現を通して神が人類の闇の世界に光が来るという風にして宣言をしている事が判ります。この世界が闇であるという事であります。 これは、私たちが実感するところかなーと思います。人類の歴史を見ても、今の世界を見ても、希望は何処にあるだろうか、闇が支配している、戦争は絶えない、犯罪は絶えない、そして人と人が愛し合うべきなのに傷つけあい、滅ぼしあっているではないか。 何時の世もそういう意味で闇の世界という事がある。そこには最早光が無い。光は望むべくも無い。それは絶望あるのみ、そういう感じであります。でも、此処に闇はなくなるとある。素晴らしい事ですね。 第2点目はその先に「ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。」とあります。異邦人のガリラヤという表現があります。ガリラヤとはイスラエルの国の地方であります。又同時にこのガリラヤとはイスラエルを指しているという事がいえます。 そのガリラヤが異邦人という表現の中に、本来神によって特別に選ばれて、特別に祝福されたはずのイスラエルの民、イスラエルの国が、最早捨てられてしまって、外されてしまって、祝福から最早縁のないものになってしまった。即ち異邦人、捨てられた民だとあるのです。 それはイスラエルの歴史を見ていくとそうなっているのです。ユダヤの時代のまもなく後に北イスラエルがアッシリアの国に滅ぼされ、南ユダはその後BC586年に滅ぼされていき、祖国を全て失ってしまうという歴史上の事実があります。それは神の一方的仕業ではなくして、イスラエルの民自身が罪故に神に背を向けて、神様から裁きを受けざるを得ない情況を自ら刈り取ってしまった。それ故に、異邦人ともなってしまった。 でも、その異邦人がリラヤは光栄を受けた。そこにも祝福、そこにも憐れみ、そこにも救いというめぐみが訪れた。神との親しい深い関係にあった民、でもそれが捨てられた、それは最早二度と立ち返る事、回復する事、祝福を受ける事はありえないであろう、でも、そこにも哀れみの手が伸べられたという事です。 3点目、2節に「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。」とあります。やみの中を歩んでいた民という言葉が此処には使われています。民、日本人という民があります。韓国という民があります。中国という民があります。民族の結集が人類であるわけですが、即ち、人類という中にはいろんな民があって、それによって構成されているという事であります。 更にそれをもっと細かく見ていくならば、民それは私たち一人ひとりであるということです。神は人類という枠の中で、十把一絡げに見ているという事ではなくして、その人類全体というのはあなたも、あなたも、あなたも一人ひとりがそこに集まって民族を構成し、その全ての民族にも此処で大きな光を見るということです。 神はマクロで全体を見てくださると同時に、ミクロ、一人ひとりを目を留めてくださって、その一人にも決してそのめぐみは漏れないのだと。人類60数億有りますが、60何億の中のたった一人の自分という存在、最早それは有ってなき様なものであって、大海の一滴の水にも過ぎない、そんなものの存在です。でも、神の目はそうではない。 一人ひとりをしっかりと見てくださる。あなたがたった一人この世界に存在すると同じように、何十億位いても、あなたひとりの存在は価値ある存在、大切な存在、愛の対象であると言ってくださる。そのようにして、私たちは闇にあるけれども、そうではない、光を見るんだとあるのです。 此処に闇とか苦しみとかありますが、これも象徴であります。苦しみ、それは人間が罪の苦しみ、悪の苦しみ、自らが蒔いた苦しみ、私たちはいろんな意味で苦しみを持っている。一人として例外無しに、皆持っている苦しみです。でも、その苦しむ人々に主は目を留めて下さる。 闇、それは光の無い世界、それは神無しの世界である。世界に神が無いとしている人たちも居るし、現状を見て「何処に神があるのか。」とそう言ってもいるし、確かにそのとおりである訳でありますが、でも、聖書はそうではない。聖書のメッセージはそうではなくして「闇に光が。」と言ってくださって、その光なるお方がイエス・キリストですと聖書は語っている。 私たちの罪故の苦しみにイエス・キリストが遣わされて来て、闇というかみなしの世界にイエス・キリストが降りてきて下さって、私たちの心を照らし、心のそのもろもろの罪をイエス・キリストは自らの身に負ってくださり、私たちに救いを、私たちに愛を注いでくださったという事であります。素晴らしいめぐみです。 更にもう一つ、そのことについての具体的なメッセージが6節にありますので、そこに目を移してみたいと思います。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。」とあります。一人の赤ちゃんが誕生しますというわけです。 即ち、イエス・キリストのあのベツレヘムの家畜小屋に生まれた出来事、あの事実を指しているわけであります。何故みどりごというのか。何故そのような存在を持って神は人類にイエス・キリストという救い主を送られたのか。 もう天から舞い降りてきて「わたしこそ救い主である。」と誰の目にも明らかに見る事が出来るような仕方で降りてきたら判り易いし、はっきりしていて「そうか。」と納得するかと思います。でも、誰にも知られない家畜小屋の飼葉桶、そんな中に生まれる。誰がそれを救い主、誰がそれを私たちのメシアとして信じるだろうか。誰も信じられない。 誰からも顧みられられない。そして、卑しい、卑しい、最も卑しい中に生まれる。先ほども賛美いたしました。「♪♪みくにおも、みくらをもあとに捨てましし、くだりしイエス君をおくる家あらず、住みたまえ君を此処へ、この胸に♪♪」 何時賛美しても感動無しに唄えない賛美です。本当に、主はしずの家、貧しい家、最も低いところに自ら身を置いてくださった。何故でしょうか。それは私たちの弱さを知るためです。私たちの貧しさを知るためです。私たちの暗闇を自ら体験する為です。同じ立場に、そして、隣に、共有して苦しむものと共に苦しむという処に立つためです。 天から舞い降りてきて「わたしはあなた方を哀れむものである。」と言われても誰が心開くでしょうか。誰がそこに心から喜んで近づくでしょうか。イエス様はそのようにして救い主としてこの世に来たのではないのです。知られず、誰にも顧みられぬ中に、たった一人で、最も弱い最も卑しい処に身を置いてくださった故にわたしの心がそこにある。それをオープンにする事が出来るのではないでしょうか。 私たちは誰もがそういう弱さ、嫌味や、知られたくない然し知ってもらいたい、判ってもらいたい、そういう心があるのが私たちです。その一番近いところに、直ぐそばに降りる為に、その身を置く為にイエス・キリストは降りてきて下さった。みどりご、それはまさに私の姿のためにその身を変え、その身を卑しくしてくださった、そのイエス様。 その方が本当はどういうお方なのか、或いは私たちにどういうお方になってくださるのか、という事がその先にあります。「主権はその肩にあり。」と一言あります。この方は比類なきお方、比べるべきも無い最高のお方だとあります。 一寸難しい表現をすれば、絶対者であって、私たちと全くかけ離れたところに存在する絶対者であって、私たちはその前には被造物に過ぎない小さなものであって、私たちの存在の何とそこには立場も無いようなそんなものです。 そういう比類なき主権をもつお方です。そして、今度はその先に「その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」とあります。ここに4つのイエス様の姿が称されています。その1つひとつがとても深い意味があります。 最初のところから1つ見ていきます。不思議な助言者と書いてあります。「不思議な助言者、これって何だろう。」と思いますね。口語訳を見ますと霊妙なる議士、益々わからない。一番新しい新共同訳によると驚くべき指導者、判るような判らないような。 皆さん、英語では何となっているか判りますか。ワンダフル・カウンセラー、ぴたっときますね。判りますね。英語の方がわかるなんてすごいなー。カウンセラーという言葉はもう英語ではなく、日本語になっていますが。素晴らしい、素晴らしいカウンセリングをする方ですよとあるのです。イエス・キリストがこの世界に来られて、あなたにとって素晴らしいカウンセラーになってくださるとあるのです。 教会にもシオン・カウンセリングというのがあります。もう10年近くも続いていて、多くの方々がそこでめぐみを受けております。カウンセリングされる立場からするならば、心の内を見てもらえる、知ってもらえる、判ってもらえる、理解してもらえる、これは本当に必要ですよね。 本当に何を話しても判ってもらえる、何て嬉しいかなーと思います。良き聞き手、これがカウンセリングの大事な秘訣であります。でも、その良き聞き手であるカウンセラーが、カウンセラーの立場に立ってみると、カウンセリングされる人のどこまで知ることが出来るだろうかということがあるわけです。 その人をどれほど知れるか、近づく事が出来るだろうかとなった時に、とてもとても私たちは知ることにおいて難しい、理解する事に於いて届き得ないなーということがあるかと思います。でも此処に、この方イエス・キリストはどんなカウンセラーかということについて、こういう風にあります。 詩篇の139編を開いて下さい。 “詩篇”
知られる側からこうして語っているところであります。カウンセラーとしてのイエス様は私たちをこれほどに深く私たちを知ってくださるということであります。私たちはカウンセリングする時に、初対面でその人を知ろうとするときに、なかなかその人を知ることの難しさを感じます。 カウンセリングされる側にしてみれば、「話したいけれど、話して本当に判ってもらえるんだろうか。同じ場に立ってもらえるんだろうか、単なる話の種にしか聞いてくれないんじゃないだろうか、良きアドバイスを貰えるんだろうか、本当に自分を任せて大丈夫なんだろうか。」ということがありますね。 私たちは知ることの限界、わかることの限度を感じるわけであります。でも、そこに全てを知ってくださる。更に13節以下を見ますとこうあります。「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。」 このように「アー、自分が知られているんだなー。」という風にして知ることが出来るということは何と素晴らしい事でしょうか。こんな者の内側を知ってくださって、しかも、何とその方はわたしを作ってくださったお方なんだ、救ってくださったというならば、その造るときの目的がはっきりしているであろう。 こんなものが、自分で自分が好きになれない、受け容れられない、「どうしてこんなものが存在しているのか。」と思ってしまうほどに、私たちは自分を受容出来ないそんな者、でもそんなものを造ってくださった神であるならば、今心が歪んでいて、心が見えなくなっていて、苦しんでいるこの私を矯正し正しく導きそして真っ直ぐに立つことが出来るようにしてくださる、そうであれば何とそれは素晴らしい事であるでしょうか。 15節以下を一寸見て見ます。 “詩篇”
という風にして、もう計り知れない。自分の存在も済んだ、神のその御目も済んだ。計り知れない、でも何か、安心して委ねてみようとの思いで委ねてみた、そこには目覚める時なおもあなたと共に居ます、安心して委ねきって、それでいいんだといえる、これ以上のカウンセリングは無いですね。 イエス・キリスト、不思議な助言者としてのお方は私たちを此処まで100%丸ごと受け止めてくださって、しっかりと支えてくださるお方です。このお方が私たちの救い主、あなたの助主ですとあるのです。 次に、力ある神とあります。何か力ある神とは、力でねじ伏せられて、力で押しつぶされてといった感じになってしまうのですが、その力はそこに表されているのではなくして、マタイの28章18節に「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」 イエス様はそのようにして権威を与えられたのだとあります。何故そうなのか、それはイエス・キリストが弱い、最も弱いところに置かれて、弱い中で実はあなたの弱さも担ってくださり、あなたの罪も担ってくださって、そして呪われても下さって、私たちが捨てられて、裁かれて滅びるその一切をご自分の身に負って下さって、あの十字架に於いてイエス様は私たちを担いきってくださった。 その姿の中にこそ神の力があるのだというのです。真に力ある人でなければ弱い立場にたつ事は出来ない。徹底して弱さに立てるということは徹底した強さの中にあって、力があって初めてなしうる事、イエス・キリストは弱さの中にご自分の強さをしっかりと置いてくださって、私たちの弱さを100%受け止めてくださった。 そして、代わって復活してくださった。それ故に私たちの弱さはキリストの故に強さに変えられていく。そういう力あるお方ですとあるのです。ですから、私たちの弱さを100%お任せ出来るお方、そこにイエス様の素晴らしい姿があります。 その次に永遠の父とあります。これもとても素晴らしい事で、始めなく終わり無く何時までもずーとということであります。でも、日本語で永遠という言葉に訳されているへブル語のエイドという言葉は直訳するならば時時刻刻という意味があるということです。時時刻刻というのは、言葉を少し意訳してみるならば、あなたがどんな時でもわたしはあなたの父だと言ってくださっているということなのです。 どんな時、皆さん、ルカの16章に出てまいりますあの放蕩息子の話に1つのサンプルを置くならば、放蕩息子が親から自分の分け前の財産を早く貰ってしまって、それを持って遠い国に行ってしまって、父から背を向けて、好き勝手に放蕩三昧し、悪に染まり、罪まみれになってしまって、最早人間ではなく、豚が食べるいなご豆を食べていかなければならないところまで零落れてしまった。そんな放蕩息子です。 普通の親子関係なら、もう親でもない子でもない。その縁は切れた。そんな関係、そんな親子、そんな存在です。そして、あの放蕩息子が何を象徴しているかといえば、人間と神の関係だということです。 神の前に人間は好き勝手な事をしました。背を向けました。欲望のままに生きました。罪まみれになってしまった、そんな存在です。でも、時時刻刻私たちにとって神は父であるという時、それは家にいて、よい子であって、素直な子であって、その時に父であるだけでなく、背を向けて離れていった時にも父であり、放蕩している時にも父であり、悪に染まりきった時にも父であり、最早人間となりえないところまで罪まみれになってしまった時にも父である。 そして、我に返って、父の下に雇い人の一人としてでも受け入れてもらおうかと向きを変えました。普通の親なら「どの面下げて帰ってくるのか。」といって、又追い返してしまう。然しその時でも、いやその時こそ父となってくださって迎え入れる。そのようにして時時刻刻私たちの如何にかかわらずいつも変わらず永遠に父となってくださるお方、それがイエス・キリストです。 皆さん、こういう父の下に帰りませんか。こういう父の中に飛び込みませんか。父はこのようなお方なんです。イエス・キリストはそのようにして迎え入れてくれようとしているのです。今日も両手を広げて「サー帰ってきなさい。わたしの下に飛び込んできなさい。」。あなたにとって、今がその時です。父としてあなたを迎えてくださる。それがイエス・キリストです。 そして、最後にもうひとつ、平和の君とあります。平和、それはシャロームなのです。シャロームは平安とか安心とかの意味もあります。或いは充足という意味もあるということです。神は、イエス・キリストはあなたにシャロームを与えて下さる、そしてあなたを充足、アー此処に居ていいんだ、これで満足できるというところまで満たしてくださる、そういうお方だとあります。 イエス様は十字架にかかられる前に言われました。「私はあなた方に平安を残します。わたしが与える平安は世が与える事とは違います。わたしの与える平安はあなたの心を真に満たします。ですから心騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」と言って下さいました。 そのようにして、あなたに平和の君、満足を与えるお方としてあなたに向き合ってくださるのです。不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君としてきてくださるイエス・キリストです。今日この方をあなたの心に迎えませんか。この方を迎えて「私の心に平安を与えてください。」と祈りませんか。 あなたのその祈りは聞かれます。その祈りは応えられます。そして、あなたは変えられます。この主を崇めてクリスマスを前にして私たちは先ず心の内にそのようにおいで下さる主を迎えたいですね。 お祈りを致します。 卑しい、最も卑しい処にあなたは降りてくださいました。それは、私の心、私の姿です。あなたはそこにご自身の身を置いてくださいました。哀れみとめぐみに感謝します。一人ひとりをそのように迎え入れてくださる主がこうして与えられた事、傍に居てくださる事、知ることの出来る事は何とさいわいでしょう。主のめぐみが豊にありますように。 尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン! |