| 2004年1月4日 主日礼拝式 “エレミヤ書” 33章9節 「“この街を福音で満たす”」 “池田 博牧師” 宣教メッセージ |
| 今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は新年最初でありますので標語のみことば エレミヤ書33章9節 です。旧約聖書の1199ページになります。 “エレミヤ”
はい、聖書は以上です。こちらにもありますように、標語のみことばとして昨年に続いて2年間同じ標語で教会として目標を持ちました。こういう事はこれまでなかったことでありましたが、後でも少し触れますが、意義あることだと思っています。 新しい年を迎えられまして、皆さんも新しい心、新しい期待を持って迎えたと思います。ご一緒に前進していきたいと思います。この年皆さんそれぞれに何かを期待をして始めた方もおありかな‐と思います。 この年にひとつの区切りを迎える人も結構おありなのかなーとも思います。若い方は受験の年、あるいは就職の年、あるいは結婚を望んでいるとか、そんな事もあるかな‐と思います。或いはそういうお子さんを持っている親御さんもおありかと思います。 青年以上の人たちは結婚何周年目であるとか、信仰を持ってウン十年だとか、今年は不惑の年だ、還暦だ、古希だ、喜寿だ、卒寿だといろんな節目とかであるかなと思います。そういう年を迎えると一年意義ある年になるようにと誰しもが願うかな‐と思います。 そして又、振り返ってみた時に、この年自分にとってはとても大事な記念の年、節目の年となったと振り返ってなる事もあるかな‐という風に思います。いい意味でそういう事を期待しながら、この年初めて主に祈って取り組んでいきたい。 私たちはビジョンを持つ事が大事、主に期待することが大事、主はしてくださると信仰を持って進んで行くと、これも大事です。そう思います。ですから、私たちは本当に主に期待するということをもっともっと生かしていけたらという風に思います。 そういう意味で、信仰的にこの年を自分にとってひとつの区切りの年としていくのも素晴らしいかなー。まだ洗礼を受けていない方は今年は信仰決心の年或いは洗礼の年となるようにと祈って取り組んで頂きたいと思います。 私たちが救いをいただくということ、イエス様を信じて永遠のいのちを頂く、この素晴らしさ、このめぐみの大きさは、この世界この地上私たちの人生に於いて最大の祝福であります。ですから、そこにきちっと目を留めながら、その区切りをしていただけたら、どんなに素晴らしい事かと思います。 そして、クリスチャンになってお互いが、これまでは何となく礼拝を守るだけの自分だった。でも、今年からもう少し進んで、何かで仕えていきたい、少しビジョンがあって、賜物が与えられていて、使命があるならばそれを立ち上げて、ミニストリーの働きをしていきたい。 そのような取り組みも素晴らしいと思いますし、そこまでいかなくとも既に有るミニストリーの働きに参加して、そこで仕えていきたい。いずれにしても、一歩進んで、もうひとつ何かをするということを通して私たちは本当に主に喜ばれる歩みをしていきたい。 「あなたはわたしに何をして欲しいのか。」主はそう私たちに呼びかけていてくださるのです。主は私たちを通して、何かをしたいと願っています。それは、あなたのこの地上に生かされた目的をより高く、あなたを作ってくださった神こそあなたを最高に生かすことの出来るお方。 この神様に向かって私たちが応答していけたらどんなに素晴らしい事かと思うのです。それをより自分に身近くしていくためには、皆さんの主との関係がより緊密になる事が大切だと思います。これまでは一寸したことで礼拝を休みがちだったけれど、この1年はしっかり礼拝を守り通していきたいな。それもとても大事です。 祈祷会にも参加していきたいなー。早天も出てみようか。なかなかこれは大変です。でも、皆さん、皆さん一人ひとりが目標を持ち、そのために一つの緊張感を持つということは、結果として私たちにいろんな意味で祝福をもたらして下さいます。 極めて個人的なことでありますが、私は前から聖書通読をより充実していきたいなーと、そんな取り組みをしてまいりましたが、今3回4回と聖書を通読できるようになってきました。そして、礼拝もそうですし、祈祷会もそうですし、此処数年来早天も毎朝出られるのです。不思議ですね。 そのことは私自身の健康の上でもとってもプラスになっています。又、私自身の心の清浄にとっても本当に祝福であります。そのようにして、私たちはほっておいたら惰性に流されやすく、ほっておいたら自分の肉、古い自分に戻りやすいのです。惰性に流されやすい。 でも、あまり緊張しすぎるとポコンと折れてしまいますから、適度な、皆さんそれぞれに合った今年はこの一歩、今年はもう一歩という風にして、1段階1段階進んで行くのです。そうしますと、皆さんの心がより神様に近づいていくことが出来ていくのです。 よく、「神様の声を聞いたとか、み言葉を与えられたとか言いますが、何でしょうかね、これって。」そういうところからスタートするのですが、でも、聖書を読みつづけていくと、本当に聖書の素晴らしさが判ってきます。 サザエさんと聖書は何度読んでも厭きない。そうですね、サザエさんは一寸あれですが、私の個人的な「何度読んでも、不思議ですね。や、初めてだ。」という感じで聖書はより深いんですが、より素晴らしいんですが。 そして、「アー、サザエさんですらこれだけあるんだから、聖書はもっとだ。」と思ったら、もっともっと聖書は素晴らしくなっていくんです。毎日読まないではいられない。ふっと気がつくと1時間聖書を読んでいる。そういう風にして聖書を読む楽しさ、素晴らしさ。 そして、いつしかそういうものが米の飯のように、体の健康に大事な3食の食事のように、霊の糧としての聖書をいつも読みつづけていると、それ自体が心を清浄化してくれる。そのように思います。皆さん、神様が与えて下さるこの素晴らしいめぐみをもっともっと私たちは自分のものにしていったらより素晴らしいと思います。 教会がそのような意味で皆さんの一人ひとりの霊的な祝福のために共に励ましあって、共に研鑚しあっていく中で、この1年も前進していきたい、この1年もより1歩高まっていきたい、そういう期待です。共に歩んでいきたいと思います。 教会にとって今年はとっても大事な年になります。3つ記念があります。先ず1つ、今年は教会創立40周年になります。何時を基点してというのは、これまでうっかりしていたのですが、よく考えてみたら、森兄弟が結婚して、自分の実家に戻ってきて、そこで家庭集会を開いた。 それは単に家庭集会ではなくて、それはやがて誰かを招いて、そこを拠点にして教会が立つようにという願いをこめて、ビジョンを持って始めた家庭集会であった。それが1964年の12月の事でした。 東生田から田辺先生やファーター先生が来て下さって、家庭集会が始まった。そして2年後にエッツエル先生が来られて66年の4月3日に正式な礼拝が始まったという歴史であります。ですから、今年は最初の家庭集会からスタートして40年ということで、大切な区切りの年なのです。 そのためにしもべ会の中では40周年記念委員会を立ち上げて、話し合いを既になされてまいりました。何回か話しているうちに、ある時この40周年を只単に教会だけのお祭りではなくして、この地域の皆さんにとっても大事なイベントとして取り組んでは如何でしょうかということになりました。 そして、急に栄公会堂を借りようということになりました。でも半年前でないと抽選が終わってしまっているのです。でも、やはりぶっつかっていこうという事で、4月の第1主日が記念の時なので、第1主日がどうだろうと思って、聞いてみたらもう埋まっていました。 そこで、「神様は何処かで備えてくださっているかもしれないから。」と言って、3月、4月でどこか空いていないかと聞いてみたら、なんとたった1日空いていたのです。4月18日、第3主日が空いていたのです。凄いですね。 よく考えてみたら、第1主日は教会にとっては記念日だけれども、入学式入社式といろんなことで第1主日は皆さんあわただしく、第2主日はイースターです。ですから、それが終わった第3主日、いやー、神様は備えていてくださった。この日を教会のために備えていてくださった。 即予約を入れました。ですから、皆さん祈っていて頂きたいのです。この日勿論私にとっても大事な日であるのですが、これまで拘わったいろんな方を招きたいなー。町会の方々、議員の方々、今作業所のために養護学校の方など、いろんな方々があります。 そういう方々を皆お招きして、この地域の教会として、地域に仕える教会として、皆さんとの間に手を取り合ってさらに進めていきたいというイベントとしてこの日を用いていきたいということであります。 ですから、是非皆さん祈って下さい。そして、いろんな意味で呼びかけが有ると思いますが「はい。」と言って直ぐ従って頂きたい。そう思います。そのようにして、この日を大事な日にしていきたいと思っています。 もうひとつは、ダイヤモンドの光を出版することにしました。これは、先ほど言いました開拓の時からずーっと歴史を綴ってきているものです。その中で本当にいろんな人のいろんな拘わりがあって、今日此処に教会が立ち上がってきているということであります。 この一つずつを私たちは改めて心に刻み、感謝し、又それがこれからのミッション3000の大事な発展に繋がる石になっていくという、そうした意味でとっても大事な事かなーと思いますので、これを出版しようと今話し合われているところであります。 そして、ミッション3000というビジョンがこれからどのように発展していくかということを考えた時に、改めて私の中にも、しもべ会の中にも有るのでありますが、このミッション3000のスタートは使徒の働き2章の41節にあります。 そこに、初代教会、ペンテコステのときにペテロの説教として何と3000人が救われ3000人が洗礼を受けたということです。これって凄い出来事であったわけであります。何故、主は3000人もの人を一度に救って、一度に受洗させられたのか。 僅か11人の弟子、120人のものもいたのですが、たった11人の弟子の前に3000人がどっと加えられたとは、どうなっているんだろうと思うようなことであります。でも、神様はその3000人を救って、3000人を母体にして、初代の教会がさらに発展していきました。 これは、一介の教会の大事なスタートの事でありますが、もう一つ、それは教会の1つのモデルであルということを教えられたわけであります。そしてモデルであるとするならば、今この時代に私たちはこのビジョンを掲げる事を通して、何をどのように取り組んでいくのかということを考えさせられるということであります。 1995年です。仮にもしこのミッション3000のビジョンがスタートしなかったならば、このダイヤモンド・チャペルは決してなかったといってもいいくらいな事かなと思います。 ビジョンを与えられたからこそ、この場所が、当時の教会にとって常識を遥かに超えた事であったとしても、無謀と思えるようなことだとしても、考えられない事だとしても、でも、最終的にミッション3000を与えてくださった主はこれを必ず実現に至らせてくださるという、細い糸だったかもしれませんが、確かな信仰によって、決断して、踏み出しました。 そうした時に、この場所は具体的に与えられていきました。そして今、私たちはこのダイヤモンド・チャペルなしに本郷台の働きは考えられないほど、この5年の間にいろんな意味で発展してまいりました。 働きが広がってきています。先ほどもユース礼拝に行ってきたのでありますが、若者達も本当に燃えているのです。これからあなた方の時代である。私は少なくとも後30年したらもう引退しなければならない年になる。でも、あなたがたはエネルギッシュにその時こそ「我々がこの本郷台教会を担うのです。」と言う。 皆さんもそうですよ。未だ若い人は。要するに、受け継がれていく。そして、受け継ぐ人たちはやっぱり先人たちが信仰によって獲得したもの、成し遂げたものを受け継いでいく。これです。かって、あの平和台チャペルのために10数人という本当にわずかな者でしたが、一生懸命祈りつつ、本当に頑張りました。 主の力を頂いてこそあの平和台チャペルが与えられていきました。その細かい事はあの「光」に書いてありますが、その中で、次のステップとしてこのダイヤモンド・チャペルが与えられて、ミッション3000という意味は又これが1段階も2段階も先のことでありますから、今、私たちは何をするのか問われている、期待されている、主がその可能性を引き出してくださる、そう思います。 もう何年にもなりますが、暮れには5万枚のトラクトを配ります。費用からいえば100万円以上かかる事です。でも、これが本当に何処まで効果があっただろうか、効果を考えたら一寸厳しいものがあるかな‐と思います。 クリスマス集会を開きます。700人以上集められた本当に素晴らしいことでありますが、でも、効率でいうならば、そこから何人の人が残って、何人の人が導かれていくだろうか。そんな事もあるのかな‐とも思います。勿論、だからといって、無駄だから、水の上に投げるパンのようだから、する意味があるのか無いのか、といった意味ではなくして、やる意味はあります。効果の問題ではない。 たった一人であっても、そこに導かれる人ならば、それで素晴らしい事です。私たちはその効率を越えてやることの大切さがあります。でも、これが大切であればあるほど、私たちは別の面から問わなければいけないなと思います。 僅かしか導けれない。ともすると、私たちはそれを見たとき、それを聞いた時に「だから人々の心は頑なで、人々は心を閉ざしている。伝道は難しい。」という言い方をしてしまいやすいのかな‐と思います。もっと進んで「兎に角私たちはやっている。伝道している。配っている。労を惜しまない。」と言って、何処かに自己満足してしまう危険すらあるのかな‐と思います。 「導かれない。」「頑なだ。」と言っている。じゃー、その人たちが悩みを持っていないのか、苦しんでいないのか。そうではない。多くの人たちが、皆が悩んでいて、苦しんでいて、助が必要である。然し、その悩みを何処に持っていったらいいでしょうか。苦しんでいる。誰がその苦しむ人の隣に立ってくれるのだろうか。助を必要としている、でも、誰がその手を伸べてくれるのだろうか。 もう10年ぐらい前になります。一人の姉妹の中に願いが興されました。これからの時代は心の時代、心の病める時代。「先生。私はどうしても、その時代のためにカウンセリングの学びをして、少しでもお役に立ちたいんですが。」という申し入れがありました。 私は聞いて大切だと思いました。そして「バックアップましょう。祈りましょう。」と言って彼女を送り出しました。彼女はカウンセリングの学びをして、インストラクターの資格を得て参りました。その時に、それで終わったのではなくして、「先生。どうしても教会の中でこの働きを進めていきたい。私には何かそういう重荷が与えられました。いかがなものでしょうか。」 「判りました。是非それをやって下さい。バックアップします。祈ります。支えましょう。」ということで、カウンセリングクラスがスタートしました。振り返ってみました。1994年の9月のことです。何回かの役員会とのやり取りが会って、教会の中でカウンセリングする事での多少の議論もありました。 伝道以外のことがあっていいんだろうか。いろんな声もあったり致しましたが、でも、やっぱり大切だという事で、それに協力する事に致しました。スタートしました。そして、10年の歳月が流れました。姉妹の中にはそこからいろんな方々が教会に列なり、いろんな方々が問題を抱えている事がよく判りました。 特に、そんな問題を抱えた方々が教会に列なってきた時に、この人たちを只そこに来て、そこに居るという事だけでは、とっても片手落ちで、この人たちが本当にやりがいのある奉仕、働きのできる場所を提供して、役に立つという何かが必要ではないかという思いがあるのですという事でありました。 そのことも私たちは受け止めました。そして、それを立ち上げましょうという事になりました。具体的に人材が必要でした。その人材の為にも立ち上がる人が興されて、昨年の秋に具体化して、借り入れをして、今、月井先生のお宅を出ていただいて、あの場所が作業所に良いという事になりました。月井先生のお宅はその後ろに今順調に工事が進んでいます。 作業所を立ち上げて、ハンディーある方々をそこで働いていただく、教会の食事つくりをし、掃除をし、いろんな係りの中で彼らが「あー、自分達も役に立っている。自分達もやる事があるんだ。」「こうして交わりができるんだ。」ということが彼らの人生にとって、大事な大事な希望であり、生きがいである。そう信じて今計画しているわけであります。 そのようにした時に、近隣のいろんな養護学校から何校も何校も来て、拘わりを持って下さり、具体的に何人もの方々が「お願いします。」ということで来ています。これなども近隣に門戸を開き手を伸べた時に、そのような事が始まってきたということです。そして、小さく始めたいと言う事でありますが、でも、期待されるところも大きいと言う事も判りました。主はそのことも良しとしておられるということは見えております。 サッカースクールも昨年5月からスタートしましたが、神様は本当に不思議でしたね。地球の真反対からオルテガさんを私たちの教会に送ってくださいました。日本に滞在する40日間の間に、この兄弟が見せてくれたものは、本当にこれからの教会にとってとっても大事な、いや、日本にとって大事な姿勢だという事が判ってきたのです。 オルテガさんは単にサッカーの技術を教える為に来ようとしているのではない。勿論サッカー選手を養成するというのだけれど、でもそれは、子供自身が健全な心、優しい心、そして親に対しても仕える心を持つ、そういう子供でなければサッカーは上手にならない、いや、スキルは上手になっても、本物のサッカー選手にはならない、そういう理念を持っています。 これは本当に大事な事です。若者の心が喪失しそれが問題になっていることでしょうか。主はそういう処にこのような大事な器を、祈っている中に送ってくださいました。そして、既に200人近くの子供が拘わるようになって、その中から本当に子供達が変わってきている。子供達が「このオルテガさんについて来たい。」と言って、そのことを親が見て、親が変えられている子供故に、教会に列なろうとしている人が既に興されているということです。 こういうことも、出て行ったからこそ、門戸を開いたからこそ、開かれてきた事であります。ノアも小さく始まりました。一人の保育士が自分がそれまで拘わっていたところで、何と自分が預かっていた子供が、久しぶりに帰ったその家で親に殺されてしまうというような、信じられない出来事が目の当たりに起こった。 その時に、「自分は生涯かけてこの保育のために尽くしていきたい。」そういう熱い思いが興された。そして小さく始まったのです。本当に小さすぎて誰も来ないのです。誰も来なかった、半年間。そして半年後たった一人の子供が送られて来た。預かってみて判ったのですが、その子はこれまで何処の保育園にいっても、どうしても風邪を引いたり、喘息を起こしたり、入院したりで1ヶ月1度も入院無しでは過ごせない子供であった。 でも、ここに来た時に2人の保育士とボランティアのおばさんたちに囲まれて、蝶よ花よと育てられた。ですから、たちまち健康になっていったのです。1度も入院しなかった。1度も喘息が起きなくなった。「アー、神様はこんな事をしようとしておられたんだなー。」一つことを始めた時に、全く知らない中で、埋もれていた人をそこに送ってくださった。 今6人に増えました。6倍になりました。でも、まだ6人では採算が取れないんです。ですから、10人になり、10人を超えるとあそこは場所が狭いのです。平和台全体がノアにならないといけない感じであります。でもそれもきっと神様が良いように開いて下さる道を備えて下さる、そう信じます。 一人の人の熱い思い、やむにやまれない思いの中にあって、業がなし始めるのです。皆さんの中に重荷を持つ人がいるでしょうか。こういうことのために自分の生涯を賭けていきたい、自分の賜物をささげたい、主に祈ってます。主はそれを用います。主は決して無駄になさらないお方です。 忍耐を以って祈っていく中に、忍耐を以って仕えていく中に、あなたがこの地上に置かれた最高の生き方を主が知ってくださる。主はそのように私たち一人ひとりを生かそうとしてくださることを覚えます。 この年、何がそこに起こってくるか、本当に主は私たちを見守ってくれているなーと思います。最後に先ほど33節の9章をお読みいたしましたが、少し前の6節に目を留めてみたいと思います。「見よ。わたしはこの町の傷をいやして直し、彼らをいやして彼らに平安と真実を豊かに示す。」とあります。そして「この町はーー」と繋がっていくのです。 この町を福音で満たすという時に、主の方法は只伝道ではない。只トラクトを配る事ではない。特伝をする事ではないんだと。先ず「この町の傷を癒す。」とあります。皆が傷ついている。皆が悩んでいる。皆が苦しんでいる。そこに降りていく事、そこに手を伸べる事だと主も言っておられます。 これが教会がその町に置かれた大事な使命なのだという事です。主が町の中で痛んだ傷ついた方々に皆さん一人ひとりがどういう手を伸べるでしょうか。どういう迎え方をするでしょうか。どのように、受けるだけでない与えるものへと変えられていくでしょうか。皆さんがこの素晴らしい救いを頂いたんですから、このいのちを頂いたんですから、この希望を与えられたんですから、それを持って仕えていく事です。 イエス様がこの世界に来てくださったんです。この世界、しかもあの飼葉桶の中に生まれてくださったんです。イエス様は天から私たちを見下ろして「汝等罪人よ、われは汝等を哀れむぞ。」とそういう声を天からかけられた時に「勝手にしろ。」と私たちは言いたくなります。 でも、イエス様はそうではなかった。見下ろしたんではない。単に自分の手を汚さないで、「さー、わたしの下に来なさい。」と言ったのでもない。手を汚して、最も低いところで卑しめられて、その卑しめの中で、苦しんでいるものの苦しみをご自分の苦しみとしてくださった。私たちはそこで心を開きます。そこで、私たちは主の愛を知ります。 私たちもまた、主の愛を持って仕える、主の愛を持って与えていく、それが主の私たちへの大切なメッセージだと思います。そこから町の福音化が進んでいく。ミッション3000はそこから実現に至らしめられる。それは、私たちが何処まで手を汚して、泥をかぶり、人の痛みを担う事ができるか、そこにあることを覚えます。 お祈りを致します。 なお、本当にこのものの語ることばは足りないものであります。又過ぎたるところもあります。どうぞ一人ひとりにあなたがよりふさわしく語って下さい。よりふさわしく決断へと導いてくださいますように。 尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン! |