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ささげ物がささげ物になっておらず、いけにえがいけにえになっていないことがあるようです。
そこにある神の声を聞けていない時です。
それは父なる神のお喜びになる事ではなく、お求めになることでもない。そのような中で神が
ダビデになさった事は彼の耳を開いてくださったことでした。ふさがって耳がないかのように神の
声を聞けてなかった耳を新しく掘り、聞こえるように穴をあけて下さったということです。
ふさがれている耳は神の声が聞こえません。 聖書を学んではいるのですが、神の声が聞こえない。
聞こうとしません。
主イエス様がパリサイ人や律法学者に問われたのは、まさにそのことでした。ヨハネ5:39,40
聖書を読んでいても神の声を聞いていない。
礼拝に出ているのに神の声が聞こえない、ということがあり得るとすれば、それはどういうこと
なのでしょうか。
神が私に呼びかけておられる声として聖書に耳を傾け、謙遜な心で神の声に聞き従うようになら
せて頂きたいものです。
ダビデの耳が開かれた時、すばらしい世界が彼に開かれました。詩40:7。
神の声が聞こえはじめ、み言葉が、(聖書が)私のものとなったのです。
「主よどうぞ、私の耳を開いて下さい。」
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