1997年11月23日 主日礼拝式 第1礼拝

聖書 ピリピ人への手紙 3章17節〜21節 「落ちこぼれてみなければ」

荒川師 宣教メッセージ



今日は, 荒川先生をお迎えしております。メッセージの聖書のみことばをお 読み致します。ピリピ人への手紙の3章の17節から21節, 新訳聖書の354ペー ジになります。 お読み致します。

17. 兄弟たち。 私を見ならう者になってください。 また,あなたがたと同じよ うに私たちを手本として歩んでいる人たちに目を留めて下さい。
18. というのは,私はしばしばあなたがたに言って来し,今も涙をもって言う のですが,多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
19.かれらの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり,彼らの栄光は彼ら 自身の恥じなのです。彼らの思いは地上のことだけです。
20. けれども,私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが 救い主としておいでになるのを,私たちは待ち望んでいます。
21. キリストは万物をご自身にしたがせることのできる御力によって,私たち の卑しいからだを,ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えて下さるのです。

 ハイ,聖書は以上です。案内にもありましたように,今,荒川先生がグァム の福音キリスト教会の牧師であり,また日本から遣わされて宣教師でもありま す。グァムには四,五千人の日本人が住んでおられ,また多くの旅行者が滞在 していると云う事であります。日本人の出入りが多い中にあって,まあ,日本 から出ているその先でいろいろ問題を抱えたりする,そういう人たちにです ね。宣教の働きをしておられます。その体験の中から今日はですね。メッセー ジを戴ける事を,本当に感謝しております。風貌も本当に立派になって帰って まいりました。荒川先生,拍手をもってお迎え致します。

お招き有り難うございます。一言,祈ってから始めたいと思います。

 ご在天の主なる神様。お招き戴いて本郷台の地で,この教会で御名を拝し, 共にあなたの恵みに預かろうとしています。あなたを知る事無くして,私たち のいのちある生涯は無かった事を覚えます。神は渇ける者に水を与え, 力を与 え, いのちを与える主である事を,この朝,共々に覚えたく願います。どう ぞ,主が語っていて下さるように,待ち望み,主に委ねて,救い主の御名に よってお祈りを致します。 アーメン

ここにありますピリピ書の3章の20節にあります『国籍は天にあり』と云う 言葉からご一緒に少し,みことばを説き起こしてみたいと思っています。『国 籍は天にあり』この言葉は私の生涯を決定し,今,なお問われ続け,そして, 私だけでは無くて,或る意味では日本の教会全体が,今も,そして,これから も将来にわたって問われ続けられる,みことばだと思っています。

どうしても国籍の事を問題にするかと云いますと,グァムには,日本人が 四,五千人居住していますが,それらの方々がすべて日本語を話すとは限ら ず,もう日本人だからと言って日本語を話すとは限ら無いのです。国籍ですら 日本で無いような方もいます。ですから,自己紹介をする時も,私は日本人 で,私の母国語は日本語です,と云った一風(いっぷう)変わった紹介の仕方が 行われています。どうして『国籍は天にあり』と云う言葉が,この現代になっ て重要な意味を持つようになった化と云う理由は,簡単に申し上げますと,海 外で信仰を持たれ,或いはキリスト教に触れて帰国される方は,年間で少なく 見積もっても千六百人から二千人程度はおられます。そういった海外で聖書に 触れ,主に触れて帰って来られた方たちの数は,毎週,毎週,私たちのように 礼拝を護っている者よりも,日本では或る意味で“隠れクリスチャン”と言い ますかね。その方々の方が圧倒的に多いのです。

同じ主を見上げ,同じ日本人でありながら,救われた場所が違っているだけ で,帰国してから,この日本で同じ礼拝を持つ事が出来ないと云う問題があり ます。実は,そこにリバイバルの可能性を見る訳であります。若し,その方々 が,同じ主を見上げて日本の教会に繋(つな)がる事が出来たなら,そこに爆発 的な主の御技がなされるものと信じるからであります。その事は,帰国者1人 ひとりの性質とか,性格とか云った個人的な問題を遥かに越えた,実は,救わ れた場所での文化が,その人の生き方や,考え方にかなりの影響を及ぼしてい ます。ですから,私たちが国籍は天にあると云う事の意味をしっかりと,捕ら え直すときに,或るいはその事に目覚める時に,大きな御技がなされると信じ るからであります。

国籍は天にありと云う事で,福音書の中でイエス様の生涯を見る時に,私は イエス様の中に大きな奇跡をみます。学生時代から続いて,長くクロス・カル チャーと云う異文化間のコミニケーションについて,学んでいますが,文化を 学びますと,日本人の単一性といいますか,日本人の特殊性に目覚めて来るの ですね。日本と云う国は,国自体が島国ですから,日本人は単一民族で,単一 言語で,単一国家で纏(まと)まっています。ですから, 次第にそこから均一 性,同じようなものの考え方,見方が生まれて来るのは当然の事ですね。それ が私たちの中で自然な常識となってまいります。この状態は俗に云われる “ツー,カー ”のような状態になるのです。また反面,この単一性が深まっ てまいりますと,排他性が生まれてまいります。考え方を共通しない者は交わ りに加えないと云う傾向が私たちにうちに増して来ます。

この事は,聖書を学んで行くと,ユダヤの文化の中にも,共通なものがある 事に気がつきます。イエス様は面積が四国位のユダヤから,一歩も外に出た事 はないのですが,その中で同じように単一文化の深い,単一の宗教で交わって いる彼らの中で,イエス様はその生涯を過ごされました。パウロはタルソ生ま れの外国人ですから,彼にはユダヤの文化の特徴も見えていたのですが,しか し,イエス様はユダヤに国から一度も離れられた事が無いのに,イエス様の内 側には自国,即ち,ユダヤの文化の限界と,その危険性を明確に見抜いておら れました。此の事は,自国の文化の限界に対する目覚めである訳です。日本人 が神様を信じ,国籍は天にあると云うみことばに接した時,当然,日本人性と 国籍は天にある者との間に葛藤が生まれます。そこで,私たちが,若し,イエ ス様のように変えられて行くのだとすれば,イエス様と同じように,自国の文 化の限界と,その危険性に目覚める必要があるものと考えます。

 その働きの中でどうして行けば良いのかと云う事がテーマになるのですが, 実は,グァムの生活を三年半程している内に,様々な不思議な事に出くわしま したが,その内で最も大きな事とも言える事は,或る意味で日本では歴然と存 在するのに,グァムでは通用しないものがあると云う事です。これは深いなと 思った事があるんですけれども。それは何かと云うと世間体と云う事です。皆 さん,世間体というものが,皆さんの身近に有りありますよね。人の目を意識 すると云う考え方,生き方が私たちの内側に深く,しかもお互い同士,均一性 が深いものですから,お互い監視する訳ではないのですが,お互いが,お互い の生き方を見ていますね。この日本の社会では常識ともなっている世間体とい うのがグァムには無いのです。この世間体と云う事を意識の中に於いて生活を して行こうとすると,おかしな生き方なってしまうのです。日本で大事にして いた世間体を,そのままグァムに持ち込んで,日本にいた時のライフスタイル を維持しようとする。即ち,世間体を気にするから,目立たないよう人の真似 をして生活すると云う生活習慣を続けようとすると,その人は不安に駆られて 病気になってしまいます。グァムではどう人の真似をして行って良いのか分か らないのです。グァムで私が住んでた隣はコウリアンの方ですし,反対側の隣 の方はチャムロ人の方が住んでいました。お互い会話は英語ですから親しくし ていましたが,彼らの生活ライフを真似る訳には行きませんでした。例えば, 右隣のコウリアンの方を真似て,毎日3食,3食続けて,キムチを食べる訳に は行きませんし,私の上に住んでいた方は白人のダンサーで,朝から晩までビ キニ姿で生活をしていました。若し,そのようなライフスタイルを私の家内が 真似たら異常な事となりますね。このように,自分の周囲の人たちは,それぞ れ,各人各様に自分たちだけのライフスタイルで,それぞれが生活をしていま すから,何を真似たら良いのか分からなくなってしまって,不安に襲われてし まうのです。何をもって私が,私と言えるのかと云う事が大きな問題になって 来る訳です。

国籍が日本に在る者にとっては,世間体は社会的にも当然な常識であるかも 知れませんが,しかし,見方を変えて考えて見ますと,日本人自身は誰もこの 世間体など喜ぶ処か,世間体と云う存在そのものを疎(うと)ましいものだと 思っているのですね。私の田舎は栃木で,ここに来るのに3時間半ほどかかり ましたが,その実家の兄貴夫婦と近所の人たちの噂話(うわさばな)しをしたの ですが,実家の向かいのオバチャンが本当に暇で困る。私が何時に家を出て, 何時に帰って来るかちゃんと知っていると云うのですね。隣近所の親しい人た ちの間ではこう云う事がよくありますよね。この例は,暇だからと云う中で笑 い話のように取り上げる事が出来るのですが,そういうものが疎(うと)ましい ものと思いながらも,自分の中でもそういう習慣が身に付いています。ですか ら,社会的な悪習慣とでもいえる,この世間体を廃止しよう。改善しょうとす る働きは,どこから起こるのかと,考えて見ますと,日本の国の中からは起 こって来ない。聖書にあります,「国籍は天にあり」と云う,これに代わる考 え方,生き方というものが,日本の文化の限界と良くない側面,即ち,危険性 に対して,私たちは問題意識を持っていながら,誰もそれを変えて行こうとし ない。

ですから, 私はそこに一つの例(たとえ)ではありますけれども,教会が立ち 上がり,違う生き方が此処にある事を示さなかったら,日本は少しも変わりま せんし,それこそが国籍が天に在る者の生き方ではないかと考える訳でありま す。私たちが本当の意味で主との出会いの中で解放された歩みが,人の目では なくて,神の目を意識した者の幸いがそこに生まれて来る時,私は多くの渇わ ける魂に福音が届くと思うのです。海外で信仰を持った方々に対する福音の宣 教も,実は,同じ事であります。彼らは或る意味で落ちこぼれ意識を持ってい ます。リターンのカルチャショックとでも云いますかね,帰国者にとっては日 本は外国になるんですよ。自分が生まれ育った故郷が,昔,自分が住んでたい 時のようには受け入れて呉れないのです。ですから,自分の中に在る海外渡航 前の故郷に対する常識が,帰国後の故郷の様子に出会って戸惑うのです。私の 息子は4歳でグァムに行き,7歳で日本に帰ってきました。日本に帰って来て 小学校の2年に編入されたのですが,学校に馴染めているか,どうかが一番, 心配だったものですから,暫く経ってから,電話でどうだい学校は,と聞きま したら幾つかの感想を述べて行く中で面白いのがありました。パパ,知ってい る。日本の学校ってね,授業中に飲んだり,食べたらいけないんだよ。グァム は柔軟です。飲み食いと言うか,先生は,コーラーを飲みながら授業をしてい ます。暑い所ですから,それが常識なんですね。それから,授業中にトイレに 行くのにわざわ断って行かなければならないのを,とても彼には不思議でし た。もっと不思議なのは,ずーと机に座っていなければいけないと云うのが, もっと苦痛でした。

その常識の転換は,自分自身をそこに馴染ませて行かねばならないと云う事 に目覚めてしまった者。若し,その文化と云う事の習慣を遥かに越えたアイデ ンティティと云いますか,その事を内側で明確にして行く時に,私たちの生涯 はもっと解放れたものになって行くと思います。

グァムでキリスト者になられた或る婦人のあかしを読みました。私はそのあ かしを読んで,福音こそがこの事を解決する唯一の方法であり,私自身このよ うな事に対して闘って行きたいという思いに駆られました。この女性は深い悩 みの中にある方でした。その悩みは欧米の人達には到底,理解する事は不可能 な,むしろ,ナンセンスと思われるようなとても日本的な悩みでした。実情を お話ししますと,この方は二十八歳の時に,ある事情で離婚されたのですが, その離婚をした事が精神的なショックの原因となって彼女の髪の毛に1本,2 本と白髪が目立ち始めました。当初は1本,1本と手で抜いていましたが,ど んどん白髪が増えて行きました。二十八歳の若い女性の若白髪なんて本当に可 哀想ですね。彼女は増え続ける白髪に負けて,とうとう髪全体を染め始めるよ うになりました。白髪染めを初めて,数カ月も経過すると,毛髪の痛みも激し く,幾ら白髪を染めても生え際は白いのが当然なのですが,でも,彼女にはそ の生え際の白いのが気になって仕方が無く,彼女の中で生え際の1ミリ程の白 髪が日常的な関心の虜(とりこ)になって行くのです。 他人にはまったく下らな いと思うような事が,彼女の心の中でまるで底無し沼に足を踏み込んだよう吸 い込まれ,彼女自身はその中でもがき苦しめば,苦しむ程,全身が沈んで行く ようになるのです。

 様々な出来事が一つひとつ起こって来ます。先ず,自分自身でも気付くので すが,無意識の内に人の前でおじきをしなくなって行くのです。髪を見せるの が嫌だからおじきしないのです。次に彼女が気付くのは下りのエスカレータを 無意識で避けるようになってきます。頭全体が上の段にいる人から丸見えにな るからです。それからエレベータは,一番最後には決して乗らない。エレベー タに乗ると入り口の方を向くじゃないですか。自分の後ろの方で話し声や,笑 い声が聞こえてくると,そんな事は無い,誰も私の事などに関心を持つはずが 無いと,懸命になって自分自身に言い聞かせるのですが,でも, いつの間にか 自分の髪の毛を笑っている,私の髪の毛がだらし無い,汚いと思っているに違 いないと云うような様々な妄想に取り憑(つ)かれて行くんです。

最後の極め付け(きわめつけ)の出来事が起こります。彼女はアメリカ製のカ ラーリンスで髪の毛を整えて,友人に誘われたゴルフに行き,ハーフが終わっ て,クラブ・ハウスに戻り,化粧室に入った途端,鏡に映った自分の顔を見て 愕然(がくぜん)とするのです。出掛けに整えたカラーリンスのために,額に幾 筋もの黒い汗が流れているんです。今まで一緒にゴルフをして居た三人の女友 達は,私のこの醜態(しゅうたい)に気付いていたのに, 私に気遣って誰も知 らせて呉れなかった事に気付いた彼女は,背筋も凍てつくような思いに襲わ れ,茫然自失のまま後半のプレーを放棄し, 友人にも告げずに黙って車で飛ん で帰るんです。そして,部屋に閉じこもったきり怖くて家から一歩も出られ無 くなってしまうんです。買い物にも,まして仕事にも出られなくなり,部屋で 悶々(もんもん)とし,解決の糸口が見つから無い中で悩みが骨髄に徹して,彼 女は自殺を願うようになって行くのです。誰も何だそんな下らない事で,全く 愚かで,馬鹿げた事だと思うでしょう。しかし人の目を意識し,悩む事が生き る,死ぬの問題にまで発展して行く事が日本の中によくある事なのです。

 そんな時に,たまたま学生時代の友人が電話を掛けてきます。彼女は訴える ような気持ちで,今の自分の状態を打ち明けるのです。クリスチャンであり美 容院を経営していた友人は,それを聞いてこれは大変と飛んで来ます。そし て,彼女の話をもう一度,真剣になって聞いた後で,兎に角,私に付いてい らっしゃいと,嫌がる彼女の手を引っ張って自分の車に乗せ,もう,夜,遅い ですから,誰もいない自分のお店に連れて行って,彼女の髪を短く切って ショートカットにして,何度も,何度もシャンプーで髪の毛を洗ってカラーリ ンスを洗い落としながら,その友人は『時代はナチュラル』よ。と彼女に話し かけるのです。『自然が一番』という事なんですね。この,自然であると云う 事は,例え白髪であっても,それが自然ならば,あなたにとっては,その白髪 も自分の個性の一つだと自分で認め,自信をもって堂々と生きて行くと云う考 え方の中に彼女を導いて行くのです。

 それまでは,人の視線を避けるため服装はもちろん,化粧まで地味に目立た ないように,目立たないように生きて来た彼女に真っ赤な口紅を渡してつけさ せ,奥からから出してきた派手な自分の服を着せて,尻込みをする彼女を無理 やりに連れ出し,一緒に食事に行くのです。その事が契機になって,その友人 はしょっちゅう彼女を食事に,買い物にと人込みの中を引っ張り廻したので す。友人と連れ立って人込みの中を歩く彼女の頭の中で『時代はナチュラル』 『時代はナチュラル』と云う言葉が走馬灯のように駆け巡ったそうです。やが て,彼女は,友人に導かれて教会に行き信仰をもって変えられて行ったと云う あかしでした。

 私は思うのです。人の目を意識すると云うこの悪習慣,世間体と闘う時,私 たちは自分自身の弱さを身にしみて痛感させられます。私たちが主を信じ,国 籍は天にありと云う,このみことばに対して心から確信があったなら,この現 代にあって,この常識の中で苦しんでいる方々の痛みを伴いながら,共に解決 の道がここに在る事を示して行く責任が,闘いの土俵がここに在るように思え てならないのです。私はそこにこそ,福音の力があると思うのです。神様を見 上げる事の中で初めて解放される。この世間体を打ち破る闘いを,ここに土俵 がある事を私たちは正面から受け留めて,共に福音の宣教に,そして,その意 味と価値が,福音の宣教は命に直結する働きである事を共に覚えながら邁進 (まいしん)して行きたいと思う訳であります。

一言,祈って終わります。

憐れみの主なる神様。あなたが生きて働き,神様,彼らの最後は滅びですと, 彼らの思いは地上の 事だけですとあなたは 云われます。神よ。どうぞ,国 籍が天にある者にふさわしい生き方の中で, その命き方の中にある人,神 様,福音が届ける事が出来るよう私たちを押し出して下さい。救い主の御名に よってお祈りを致します。