1998年1月1日 元旦礼拝式

聖書  マタイの福音書 24章1〜14節 「近づく主の再臨」

池田 博 牧師 宣教メッセージ



それでは,今日のメッセージのみことばをお読み致します。元旦礼拝でありますけれども,今日はマタイの福音書の24章をお開き頂きたいと思います。マタイの福音書の24章の1節から14節までお読み致します。新約聖書の24 ページになります。

1.イエスが宮を出て行かれるとき,弟子たちが近寄って来て,イエスに宮の建物をさし示した。
2.そこで,イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに,あなたがたに告げます。ここでは,石がくずされずに,積まれたまま残ることはけっしてありません。
3.イエスがオリーブ山ですわっておられると,弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話し下さい。いつ,そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。
4.そこで,イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気を付けなさい。
5.わたしの名を名のる者が大ぜい現れ,『わたしこそキリストだ。』と言って,多くの人を惑わすでしょう。
6.また,戦争のことや,戦争のうわさを聞くでしょうが,気をつけて,あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし,終わりが来たのではありません。
7.民族は民族に,国は国に敵対して立ち上がり,方々にききんと地震が起こります。
8.しかし,そのようなことはみな,産みの苦しみの始めなのです。
9.そのとき,人々は,あなたがたを苦しいめに会わせ,殺します。また,わたしの名のために,あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。
10.また,そのときは,人々が大ぜいつまずき,互いに裏切り,憎み合います。
11.また,預言者が多く起こって,多くの人々を惑わします。
12.不法がはびこるので,多くの人たちの愛は冷たくなります。
13.しかし,最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
14.この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて,すべて国民にあかしされ,それから,終わりの日が来ます。

ハイ,聖書は以上であります。

皆さん,明けましておめでとう御座います。新しい年,1998年を迎え,今日はその最初の日ですが,皆さんがたも様々の思いや,期待をもってこの新しい年の初日をお迎えになられた事と思います。しかし,それと同時に,去年1年間が何と速いこと過ぎ去った事か,何かアッと言う間に過ぎ去ってしまった1年でもあったように思うのです。

それぞれに,この過ぎ去った1年,様々な思いがお有りの事と思うのですが,兎に角,終わって見ると本当に短かった1年,何かをしょうと思ったが結局何も出来ずに終わってしまった1年,やり残しばかりが多かった1年,何かそのような思いに駆られるようにも思うのです。特に,クリスチャンにとっては,またひとしお,1年が速く過ぎ去ると言う感じがするんですね。

私もクリスチャンになって大分長いのですが,それ以前に比べますと何か月日の経つのが,やたらと速い気がするんです。何故かと言いますと,クリスチャンは,今日は元旦ですが,このように日曜日毎には教会に来て礼拝し,心から神を賛美しつつ,祈りを捧げ,神からみことばと,心の糧を頂いて新しい一週間がスタートします。そして,次の日曜日に向けて,その一週間の日々を励まして頂き,みことばに頼り,祈りながら歩む日々を送り,また新しい日曜日を迎えて,神様の前に讃美と祈りを捧げ,みことばを頂き,心を養って頂くという,日曜日から日曜日という生活のサイクル。この生活のサイクルは,日曜日を起点として神様から派遣されて,次の日曜日には戻って来て,また新しく派遣されてと言う非常に大事な生活のサイクルだと思うのです。その意味からも1年間は52週で構成されていますから,日曜から日曜と云う生活のサイクルから,何か1年間が52日で終わったと言う感じがしないでもないですね。ですから,私たちクリスチャンにとって,1年間が余計に速く過ぎ去ると言った感じを抱くのかも知れません。

しかし,このように,ただ過ぎ去る時間の速さだけでは無く,私たちクリスチャンにとっては,自分は毎日曜日に神様から頂く恵みを心にどのように蓄えているだろうか。祈った事に対して神はどのように応えて下さっているだろうか。神と共に歩むと言う事が,自分の生活の中にどのように定着し,問題や困難を乗り越えるに際しどのようにいかされているだろうかと,一つ一つを心に留める事は非常に大事な事だと思うのです。

そのようにして私たちは,真の神を知らない人生,全く神が存在しなかった人生から,神に従い,神を見上げて生きる人生へと少しづつ,変えられて行くのです。最初の内は,そのような事はごく僅かしか分からないものです。礼拝メッセージが良かったなぁと思って,家に帰れば何を聞いたか少しも思い出されない程忘れてしまう事から始まるのです。でも兎に角(とにかく),耳と目を通して,心を通してそういう生活を始め,繰り返している内に,知らず,知らずの内に魂(たましい)が,心が,霊が養われ,浄化され,心が神様に向かって自然に開かれてまいります。

このような事をずっと繰り返し続けてまいりますと,自分自身の内側の変化を自分で気付き始め,神と共に生きる人生の大切さ,素晴らしさ,そしてその確かさが見えてまいります。これが私たちにとって非常に大事な事だと,今日,お互いに心に留めたいのです。このような観点に立って見てまいりますと,私たちの日常生活の中で何げなく過ぎ去って行くささいな事柄の中にも,心に留めなければならないとても大切な神様の恵みがある事を覚えるんですね。神様に従い,神様を見上げる姿勢が出来て行くと言う事は本当に素晴らしい事だと思います。

毎年,年末感謝礼拝の時に申し上げているのですが,過ぎ去った1年間を振り返って,自分は神様からどれくらい恵みを頂いたか,少なくとも自分の年の数だけ数え,書き記してみましょうと言う事で,私も年末に作成しましたものを持参しました。私は昨年は還暦で60歳だったのですが,頂いた恵みは69件も数える事が出来ました。毎年の事ですが,ああそうか,あの事も,この事もと振り返って指折り数えて見ますと,頂いた恵みが一杯ある事に気付かさせられるのです。1つ気付づくと,ああ,そうだ,あれも恵みだったんだなと言う事で,何か1つ開かれると,次の1つも開かれてくる。これは感謝だなと,素直に頂いた恵みに感謝する。1つ感謝し,更に,開かれた恵みに,もう1つ感謝をして行きますと,何時の間にか心が潤い,豊かにされて行きます。神様に向かう私たちの心の有り様はこのような過程を経て少しづつ養われて行くものです。

でも,現実は世間の荒波にほんろうされ,様々な人間関係のかっとうの中で,私たちは気が付いて見ると,本来は愛し合うべきはずの者と,憎しみ,いがみ合っている自分自身の心の醜さとか,心の貧しさとか言った事を絶えず体験させられます。私たち一人一人に神様が与えて下さいました人格が,何故,このようにゆがんで刺々しくなって,愛すべき者を愛されず,許すべき者を許せず,憎しみ合ったり,許せない心になったりするのでしょうか。それは,あなたの心が神様とぴったりと一つになっていないからです。それが,神様に向かって生きる自分を繰り返し,繰り返し,続けて養って行く内に,何時しか,少しづつ高めに上って麓が見え始め,自分自身も見え始め,自分の周囲が改めて見えて来るようになります。

皆さん,見えて来ると言う事は,本当に素晴らしい事です。客観的に自分自身を見つめ,客観的に他人を判断する事が出来れば,他人と交わる際にも余裕をもって交わる事が出来るようになってまいります。ですから,飛んで来た言葉が自分の心に打撃を与えたとしても,今,彼はあのような状況に置かれているから,自分に対してこのような言葉を口走ったのだろう。或いは,何が彼にあのような言葉を口走らせたのかと,一歩も,二歩も退き一呼吸も,二呼吸もおいて受け止める事が出来るようになって来ます。主にあると言う事の素晴らしさ,主は私たちをそのようにして,主のいのちにあずからせようとして変えて下さるのです。その恵みを決して忘れてはならないと思うのです。

主が良くして下さった事は私たちには具体的には見えないものです。何故,それが良い事なんだろうと解らない中にあっても,神様は良くして下さっていると言う事をよく掘り下げて,もう一歩掘り下げて行った時に,更には,みことばを通して見て行った時に,そこに埋もれた恵みを見つけ出す事が出来るのです。そのようにして,主が一つ一つ良くして下さる事を決して忘れないようにと心に深く刻みたいものですね。皆さんがたにとっても,飛ぶように過ぎさった去年1年だとは思うのですが,でも,その1年間に頂いた幾十もの恵みを改めて思い返して行く時,その一つ,一つが,必ず今年の新しい歩みにプラスし,潤いを与えてくれる事になってまいります。ですから,頂いた恵みと,それに対する感謝の気持ちを大切して頂きたいのです。それらの事は神と共に歩む私たちと,そうでない人たちの違いがはっきりと見えて来るからです。

今日は,先程,お読みしましたマタイの福音書の24章の中から弟子とイエス様との違いを二つのポイントから見てみたいと思っています。この事は元旦礼拝だから大事な事として見てみたいと思うのと同時に,先程,共に考えました与えられた恵みを心の留め,感謝を捧げると言う事も念頭に置いて見て行きたいと思います。もう一度,1節,2節を読んで見ますと,

1.イエスが宮を出て行かれるとき,弟子たちが近寄って来て,イエスに宮の建物をさし示した。
2.そこで,イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに,あなたがた告げます。ここでは,石がくずされずに,積まれたまま残ることはけっしてありません。

ここに,先ず,弟子たちが見ている目と,イエス様が見ておられる目との違いがはっきりとわかります。弟子たちは目の前にある神殿の壮麗さ,壮大さに目が奪われています。マルコの福音書の13章の1節にこれと同じ記事が次のように出ています。「先生,これはまあ何と見事な石でしょう。何と素晴らしさ建物でしょう。」弟子たちが感嘆の声を上げている様子が書かれています。

この神殿はヘロデの神殿と言われるのですが,かつてソロモンが20年の歳月を費やして立派な神殿を建立しましたが,外敵により徹底的に破壊されています。その当時の王ヘロデがそのソロモンの神殿より遥かに壮大な,より素晴らしい神殿をソロモンの20年に対して,46年の歳月を費やして建立しています。何故,そのような立派な神殿を建立したか,その理由は解りませが,兎に角,ソロモンの建てた神殿を遥かに凌駕(りょうが)する壮麗,かつ,壮大な神殿を建立したのです。

弟子たちは,その壮麗かつ,壮大な神殿を見て感嘆の声を放ったとありますが,この感嘆の声を放つと言う事は,ただ単に,建物が立派だからと言うだけでは無く,このような壮麗な神殿で礼拝や,儀式が執り行われていると言う事は,この神殿は私たちの心のより所でもある。ひいては,私たちのより所である,この神殿がこのようにしっかり建っている事は何と心強い事ではないか。といった意味合いも込めた感嘆の声だったと言う事が出来るかと思うのです。

ところが,イエス様はそれに対して,2節で「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに,あなたがた告げます。ここでは,石がくずされずに,積まれたまま残ることは決してありません。」と弟子たちにとっては,思いもよらない答えをされています。弟子たちにすれば,ヘロデ王が46年もの歳月を費やして建立した建物ですから,永久にとは言わないまでも,子々孫々,何代,何十代まで,半永久的に崩される事は無いだろうと思える程,壮大で,頑丈な建物が,目の前にデンと建っているのです。それは確かにより所ですね。

今日は元旦です。皆さんも教会に来られる以前は,今日は初詣だとひたすら通っていた方はどれくらいおられますか。ああ,そうですか,それでもぱらぱらですね。私もその内の一人でした。統計的に見ますと八千万以上の人々が初詣に行かれているそうです。何故,初詣なんでしょうね。最近,そこの神明社も,身近な所でと,結構初詣客がお見えになられるようですが,でも,この辺りでしたら,大概は,川崎大師,鶴ケ岡八幡宮,明治神宮,或いは成田山新勝寺,それこそ壮麗,壮大な,建物が建っている所に行くのですね。

大勢の初詣客に混じってかしわでを打ち,遥か遠くの神殿を目がけて百円玉を投げ,この1年間の無病息災,商売繁盛を祈願するのですが,心の何処かでは初詣をしたから何だろうかなと言う思いもあるものの,反面,初詣をしなければ気が休まらないとか,落ち着かないと言った事もあって,やはり,それが日本人の宗教心とも言えるし,心の故郷とも言えるかも知れません。この正月三ヵ日のお賽銭が何億,何十億となって1年間,左うちわで過ごせる,本当にそう言った意味では何か日本は豊かな国であるのかも知れません。

イエス様は,「そういった壮大に見える建物,立派な石垣が崩されずに残さる事などあり得ない」と言われる言葉の中に2つの意味が含まれています。その一つは,このヘロデの神殿は,この後,40年も経ない紀元70年のローマの侵攻により僅かに西の壁のみを残して跡形も無く徹底的に破壊され尽くされています。これに象徴される事ですが,イエス様は人間の造った目に見えるもの,即ち,物質的なものをより所にする事の空しさを知る必要があると語っておられるのです。確かに私たちにとって目に見えるという事は確かな事ですが,でも,聖書に「目に見えるものは暫くにして,目に見えないものこそ永遠に続くのです。」と語っています。

私たちにとって,目に見えないものは存在しないから,頼りにする事は出来ない。従って,目に見えないものには,どう寄り掛かって良いか皆目見当も付かない。しかし,実は,どう寄りかかって良いか皆目見当も付かない程,その人の心の目が曇っていて,見る事が出来ないからどうしても,目に見えるものに寄り掛かろうとする.しかし,目に見えるものはやがて崩れ去って行くものだから,ここで私たちはジレンマに立たされる事となるのです。このジレンマに対して,パウロはギリシャのアテネに行った時,そこで偶像礼拝が盛んに行われているのを見て,使徒の働きの17章の22 節,23節の前半で次のように語っています。

22.そこでパウロは,アレオバゴスの真中に立って言った。「アテネの人たち,あらゆる点から見て,私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。
23.(前半)私は道を通りながら,あなたがたの拝むものを見ているうちに,「知られない神に。」と刻まれた祭壇があるのを見つけました。

とあります。もう神々が無数にあって,もう新しい神に名前を付けられ無くなって,「知られない神に」と言う名を付けたと言う事です。続いて23節の後半から25節で次のように語っています。

23.(後半)そこで,あなたがたが知らずに拝んでいるものを,教えましょう
24.この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は,天地の主ですから,手でこしらえた宮などにはお住みになりません。
25.また,何か不自由なことでもあるかのように,人の手によって仕えられる必要はありません。神は,すべての人にいのちと息と万物とをお与えになった方だからです。

とはっきり言っているのですね。あなたがたは立派な神殿に何かが存在していると思い,その何かを心のより所にしようと思って集まって来るが,その何かという存在は神では無いのです。神は宇宙の万物を創造された方だから,人間の造った神殿などにはお住みになるよう方ではないのです。更には,28節

28.私たちは,神の中に生き,動き,また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも,「私たちも、またその子孫である。」と言ったとおりです
29.そのように私たちは,神の子孫ですから,神を,人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。
30.神はそのように無知の時代を見過ごしておられましたが,今は,どこでもすべての人に悔い改めを命じておられます。

とあります。ここで意識していようが,無意識であろうと関係なく私たち人間が存在すると言う事は,神の御手の中に生き,神の御手の中に動いている事だと,神に対して目が開かれていたパウロこはこのように言っています。本当にパウロと言う人は一歩先を歩んでいた人でしたから,このような事を確信をもって大胆に語る事が出来たのです。

イエス様は弟子たちの心,私たちの心に対して,それらの一つ一つをどう見るべきかについて,その見るべき目を開こうとされたのです。神とは目に見える存在では無い。そこにある,ここにあるというような偶像でも無い。それらのものすべてをお造りなった方だから,礼拝すべきお方だと教えているのです。出エジプト記の3章の14節に神は「わたしは『わたしである』という者である。」と言われたと言います。これを「自存の存在」と言いますが,聖書は,神だけが最初から存在していて,宇宙万物の創造の現存在だと言う事をはっきりと告げているのです。

ですから,私たちは聖書に真っすぐ目を向けて行きますと,その視線の遥か向こう側に少しづつ,本当に礼拝し,寄り頼む方は誰であるかが見えて来るようになります。その方こそが私たちが信じるべき真の神だと言う事を,具体的に理解出来きるよう,そして,また,神の御心,意志を私たちにはっきりと示す為に,イエス・キリストをこの世にお遣わしになったのです。クリスマス礼拝の時にも話しましたが,聖い方として,私たちに道を示すために遣わして下さいました。ですから,イエス様はヨハネの福音書の14章の6節で「わたしは道であり,真理であり,いのちなのです。私を通してでなければ,誰ひとり父のみもとに来る事はありません。」

イエス様はただ一人,創造者である真の神様を示して下さったのです。ですから,イエス様は弟子たちに「さあ,あなたがたはこの神殿を見て感嘆していますが,人間の建てたこの神殿は時間が経てば,やがて崩れ去ります。永遠に続くものは唯一つ,私を通してのみお会い出来る父なる神のみです。」と言われています。

そうして,残るもう一点の事ですが,目の前の事しか視野に入らない弟子たちに対し,イエス様は将来,更には終末の事まで見通して下さっています。私たちは目の前の物質にとらわれ,現在の事しか視野に入らず,明日の事どころか,一瞬先の事すらも見えない者です。当然の事ですが,明日の事,将来の事,永遠の事など誰も見る事も,知る事も出来ませんが,イエス様はそれらの事は全て知っておられて,今日の24章全体にわたってその事を語っておられるのです。

身近な事では,この神殿は40年後には崩されると預言され,40年後のローマ軍の侵攻で神殿が徹底的に破壊されるの目にした、見た弟子たちは,イエス様の言葉の確かさを身に染みて感じた事でしょう。イエス様はこの事だけでは無く,ずっと未来の事まで見通され,やがて終わりの時にはどうなるのか。今,読みました14節で次のように語っておられます。

14.この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて,すべて国民にあかしされ,それから,終わりの日が来ます。

僅かな弟子を前にして,このように語っておられるのですね。イエス様自身は貧しい人,日本の四国ほどの小国イスラエルの国の中の小さな存在に過ぎなかったイエス様が,現代的な表現によると大言壮語を語っているのですが,でも,二千年を経過した,現在,この事が実現しようとしているのです。

この前にも申し上げましたように聖書の翻訳だけでも340ケ国語,細かい部分訳まで入れますと2090もの国語に翻訳され,世界中で聖書を読んだ事が無いと言う人がいないと言われる所まで聖書は多くの国の言葉に訳され,宣教師は世界中に遣わされて,クリスチャンのいない国は一つも無いと言われる程に,世界の隅々まで宣教が行われています。今,そこまで進んでいます。

そして,最近,その時の終わりが近いと言う事を実感させられる,色んな事が起こっています,先日も京都で環境会議がCO2の問題を中心にして開かれました。この問題も本当に大事な,かつ深刻な問題として論議された事でありました。炭酸ガス,人間がより便利な,寒さの中でもより暖かで,快適な生活を維持する。より早く,より利便性を求めて車を利用すると言った事のために,そのエネルギー源に便利な石油製品を使わざるを得ないのですが,これも皆が使い過ぎた時,炭酸ガスの排出量が過剰となり地球温暖化現象を招き,地球の気温が少しづつ上がり続けています。

或いはエルニーニョ現象に起因する様々な異常な気象現象に,輪を掛けるように乱開発による熱帯雨林の伐採など,自然破壊が恐ろしい勢いで拡大されつつあります。更に,地球規模で疫病対策が発展し,病気に対する医療技術の目覚ましい進歩は,人類を幸福にすると同時に,長生きする分,人口の増加を招くと言う,人類は自分で自分の首を締める結果を招き,現時点での地球人口は58億ですが,どう抑制しても毎年1億から1億二千万人の人口が増加すると言う爆発的な人口増加のため,この現象があと数十年も続けば地球人口は百億を突破しょうとしています。しかし,この地球には百億の人口を養う食材は決定的に不足する事も予測されています。

また,科学の分野における技術の進歩には目覚ましいものがあります。例えば,フロンガスと言う気体,または液体の事を考えますと,無色,無臭で毒性が殆どなく,爆発性も,燃焼性もないと言うが、(オゾン層の破壊により)人類の滅亡を招く大変な物質を製造しているなど,人類が発明した素晴らしいものが,反面,人類の滅亡を招き兼ねない途方も無い代物であったりして,やはり,人間のする事の限界を痛感せざるを得ません。

そして,人類にとってイスラエルが建国された1948年5月14日と言う日は大切な日なのです。旧約聖書によりますとイスラエル人は全世界に散らされ,さらに紀元70年に再度,散らされています。しかし,新約聖書の中でイエス様は,やがて,終わりの日に私は世界の四方からこの民を集めると言われています。この預言が一千九百余年を経過して1948年5月14日にイスラエルと言う国が建国されると言う,世界の不思議が起こりました。この事は預言の成就であると同時に、終わりの時の始まりであると言う事が分かってまいりました。

かっては,米ソの冷戦状態の中で原爆,水爆など様々な核兵器によって人類の破滅に対する危機感に全世界が覆われていましたが,現在はそのような緊張から解放されたものの,今度は代わって,私たちは科学の限界の中で終末を迎えている事を実感せざるを得ないのです。私たちが一歩,一歩,終末に向かって近づいている事を聖書から知る事ができます.その時は,神のみが知っていて,人の子も知らないのだと言われると同時に,あなたがたは無花果(いちじく)の木が芽吹いて,柔らかくなって来たら夏が近づいた事を知るでしょう。ですから,周囲のこのような状況を見た時に,あなたがたは世の終わりの近い事を知りなさいとイエス様はおっしゃるています。

今年は1998年,間もなく紀元二千年を迎えます。イエス様が来られて,もう,既に,二千年になろうとしています。この事は,また一つの区切りの時でもあろうかと思うのです。ですから,私たちはそうした神様のご計画の一つ,一つをよくみことばから悟り得て,良き備えをする事が出来ますように,礼拝と祈りを通して,そしてみことばを通して整えてくださいます。

神様の歴史に対するご計画の中にあっては,やがて終わりの時が来てキリストが再臨して下さってこの世界を治めらると言う事であります。私はその時の近い事を心から待ち望む者ですが,でも,同時に私たちは未だ救われていない多くの家族,知人,友人がいる事を改めて考えさせられます。そのような方々が救われないまま終わってはなりません。主の再臨の前に何としてでも救われなければなりません。ですから、私達にミッション3000というビジョンが与えられ、今年もこのビジョンのもとに前進し、家族が救われ、あの魂、この魂が救われるよう熱心に祈って福音を広める事も大事,主のために励む事も大事な事です。

神様はそのようにして,私たちに今日なすべき事、そして将来に向かってなすべき事の一つ一つをきちんとと示して下さっています。皆さんが本当に主に立つならば,皆さんの一人,一人の前に毎日の,一生の道が開かれてまいります。教会としての前進すべき筋道を神様は備えて下さいます。私たちは目に見える現実だけでは無く,主が見せて下さっている霊の目,永遠の目,神の目をもって見る事が出来るように,この1年を主と共に歩ませて頂きたいものであります。お祈りを致します。


愛する天のお父様。

今日またこのようにして備えて下さいました元旦の礼拝です。どうぞ,お一人,お一人の内にあなたが届いて下さいますようお願い致します。まことに私たちは見るべきものが見えにくい者ですから,どうぞ,見る目が与えられますように,キリストにある正しい目を与えて下さいますようお願い致します。

お一人,お一人を祝福して下さいますようお願い致します。この1年,祝福の1年となりますようにお願い致します.