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毎みこオンライン(特別寄稿・社会福祉法人真愛 研修会メッセージ)

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社会福祉法人 真愛 研修会メッセージ 池田恵賜
「その一人のために立ち止まる」 マルコの福音書 10章46~52節

※このメッセージは、今年の8月22日(土)に行われた社会福祉法人「真愛」の研修交流会で語られたものです。


みなさん、こんにちは。今日はこうして、真愛の三つの働きに関わる皆さんが一緒に集まることができました。

そこで最初に一つ、皆さんにお聞きしたいと思います。もし誰かから、「真愛って、どんな法人なんですか?」と聞かれたら、皆さんは何と答えるでしょうか。

2017年に社会福祉法人真愛が立ち上がって、今年は10年目になります。

真愛には、保育の働きがあります。「ふぁみりーさぽーとのあ」では、「愛されて育つ」をモットーに、日々子どもたちと向き合っています。

地域活動支援センター「まってる」では、「あなたを待っている」を標語に、障がいのある方々が安心して過ごせる居場所を大切にしています。

そして、「ふぁみりーさぽーと泉」では、「人を尊び人に仕える」をテーマに、年齢や障がいの有無にかかわらず、地域で暮らす方々の生活を支える働きをしています。

それぞれ別々に始まった働きですが、「真愛」として一つになって歩むようになりました。普段働いている場所も違います。仕事の内容も違います。必要とされる専門性も違います。

では、この三つの働きを「真愛」として一つにしているものは何でしょうか。三つの働きの根底に、共通して流れているものは何なのか。今日は、そのことを皆さんと一緒に考えてみたいと思います。

三つの働きに共通して流れているものを考えると、やはり「愛」という言葉に行き着きます。真愛という名前そのものが、「真(まこと)の愛」と書いて「まな」です。真愛はこれからも、神様の愛をもって地域に仕える法人でありたいと思っています。

ただ、ここで少し考えてみたいのです。そもそも「愛」とは、どういうことなのでしょうか。「愛」という言葉は、とても大切な言葉である一方で、少し抽象的な言葉でもあります。同じ「愛」という言葉を使っていても、人それぞれに思い描く愛の形は違います。「愛が大切です」と言えば、みんな賛成すると思います。しかし、「愛するって、具体的にどうすること?」と聞かれると、答えは人によって違います。

相手の話をじっくり聞くことを愛だと思う人もいれば、困っているときに何かをしてあげることを愛だと思う人もいる。転ばぬ先の杖のように、困る前に先回りして助けてあげることを愛だと思う人もいれば、あえて手を出さず、そっと見守ることが愛だと考える人もいます。

一方で、親が「あなたのためだから」と言いながら、実は自分の思い描く子どもであってほしいと、子どもを縛ってしまうこともあります。恋人同士でも、「愛しているから」と、相手にも自分と同じくらいの気持ちや時間を求めてしまい、いつの間にか愛が束縛になってしまうことがあります。

愛という言葉は同じでも、その中身はずいぶん違うのです。

私たちは「真(まこと)の愛」と書いて、真愛(まな)という名前を掲げています。
だからこそ、「愛を大切にしましょう」だけで終わらせず、もう一歩具体的にしたいと思うのです。

私たち真愛が大切にする「愛」とは、具体的にどんな愛なのだろう。保育でも、障がい福祉でも、介護でも、「真愛では、これを大切にしているよね」とみんなで共有できる言葉にできないだろうか。そんなことを考えました。

奥田知志先生が、以前NHKで、津久井やまゆり園の事件についてコメントしておられました。やまゆり園は、障がいのある方々が生活していた施設です。2016年、そこで入所者19人の命が奪われるという、大変痛ましい事件が起こりました。事件をきっかけに、そこで行われてきた支援のあり方も改めて問い直されるようになりました。

それまでの支援には、施設の側が「この人のためには、こうすることが良い」と決めてしまうところがあったと言います。しかし事件後は、本人の意思をもっと大切にしよう、本人がどうしたいのかを聞いて、それを支えていこうという方向へと変わっていったそうです。

これは、とても大切な変化です。ところが奥田先生は、そこでさらに一歩踏み込んだ問いを投げかけておられました。「本人の意思を聞いて、その希望を叶【かな】えてあげれば、それで本当にその人を大切にしたことになるのだろうか。」

「あなたはどうしたいですか」と聞く。「こうしたいです」と答える。「分かりました。では、それをしてあげましょう。」一見、とても相手を尊重しているように見えます。でも奥田先生は、それだけでは結局、「支援する人」と「支援される人」という関係が残ったままなのではないかと言われるのです。

では、何が必要なのか。そこで奥田先生が、大切だと言われていたのが「対話」でした。ただ希望を聞いて、それをしてあげるのではない。

「あなたはそう思っているんですね。」「なぜそう思うんですか。」「私はこう思うんだけれど、どうだろう。」「じゃあ、一緒に考えてみよう。」

そこに対話が生まれる。そうすると初めて、「支援する人」と「支援される人」という関係を越えて、人と人として向き合うことができる。

奥田先生は、これを「『者』で括【くく】らない支援」とも表現しておられました。「障がい者」、「高齢者」、「生活困窮者」。制度や仕事の上では、もちろんこうした言葉が必要です。

でも、「者」で括った瞬間に、私たちは目の前にいる「その人」ではなく、「障がい者とはこういう人」、「高齢者にはこういう支援が必要」というカテゴリーで、その人を見てしまうことがあります。しかし、私たちが向き合っているのは、「障がい者」という人ではありません。「高齢者」という人でもありません。目の前にいる、「その人」です。

その人には名前があります。これまで歩んできた人生があります。好きなことも、嫌いなこともある。願いもあれば、時には自分でもうまく言葉にできない思いもあります。だから、その人の声を聞く。対話する。一緒に考える。「何をしてあげるか」の前に、「この人はどんな人なんだろう」と、その人自身に目を向ける。そこから、本当にその人を大切にすることが始まるのだと思います。

今年11月に、真愛では兵庫から永原郁子先生をお招きして講演会を行います。永原先生は助産師で、「小さないのちのドア」という、思いがけない妊娠や出産、育児で追い詰められた女性たちを支える働きをされています。この働きが始まった背景を知って、私はとても考えさせられました。

もともと永原先生のところに、「赤ちゃんポスト」を設置しないかという話があったそうです。永原先生も、赤ちゃんの命を守ることには賛成でした。でも、一つ引っかかることがあったそうです。それは、「赤ちゃんを置いていった、そのお母さんはどうなのだろう」ということです。

赤ちゃんの命を守る。それはもちろん大切です。でも、追い詰められて赤ちゃんを置いていったお母さんも、支えを必要としている一人の人です。

これまでの制度で考えれば、産まれた赤ちゃんへの支援と、育てることができないお母さんへの支援は、別々のものになりがちでした。行政にはそれぞれ担当があり、制度があります。それはもちろん必要なことです。でも、一人の人の人生は、制度ごとに分かれているわけではありません。

永原先生は、赤ちゃんだけを見たのではなく、その向こうにいるお母さんを見ました。「この赤ちゃんの命をどう守るか」だけではなく、「この赤ちゃんとお母さんが、これからどうしたら生きていけるのか」を一緒に考えたのです。そこから、妊娠中から相談を受け、出産を支え、その後の生活まで一緒に考えていく「小さないのちのドア」の働きにつながっていきました。

私は、ここに「『者』で括らない支援」の一つの姿を見るように思います。

制度から見れば、「妊婦」、「赤ちゃん」、「母親」と、それぞれ違う支援の対象になるかもしれません。でも、その人を見ると、支援の枠組みだけでは切り分けることのできない、その人の人生が見えてきます。すると、「この人をこのままにしておいていいのだろうか」という問いが生まれます。

助けを求める一人の人の声を聞いて、足を止める。イエス様も、そういうお方でした。

マルコの福音書10章に、目の見えないバルティマイとイエス様との出会いが記されています。46節から52節をお読みします。

さて、一行はエリコに着いた。そしてイエスが、弟子たちや多くの群衆と一緒にエリコを出て行かれると、ティマイの子のバルティマイという目の見えない物乞いが、道端に座っていた。彼は、ナザレのイエスがおられると聞いて、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めた。多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と、ますます叫んだ。イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその目の見えない人を呼んで、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる」と言った。その人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは彼に言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」すると、その目の見えない人は言った。「先生、目が見えるようにしてください。」そこでイエスは言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。

大勢の人たちにとって、彼は道端に座っている一人の「盲人」でした。でも、イエス様にとっては違いました。

聖書には非常に短く、こう書かれています。「イエスは立ち止まって」。

イエス様は、弟子たちや大勢の群衆とともにエリコを出て、道を進んでおられました。大勢の人々がいる中で、イエス様は道端から叫ぶ一人の人の声を聞き、その人のために立ち止まられたのです。

私は、真愛も、そういう法人でありたいと思います。「真愛は、その一人のために立ち止まる。」保育の働きもそうです。障がいのある方々への支援もそうでしょう。高齢者の方々への働きも同じです。

私たちが向き合っているのは、一人の人です。その人には、名前があります。これまで生きてきた人生があります。好きなことがあります。嫌いなことがあります。願いがあります。悲しみがあります。その人にしか分からない思いがあります。

だから、一人の人として向き合うのです。これが、保育、障がい福祉、高齢者福祉、それぞれの現場を超えて、私たち真愛が共通して大切にする姿勢だと思うのです。

みことばを読むと、イエス様は立ち止まっただけではありません。バルティマイを呼び、こう尋ねられました。「わたしに何をしてほしいのですか。」

不思議な質問です。目の見えない人が、イエス様に「私をあわれんでください」と叫んでいるのです。イエス様なら、彼が何を願っているのか分かっていたはずです。でもイエス様は、「あなたは目が見えないんだから、見えるようになりたいんでしょう」と決めつけませんでした。本人に聞かれたのです。「わたしに何をしてほしいのですか。」

イエス様は、バルティマイをただ「目の見えない人」として扱うのではなく、一人の人として向き合い、その人自身の声を聞かれたのです。

ここでも、私たちが人と向き合う上で大切なことを教えられます。

真愛で働く多くの職員は資格を持った専門職です。経験を積めば積むほど、「この子には、これが必要だ」、「この人には、こうした方がいい」、「このご家庭には、この支援が必要だ」と、いろいろなことが見えるようになります。それは、専門職としてとても大切なことです。でも、経験を積み、専門性が高くなるからこそ、気をつけなければならないこともあります。「この人のことは分かっている」と思ったときに、その人自身の声を聞かなくなってしまうことです。

イエス様は立ち止まりました。そして、その人の声を聞きました。私たちも、その一人のために立ち止まる。その人の声を聞く。そして、一緒に考える。私は、真愛がそんな働きをする法人でありたいと思います。

では、なぜ一人の人をそこまで大切にするのでしょうか。その根底には、聖書のもつ人間観があります。聖書は、人間は「神のかたちに造られた」と教えています。

だから、人の価値は「何ができるか」で決まりません。たくさんのことができる人だから価値がある。仕事ができるから価値がある。社会の役に立っているから価値がある。聖書は、人の価値をそのようには考えません。

子どもであっても、障がいがあっても、高齢になって以前できていたことができなくなっても、その人の価値は少しも変わりません。何ができるかではなく、その人だから大切なのです。

これは利用者だけではありません。真愛で働いている一人ひとりも同じです。若い人も、ベテランもいる。正職員も、パートの方もいる。保育で働く人も、介護で働く人も、地域活動支援センターで働く人もいます。

でも、その役割の前に、私たちは一人の人です。ですから真愛の中でも、お互いを役割や立場だけで見ないで、一人の人として大切にする組織でありたいと思います。

それぞれ別のところから始まった三つの働きが、「真愛」という一つの法人になりました。ただ同じ法人名を使っている三つの事業ではなく、「私たちは真愛です」と一緒に言える法人になっていきたいと思っています。

では、「私たちは真愛です」と言うときに、みんなで何を大切にしていくのか。今日、皆さんに一つ覚えて帰っていただくとしたら、このことばです。

「真愛は、その一人のために立ち止まる。」これが、私たち真愛を貫いている、一つの愛の形ではないでしょうか。

バルティマイの前で立ち止まり、その声を聞いてくださったイエス様は、私たち一人ひとりのためにも立ち止まってくださるお方です。

人を支える仕事をしていると、いつも自分が「支える側」になります。でも、私たち自身も、支えを必要とする一人の人です。疲れることもあります。うまくいかなくて、心が折れそうになることもあります。誰かに話を聞いてほしいときもあります。だから真愛の中でも、お互いの声を聞き、支え合える関係を大切にしていきたいと思います。

そんな私たちにもイエス様は、「わたしに何をしてほしいのですか」と問いかけ、私たちの声を聞いてくださいます。私たち自身がその愛を受けながら、目の前にいるその一人のために立ち止まっていきたいと思います。


皆様の上に主の守りと祝福があるように、お祈りしています。

本郷台キリスト教会
毎日のみことば編集委員会
maimiko.hongodai@gmail.com
maimiko@hongodai.org

聖書 新改訳2017(c)2017新日本聖書刊行会

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