お知らせ

2023年2月5日 キリストの心を心とする(1)〜心の中心を明け渡す〜

2023年2月5日 キリストの心を心とする(1)〜心の中心を明け渡す〜
ピリピ人への手紙 2章5節 佐藤賢二 牧師

いよいよ今週から、基本的に、毎週私がメッセージを取り継がせていただくことになりました。私にとってこれは、とんでもなく大きなチャレンジです。またきっと皆さんにとっても大きなチャレンジだと思うのです。でも、私はこのことが、主から出たことだと確信しています。ですので、私も人の思いではなく、神様の思いが実現していく様にと、主に信頼して祈りつつ、取り組ませていただきます。皆さん、本当に、どうぞよろしくお願いいたします。ぜひ、皆さんも、良き聴き手として、祈り手として、また真の礼拝者として、ともにこの礼拝をたて上げていっていただけると感謝です。

それでは、まず御言葉をお読みしたいと思います。ピリピ2:5です。

キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。
ピリピ人への手紙 2章5節

この箇所は、以前にもご紹介しましたが、文語訳の聖書では「キリスト・イエスの心を心とせよ」と訳されています。今回の、このメッセージシリーズのテーマ「キリストの心を心とする」という表現は、ここから取らせていただきました。今日は、その第1回目として、「心の中心を明け渡す」ということについて、ご一緒に見ていきたいと思います。

皆さん、今、あなたの「心の中心」には何がありますか?もちろん、誰も心の中を覗き込むことは出来ませんし、自分でもはっきりと分からないことが多いでしょう。でも、ここで私の心の中心にはイエス様がいます!と言える人は幸いだと思います。「私は神様を信じました、私はクリスチャンです」という人の心の中にはイエス様が生きておられます。クリスチャンとは、イエス様を信じ、イエス様を心の中にお迎えした人たちのことだからです。

でも実は、イエス様を心の中にお迎えしているということと、「心の中心」にイエス様がいるということは別なのです。イエス様を信じているにもかかわらず、心の中心にはどっかりと自分自身が居座っている。そういうことが良くあるのです。その状態を「自己中心」と言います。そしてこの「自己中心」こそが、私たちの取り組むべき罪の問題の本質なのです。

1. 私たちの問題の本質は「自己中心」

ですから、この心の中心に居座っている自分自身を明け渡し、イエス様にその場所を支配していただくこと。それが、「キリストの心」を持つということなのです。

この事を少し整理して見てみたいと思います。私たちは、初め、イエス・キリストとは無関係に歩んでいます。その時、イエス様は私たちの心の外側にいます。

しかし、イエス様の愛に気づき、イエス様が私のために十字架にかかって死んでくださったのだと信じ、告白することを通して、私たちはイエス様を心にお迎えすることが出来ます。イエス様は、その告白を大切にし、私たちの心に入り、私たちと共に歩んでくださいます。

しかしそれで終わりではありません。古い私たちの性質が相変わらず心の中心に居座り続けているのです。この状態だと、私たちは相変わらず自分の善悪の基準で物事を考えているのです。もちろん、それでもイエス様抜きの人生とは比べ物になりません。でも、このままでは、神を信じると言いつつも、自己実現や自分の欲を満たすために、イエス様を利用する様なこともあり得るのです。

しかしイエス様は、様々な出来事を通して、私たち神を信じる者の人生に働きかけてくださいます。そして、私たちが人として本来あるべき姿に従って生きるためには、心の中心をイエス様に明け渡す必要があることを教えてくださいます。これが、「キリストの心を心とする」ということの本質です。

ですから、それは「正しい信仰告白をしたかどうか」とか、「道徳的に正しい行いをしているか」とかいうことではありません。もちろんそれはそれでとても大切なことですが、「キリストの心を心とする」というのは、もっと根本的な部分での私たちの立ち位置の違いなのです。

2. イエス様に叱責されるペテロ

少し、イエス様と弟子のペテロとのやりとりを見てみたいと思います。ある時、イエス様は弟子たちにこのように問いかけます。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」すると、ペテロはこの様に答えます。「あなたは生ける神の子キリストです。」これはとても重要な信仰告白の言葉です。

これを聞いたイエス様は、ペテロにこのように言います。「ペテロ、このことを明らかにしてくださったのは、天におられる父なる神様です。わたしはこの信仰告白の土台の上に教会を建てます。」ペテロにしてみれば、自分の告白をイエス様が認めてくださったということで、とても気分が良くなったのではないかと思います。しかし、このことを境に物語はとても興味深い方向に転換します。マタイ16:21をお読みします。

そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。
マタイの福音書 16章21節

ペテロの信仰告白を受けて、イエス様はより深い神様の計画を、彼らに明かし始めたのです。しかし、それを聞いたペテロにはとても理解できませんでした。そこで、この様に続きます。

すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
マタイの福音書 16章22〜23節

この「下がれ、サタン」とは随分と厳しい言い方ですよね。ペテロは、何かとんでもないことをやらかしたのでしょうか?いいえ。ペテロはここで、明らかな不道徳を行なっているとか、悪魔的な考えをしているとか、そういう訳ではありません。ただイエス様が話された、これから受けるべき苦難についての話が、理解できなかっただけなのです。これは頭で理解できなかったというよりも、そんなことはあってはいけない、あってほしくないという思いでした。なぜそう思ったのか。それは、ペテロが神の事を思わないで、人のことを思っていたからです。つまり、ペテロが自己中心的なものの見方しかできなかったからです。

ペテロの心の中心には、相変わらず自分自身がいました。そしてペテロは、彼の視点から見た善悪の基準で、「そんなことはあるはずがない」とイエス様をいさめました。しかしそれは、私たちを愛し、全世界の罪の問題を解決するために来られたイエス様の視点からすると、全く見当違いで、真逆の考え方だったのです。イエス様は先ほどのペテロへの叱責の後、弟子たちにこの様に語っています。

それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
マタイの福音書 16章24節

私たちがイエス様を信じ、心に受け入れた瞬間から、私たちの心を舞台として霊的な戦いが始まっています。それは私の心が、私中心、自己中心の考え方から解放され、「キリストの心」を心として歩むことが出来るようになるための戦いです。私たちがイエス様を信じ従っていくということの中には、日々自分の十字架を負い、自我を明け渡していくという覚悟が含まれるのです。

3. アブラハムの失敗から学ぶ

この霊的な戦いについて、アブラハムのストーリーから学んでみたいと思います。もちろん、旧約聖書の時代ですので「キリストの心」という表現は出てきませんが、テーマとしては同じです。アブラハムは信仰の父と呼ばれる人物です。彼の初めの名前はアブラムでした。神様は、アブラムを特別な計画のために選び出し、「あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継ぐ」「あなたの子孫は星のように増やされる」と約束されました。でもアブラムはすでに歳をとっていて、常識的には子をもうけることは難しいことでした。しかし、彼は神様の言葉を信じました。そしてこの、「望みえない時に望みを抱いて信じ」たことが、彼の義とされたのです。しかし、ここからが本当の戦いでした。

約束が与えられてから10年。相変わらず子供が与えられる気配はなく、その約束はいよいよ信じがたいものとなっていました。もうアブラムは85歳、妻のサライは75歳になっていました。焦ったのは、妻のサライです。恐らく彼女はこう考えたことでしょう。「神様が約束してくださったのに、子供が与えられないのは私のせいに違いない。」そして、アブラムにこの様に聞いたのではないでしょうか。「そもそも神様が約束を与えられた時、私の名前は出ていたのですか?」確かに、この時点まで、神様はサライの名前は一度も口にしていません。そこでサライは言います。「なるほど、分かりました。神様は私の胎を閉じておられるのです。どうぞ私の女奴隷ハガルのところにお入りください。そして、彼女によって子供を得ましょう。」

これは、現代の私たちにはとても奇妙な提案に聞こえます。しかし、その当時の文化ではごく自然な解決法だったと言うのです。当時この地域で用いられていたのはハムラビ法典です。ハムラビ法典では、妻が子孫を残せない場合には、妻の女奴隷を夫に与え、その女性を通して子供をもうける様にと指示しているのだそうです。そしてその場合、その子供は女奴隷ではなく、妻のものとなります。ですから、アブラムとサライの選択は、当時の文化では常識的な行動であり、少なくとも彼らの理解の中では、神のことばにも、当時の律法の規定にも違反していなかったのです。にもかかわらず、彼らの行為は神の御心に反していました。なぜでしょうか?

それは神様がアブラムに求めていたのは、ただ「約束してくださったお方、神様に100%信頼する者となる」ことだったからです。神様は、アブラムが人間的な方法で、形だけ約束が実現するような事を求めていた訳ではありません。神様は奇跡を起こして、約束を実現することがお出来になるお方です。人の知識や常識や経験に頼るのではなく、自分を明け渡し、ただ約束を与えてくださった主に100%信頼する者となることを求めておられたのです。

ここから何が分かるでしょうか。やはり、問題の根本は自己中心だということです。彼らは跡取りを求めるあまり、神が保証しておられる事を信じきれず、肉的な方法、自分たちのやり方で実現させようとしてしまったのです。自己中心とは、必ずしも悪い行いをするという事ではありません。たとえ私たちが神を信じ、律法の規定を落ち度なく行うことが出来たとしても、自己中心的・自己実現的・自己弁護的な物の考え方で行うなら、それは神の御心とは遠く離れてしまっているのです。

旧約聖書は、真実に神に仕えるためには、私たちの思いが、神の思いのように変えられていかなければならないと教えています。イザヤ55:8-9にはこのようにあります。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、
あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。
──主のことば──
天が地よりも高いように、
わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、
わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
イザヤ書 55章8~9節

しかしこの言葉は、私たちが永遠にそのように定められているという事ではありません。
聖書は、やがて神の霊が注がれる時、私たちも神が思うように思い、神の願うことを行う日が来ると約束しているのです。エゼキエル11:19にはこうあります。

わたしは彼らに一つの心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。
わたしは彼らのからだから 石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。
エゼキエル書 11章19節

主は、新しい霊を私たちに注いでくださり、石の心を取り除き、肉の心を与えてくださるのです。この「肉の心」とは、神のみこころを理解し、実行することが出来る、柔らかくて温かい、いのちの通った心です。それが「キリストの心」です。これは、完全に御霊なる主の働きによるものなのです。

今年の御言葉である、イザヤ61:1は「神である主の霊がわたしの上にある」との言葉で始まっています。私たちにまず必要なのは、圧倒的な御霊の注ぎです。今年、御霊が豊かに注がれ、私たちの心を造り変えていただくことが出来るように、熱心に求めていきたいと思います。

4. アブラハムの試練から学ぶ

最後に、アブラハムの最大の試練について触れたいと思います。アブラハムが100歳、サラが90歳の時、ついに約束の子イサクが誕生します。主は約束したとおりにサラを顧みて、奇跡を起こしてくださったのです。アブラハムはイサクを可愛がり、彼は立派な若者として成長しました。そこで、神様はアブラハムに対して、信じられないような試練を与えます。創世記22章2節をお読みします。

神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」
創世記 22章2節

この試練は、これまでにアブラハムに与えられたレッスンの集大成の様な物でした。神様は、アブラハムが自分自身の拠り所とするものをことごとく主に捧げ、ただ神にのみに信頼することが出来るかどうか、彼の心を探っておられるのです。アブラハムはそのことを示されると、翌朝早くイサクを連れて神が示される場所に出ていきました。そして、全焼のささげ物のための祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛ってその薪の上に載せました。そして手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとしたその時、天から声が聞こえました。創世記22:12です。

御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」
創世記 22章12節

そしてアブラハムは、そこに1匹の雄羊が角を薮に引っかけているのに気がつき、それを息子の代わりに全焼のささげ物として捧げたのです。これは、やがて私たちのために、本物のいけにえとして捧げられるイエス・キリストを示す型です。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ヨハネの福音書 3章16節

これは、神様の私たちへの究極的な愛の証です。イエス様は、十字架の上で、私たちのための究極のささげ物として、ご自身のいのちを捧げてくださったのです。ピリピ2:6-8にはこの様にあります。

キリストは、神の御姿であられるのに、
神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
人間と同じようになられました。
人としての姿をもって現れ、
自らを低くして、死にまで、
それも十字架の死にまで従われました。
ピリピ人への手紙 2章6~8節

これこそが、「キリストの心」です。愛する者のために、自分が最も大切にしているもの、自分が握りしめてしまっているものを手放すこと。心の中心にある、自己中心、自己正当化する思い、自分の経験や常識にとらわれてしまうその思い。それらを明け渡し、イエス様にその場所を満たしていただく必要があるのです。イエス様は、私たちの失敗を通して、また試練を通して、様々な方法で私たちにそのことを気づかせてくださり、造り変えてくださるのです。

このメッセージを準備している中で、私は大学生の頃の私の姿を思い起こさせられました。私は讃美が大好きで、超教派の賛美のグループでも活動し、教会の中でも友達とバンドを組んで曲を作ったりしていました。ある時、今はなき平和台チャペルの増改築をするというので、様々なチャリーティーイベントを行うことになりました。そこで私たちは、会堂増改築のためのチャリティーコンサート、略して「チャリコ」というものをやろうということになりました。私は、当時の海外のワーシップの音楽を聴いて、めちゃくちゃかっこいいからこれがやりたい!と言って、一生懸命音源を作り、準備をしました。教会の人たちは、若者が何か熱心に頑張っている、というので温かく応援してくれました。それで、当日どうなったでしょうか?もう、何もかもが上手くいかなかったのです。

なんと、私が一生懸命準備した音楽のデータが壊れてしまい、バンドのメンバーの一人は直前に腕を骨折し、コンサート前にその場所で走り回っていた若者が何かに足を引っ掛けてギターを倒して壊してしまい、とにかくトラブルだらけだったのです。何とか形だけコンサートをやり切ったのですが、もう私は終わった後、ボロボロの精神状態でした。その後、その当時第四礼拝の讃美リードをすることになっていましたが、とてもそんな気分ではありませんでした。でも、そこで激しく泣きながら、思わされました。

「自分は何かが間違っていた、主への捧げものなら上手くいってもいかなくても喜びがあるはずだ。賛美の奉仕もしたくないとは、どういうつもりなのか。この涙は、一体何の涙なのか。結局自分は自分のことしか考えていなかったのではないか。形だけ、上部だけを求めて、それが上手くいかなかったから泣いているのではないか。」

考えてみると、その頃から、私への主の取り扱いが少しずつ、少しずつ始まっていったのかなと思わされます。感謝だったのは、そんな未熟な若い私たちの思いや行動を、教会の方々がいつも温かく見守り、支え続けてくださったということです。そして、チャレンジする機会を与えてくれた。だからこそ、失敗を通して、痛い目に会いながらも、少しずつ自我が取り扱われるとはどういうことなのかを教えられていったのだと思います。

今、私たちは10x10というビジョン実現に向けて、心を尽くして、知恵を尽くして、力を尽くして、自分たちの出来る精一杯の事をしています。チャレンジを恐れてはいけません。失敗を恐れてはいけません。しかし、ビジョンを実現するのは、私たちの人間の力や方法によるのではないのです。10x10のビジョンの実現は、100%神様のわざによるものです。

もし私たちが主に信頼して、主とともに歩み続けるなら、主は私たちの失敗や、試練や、問題すらも用いてくださいます。それは、まず第一に、私たちの自我が砕かれ、心の中心を明け渡していくということです。主は、ビジョンの実現のために、まず私たちを取り扱ってくださるのです。私たちがそのようにして、キリストの心を心とした時、神様がよしとしてくださったタイミングで、ビジョンは必ず実現するのです。主に信頼して、自分自身を差し出して、祈って参りましょう。

SNSでシェアする