お知らせ

2023年1月1日 福音のためにあらゆることをする

2023年1月1日 福音のためにあらゆることをする
コリント人への手紙 第一9章23節 佐藤賢二 牧師

あけましておめでとうございます!新しい年が始まりました。そしてこの一年の初めの日を、天地万物を造られたお方、私たちを愛し、私たちの人生を良いもので満たしてくださるお方と、ともに過ごせる恵みに心から感謝したいと思います。神様は「あなたの一生を良いもので満ち足らせる(詩篇103:5)」と約束してくださっておられます。ですから、私たちも主の祝福を求めて、この一年、大いに期待して始めたいと思うのです。ぜひ今その場所で、あなたの両隣の人に、「主は今年、あなたに素晴らしいことをしてくださいます」と伝えてあげてください。どうぞ声に出して、言ってみてください。アーメン。主は私たちに、私たちの信仰の通りになると約束してくださっています。ぜひ、主の約束を握り締め、主の祝福に信頼し、お互いにその祝福を宣言しあっていきたいと思います。

さて今年神様は、私たちの教会に、このような標語と標語のみことばを与えてくださいました。両脇のバナーもすでに新しくなっていますが、こちらをまずスクリーンで見たいと思います。標語としては、「キリストの心とともに」という言葉が与えられました。そして、与えられているみことばは、イザヤ61:1になります。お読みいたします。

神である主の霊がわたしの上にある。
貧しい人に良い知らせを伝えるため、
心の傷ついた者を癒やすため、
主はわたしに油を注ぎ、
わたしを遣わされた。
イザヤ書 61章1節

このみことばは、後にイエス様がこの箇所を朗読し「今日、この聖書のことばが実現しました」と宣言された所でもあります。つまり、ここで語られている「貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者を癒す」ために油注がれた方というのは、他ならぬイエス様ご自身のことです。

しかしそれと同時に、そのイエス様を信じ、心にお迎えした私たちにも同じ霊が注がれています。ですから、これは私たちを通して実現する働きでもあります。私たちが「キリストの心」をいただいて、その私たちを通して主のみわざがあらわされる。そういう意味を込めて、今年の標語は「キリストの心とともに」とさせていただきました。

今年は、恵賜先生を通して与えられた10×10というビジョンの実現の前の年です。ビジョンの実現は100%主の御業ですが、私たちにはそれに向けて精一杯備えていく必要があります。そのために私たちは、牧会ファミリーを強化して受け皿を整えたり、より多くの人が礼拝に参加しやすい工夫などをしていきたいと思っています。しかし、何よりも大切なのは、私たち一人ひとりが聖霊によって力を受け、この「キリストの心」をいただいて歩んでいくことだと思うのです。今日は、この「キリストの心」をいただいて歩んだ人の模範として、パウロの生き方から学んでいきたいと思います。

それでは、みことばを開きたいと思います。

コリント人への手紙 第一9章23節です。お読みします。

私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。
コリント人への手紙 第一9章23節

パウロは、ここで「福音のためにあらゆることをしている」と言っています。

1. 福音のためにあらゆることをする

福音とは、何でしょうか。それは、「Good News」良い知らせのことです。その「良い知らせ」とは、イエス・キリストこそが私たちの救い主であるということです。神様は、私たちを愛し、その最も大切なひとり子イエス様のいのちさえ、惜しまずに私たちに与えてくださいました。その十字架と復活を通してなされた御業を、私たちは福音と呼んでいます。このイエス・キリストの福音には、私たちの人生を全く変えてしまう不思議な力があります。イエス様が示されたその愛によって、私たちの価値観が180度変えられるのです。

パウロはまさにそのような人でした。そして彼は、この福音のためであれば、あらゆること、どんなことでもします!と宣言しているのです。パウロはこのように言っています。

コリント人への手紙 第一9章19〜23節をお読みいたします。

私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人たちには──私自身は律法の下にはいませんが──律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。律法を持たない人たちには──私自身は神の律法を持たない者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。律法を持たない人たちを獲得するためです。弱い人たちには、弱い者になりました。弱い人たちを獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。

パウロは、ここで、「自分は誰に対しても自由ですが」と前置きをした上でこのように言っています。「ユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のように、弱い人のためには弱い人のように、私はすべての人の奴隷になりました。」それはなぜでしょうか?それは、「より多くの人を獲得するため」、「何とかして、何人かでも救うため」だと言うのです。

イエス・キリストにあるものたちは、自由です。何をしたから救われる、しないから救われないという生き方からも解放されています。でもパウロは、その自由を用いて、あえて、人々の奴隷となったというのです。何と馬鹿げたことでしょうか。きっと、イエス・キリストとまだ出会ったことの無い人には、そのように感じられるはずです。でもそれこそが、パウロの言う、「福音のためにあらゆることをする」ということなのです。なぜ、パウロはそこまでするのでしょうか。それは、それこそが、「キリストの心」だからです。

ピリピ人への手紙 2章6~8節をお読みします。

キリストは、神の御姿であられるのに、
神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
人間と同じようになられました。
人としての姿をもって現れ、
自らを低くして、死にまで、
それも十字架の死にまで従われました。

この箇所は、イエス様のご性質を最もよく表したみことばです。先週のクリスマス礼拝でも開きましたが、イエス・キリストは神であられる方なのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えないで、人となって生まれてくださった。そして、私たちの罪のために十字架につけられ、死んでくださった。このどこまでも、自分を低く、低くする愛こそが福音であり、パウロを生かし、私たちを生かしてくださる原動力なのです。

パウロは言います。ピリピ人への手紙 2章5節
キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

この箇所は、文語訳の聖書では「キリストの心を心とせよ」と訳されているそうです。「キリストの心を心とせよ」。何だか、物凄くストレートに私たちの心に響いてくる言葉です。

2. キリストの心

私たちが、キリストの心を心とする。それはすなわち、イエス様が、愛する私たちのために神のあり方を捨てられないとは考えなかったのと同じように、私たちも、愛する人たちの救いのために、立場やプライドは捨てて、徹底的に仕える者となる。それが、「福音のためにあらゆることをする」と言ったパウロの姿なのです。私はこの箇所から、池田博先生の姿を思い起こすのです。

先生は、この教会に赴任して5年ほど立った時、伝道牧会の行き詰まりから思い悩み、気がついた時には信徒を目の前にして「牧師を辞めさせていただきます」とまで宣言していたと言います。しかし、そこである祈りの器が「先生、先生はまだお若いのです。これからです。私たちは先生のために祈ります。先生がんばってください」と声をかけてくださった。そして、それが天の声として響いたというのです。その後先生は、牧師らしくなければといった自分の殻を破ることができ、「福音のためならどんなことでもしたい、どんなことでもできる」という考えに変えられていきました。そこで始めたのが、あの「ちり紙交換」です。

本郷台キリスト教会が、今「地域に仕える教会」としてここまで成長することが出来たのは、博先生のスピリットが土台となっているからです。「キリストの心」をいただいて、自我が砕かれ、与えられている自由を用いて、へりくだって人々に仕える。私たちは、今年、もう一度その原点を確認し、さらに豊かに、このキリストの姿を証していきたいと思うのです。

3. 賞を受けられるように走る

さて、パウロは、先ほどのみことばに続けてこのように語っています。

コリント人への手紙 第一9章24節をお読みいたします。
競技場で走る人たちはみな走っても、賞を受けるのは一人だけだということを、あなたがたは知らないのですか。ですから、あなたがたも賞を得られるように走りなさい。

ここで、パウロは、私たちの人生を「アスリートの生活」に例えて、「あなたがたも賞を得られるように走りなさい」と勧めています。お正月といえば「箱根駅伝」が楽しみ、という方も多いと思います。そして、そこに出場している選手はみんな、賞を得られるように、必死で準備して走っているのです。もし、誰かが「箱根駅伝で優勝したいです」と宣言しても、その人が実際に賞を得られるような走り方をしていなかったら、その人にはその場に立つチャンスすら与えられないのです。

私はエスペランサで、オルテガ監督が選手たちにこのように伝えているのをよく聞きます。

ただやるだけ、意味ない。本気やって。

物凄くシンプルな言葉です。しかし時々、何か自分に言われているような気がしてドキッとするのです。何事でも、「ただやるだけ」なのと、「本気で」すなわち「賞を得られるように」やるとのでは、大違いなのです。

私は、福音のために、本気でやっているだろうか。ただ、何となく、やるべきことをこなしているだけになっていないだろうか。あなたは、本気で10×10のビジョンの実現を信じているのか。主は、私たちが覚悟を決め、本気でそのために取り組むのを待っておられる。そのように思うのです。主が私たちの心を燃やしてくださり、同じ情熱を持つことが出来るように、ともに祈り求めていきたいと思います。

パウロは続けて、このように語っています。

コリント人への手紙 第一9章25〜27節です。

競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません。むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです。

ここから、「賞を得られるように走る」とはどういうことか、2つのポイントで見てみたいと思います。

(1)目標を定める

まず第1は、「はっきりとした目標を定める」という事です。私たちがどんなに頑張って走ったとしても、目指すべきゴールが間違っていたら、何の意味もありません。

聖書で言う「罪」とは、「的外れ」と言う意味です。ですから、私たちが、しっかりと目標を定めないで歩むということは、ある意味「罪」だということです。では、私たちが目指すべき「的」とは何でしょうか。それは、イエス様が最も大切な戒めと言われた「神を愛し、隣人を愛する」という生き方のことです。そして、「全世界に出ていき、すべての人に福音を宣べ伝え、弟子を作る」という大宣教命令に従って歩むことです。私たちの教会のすべての働き、また私たち一人ひとりの目指すべき目標は、すべて、これらの目的に適ったものでなければなりません。年の初めに、個人的に「今年の目標」を立てるという方もおられるでしょう。ぜひ、神の御心に適った目標を設定できるように、祈りつつ取り組んでいただきたいと思います。そして一度目標が定まったなら、しっかりとその目標を心に思い描き、ゴールを目指して走っていきましょう。

(2)あらゆることにおいて節制する

第2のポイントは「あらゆることにおいて節制する」、つまり「自制心」を働かせるということです。私たちは、目標を定め、賞を得られるように走ろうとするなら、自ずと、何をやるべきで、何をやるべきでないかというのが見えてきます。しかし、それが分かっていてもなかなか出来ない、というのが私たちの現実の姿なのです。私たちは、つい、楽な方、楽な方へと流れていってしまうのです。もし私たちが、いつも正しく「自制心」を働かせることが出来るのなら、あらゆる目標の達成はもっと容易になるはずです。それがダイエットをしたいという目標でも、試験で良い成績を取りたいという目標でも、競技に勝ちたいという目標でも、自分自身にこの「自制心」さえあれば、かなりのレベルでその実現に近づくことが出来るはずです。

ガラテヤの5章を見ると、「自制心」というのは「御霊の実」の一つであることが分かります。つまり、私たちがキリストにとどまり、聖霊の助けを頂くことではじめて身に着けることが出来る性質であるということです。ですから、私たちたちは自分の力ではなく、毎日、一瞬一瞬、聖霊により頼みながら歩んでいかなければならないのです。

そのためには、毎日の祈りとみことばが不可欠です。私たちの教会では、毎日のデボーションの助けになるようにと、この「毎日のみことば」という冊子を配布しています。1月号は無料で皆さんに差し上げています。ぜひ皆さん、この元日から、デボーションを通して、祈りとみことばによって主に導かれるという習慣を身につけていきましょう。

4. 福音の恵みをともに受ける

さて、最後にもう一度、初めに読んだコリント人への手紙 第一9章23節に目をとめてみたいと思います。
私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。

パウロはここで、「私は福音のためにあらゆることをしています」それは、「私も福音の恵みをともに受ける者となるため」だと語っています。実は、私たちが、「自分自身も、福音の恵みを実感する」ために一番必要なのは、私たち自身が、実際に「福音のために生きる」事なのです。私たちは、確かに、ただ福音を信じることによって救われます。しかし、ただ信じるだけではなく、自分もその十字架を担って歩むという覚悟を決めることなしには、本当の意味でこの十字架の恵みを実感することが出来ないのです。

「キリストの心」をいただく、というのは、イエス様が歩まれた歩みをたどることに他なりません。今、主があなたに語っておられることは何でしょうか。今こそ、キリストの心を頂いて、キリストに似た者へと変えて頂こうではありませんか。私も福音の恵みをともに受けさせてください。私も福音のために何でもしますと、心から告白できるように、主に求めて祈っていきましょう。主は必ず、あなたを導いてくださいます。お祈りいたします。

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