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2023年12月17日 クリスマスの奇跡③〜飼葉桶の救い主〜

2023年12月17日 アドベント第3週 クリスマスの奇跡③〜飼葉桶の救い主〜
ルカの福音書 2章1~7節 佐藤賢二 牧師

今日は、クリスマスの奇跡〜飼葉桶の救い主〜というテーマでお話をさせて頂きます。

皆さん、クリスマスと言えば何を想像されるでしょうか?先日、ある民間の調査会社が、日本人の「クリスマス」についての意識調査をした結果を発表していました。皆さん、「クリスマスに欠かせないもの」の第1位は何だと思いますか?第1は、「クリスマスケーキ」、そして第2位は、何と「骨付きチキン」、以下、第3位は「プレゼント」、第4位は「イルミネーション」、そして第5位は「クリスマスツリー」という結果でした。ああ、やっぱりねという感じでしょうか。残念ながら、ここには、イエス様とか、教会とかは入っていません。そもそもこの調査の質問項目にも、これらは入っていないのではないかと思って確認しましたが、「教会のミサ」とか「教会に行く」という項目はちゃんと入っていました。でも、それらは他の質問項目と比べても最低の回答数でした。

皆さん、クリスマスとは何の日でしょうか。なぜ、クリスマスはみんなで集まってお祝いするのでしょうか。クリスマスという言葉は、英語で「Christ」と「mas」と書きます。「Christ」というのは、キリストのこと、そして「mas」というのは「ミサ、礼拝、祝祭」という意味です。つまりクリスマスは、私たちの救い主、イエス・キリストが生まれたことをお祝いする日なのです。でも、この日本においてクリスマスは、まるで「主人公がいない誕生会のよう」になってしまっているのです。でも、今日皆さんは、このクリスマスの主人公、イエス・キリストを礼拝するために、この場所に集められてきました。神様が、皆さんをこの場所に招いてくださったのです。ともに感謝しつつ、このイエス・キリストという方がどういうお方なのか、目を留めていきたいと思います。

今日は、イエス・キリストがどのようにしてお生まれになったのか、その誕生の経緯について、新約聖書ルカの福音書2章の記事から見てみたいと思います。ルカ2:1-7です。お読みします。

そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
ルカの福音書 2章1~7節

この時、マリアが産んだ「男子の初子」こそが、救い主イエス・キリストです。今日はこの箇所から、3つのポイントに絞って、見ていきたいと思います。

1. 神の計画と人の計画

まず第1のポイントは、「神の計画と人の計画」です。

この箇所を見ると、ヨセフは、身重になっている妻マリアを連れて、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムという町に上って行ったとあります。皆さん、ナザレからベツレヘムまで、どのぐらいの距離があるかご存知でしょうか。直線距離で約100km、GoogleMapで経路を調べてみましたが、実際のルートはだいたい130kmから150kmぐらいの道のりを行かなければならないことが分かります。当時の交通手段は、基本的に歩きです。恐らく、身重のマリアをロバに乗せて、ヨセフは歩いてベツレヘムまで行ったと考えられます。一日30kmぐらい歩けたとしても、丸5日間はかかる、大変な旅です。

皆さん、普通、臨月の妻とともに、こんな過酷な旅に出かけるでしょうか。ないですよね?それはこの当時であっても、あり得ないことだと思うのです。でもなぜそうまでして、彼らはこの旅に出かけたのでしょうか。それは、先ほどのみことばでも見たように、皇帝アウグストゥスから、住民登録をせよという勅令が出たからです。この皇帝アウグストゥスという人は、地中海世界を統一したローマの皇帝です。彼は、「パクス・ロマーナ」と言われる、「力による平和」の一時代を築き上げた、当時のローマ帝国の、絶対的な権力者です。「勅令」というのは、この皇帝から直接出される絶対的な命令のことです。では、なぜ皇帝アウグストゥスは、「全世界の住民登録をせよ」という勅令を出したのでしょうか。それは、ユダヤを含むすべての属国の住民から、税金を集めるためです。まあ言い方は悪いですが、人々から税金を搾り取るために、一人も漏れることがないように、この住民登録の勅令を出したわけです。

でもその背後に、とても不思議なことが起こるのです。神様は、そんな私利私欲に満ちた、世の権力による命令さえも用いて、ご自身の救いの計画を実行に移されたということです。皆さん。前回、また前々回のメッセージでも話しましたが、マリアのお腹にいるのは、聖霊によって与えられた救い主です。そして、すでに、「処女が身ごもっている」、「ダビデの子孫から生まれる」という救い主についての預言は成就していました。しかし、もう一つどうしても決定的に大事な預言が聖書には書かれていたんです。旧約聖書ミカ書5:2にはこのような記述があります。

「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」
ミカ書 5章2節

ここに、イスラエルを治める者、すなわち救い主は、ベツレヘムから出ると書かれているのです。その出現は、昔から、永遠の昔から定まっているとさえ言われています。皇帝アウグストゥスにとっては、そんな預言は知ったこっちゃありません。むしろ自分自身こそ神のような存在だと思っていたことでしょう。でも、もしそのアウグストゥスが、理由は何であれ、無理矢理にでも従わなければならない命令を出していなかったとしたら、わざわざヨセフとマリアは、ベツレヘムまで行って子を産むことはなかったはずなのです。いやむしろ、なんでこの大切な時期に、こんな大変な命令を出すんだと言って、ヨセフとマリアは嘆き、苦悩したのではないかと思うのです。でも、従わざるを得なかった。そして、彼らの知らないところで、神様が手を動かして、この大切な預言の成就へと導かれたという事なのです。聖書には、このような御言葉が書かれています。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
ローマ人への手紙 8章28節

神様は、誰かの悪意ある行為すらも用いて、プラスに変えてくださるお方です。世の中には、「どうして?」と思うことはたくさんあるんです。でも、神様は、それらすべての出来事をともに働かせて益としてくださると言うのです。それらすべての背後には、この天地万物を作られた、偉大な神様がおられるのです。今日、まずそのことに信頼し、目を留めていきたいと思います。

2. 飼葉桶の救い主

2番目のポイントは、「飼葉桶の救い主」ということです。ルカ2:6-7にはこのようにあります。

ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
ルカの福音書 2章6~7節

マリアは、男の子を産んで、「その子を布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」とあります。「飼葉桶」とは、動物の餌箱のことです。そこに寝かせたということですから、マリアとヨセフは、家畜小屋で夜を明かすことになったのだと考えられています。当然、周りにはさまざまな動物がいるわけです。いろんな、香ばしい匂いも漂ってきたはずです。なぜイエス様は、そんな不衛生な場所で生まれてくることになったのでしょうか。いや、なぜ神様は、そんなことを許されたのでしょうか。神様は歴史を支配して、あの皇帝アウグストゥスの勅令さえ用いて、彼らが強制的にベツレヘムで生まれるようにすることが出来たお方です。ですから救い主として生まれてくるイエス・キリストが、宮廷とか、もっと高貴な場所で生まれるようにすることも、当然できたはずなんです。

いや、そうじゃなかったとしても、マリアとヨセフが宿に泊めてくださいと行った時に、「あ、お客さんラッキーですね。今ちょうど、キャンセルが出たところです。いやーこれは奇跡ですよ!」と迎えてくれる宿屋があっても良かったのではないかと思うのです。とにかく、神様は、イエス様が生まれてくる場所を決めることが出来たはずなのです。でも、実際には、イエス様は飼い葉桶にお生まれになった。なぜでしょうか。私は、先ほどのみことばの中に、このように書かれているのに心が留まります。「宿屋には、彼らのいる場所がなかったからである。」イザヤ書53:3にはこのように書かれています。

彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
イザヤ書 53章3節

この御言葉は、救い主に関する預言です。ここは、その生涯の最後に、人々から罵声を浴びせられて、十字架にかけられた、イエス様の姿を表している箇所です。でもイエス様は、その生涯の最後どころか、人となってお生まれになったその瞬間から、いや、その生まれる前から、すでに人々の拒絶を味わっていたのです。

なぜでしょうか。それは、私たち人間のすべての苦しみをその身に背負い、私たちの痛みや弱さを知ってくださるためなのです。ヘブル4:15にはこのように書かれています。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
ヘブル人への手紙 4章15節

「大祭司」というのは、神様と人との間をとりなす存在のことです。ここで「私たちの大祭司」と言われているのは、イエス様のことです。つまりイエス様は、私たちのすべての弱さや苦しみを、自分のこととして知っていてくださるお方なのだということです。

私たちの神様は、高いところから、下々に向かって、偉そうに何か命令を下すような神ではありません。それは、皇帝アウグストゥスに象徴される、この世の権力のあり方です。でも、そうではなく、人々の生活の中に入り込み、それも最も低いところにまで降ってくださり、私たちと共に生きてくださるお方。それが、私たちの救い主の姿なのです。

3. 居場所のない者の痛み

第3のポイントは、「居場所のない者の痛み」ということです。

クリスマスには、よく子供達が降誕劇を行います。マリアとヨセフが天使からのお告げを受け、ベツレヘムへの旅を続け、宿屋からは断られ、家畜小屋を案内されて、そこで男の子を産む。そこに羊飼いと、東方の博士たちがやってきて、みんなでメリークリスマス!というのが定番の流れだと思います。

私は、この降誕劇にちなんで、昔こんな実話があったということを聞いたことがあります。少し調べてみましたが、この話にはいくつかのバリエーションがあって、実際にいつどこで起こったことなのかまでは分かりませんでした。でも、とても心に響く話ですので、ここでシェアさせていただきたいと思います。

その村では、毎年クリスマスに降誕劇をして、お祝いをしていました。
その劇の出演者の中に、一人の知的障害を持っている子がいました。
その子は、短いセリフさえ、なかなか覚えられない子でした。
村の人たちは、彼に、宿屋の主人の役を割り当てました。
セリフはたった一言、「ダメだ、ダメだ。宿はない。」というものでした。
その子は、何度も、何度も練習し、
その「ダメだ、ダメだ。宿はない。」
というセリフを、頑張って覚えることができました。

さて、いよいよ当日がやってきました。
村の人々も、またその子の両親も、かたずをのんで見守っている中、
大きなお腹をしたマリアを連れて、ヨセフがやって来て、戸を叩いて言いました。
「トントントン、どうか、ひと晩泊めてください。」
すると、その子は
「ダメだ、ダメだ。宿はない。」と、
練習したセリフを、間違うことなく言うことができたのです。

見ていた人たちは、ほっとしました。
でも、そのセリフを聞いて、マリアとヨセフがさびしそうにそこを去ろうとしたときのことです。
その子は急に走り出し、マリアにしがみついて泣きながら、こう叫んだと言うのです。
「どこにも行かないで!宿はあるよ!僕の家にお泊まりください!」
そう言って泣きじゃくるのでした。

それは、もう脚本どおりの劇ではなくなってしまいました。
でもその日、この劇を見ていた村人達も、その子の両親も、共に涙を流しながら、本当のクリスマスをお祝いしました。

こういうお話です。この男の子は、なぜ「僕の家にお泊りください!」と泣きじゃくったのでしょうか。それは、彼自身が、たくさん拒絶されて、たくさん傷ついてきたからなのではないかと思うのです。それゆえに、拒絶される人、居場所のない人の痛みを、人一倍わかってあげることができたのではないでしょうか。だからこそ、世の中の計算や、損得ではない、素朴な優しさで、彼らを受け入れてあげたいと思ったのではないでしょうか。

私たちは、いろんな理由をつけて、知らず知らずのうちに、一番大切なことを締め出してしまってはいないでしょうか。それは、忙しさでしょうか。お金でしょうか。世の楽しみでしょうか。プライドでしょうか。イエス様は、私たちが、表面を繕っているそういった物事の内側にある、私たちの本当の心の痛みや、叫びに、目を留めてくださっているのです。そして、その重荷はもう降ろしていいんだよと、私たちに語りかけてくださっているのです。

聖書の一番最後、黙示録というところには、こういう御言葉があります。

見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
ヨハネの黙示録 3章20節

イエス・キリストは、今も私たちの心の戸の外に立って、叩いておられるのです。「誰でも、その声を聞いて戸を開けるなら」とありますが、イエス様の声に対して、心の扉を開けるかどうかというのは、私たちの側の選択にかかっています。でも、もし、その扉を開くならば、イエス様は、私たちの心に入り、ともに食事をしてくださいます。食事をするというのは、最も親しい交わりのことを指します。

イエス様は、居場所のない、虐げられた人の気持ちを、最も分かってくださるお方です。今日、あの降誕劇で、宿屋の主人を演じた男の子のように、「イエス様、どうか私の心にお入りください。」そのように、イエス様をお迎えしようではありませんか。イエス様は、この心に入り、すべての罪をきよめ、この心を満たし、その十字架の愛によって、私たちを、本当の祝福へと導いてくださいます。

このイエス様を、私の救い主と信じるなら、私たちは救われるとあります。今日、イエス様を心にお招きして、ともに本当のクリスマスを過ごしていきたいと思います。お祈りをいたしましょう。

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