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2023年12月31日 主の恵みを心に刻む

2023年12月31日 年末感謝礼拝 主の恵みを心に刻む
詩篇 103篇1~5節 佐藤賢二 牧師

先週の日曜日、ちょうど12月24日、クリスマス礼拝の日のことです。私は一日の奉仕を終え、夜のキャンドルサービスに出席し、その後、ある若者と話をしていました。すると、その彼がなぜか指にキーホルダーをはめている姿が、指輪の様に見えて、ふと、私も自分の結婚指輪を触ろうと思ったんです。でも、ないんです。なんと私の左手の薬指にあるはずの結婚指輪が、なくなっていたのです。私は青ざめました。と言うのも、実は、私は結婚してまだ半年ぐらいの時に、一度結婚指輪をなくしたことがあるんです。そして、その時は結局新しく買い直すことになってしまいました。ですから、もう二度とそんなことにならないようにと、私はそれ以来、基本的にはどんな時にも結婚指輪を外さないようにしていたんです。それなのに、ない。その場所を探しても、見当たらない。牧師室に行っても、見つからない。その時、ひょっとしたらと思って、その日の午前中の礼拝メッセージのビデオを見返してみました。すると、その映像の中の私は、その時もうすでに指輪をしていなかったんです。まあ、それが分かったおかげで、私はその日、教会中を探し回るのを諦めることができたのは、不幸中の幸いだったと言えます。でも、いつなくしたかも分からない。どこを探したら良いかも分からない。その晩は、途方に暮れて家に帰りました。家内からは、「え?また無くしたの?」と言われ、せっかくのクリスマスなのに、心は沈んだ状態でした。

でもその晩、神様に祈り、床に着きながら、思いを巡らせている時、ひとつだけ思い当たる節があったんです。そして目が覚めた時、真っ先にその場所に行って探しました。そしたら、あったんです!どこだと思いますか?手袋の中です。朝、ウォーキングをしている時に使っていた、手袋の中に、指輪があったんです。しかも、左手の薬指のところに、そんまんまの形で指輪がはまって残っていたのです。私は嬉しくて、思わず「裕子ちゃん、あったよー!!」と大きな声で叫んでしまいました。そして、あのルカの15章に出てくる「無くしていた銀貨を見つけた女の人」の気持ちが、少しだけ分かったような気がしました。

皆さん、あって当たり前と思っているものが無くなった時、私たちは、初めてそのありがたさに気づくということがあります。この指輪のように大切にしているものだったり、私たちの健康であったり、親や家族の存在であったり、平和で安心・安全な日常であったり、私たちの周りにあるいろんなものに対して、当たり前過ぎて感謝をしていないということはないでしょうか。

今日は、年末感謝礼拝です。今日のメッセージのタイトルは、「主の恵みを心に刻む」とさせて頂きました。私たちは、たくさんの恵みを神様から受けているのですが、それらをあえて心に刻むということをしなければ、簡単にそのありがたみを忘れてしまう者なのです。ですから、今日は「主の恵みを心に刻む」ということ、すなわち「感謝」について、ご一緒に考えていきたいと思います。それでは御言葉をお読みいたします。

詩篇103:1-5です。

わがたましいよ 主をほめたたえよ。
私のうちにあるすべてのものよ
聖なる御名をほめたたえよ。
わがたましいよ 主をほめたたえよ。
主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
主は あなたのすべての咎を赦し
あなたのすべての病を癒やし
あなたのいのちを穴から贖われる。
主は あなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ
あなたの一生を 良いもので満ち足らせる。
あなたの若さは 鷲のように新しくなる。
詩篇 103篇1~5節

今日は、この箇所で語られている大切な事を3つのポイントで見てみたいと思います。

1. 私のうちにあるすべてのものよ

第1に、「私のうちにあるすべてのものよ」との呼びかけについてです。この詩篇の著者であるダビデは、自分自身に向かって「わがたましいよ」「私のうちにあるすべてのものよ」と呼びかけています。

皆さんは、普段、「私」という存在と「私のたましい」とを分けて考えているでしょうか。あるいは、「私」と「私のうちにあるすべてのもの」を分けて考える事があるでしょうか。ひょっとしたら、中にはそういう方もおられるかも知れませんが、普通は、そんなことは意識しないで過ごしていると思います。ですから、ここでダビデが「わがたましいよ」「私のうちにあるすべてのものよ」と呼びかけているのは、かなり意識的に、あえて、そのように言っているのだと考えられます。

では、なぜダビデは、そのようにして、自分自身の内面に向かって、あえて命じているのでしょうか。私はそこに、ダビデの霊性の高さ・深さを感じるのです。ダビデは、自分自身の内面に、鋭く光を当てることが出来る人物でした。実際に、自分の罪を人から指摘された時には、潔く、言い訳することなくそれを認め、深く悔い改めることが出来る、柔らかい心を持っていました。だからこそダビデは、自分の中にある、神の意志に従おうとしていない部分、神をあがめようとしていない部分と正面から向き合い、あえて自分自身の内面に対して語りかけていたのではないでしょうか。そして、そのようにして、自分のうちにあるすべてのものが神をあがめることが出来るようにと、自らを奮い立たせていたのではないかと思うのです。

私たちには、色々な弱さがあります。過去の傷。赦せない思い。叶わなかった願い。諦めてしまった夢。そんな経験を繰り返すうちに、ああ、所詮こんなものかと、神様に対する期待値を少しずつ下げてしまっていることはないでしょうか。そしてある時、実は自分の心の奥底に、とても神を100%信頼しているとは言えない部分があるということに気がつくのです。

でも、それは本当の私の願いではありません。私は、100%神を神としてあがめたい。私は、私の全存在をもって神を礼拝する人生を選び取りたい。そのように思うからこそ、私たちも「わがたましいよ」「わたしのうちにあるすべてのものよ」と、あえて呼びかける必要があるのではないでしょうか。今日私たちも、この年の終わりに、一年を振り返って、わたしのうちにあるすべてのものが、主をほめたたえる事が出来るように、あえて自分自身に命じていきたいと思うのです。

今、もう一度、先ほどの詩篇103:1-2をお読みしたいと思います。ぜひ、皆さんも自分自身のたましいに命じるつもりで、ご一緒に声に出して読んでみましょう。

わがたましいよ 主をほめたたえよ。
私のうちにあるすべてのものよ
聖なる御名をほめたたえよ。
わがたましいよ 主をほめたたえよ。
主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
詩篇 103篇1~2節

アーメン、感謝します。

2. 主が良くしてくださったことを

第2に、「主が良くしてくださったことを」という点について目を留めたいと思います。「主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」とありますが、この「主が良くしてくださったこと」とは何でしょうか。この御言葉を見ると、「主が良くしてくださったこと」には、2種類あることが分かります。

(1)マイナスを取り除く

まずは、「マイナスを取り除く」というものです。詩篇103:3-4aにはこのようにあります。

主は あなたのすべての咎を赦し
あなたのすべての病を癒やし
あなたのいのちを穴から贖われる。
詩篇 103篇3~4a節

主の御手によって、私たちの罪や咎は赦され、病は癒され、いのちは救われます。これらは、私たちのマイナスを取り除くという、主の御業だと言うことができます。

今日はこの中でも特に、「咎」という言葉に注目してみてみたいと思います。この「咎」という言葉は、「曲がっている」という意味の言葉から派生したもので、「あらゆる歪んだ行い」の事を指します。そして、その「あらゆる歪んだ行い」から生じる結果、つまり人が傷つけられたり、人間関係が壊れたり、復讐の連鎖が生まれたりという、歪んだ結末のことも含む言葉なのだそうです。今、私たちが歩んでいるこの時代、私たちの周りを見ても、またこの世界全体を見回しても、あらゆることが歪められてしまっています。

人間は、本来、そのような咎を自分で負わなければなりません。つまり、自らが作り出してしまった歪んだ世界の中で、その結果を背負って生きていかなければならない。間違った判断の結果を、すべて自分で背負っていかなければならないはずの存在なのです。

でも驚くべきことに、神様は、そんな私たちの咎を一人の「しもべ」に負わせると語られたのです。イザヤ53:5-6には、その「しもべ」について、このように書かれています。

しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
イザヤ書 53章5~6節

これが、苦難のしもべ、私たちの主イエス・キリストのなさったことなのです。主は私たちの咎を、すべてその身に背負い、私たちの身代わりとして、砕かれてくださいました。それゆえに、私たちは癒され、救われたのです。そして主は、この曲がった世界を、すべて本来ある姿に回復させたいと思って、今も働いてくださっているのです。

主はこのようにして、私たちの咎、歪んだ行いをその身に背負い、私たちのマイナスを取り除いてくださいました。私たちは、この主が良くしてくださった事を、決して忘れてはなりません。

(2)プラスを増し加える

主は、それだけでなく、私たちに「プラスを増し加えて」くださるお方です。御言葉はこのように続きます。

主は あなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ
あなたの一生を 良いもので満ち足らせる。
あなたの若さは 鷲のように新しくなる。
詩篇 103篇4b~5節

神様は、私たちを罪や咎から救ってくださるだけでなく、私たちの人生を、良いもので、プラスのもので満ち足らせてくださるお方です。ここでは、「恵みとあわれみの冠をかぶらせる」とはどういう意味なのか考えてみたいと思います。

数週間前、マリアへの受胎告知のところでも話しましたが、「恵み」とは「受けるに値しない者が受け取る、神からの特別なご好意のこと」を言います。神様から与えられる「無条件の愛」のことだと言い換えてもいいかも知れません。私たちの側には、その価値や資格はないのに、神様が一方的に、あふれるばかりに愛してくださる、その愛のことです。

では「あわれみ」とはなんでしょうか。それは、「はらわたがちぎれるような痛みを持つ」ほどの、強い共感のことです。誰かの痛みや苦しみを、他人事としてではなく、自分のこととして、いやその人以上に痛んで苦しまれる事、それが「あわれみ」です。マタイ9:36には、このようにあります。

また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。
マタイの福音書 9章36節

イエス様は、人々が弱り果てて倒れている姿を見て深くあわれまれました。いや、私たち自身が、弱り果てて倒れているのを見て、深くあわれんでくださったのです。あの、なくしていた銀貨を探す女の人ように、失われた一匹の子羊を探す羊飼いのように、死んでいたはずの放蕩息子のところにかけ寄って行ったあの父と同じように、イエス様は私たちのために痛み、私たちをあわれんでくださったのです。

このイエス様のみわざ。「恵み」と「あわれみ」こそが、私たちの「冠」です。「冠」とは、王様などの権威の象徴として被せられるものです。私たちは、受けるに値しない者であるにも関わらず、神様は私たちを王様のように扱われ、この「冠」を被せてくださるのです。しかし、私たちに与えられているその「権威」とは、この世の権威とは全く違うものです。イエス様が、私たちにしてくださった、この驚くべきみわざ。「恵み」と「あわれみ」こそが、私たちの冠。私たちの権威の象徴です。私たちは、神に愛されている者として、この地上において、このイエス様と同じ愛をもたらすようにと召されているのです。そして、そのような価値観に私たちが生きる時に、私たちの一生は、良いもので満たされるのです。

私たちに増し加えられる「プラス」のもの、というのは、必ずしも、私たちの願い通りになるということではないかも知れません。でも、神様は私たちに、私たちが願うよりもはるかに素晴らしいものを満たしてくださるのです。

そのような視点をもって、一つひとつのことを見ていく時に、私たちは、ああ、あれも感謝、これも感謝と、恵みをたくさん見つけることが出来るのではないでしょうか。

3. 何一つ忘れるな

第3に、「何一つ忘れるな」という点について見ていきたいと思います。私たちは、こんなにも多くの恵みを受けているにも関わらず、簡単に忘れてしまう者です。そして、いつしかその恵みが当たり前になってしまい、感謝がなくなってしまうのです。

私は最近、聖書のある箇所の考察を聞いて、とても新しい視点が与えられたことがあります。それはマタイ6:28-29についての考察です。

なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。
マタイの福音書 6章28~29節

ここは、私が娘の名前を命名するときに「野の花のように、神様が造られたありのままの状態で、美しく輝く存在であって欲しい」との願いを込めて、引用した御言葉でもあります。感謝なことに、その娘は、この御言葉の通りに、健やかに、のびのびと育ってくれています。私たちは、この箇所を読むとき、普通「なぜ心配するのか」「心配するのはやめなさい」「すべて神様に信頼しなさい」という文脈で読むことが多いのではないでしょうか。でも、よく見てみると、「心配するな」と言いつつ、一方で「よく考えなさい」と言われていることに目が留まるのです。「心配しない」ということは「考えない」ということではありません。そして、ここではむしろ、「よく考えるように」と命じられているのです。じゃあ、何をよく考えるのか。それは、「野の花がどうして育つのか」を、よく考えなさいと言うのです。

皆さんは、「野の花がどうして育つのか」考えたことがあるでしょうか。野の花が育つのなんて、そんなのは当たり前のことです。ですから、私たちは、普通は「野の花がどうして育つのか」なんて考えたりしないんです。じゃあ、なぜイエス様は、そんなことをよく考えなさいと言われているのでしょうか。それは、私たちが「当たり前だ」と思っていることの中にこそ、神様の素晴らしい恵みが、あふれているからではないでしょうか。私たちが当たり前だと思っていることの多くは、実は当たり前ではないのです。

神様は、私たちが、あえて意識をしなかったら見過ごしてしまうような事柄の中に、どれほど神様の愛と恵みが詰まっているのかを、よく考えて、発見して欲しいと願っておられるのです。ですから私たちが、あえて「わがたましいよ」「わたしのうちにあるすべてのものよ」と命じて、意識的に恵みを数える、感謝を覚えるというのは、とても大切なことなのです。

私は若い頃から、年末になると、池田博先生に「年の数だけ感謝を書き出してみましょう」と教わってきました。まあ、私自身は、それが出来る年もあれば、出来ない年もあって、あまり忠実とは言えない者なのですが、それでも感謝を数えるということは、とても恵まれることです。はじめてそれを聞いたのは、確か私が19歳の時でしたので、1年間で19個の感謝を書き出すのはそんなに大変ではありませんでした。でも、今は何と52個の感謝を書き出さなければならない。ほぼ、一週間に1個の感謝です。そう考えると、私の場合、今年一番の感謝は、何よりも大きなチャレンジだった、毎週のメッセージ奉仕が守られたということだったかなと思います。よく体調を崩しがちなのですが、それも皆さんの祈りによって支えられて、この奉仕の中で私自身がたくさん学ばされました。本当に、心から感謝いたします。

皆さんも、ぜひこの年末年始、お忙しい中だとは思いますが「年の数だけ感謝を書き出す」ことを実践してみて頂きたいと思います。そして、ぜひその書き出す感謝の中に「そんなの当たり前じゃないか」というものも、あえて意識して、含めていただきたいと思うのです。それは、私たちが「神の恵みをよく考える」ということを選び取っていかなければ出来ないことです。

神様は、私たちに「恵みとあわれみの冠」を与え、私たちの一生を良いもので満たしてくださるお方です。そのことに信頼し、感謝とともに一年を終え、感謝のうちに新しい年を迎えていきたいと思います。

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