お知らせ

2024年1月7日 10×10の祝福①

2024年1月7日 新年礼拝 10×10の祝福①
イザヤ書 35章12節 池田恵賜 主任牧師

まずメッセージに先立って、改めて今回の能登半島地震において被災された方々、今なお困難な状況に置かれている方々、不安を抱えておられる方々にお見舞い申し上げます。

既にハンガーゼロを始めいくつかの団体が現地に入り支援活動をしています。そのような方々の活動も支えられ、速やかに必要なところへ必要な支援が届けられますようにお祈りいたします。先ほど報告させていただいたように、本郷台キリスト教会では、現地教会と協力体制がとれましたので、その要請に応えて、まず第一陣としてサムエル伝道師たちを送ります。その際、依頼された支援物資を持っていきますので、可能な方は明日18時までにダイヤモンドチャペルまでお持ちください。また募金も受け付けています。今後、時期を見てボランティアを送り、被災地支援活動を行っていきます。みなさまのご協力をよろしくお願いします。何よりもこの困難な時、愛なる神様の御手が差し伸べられて、被災された地域とそこに住む方々に愛と憐れみが注がれますように祈っていきましょう。

それではメッセージに移ります。

いよいよ、10×10の年の幕明けです。元日の朝は、主が今年、日本中にどのようなみわざを成してくださるのか期待して、ワクワクしながらのスタートでしたが、その日の夕方には能登半島地震、そして翌日には羽田空港での大きな火災事故という思いもかけない震災や事故が起きてしまい心が痛みました。しかし、東日本大震災のときも熊本大地震のときも、神様は働いてくださいました。世界中から集まったクリスチャンのボランティアたちは、被災された方々から「キリストさんが来た」と言われ喜ばれました。そして、その後それらの地域に多くの教会が建てられました。

思い返せば2001年も「21世紀は平和の世紀にしよう」と期待をもって始まりましたが、その後まもなくアメリカへのテロ攻撃があり、それに対する報復の戦争が起こりました。憎しみの連鎖が広がる中で、一体、世界はどこに向かっていくのだろうかと心配しました。そのような中で本郷台キリスト教会では2000年代、数々の地域に仕える働きがスタートしました。人々が希望を持てず、暗闇を感じているときこそ、神の御声に耳を傾け、みこころを行なっていきたい、神様が私たちの心に注いでくださった「愛の連鎖が広がっていくように」と願います。

昨年12月31日のネクスト礼拝で土屋彩和姉が洗礼を受けましたが、洗礼を受ける前にみんなの前で証しをしたいということで、証しをしてもらいました。その中で彼女は、洗礼に至るまでの経緯を話し、洗礼決心に至ったきっかけのひとつとして「自分は神様を驚かせる人になりたい」と言っていました。若者らしく「面白いことを言うなぁ」と聞いていました。もちろん、その発言の背景にあるのは、イエス様が百人隊長の部下を癒やしに行こうとしたとき、百人隊長が「おことばをくださればしもべは癒やされます」と言った場面です。その言葉を聞いて、イエス様は異邦人である百人隊長の信仰に「驚かれた」のです。「神様を驚かせられる人になりたい」という表現は初めて聞いたので、印象に残りました。

新約聖書で、「イエス様が驚かれた」と表現されている箇所は二箇所あります。この百人隊長の信仰に触れたときと、もう一つご自分の郷里ナザレの町の人たちの不信仰に触れたときです。「私たちもイエス様に驚かれるなら不信仰ではなくて、信仰によって驚かれたいものです。」2023年の締めくくりの洗礼式を通して、神様は大切なメッセージを教会に語ってくださったと思いました。

神様は私たちの信仰を喜ばれます。そして、その信仰は「言い表す」必要があります。イエス様は、エリコの盲人を癒やされる時に「わたしに何をしてほしいのですか」と聞かれました。今年「わたしに何をしてほしいのか」と問われる主に、「主よ、10倍の祝福を与えてください。日本に1000万人のクリスチャンを与えてください」と告白していきましょう。牧会ファミリーに属しておられる方は、牧会ファミリーが10倍祝福され、それぞれのファミリーから10のファミリーが新しく生み出されるように求めましょう。ミッション3000のビジョンが与えられている本郷台キリスト教会としては、これから新しく教会に集う方々の受皿として500の牧会ファミリーが備えられるように取り組んでいきます。

年明けから災害の続く日本でありますが、この日本を真の意味で祝福できるのは神様だけです。どのような状況の中でも希望の光を輝かせることのできる神様に信頼して、今年示されることを一つ一つ忠実に行なっていきましょう。

さて、今日から「10×10の祝福」と題して、今年教会に与えられたイザヤ32:15のみことばから見ていきましょう。

しかし、ついに、いと高き所から私たちに霊が注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森と見なされるようになる。
イザヤ32:15

このみことばは、昨年の下半期リーダーシップチームリトリートで、祈りの中で今年のみことばとして選ばせていただいたものです。

これは預言者イザヤによって語られた言葉です。イザヤは南ユダ王国でウジヤ王、ヨタム王、アハズ王、ヒゼキヤ王の時代に活躍した預言者です。32章のこの言葉が語られた正確な年代は分かりませんが、アハズ王とその息子ヒゼキヤ王が共同統治していた時代かと思われます。

当時のイスラエルは大国アッシリアとエジプトの間に挟まれていて、アハズ王の時代はアッシリアに取り入り、ヒゼキヤ王の時代はエジプトとの繋がりを強化しました。そんな中、反アッシリアだった北イスラエルはアッシリアに滅ぼされてしまいます。イスラエルは国として存続していくために難しい政治判断を求められる時代でした。また国内においては、アハズ王が取り入れたあらゆる偶像礼拝が蔓延していました。ヒゼキヤ王の単独統治の時代になると偶像を取り除きましたが、全体として、政治的にも、信仰的にも揺らいでいた時期でした。

そのような中で、不信仰な態度をとるイスラエルに対してイザヤは神の審判をひとしきり語った後、メシアの統治を預言したのです。そのとき“ついに、いと高き所から私たちに霊が注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森と見なされるようになる”というのです。素晴らしい約束のみことばです。大国に囲まれ、先行きが不透明な中、信仰的にも偶像が満ちている状態というのは、なにか今の日本の状況と重なるようにも感じます。そして、私たちも“ついに、いと高き所から私たちに霊が注がれ”るのを待ち望んでいるのです。

このみことばがリトリートの中で示されたときに、「素晴らしいみことばだな」と感じるとともに、私の中で何か引っかかるものがありました。それが何だったのか、しばらく分からなかったのですが、メッセージのために静まる中で気付かされました。今日はそこから教えられたことをお分かちしたいと思います。

私が引っかかっていたのは、みことばの最後に書かれている「森」という単語でした。「荒野」が「果樹園」になるのは素晴らしい。でも「果樹園」が「森」になるというのは、どういう意味だろう。「せっかく整地して、きれいな果樹園になったのに、森になったら管理しにくくなるのではないか」と考えていた自分がいたのです。私は、森よりも果樹園の方が良いと思っていたのです。

「森と果樹園」

では、森と果樹園の違いはなんでしょうか。

まず果樹園から考えていきましょう。果樹園は管理されています。そして、そこでの収穫や利益は計算することができます。この規模の土地なら何本の木を植えて、いつどこで何が取れて、収穫量はどれ位かと計算できます。また、いつどのくらい肥料をまけばよいか、収穫期には何人のパートを雇えばよいか、維持管理費を計算し、利益を見込みます。天候不順や台風などでの予期せぬ損失に備えて、保険にも入っておくかもしれません。このように果樹園は計算できる恵みなのです。計算すること自体は悪いことではありません。むしろ、計算しなければ果樹園を管理していくことはできないでしょう。私はいろいろと計算してから動く方なので、無意識のうちに「果樹園の方が良い」と考えていたのです。

それに対して「森」とは何でしょうか。森はいわば「計算できない恵み」です。いつ、どこに、何の実がなって、誰が取っていくのか、森では把握することができません。森を良い状態で維持するためには、ときどき木を切って間伐する必要はあるらしいのですが、森にわざわざ肥料をまいたり、多くの実がなるために一本一本剪定したりするイメージはありません。管理できないというか、計算できないのが森ではないかと思ったのです。

そして、私は「計算できない」という部分に引っかかっていたことに気づかされたのです。そこに気づいたとき、神様から「あなたはわたしの注ぐ恵みを管理しようとしているのか」と語り掛けられたのです。

私はこれまでに神様から沢山のことを任されてきたように思います。牧師の子どもとして生まれ、親の後を継いで主任牧師となるときも、保育園を立ち上げ園長になったときも、サッカースクールの立ち上げや野七里購入のときも、特別な立場に立たされ、たくさんのものを任され、いろいろな経験をしてきました。おかげで、かなり大きな事でも計算できるようになりました。

計算できない神の恵みの世界

そんな私が一番心がざわつくのは「計算できない」状況にいるときです。もちろん、計算することも大切です。「計算できない」と言っても、それは無計画のまま進んでもいいということではありません。しかしときに、なんでも計算しようとすることによって神様の用意している恵みや祝福にまで口を出し、コントロールしようとして「祝福を受けとらないことまである」ということに気づかされたのです。

神の恵みの世界は、果樹園のような人間が計算できる恵みに留まるのではない。ときに森のような計算できないほどの大きな恵みを神は用意してくださっていると教えられたのです。そして「お前はその世界に飛び込む信仰があるのか」、「その覚悟を問われているのだ」と今年のみことばの前に立ったときに感じたのです。

考えてみると確かに、聖書の中には計算できない恵みについてのみことばがあります。一つは、詩篇126:5です。

涙とともに種を蒔く者は喜び叫びながら刈り取る。”詩篇126:5

自分で蒔いたものを「喜び叫びながら刈り取る」というのは、どんな状況でしょう。確かに種を蒔くのは大変です。しかし「これだけ蒔けば、これだけ刈り取れる」と計算しているはずです。それを「喜び叫びながら刈り取る」というのは、余程の飢饉の時、収穫を期待できない状態で蒔いていたのかもしれません。それでも「涙を流してでも蒔きなさい」と聖書は言うのです。

さらに計算できない恵みの究極と思えるみことばが伝道者の書11:1です。

あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。”

このみことばに至っては計算どころではなく、明らかに無駄な努力です。パンを水の上に投げるなんて、魚のエサにしかなりません。しかし「ずっと後の日になってそれを見出す」と言われているのです。これこそ計算できない恵みです。一見、無駄にしか見えないようなことの中にも神の恵みは潜んでいるのです。計算できない神の恵みを受けるには、パンを水の上に投げる信仰が必要です。それは自分の計算ではなく、神のみこころに生きる信仰です。

イエス様ご自身もこのように言われています。ヨハネ4:37-38です。

ですから、『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです。わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっているのです。」”ヨハネ4:37-38

「自分で労苦していないものを刈り取る」。それが森の恵みです。果樹園は管理された恵みです。そこに入って祝福を受け取れる人は限られています。それ以外の人や動物は入れないのです。もし入れば泥棒や農作物を荒らす害獣として扱われます。しかし森はどんな人でも、動物でも入って恵みを受けることができるのです。

これまでの本郷台キリスト教会の恵みは「果樹園の恵み」であったかもしれないと思わされました。しかし、これからは「森の恵み」となるのです。それがどのような恵みになるのか、私たち人間には計算できません。神様に委ねて私たちは進むのです。「その準備はできていますか」と、神様は今年このみことばを通して問われています。

すでにお話ししているように、今年のあインターナショナルスクールでは学校法人取得、そして教会としては新会堂建設、社会福祉法人真愛では高齢者施設建設が動き出します。高齢者施設も具体的な話を詰めていくと、老人ホームを一つ建てるだけでは足りないようです。みんなが最後まで主に仕えて人生を全うできるような環境を整える必要があります。まさに計算していたらできない世界です。しかし、これも「森の恵み」の一つなのかもしれません。

「自分で労苦していないものを刈り取る」。労していないものを刈り取るということは、私たちが次の世代や他の誰かの収穫のために「労して種を蒔けるか」ということでもあります。このダイヤモンドチャペルや野七里のために種を蒔いてくださった方々がいるので、いま私たちはその恩恵にあずかっています。私たちの働きは、次の世代のための働きでもあるのです。次の世代の人たちが豊かな祝福を刈り取るために、私たちが労苦して蒔き、涙とともに蒔き、パンを水の上に投げるのです。このことについては、来週もう少し詳しく見ていきましょう。

最後に皆さんにお伝えしておきたいことがあります。昨年末のことですが、94才になる教会員の田中保兄が入院なさいました。かなり弱ってきておられるのですが、娘さんの田中博子姉によると、入院前日の夜中に兄弟は突然起きてきて「来年は大変だ。忙しいぞ。教会を建て直さないと。パイプオルガンをおいて、ステンドグラスを貼って、、、」と言われたそうです。念のため、博子姉に確認したら、新会堂建設のことは一切伝えていないそうです。神様は、保兄を通して本郷台キリスト教会にメッセージを届けてくださったのだと思います。今年、誰も計算のできない「森の恵み」を体験していきましょう。

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