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2024年2月25日 私たちは何者なのか?

2024年2月25日 私たちは何者なのか?
マタイの福音書 5章13~16節 佐藤賢二 牧師

今日のメッセージは「私たちは何者なのか?」というタイトルを付けさせて頂きました。ちょっと大袈裟なタイトルを付けてしまったかなとも思いますが、皆さんは「自分は何者なのか」ということを、今までに考えたことはあるでしょうか?

よく「自分探しの旅」なんて言葉を聞くことがあります。ここで言う「自分探し」というのは、これまでの人生を振り返ったり、将来のビジョンを考えたりしながら、様々な体験をし、「本当の自分とは何者なのか」そして「これからの人生の歩み方の答え」を探求する作業のことです。

特に青年期には、自分が何のために生きているのか分からなくなったり、自分の存在価値はどこにあるのかと悩み、自信を失い、心理的な危機状態に陥る人たちがたくさんいると言われています。こういう状況を、アイディンティティ・クライシスと言うそうです。

今、青年期と言いましたが、恐らくこれは若者に限ったことではないでしょう。今まで仕事一筋に生きて来たけれど、退職した後、これからどのように、また何のために生きていったらいいのか分からないと悩む方もおられるかも知れません。また、子育てがひと段落して、ふと我に返った時、自分の人生に一体何の意味があるのだろうと考える、なんてことは割とありがちな話ではないかと思うのです。この様に、今の時代多くの人が、改めて「自分は何者なのか」を問い直す必要性を感じているのです。

私自身も、高校生の時、そういった問題にぶち当たりました。

「人はどんなに一生懸命生きても、良いことをしても、悪いことをしても、結局のところ皆同じ様に死んでいく存在に過ぎない。だとしたら、今私がやっていることに、何の意味があるのだろう。私自身のいのちに何の価値があるのだろう。私は何のために生きているのだろう。」そんな風に思い、悩んだんです。

でも、そんな時、それはちょうど1年間アメリカに留学していた時だったのですが、私にこの様に教えてくれた人がいました。「この世界は神様によって造られて、私たち人間も神様によって造られた存在なんだ。神様は、私たち一人ひとりのことをものすごく愛してくださっていて、一人ひとりに最高の計画を用意してくださっている。あなたの人生には、意味と目的があるんだよ。」

私はそれまで、日本の学校教育の中で、無神論、進化論が当たり前だと思っていましたので、初めてその様な考えを聞いた時は、とても不思議な感じがしました。しかし、自分が実際に問題にぶつかり、「生きる」ということに思い悩んでみて、初めてこう思ったんです。「もし、それが本当であるなら、私もこの神様を信じていきたい。そして、私も自分自身の人生を意味のあるものとして歩んでいきたい。」そうやって、神様を心に迎え入れて、信じる歩みがスタートしたのです。

創世記1:27にはこの様に書かれています。

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。
創世記 1章27節

私たち人間は、神様によって、神様のかたちに造られたとあります。ここで言う「かたち」とは、見た目のかたちではなく、「神様の性質」に似たものとして造られたという意味です。「神様の性質」とはどの様なものでしょうか。神様は、愛なる方です。神様は、正しいお方です。そして神様は、良いお方です。その様なお方が、私たち一人ひとりを、目的をもって造ってくださった。それは、神に似た者として造られた私たち一人ひとりが、神様の素晴らしいご性質を反映する存在として生きることだというのです。

皆さん。私たちは、決して偶然に生まれてきた存在ではありません。もしそうだとしたら、私たちの人生はとても虚しいものです。そして、いつまでたっても「自分は何者なのか」という問いに、納得のいく、健全な答えを得ることはできないでしょう。

皆さん。私たち人間だけが、他の動物と違い、「自分は何者なのか」という問いの答えを必要としています。それは、私たちが、霊的な存在、つまり神様との関係の中に生きる存在だからです。

今日は、「私たちが何者であるのか」という問題について取り扱っている、一つの聖書箇所を中心に、このことについて、共に考えていきたいと思います。

それでは、今日の聖書箇所をお読みします。マタイの福音書5:13-16です。

あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。
マタイの福音書 5章13~16節

ここに「あなたがたは地の塩です」「あなたがたは世の光です」とあります。

「あなたがた」とは誰のことでしょうか。これは、イエス様の評判を聞いて自分のもとに集まって来た「大勢の群衆」にも向けて語られた、イエス様ご自身の言葉です。この「大勢の群衆」の中には、すでにイエス様を信じ従っている人も、何となく興味半分で集まって来た人もいました。でも、そのすべての人に対して、イエス様は「あなたがたは地の塩です。世の光です。」と言われたのです。

ですから、これは私たち全人類、一人ひとりに向けられた言葉だと言えます。今、すでにイエス様を信じているという人も、まだ信じていない、よく分からないという方も、本来人間は「地の塩」「世の光」として生きる様に、造られている。それこそが、あなたが造られた目的であり、「あなたがあなた自身であることを、実感できる生き方なのだ」と語っているのだと思うのです。

そんなことを踏まえながら、今日はこの箇所から「私たちは、何者なのか」ということについて、3つのポイントで見ていきたいと思います。

1. あなたには価値がある

まず、第一のポイントは、「あなたには価値がある」ということです。

注目したいのは、この箇所は「地の塩になりなさい」とか「世の光であるべきです」という表現ではなく、「地の塩です」「世の光です」と、断言されているということです。これは、私たちが努力して従うべき「教え」と言うよりも、「私たちは何者なのか」ということを、神ご自身が「宣言」したものだと言えます。つまり、神様の目から見れば、私たちはすでに「地の塩」であり「世の光」なのだということです。

「塩」とか「光」というのは、私たちの生活になくてはならないものです。

皆さん、「塩」にはどんな役割があるでしょうか。塩というのは、味付けをするものです。また、塩には腐敗を防ぐ、腐りにくくするという役割もあります。また適量の塩分は、私たちが生きていく上でなくてはならないものです。

私は小さい頃、母親が焼いてくれるパンが大好きでした。ある時、いつものように美味しそうに焼き上がったパンを、いち早く食べさせてもらったのですが、そこで何かがおかしいことに気づいたんです。全然、美味しくないんです。見た目はいつも通り美味しそうに焼き上がっているのに、いざ口に入れてみると味がしない。そう。何と塩を入れ忘れていたのです。皆さん、塩の入っていないパンなど、とても食べられたものではありません。塩なんて、ほんの少量しか入れないかも知れませんが、塩は本当に重要なんです。

では、一方の「光」にはどんな役割があるでしょうか。これも色々あると思いますが、一番大きいのは「暗闇を照らす」ということだと思います。光がなければ、そこに危ないものがあったり、汚いものがあっても気づくことが出来ません。光がなければ、私たちは、安心して生きていくことが出来ないんです。

私たちは、「地の塩」であり「世の光」です。私たち一人ひとりは、この世界にとって、なくてはならない、かけがえのない存在なのです。私たちは、この世の中に適切な味付けをし、腐敗を防ぎ、暗闇を照らす役割があるのです。もちろん、私たちには、それぞれ個性があり、能力や得意不得意も違います。置かれた時代や環境も違います。与えられている思いも違います。ですから、実際に自分がそこで何をするのかということは、それぞれに委ねられています。しかし、私たちが、どこで何をするにしても、私たちは「地の塩」「世の光」として生きていくのだということを、まず心に留めたいと思います。

2. あなたは誰かのために生きられる

第二のポイントは、「あなたは誰かのために生きられる」ということです。私たちは「誰かのために生きる」ということを選択することが出来るのです。

「地の塩」「世の光」として生きる、ということは、他の人のために生きるということも表しています。「塩」も「光」も、自分自身が主役になることは、ほとんどありません。むしろ「塩」や「光」は、他者のために、他者の引き立て役になるような存在となってこそ、本領を発揮することが出来るのです。同じように私たちは、実は自分自身のために生きるのではなく、誰かのために生きようとするときに、最も「本当の自分」が輝くことができるものなのです。

ルカの福音書9:23-24にはこの様に書かれています。

イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。
ルカの福音書 9章23~24節

ここはとても逆説的な表現がされています。もし私たちが自分のために生きようとするなら、かえってそれを失ってしまう。しかし、神様のため、また神様が愛しておられる人々のために喜んで自分を捨てて生きようとするなら、本当に自分らしく生きることが出来るということなのです。

自分を捨てると言っても、自分が大切でないとか、自分を粗末に扱っていいということではありません。むしろその逆です。誰かのために自分を捨てる、あるいは誰かのために生きるというのは、自分がどれほど、大切で、価値のある存在であるかが分かっていないと、できないことなのです。

第1ヨハネ3:16にはこの様にあります。

キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
ヨハネの手紙 第一 3章16節

イエス様は、私たちの罪のために、ご自身のいのちを捧げて、私たちの身代わりとして十字架にかかって死んでくださいました。私たちは、それによって、その愛が本物であることが分かったのです。その愛を知ったからこそ、私たちも、他の人のために、いのちを捨てるべきだと言われているのです。

このみことばは、この様に続きます。

この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。そうすることによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます。
ヨハネの手紙 第一 3章17~19節

自分のいのちを捨てるというのは、多くの場合、自分のことばかり考えずに、目の前の困っている人を助けるということです。そして、ことばや口先ではなく、行いと真実をもって愛するということです。そうすることによって、私たちは神の御前に心安らかでいられのだというのです。なぜなら、それこそが、私たちの本来生きるべき道だからです。それが、「地の塩」「世の光」として生きるということです。

私たちは、誰かのために生きることが出来ます。それは、誰かに利用される生き方とも違います。なぜなら、私たちが、自らの意志で選び取って、行いと真実をもって愛するからです。でも、そのためには、自分中心の生き方を捨てる必要があります。そして心の中を、神様の愛で満たし続けていただく必要があるのです。

3. あなたは神の栄光のために生きられる

第三のポイントは、「あなたは神の栄光のために生きられる」ということです。マタイ5:16にはこの様に書かれていました。

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。
マタイの福音書 5章16節

私たちが、誰かのために、どんなに良い行いをしたとしても、それは「天におられるあなたがたの父」があがめられるようになるためだというのです。

勝負の世界などでは、「栄光を掴め!」などと言われます。それは、勝利者自身が自分で栄光を受けることを目指すということです。つまり、それは、すべての栄誉や称賛は自分たちのためにあるのだという生き方だと言うこと出来るかも知れません。

でも、同じ勝負においても、「すべての栄光を神に捧げます」と宣言して歩む人もいます。サッカーにおいても、南米やヨーロッパの多くの選手が、ゴールをした時に天を指差して、神様に栄光を表すんだということを表現しているのを見ます。もちろん、それは形だけのことかも知れません。私たちには、その人の心の内側のことは分か離ません。でも、そのような行為を通して、自分の心に、神様に栄光をお返しする思いを刻み込んでいくのはとても素晴らしいことだと思うのです。

先日私は、スポーツミニストリーのカンファレンスに参加させていただいて、とても感動いたしました。たくさんのことがありましたが、その中の一つのことをお分かちいたします。1日目の夜、現役のJリーガー、FC東京の野澤大志ブランドン選手が来て話をしてくれたんです。彼は、先日のアジアカップでは、日本代表にも召集された、期待の若手ゴールキーパーです。そして、同時に彼は、敬虔なクリスチャンでもあります。

彼は言うんです。「自分は、17歳でプロサッカー選手になると決まった瞬間に、神様の前にこの様に決心しました。私はサッカーをあなたに捧げます。私はあなたのために生きていきます。だから皆さん、私がますますへりくだって、神様に従って歩んでいくことが出来るように祈ってください。」

その様な思いで、真摯に歩んでいった中で、彼は日本代表選手にまで選ばれたんです。

彼は、以前、オルテガ監督にも会いに来たことがあって、その時に受けたインパクトについても話してくれました。そして、僕が彼のために祈らせてもらおうと思っていたら、彼の方から逆に、「エスペランサのために祈ってもいいですか」と聞かれて、エスペランサが神様に用いられる素晴らしいチームとして活躍できるように祈ってくれたんです。とても感動しました。

私たちを見ている人が、私たちの良い行いを見て、天の父なる神様をあがめるようにすること。それが、私たちの目標です。

もし私たち一人ひとりが、本当に「地の塩」「世の光」として生きられるならば、この世界は必ず変えられます。もし、神様を知っているクリスチャンが、みんなそのように生きているなら、世界は変えられます。

でも実際には、何かが私たちが本当に「地の塩」「世の光」として生きるのを妨げていると感じることはないでしょうか。

ですから最後に、ここでイエス様が与えられている忠告について触れたいと思います。

それは、「塩気をなくしてはいけない」ということです。普通、塩が塩気を無くすなんてことはあり得ません。でも、聖書の時代は、あまり質の良くない、つまり不純物と混ざり合った岩塩もあったのだそうです。その様な塩は、時間の経過とともに、湿気で塩分が流出してしまい、もはや塩とは言えないようなものになってしまうことがあったのだそうです。

もし私たちが「塩気を失う」様なことがあるとすれば、この世の不純物によって、本来あるべき姿を見失ってしまうということでしょう。自分は神様に愛されているということを知っているにもかかわらず、気がつけば、神様を信じていない人と何ら区別のつかないような生き方をしてしまっている。自己中心で、困っている人に目を向けようともせず、自分で称賛を得ようとしてしまう。そんなことはないでしょうか。

もし今、自分は「塩気を失いかけている」と感じる様なら、主の御前に悔い改め、神様の御心のままに歩めるように祈りましょう。また、「まだ自分は何者かよく分からない」という人がいるなら、あなたを愛し、あなたのために最高の計画をもっておられる方が、そのことを示してくださるように、祈りましょう。私たち一人ひとりから、神様のわざは始まっていきます。

塩はほんの少しでも、味をつけることが出来ます。いや、むしろ、塩だけで固まっていても、役に立つことが出来ません。しょっぱいだけです。私たちは、この地域に、世界に出て行って、地の塩としての役割を果たしていく必要があるのです。今、私たち一人ひとりが、主の御心にかなって歩むことが出来るように祈りましょう。

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