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2024年3月3日 道をひらかれる神① 〜いのちへ至る道〜

2024年3月3日 道をひらかれる神① 〜いのちへ至る道〜
ヨハネの福音書 14章6節 池田恵賜 主任牧師

今日から4週にわたって「道をひらかれる神」をテーマにメッセージしていきます。

第1週の今日は「いのちへ至る道」、第2週は「祝福に至る道」、第3週は「救いに至る道」、そして第4週は「勝利に至る道」というタイトルでお話しします。

クリスチャン生活の醍醐味は何と言っても、日々の生活の中で「神様を体験できること」ではないでしょうか。そして、神様を体験できるのは、自分の力や経験、計算で上手くいっているときではなくて、むしろピンチのとき、四方八方手を尽くしてもうまくいかず、神に祈るしかないというところにまで追い込まれたときです。そこでクリスチャンは「神が自分のために道を開いてくださるお方である」ことを体験するのです。

そういうことを何度も何度も体験することによって、日常の小さな事柄の中にも働いて道をひらいてくださる神様の御手を見出すことができるようになるのです。

さて、今日は「道をひらかれる神」の1回目、いのちへ至る道について考えていきましょう。「道がひらく」ということがテーマなのですが、あえて「神が道を閉ざした」話から始めたいと思います。聖書を開きましょう。創世記3:23-24です。

神である【主】は、人をエデンの園から追い出し、人が自分が取り出された大地を耕すようにされた。こうして神は人を追放し、いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置かれた。”

1. 閉ざされた道

ここは罪を犯したアダムとエバを、神様がエデンの園から追い出して、エデンの園への道を閉ざされた場面です。ここから、なぜ神様がエデンの園への道を閉ざさなければならなかったのかを考えてみたいと思います。まず、ここに至るまでの経緯を見ていきましょう。

創世記には世界の始まりについて書かれています。神様はこの世界のすべてのものを造られました。その中でも人を特別な存在として造られ、愛を注がれたのです。

創世記1:27を読んでみましょう。

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。
創世記1:27

神様は、人を「神に似た存在」(神のかたち)として創造されたのです。それは何よりも、人を神と同じように「人格を持つ存在として造られた」ということです。神様は、人間一人ひとりを「人格を持つ存在」として尊重されます。そして、人は人格を持つゆえに神と交わることができるのです。

次に、神様は人をエデンの園に置かれ、仕事を与えられました。創世記2:15です。

“神である【主】は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。
創世記2:15

そのときに神様は一つのルールを定めました。創世記2:16-17です。

神である【主】は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
創世記2:16-17

「園の中央にある善悪の知識の木から食べてはいけない」というのです。あるクリスチャンはここでこのような疑問を持ちます。「なぜ、神様はわざわざこの木を植えたのか」と。「この木がなければ、人は罪を犯さずに済んだのに」というのです。確かにそのように言うこともできますが、実はこの「善悪の知識の木」があることで、大切な2つのことが分かるのです。

a. 神の造られた世界にはルールがある

1つは、「神様の造られた世界にはルールがある」ということです。

実際に、私たちの住む社会の中には様々なルールが存在します。現代社会に生きる私たちはたくさんの規則や決まりの中で生きています。なぜそのようなルールがあるのでしょうか。それは多種多様な人たちが安全で暮らしやすい社会にするためです。同じように、エデンの園にもルールがありました。それは神様と人が正しい関係でいられるためのものでした。神様がエデンの園で決められたルールはたった1つでした。

神様が造られた世界で、神様によって造られた人間が、神様の決められたたった1つのルールに従うというのは決して理不尽なことではありません。そして、このルールがあるおかげで神が創造主で、私たちは神に造られた被造物であるという秩序もはっきりとします。

b. 神は人に自由を与えられた

もう1つの大切なことは、「神様は人を奴隷として造られたのではない」ということです。奴隷には自由がありません。しかし、神様はエデンの園でのルールを1つだけを決めて、後はどの木からでも思いのまま食べても良いとされたのです。ルールと秩序をはっきりした上で、神は人を「人格を持つ者」として尊重し、自由を与えたのです。

しかし、そのことは同時に、人が与えられた自由を間違った方向に用いる可能性も含んでいました。そして実際に人は神のことばに背き、罪を犯したのです。しかし、神はそうなることが分かっていても、人を「人格を持つ者」として尊重されたのです。この背後には、神の人に対する愛があるのです。神は人を愛すると決断し、その結果、ご自身が払うことになる代償も分かった上で人に自由を与えたのです。

「善悪の知識の木」と「いのちの木」

ここで、園の中央に置かれたもう1本の木「いのちの木」に目を留めていきたいと思います。創世記2:9を読んでみましょう。

神である【主】は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。

園の中央には、いのちの木と善悪の知識の木があって「善悪の知識の木からだけは取って食べてはいけない」と命じられているのです。このところをもう一度、創世記2:16-17を読んで確認しておきましょう。

神である【主】は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
創世記2:16-17

このように書かれています。ここでは「いのちの木」に関して何の言及もされていません。つまり、人はいのちの木からは取って食べても良かったのです。神様は、園の中央に2本の重要な木を生えさせて、そのうちの1本「善悪の知識の木から取って食べてはいけない」と命じました。それによってもう1本の「いのちの木」から注意を逸らせているようにも感じられます。実際、アダムとエバも、サタンも「善悪の知識の木」に目を向け、「いのちの木」に関心を寄せている様子はありません。

アダムとエバがそれ以前にいのちの木から取って食べていないことは創世記3:22,24からも分かります。

3:22 神である【主】はこう言われた。「見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」

3:24 こうして神は人を追放し、いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置かれた。

これ以前にいのちの木から食べていたら、人は既に永遠に生きるようになっていたはずです。

さて、人は善悪の知識の木から取って食べたことにより、善悪の判断を自分でするようになりました。何が良いことで、何が悪いことかの判断は本来、神がなさる分野です。人がそれぞれで善悪の基準を持つことは混乱に繋がります。ある人にとっての善は、他の人にとっての悪であったりするからです。そのような混乱した状態で人間が永遠に生きることは悲惨なことです。そして何よりも神のことばに背いた時点で人に罪が入り、神との関係が崩れてしまいました。神に造られた人間が、神から離れた状態で永遠に生きることこそ悲劇です。

人が罪を持ったままの状態でいのちの木から取って食べて、永遠に生きることがないようにと、神はエデンの園への道を閉ざされました。神はあえて人が肉体的に死を迎えることを良しとされたのです。これは「神から離れた人間が、罪が氾濫する世界で永遠に生きることがないように」という神の憐れみといえるでしょう。いのちの木への道が閉ざされたことによって、人は「死」という現実を突きつけられながら生きることになったのです。しかし、肉体の死があることによって、人は「生きる」ということをより深く考えるようになったのではないかと思います。

さて、ここまでなぜ神様が、エデンの園への道を閉ざさなければならなかったのかを見てきました。

2.「いのちの木への道」

ここから今日のメッセージの後半になります。

さて、エデンの園で大切な役割を果たした「善悪の知識の木」ですが、聖書ではここ創世記にしか登場しません。そして、ここからは園の中央にあったもう1本の木「いのちの木」が聖書の主題となってくるのです。神様は人が罪を持ったまま永遠に生きることがないように、エデンの園、すなわち「いのちの木への道」を閉ざされましたが、それでこの一件が終わったという訳ではありません。神様は「いのちの木への道」を再び開くべく働いておられたのです。

そして、このいのちの木への道を再び開いたのはイエス・キリストです。ヨハネ14:6を読みましょう。

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
ヨハネ14:6

イエス様こそ「いのちへ至る道」なのです。エデンの園では、罪の赦しはまだありませんでした。ですからアダムとエバが罪を犯したとき、神様はいのちの木への道を閉ざすしか方法はなかったのです。しかし、イエス様が十字架で私たちの罪の身代わりとなって死んでくださったことによって、完全な罪の赦しの道が完成したのです。それ故、私たちはイエス様の十字架を信じることによって自分の罪を清算し、やり直すことができるようになったのです。「イエス・キリスト」という道を通って、閉ざされていた「いのちの木への道」が再び開くのです。創世記に記されている「いのちの木」についての言及は、次に黙示録に出てきます。黙示録22:14です。

自分の衣を洗う者たちは幸いである。彼らはいのちの木の実を食べる特権が与えられ、門を通って都に入れるようになる。
黙示録22:14

「自分の衣を洗う者たち」とは、イエス・キリストの十字架を信じた人たちのことです。彼らにはいのちの木の実を食べる特権が与えられます。エデンの園で罪を犯し、食べることができなくなったいのちの木の実を、イエス様によって罪赦された者は食べることができるようになるのです。

黙示録22:1-2には、新天新地での「いのちの木」の様子がこのように描かれています。

御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。
黙示録22:1-2

いのちの水の川の両岸、こちら側にも、あちら側にも「いのちの木がある」と書かれているので、少なくとも2本は生えているはずですが、英語の聖書を見ると、このいのちの木は「Tree」と単数形で書かれています。これは創世記のエデンの園の中央にあった「いのちの木」と同じ木であることを強調しているのでしょう。

このように「いのちの木」への言及は、創世記のエデンの園と黙示録の新天新地の記述の中でなされています。「いのちの木への道の回復」ということが聖書のはじめから最後までの隠された主題の1つとなっているのです。

さて、今日のメッセージをまとめましょう。

神は、人を「人格を持つ存在」として創造し、自由を与え、神と交わりをもつことができるようにされました。しかし、それは同時に、人が神に背くことのできる自由をもつということでもありました。そして、人が神に対して罪を犯したため、神は人が罪を持ったままで永遠に生きることがないように、いのちの木への道を閉ざされました。その後、イエス・キリストによって再びいのちの木への道は開かれました。現在、私たちはこのポイントで生かされているのです。黙示録で書かれている新天新地はまだ来ていません。ですから、いのちの木の実はまだ誰も食べていない状態です。イエス様が再臨されてから、みんなで一緒にいのちの木にたどり着くのです。

そのような意味で、創世記に描かれている「いのちの木に至るストーリー」は、まだ終わっていないのです。いまもまだ私たちは神様の壮大なストーリーの中に生かされているのです。道を閉じることも、道をひらくことも、神様のなさることにはすべて意味があります。一番大切な、罪の赦しと永遠のいのちへの道を開いてくださった神様は、現代に生きる私たちのどんな困難な状況にも目を留めて、最も良い道をひらいてくださるのです。それは、神様が私たちを愛してくださっているからです。

この神様を信頼して、いのちの木に至る信仰の道のりをともに歩んでいきましょう。

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