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2024年3月10日 道をひらかれる神② 〜祝福に至る道〜

2024年3月10日 道をひらかれる神② 〜祝福に至る道〜
ヨシュア記 3章1〜6節 池田恵賜 主任牧師

今日は2024年3月10日です。明日で、私たちは東日本大震災から13年を迎えようとしています。この日を迎えるにあたって、私たちは改めて13年前の震災を心に刻み、被災された方々を覚え、この震災を通して出会ったお一人おひとりの心に寄り添いたいと思います。この13年、私たちは「お茶っこはうすオアシス」や「石巻オアシス教会」を通して、被災地の方々と知り合うことができました。みなさん、とても素晴らしい方々で、思い返すと被災地支援に行っているのに、逆にこちらが励まされて帰ってくるなんてこともありました。一つひとつの出会いを神様に感謝したいと思います。

また趙先生ご夫妻がこの10年、石巻オアシス教会の牧師として仕えてくださったことを心から感謝いたします。みなさんよくご存じのように、趙先生は憐れみと行動の人ですから、現在は今年1月1日に起きた能登半島地震の被災地支援のために労してくださっています。また引き続き、牡鹿半島の宣教にも力を入れていくとのことですので、この4月からは、本郷台キリスト教会から新たに金ジングク、まどか夫妻を石巻オアシス教会牧師として派遣いたします。昨年10月に、2人に石巻への派遣を打診したところ、初めは2人とも驚いていましたが、しばらくそれぞれ祈ってから、このことが神様から出ているとの確信が与えられて石巻行きを決断しました。2人の子どもたち、隼くんと黎ちゃんも、それぞれ神様に祈り、自分たちの意思で石巻に行くことを決断したと聞いています。神様の前に祈り、決断したこの一家が豊かに用いられることを信じて派遣したいと思います。金一家の派遣によって石巻と横浜、本郷台の関係も何かがまた新しく進むのではないかとワクワクしています。みなさんも、ぜひ金一家のためにお祈りください。

さて、私はお茶っこはうすで出会った方が「震災があったから、あなたたちと出会えた」と言ってくださった言葉をいつも胸に刻んでいます。震災には遭わない方がいいのですが、たとえ震災に遭ったとしても、その先に何らかの光があるということを知っているなら幸いです。人は何か思いがけない不幸なことが起きると「この世の終わりだ」とか、「お先真っ暗だ」というようなことを口にしますが、私は決して終わりでも、真っ暗でもないと思うのです。確かに、初めの内は終わりに思えるかもしれないし、真っ暗闇に感じるかもしれませんが、決してそこで終わらないのです。なぜなら、神様が私たちを見捨てていないからです。

聖書は、神であるイエス・キリストのことをこのように表現しています。ヨハネ1:4-5です。

この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
ヨハネ1:4-5

イエス・キリストが光として輝いている限り、決してこの世は真っ暗闇になることはありません。イエス・キリストは、どんなに道が閉ざされたように見えるところからでも道をひらいてくださるのです。

さて、今日のメッセージは「祝福に至る道」です。祝福をテーマに考えていきましょう。

1. 神の祝福

「神の祝福」とはなんでしょうか。ここで「神の祝福」の聖書的な正しい定義を説明すると、今日のメッセージの時間を使い切ってしまうので、ごく簡単な説明に留めたいと思います。

神の祝福とは、神からの「贈り物」、または「恵み」であり、それを受け取った者に何らかの良い変化をもたらすものです。神の祝福には「物質的祝福」と「霊的祝福」があります。どちらの場合にも、それは自分のためだけに与えられるのではありません。神の祝福は自分の内に留めておくものではなく、神の祝福が与えられたのなら、周りの方々、とくに弱い立場に置かれている方々、助けを必要としている方々に分け与えるように勧められています。その姿勢は、イエス様の生涯において顕著に現れています。

2. 神の祝福を見出す

神の祝福の話をすると、ある人は自分より豊かな人を思い浮かべて「自分は祝福されていない」と言います。しかし、神の祝福は人と比べるものではありません。

神様はすべての人に祝福を与えておられるのです。まず自分に与えられている神の祝福を見つける習慣を身につけるようにしましょう。そして、それを見つけたら感謝して、神のために、人々のために用いるようにするのです。すると、どんどん新しい神の祝福に目が開かれるようになっていきます。しかし、人と比べてばかりだと、いつまでも神の祝福に目が開かれません。神の祝福は思いがけないところにも注がれているのです。

私はアメリカに留学するまで、自分が「日本語を話せる」ということを、神からの祝福と捉えていませんでした。しかし、アメリカに留学している頃、出会ったアメリカ人の友人たちが宣教師になって日本に行きたいと言って、一生懸命、日本語を勉強しているのを見て「あ、自分が日本人で、日本人の心を理解し、日本語を話せるのも神の祝福なんだ」と気づいたのです。そして、そのとき私は「神様、私に与えられたこの能力も神様からの祝福として受け取ります。あなたのために用いてください」と祈りました。

日常の小さなことの中にも、神様の祝福は隠されています。ぜひ、みなさんも神様の祝福を見出し、神に感謝する生活を送るようにしてください。

3. 存在を祝福される神

どのような人も必ず、自分に与えられた神様の祝福を見出すことができます。どうしてそう言い切れるのでしょうか。それは神様が、私たちの存在そのものを祝福してくださったからです。創世記1:27,28aを見てみましょう。

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。神は彼らを祝福された。
創世記1:27-28a

神様は人を造られたとき、その存在を祝福されました。まだ彼らが何もしていないときにです。このことは神様が私たちの存在そのものを喜んで、祝福を与えてくださる方であることを明らかにしています。しかし、人は罪を犯し、存在そのものを祝福してくださる神様から離れてしまったのです。

4. 祝福へ至る道

そんな私たちに神様は再び祝福に至る道を用意してくださいました。今日は、そのことを神の祝福が約束された地カナンに入るヨシュアたちから見ていきましょう。

出エジプトしたイスラエルの民は不信仰により40年間荒野をさまようことになり、40年後再び、神が祝福を約束された地カナンを前にしていました。このカナンの地に入ることは、ヘブル書3章で「安息に入る」と表現されていて、魂の救いを意味していることが分かります。そして、その約束はまだ残っているからあなたたちは不信仰になって神を疑うことをしてはいけないと警告が与えられています。つまり、カナンの地に入るということは、過去の終わった出来事ではなくて、現代の私たちにとっても開かれている神の祝福に至る道なのだと知ることができます。

ですから、イスラエル人が約束の地カナンに入るステップを見ることによって、私たちの祝福に至る道を知ることができるのです。それではヨシュア3:1-6を見ていきましょう。

ヨシュアは翌朝早く起き、すべてのイスラエルの子らとともにシティムを旅立ち、ヨルダン川のところまで来て、それを渡る前にそこに泊まった。三日後、つかさたちは宿営の中を巡り、民に命じた。「あなたがたの神、【主】の契約の箱を見、さらにレビ人の祭司たちがそれを担いでいるのを見たら、自分のいる場所を出発して、その後を進みなさい。あなたがたが行くべき道を知るためである。あなたがたは今まで、この道を通ったことがないからだ。ただし、あなたがたと箱の間に二千キュビトほどの距離をおけ。箱に近づいてはならない。」ヨシュアは民に言った。「あなたがたは自らを聖別しなさい。明日、【主】があなたがたのただ中で不思議を行われるから。」ヨシュアは祭司たちに「契約の箱を担ぎ、民の先頭に立って渡りなさい」と命じた。そこで彼らは契約の箱を担ぎ、民の先頭に立って進んだ。

まずカナンの地を前にしたイスラエル人の前にヨルダン川が流れていることが分かります。しかも、それは春先の雪解け水で増水していました。当時は橋も架けられていないので、そのままでは「神の祝福が約束された地」にたどり着くことができませんでした。

そんな中、ヨシュアは5節で民に言います。「あなたがたは自らを聖別しなさい。明日、【主】があなたがたのただ中で不思議を行われるから。彼らは自分の身を聖める必要がありました。

(1)罪との決別

神の祝福に至る道の第一のステップは「罪と決別する」ということです。ヨルダン川を渡る前、彼らが滞在していた町はシティムといって、そこでイスラエル人は偶像礼拝をしたのです。民数記25:1-5を読んでみましょう。

イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと淫らなことをし始めた。その娘たちが、自分たちの神々のいけにえの食事に民を招くと、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。こうしてイスラエルはバアル・ペオルとくびきをともにした。すると、【主】の怒りがイスラエルに対して燃え上がった。【主】はモーセに言われた。「この民のかしらたちをみな捕らえて、【主】の前で、白日の下にさらし者にせよ。そうすれば、【主】の燃える怒りはイスラエルから離れ去る。」そこでモーセはイスラエルのさばき人たちに言った。「あなたがたは、それぞれ自分の配下でバアル・ペオルとくびきをともにした者たちを殺せ。」
民数記25:1-5

これはまだモーセが生きているときの出来事でありましたが、シティムの町はイスラエル人にとって苦い思いの残る町だったのです。イスラエル人は、その罪の町を旅立って、身を聖めて、ヨルダン川を渡らなければいけませんでした。ヨシュアがわざわざヨルダン川を渡る前日にイスラエル人に身を聖めさせたのは、ヨルダン川を渡るという行為が単に渡るということだけでなく、霊的な意味を持つことを知っていたからです。

私たちも「神の祝福が約束された地」に入るためには、罪と決別する必要があります。しかし、私たちは自分の力で自分の罪をどうにかできる訳ではありません。イエス・キリストの十字架の前に出て、自分の罪を告白し、イエス様によって罪を洗い聖めていただくのです。

(2)契約の箱を担いでヨルダン川に入る

さて身を聖めたイスラエル人は、次に神の臨在をあらわす「契約の箱」を先頭にして進んでいきました。ヨシュア3:3-4,6です。

民に命じた。「あなたがたの神、【主】の契約の箱を見、さらにレビ人の祭司たちがそれを担いでいるのを見たら、自分のいる場所を出発して、その後を進みなさい。あなたがたが行くべき道を知るためである。あなたがたは今まで、この道を通ったことがないからだ。ただし、あなたがたと箱の間に二千キュビトほどの距離をおけ。箱に近づいてはならない。」ヨシュアは祭司たちに「契約の箱を担ぎ、民の先頭に立って渡りなさい」と命じた。そこで彼らは契約の箱を担ぎ、民の先頭に立って進んだ。
ヨシュア3:3,4,6

彼らが通る「祝福に至る道」は、これまで「通ったことのない道だ」と言われています。たしかに、増水したヨルダン川を渡るのですから誰も通ったことのない道です。しかし、それだけではありません。神様の祝福は前例のないものだらけです。前例にばかり気を取られていたら、私たちは神様の用意した道を見失うかもしれません。通ったことのない道を通るときにはガイドが必要です。私たちを祝福へと導く最高のガイド、それは神のことばである聖書と、それを説き明かしてくださる聖霊なる神様です。

さて、神の「契約の箱」は祭司たちによって担がれ、ヨルダン川の中に入って行きました。祭司たちの足がヨルダン川に浸ると25kmも上流のアダムの町で水がせき止められ、イスラエル人は乾いた地を歩いてカナンの地に入ることができたのです。ヨシュア3:15-17です。

箱を担ぐ者たちがヨルダン川まで来たとき、ヨルダン川は刈り入れの期間中で、どこの川岸にも水があふれていた。ところが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際の水に浸ると、川上から流れ下る水が立ち止まった。一つの堰が、はるかかなた、ツァレタンのそばにある町アダムで立ち上がり、アラバの海、すなわち塩の海へ流れ下る水は完全にせき止められて、民はエリコに面したところを渡った。【主】の契約の箱を担ぐ祭司たちは、ヨルダン川の真ん中の乾いたところにしっかりと立ち止まった。イスラエル全体は乾いたところを渡り、ついに民全員がヨルダン川を渡り終えた。

契約の箱を担いでいた者たちは、少なくとも2時間は水の流れるヨルダン川に立っていたのではないかと思われます。25km上流の町の辺りで神によって水がせき止められました。初めは水流も、水量も変わりません。しかし、神のことばを信じて契約の箱を担いで立ち続けていると、少し水流が弱くなり、水かさが減ってきたように感じます。

「なにかが起きている」祭司たちはそう思ったことでしょう。その思いはやがて確信となり、どんどん水が干上がっていきます。それをリアルタイムで体験した祭司たちはどんなに感動したことでしょうか。「私たちの信じている神様は生きておられる」、「誰も成し遂げたことのないことをして、私たちを導いてくださるのだ」と心躍ったと思います。

すべてのイスラエル人が「祝福に至る道」の奇蹟を体験したのは、神のことばを信じ、ヨルダン川に入り、立ち続けた祭司たちがいたからです。同じように現代でも「神の祝福はまだ閉ざされていない、神は奇跡のわざをもってその道をひらいてくださる」と、神のみことばを信じて行動する人が必要です。

10×10の10倍の祝福の約束を私たちは神様からいただいています。まだ誰も通ったことのない道で、そこには道なんてないと思える状況でも、神の祝福の約束を信じ、信仰の一歩を踏み出し、神のみことばが成就するまで信仰によって固く立ち続ける人が必要とされています。

先日、石川県の内灘聖書教会の酒井先生とお話ししたとき、「毎週、横浜からやって来る本郷台の方々に励まされて、教会の婦人たちが炊き出しの手伝いから始めて、いまでは自分たちで炊き出しの道具を買い揃えて支援活動を始めるようになりました」と感謝しておられました。

趙先生も韓国からの支援を取り付けて、羽咋市にボランティアセンターを立ち上げて活動しておられます。これまで福音宣教が難しかった北陸地域にも10×10の祝福が確かに広がってきています。

本郷台キリスト教会、石巻オアシス教会はますます神の祝福をこの世に示す教会として立ち続けたいと願います。

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