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2024年3月17日 道をひらかれる神③〜救いに至る道〜

2024年3月17日 道をひらかれる神③〜救いに至る道〜
出エジプト記 14章13〜14節 池田恵賜 主任牧師

私たちは人生で、自分の力ではどうすることもできない困難に直面することがあります。

今日、洗礼を受けるカテリーナも、母国ウクライナで平穏に暮らしていましたが、ある日、突然ロシア軍が攻め込んできて、戦争が始まったのです。彼女のそれまでの暮らしは一変し、家族と別れ、知り合いのいない日本での避難生活を余儀なくされました。また、私たちは横田めぐみさんの解放を信じて祈っていますが、彼女は中学1年生のときに北朝鮮に拉致されてから47年間、一度も帰国できていません。また、私たちの教会では震災が起こると被災地に支援に行きますが、そのような震災の被害の大きさを目の前にしたときなどもそうです。

1. 「無力さ」を感じるとき

目の前の困難が大きければ大きいほど、私たちは自分の無力さを痛感します。今日は出エジプトの記事から「救いに至る道」について見ていきますが、出エジプト記は「無力なイスラエル人の姿」を描くところから始まります。創世記は、ヨセフによってイスラエル民族がエジプトで祝福されている姿で閉じられているのですが、出エジプト記に入ると、その冒頭部分に「やがてヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった」とあり、様子が一変します。イスラエル人は子どもをたくさん産み、人口は増えていくのですが、エジプト人から奴隷のような扱いを受けるようになっていくのです。その詳細は書かれていないので分かりませんが、彼らもただ黙っていたわけではないと思います。しかし、結果的に何をしても上手くいかず、エジプト人から奴隷のような扱いを受けるようになっていったのでしょう。

同じように、私たちも自分の「無力さ」を感じるときがないでしょうか。仕事や学校、家庭で何をやっても上手くいかないとき。人間関係が上手くいかないとき。いじめにあったとき。競争相手に負けたとき。受験で失敗したとき。相手に裏切られたとき。孤独を感じるとき。また、冒頭で話したように戦争や災害に直面したとき。自分に向かってくる物事の大きさに対して、あまりにも小さく何もできない自分を感じることがあると思います。出エジプト記1章、2章でイスラエル人が体験したこともまさにそうでした。

2. 困難に追い込む神

今日、まず心に留めたいことは、神様は私たちが無力さを感じるような「困難な状況に追い込むときがある」ということです。出エジプト記14:1-4を読んでみましょう。

【主】はモーセに告げられた。「イスラエルの子らに言え。引き返して、ミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンの手前で宿営せよ。あなたがたは、それに向かって海辺に宿営しなければならない。ファラオはイスラエルの子らについて、『彼らはあの地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった』と言う。わたしはファラオの心を頑なにするので、ファラオは彼らの後を追う。しかし、わたしはファラオとその全軍勢によって栄光を現す。こうしてエジプトは、わたしが【主】であることを知る。」イスラエルの子らはそのとおりにした。

この出来事の前に、神様はエジプトにおいて十回も奇跡を起こしてイスラエル人をエジプトから脱出させました。しかし、せっかくエジプトを出られたのに、次に神様はモーセに「引き返しなさい」と命じられたのです。そして、さらに「海辺に宿営しなさい」と命じました。

モーセが神に命じられた通りにすると、そのようなイスラエル人の行動を聞いて考えを翻したエジプトの王はイスラエル人を連れ戻すべく全軍をあげて追跡してきました。「あそこで引き返さなければ」とか、「海辺ではなく逃げ道を確保できる場所に宿営しておけば」と、考えても後の祭りです。前は海、後ろからはエジプト軍と、イスラエル人は窮地に追い込まれたのです。

しかし、これらはすべてイスラエル人が神様の命じられたとおりに動いた結果でした。神様がイスラエル人をあえて窮地に追い込まれたのです。神様のなさることですから、当然意味があります。ここで、神様はイスラエルをエジプトから完全に救うために行動を起こされます。

出エジプト記14:13-18をお読みします。

モーセは民に言った。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる【主】の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。【主】があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」【主】はモーセに言われた。「なぜ、あなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの子らに、前進するように言え。あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に伸ばし、海を分けなさい。そうすれば、イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を行くことができる。見よ、このわたしがエジプト人の心を頑なにする。彼らは後から入って来る。わたしはファラオとその全軍勢、戦車と騎兵によって、わたしの栄光を現す。ファラオとその戦車とその騎兵によって、わたしが栄光を現すとき、エジプトは、わたしが【主】であることを知る。」

結果的に、神様は目の前に広がる「紅海を2つに分ける」という奇跡をもってイラエル人を救い、エジプト軍を滅ぼされました。この一連の行動には、どのような意味があるのでしょうか。

そのヒントはマタイ2:13-15にあります。今日は時間がありませんので開きませんが、このマタイの記事を見ると、幼子イエス様がヘロデ王からいのちを狙われて、一旦エジプトに逃れたことが記されています。しばらくして、幼子イエス様はエジプトから戻ってくるのですが、それがホセア11:1の預言の成就として書かれていて、新約でエジプトから呼び出された救い主イエス様の姿と、旧約でエジプトからイスラエル民族を連れだしたモーセの姿を重ねるのです。

つまり、モーセによる出エジプトの出来事はイエス・キリストの型であることを聖書は示しているのです。イエス・キリストは、罪の奴隷となった人々を罪の支配から解放し、神の国に導くという使命が与えられていました。出エジプトの出来事は、私たちの救いから天の御国に至るまでの信仰の旅路の型となっているのです。

ですから、出エジプト記14:14「【主】があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい」と書かれているのは、単にエジプト軍と神が戦われるということ以上に、罪の奴隷となった私たちを救い出すために「神が戦われる」という宣言なのです。

そして「罪人が救われる」ということは100%神様のみわざによるのであり、人の努力によるのではないことを、このみことばは明らかにしているのです。「自分の救いのために自分は何もすることができない。救いの道は神からの一方的な恵みによるのだ」ということを明らかにするために、神様はあえてイスラエル人を窮地に追い込まれたのです。

3. 紅海の乾いた地を渡る

イスラエル人は、紅海の底の乾いた地を歩いて渡りました。これも開きませんが、Ⅰコリント10:1-2を見ると、このことは「洗礼」を表していることが分かります。

水の底というのは、聖書では「死と裁き」を表しています。つまり、信仰によってモーセに率いられて紅海を渡ったイスラエル人は「死と裁き」を通って、「いのち」に至ったことを表しているのです。いのちに至る道は「信仰による者」だけが通ることができます。ですから、信仰をもたないエジプト軍はその道を渡れずに裁きを受けてしまったのです。なぜ「信仰による者」は通れるのか。それはイエス・キリストが身代わりとなって「死と裁き」を受けてくださったからです。このことを信じる者は、「死と裁き」を通り抜けて「いのちに至る」のです。これが「救いに至る道」です。

洗礼式では一度、水の中に体を沈めます。これは罪の奴隷として生きてきた私たちの死を表しています。そして、水の中から引き上げられるのは、イエス様によって救われて「新しいいのち」が与えられることを表しています。これはエデンの園以来、死んだ状態になっていた霊にいのちが与えられるということで、これにより人は「いのちの源」である神様と繋がり、永遠に生きるようになるのです。

4. かたくなな心

出エジプト記14:17aを読むと、紅海で裁きを受けたエジプト人たちが「心をかたくなにして」いた状態だったと分かります。しかし、神様が彼らの「心をかたくなにする」とあり、「それなのに裁かれるのは不公平ではないか」という議論が起こります。

これに関しては、パウロがローマ9章で書いていますので、機会があればこのことをテーマにして話したいと思います。今日は時間の関係で一言だけ、「神様は私たちの人格を無視してまで働かれないお方ですから、もともとそのような性質がファラオの心にあったのではないか」と、私は思います。

今日のテーマに沿って、もう少し別な角度からこの「かたくなな心」ということを考えたいと思います。

実は、この「かたくなな心」はファラオやエジプトの人たちだけでなく、イスラエル人も持っていたのです。紅海を渡ることのできたイスラエル人でしたが、「かたくなな心」が残っていたのです。そして、彼らはその「かたくなな心」のために、安息の地に入れなかったと聖書は記しています。ヘブル3:7-8、11を読みましょう。

ですから、聖霊が言われるとおりです。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。荒野での試みの日に神に逆らったときのように。わたしは怒りをもって誓った。『彼らは決して、わたしの安息に入れない。』」

ここで「かたくな」と訳されているギリシア語は「首の硬い」という意味があります。心のかたくなな人は「首が硬い」のです。神様に語られてもそちらに向くことを嫌がり、自分の行きたい方向にしか顔を向けません。

考えてみると、ファラオもエジプト軍もエジプト国内で十回も神の奇跡のみわざを体験したのです。また、イスラエル人も荒野で何度も神のみわざを体験しています。どちらも神のみわざを体験しましたが、それによって学び、心を変えることをせず、しばらくすると神のみわざを忘れ、何か足りないことを見つけては不平や不満を口にして、神に逆らっていました。そして、両方ともそのかたくなさゆえに神の祝福にあずかることができなかったのです。

ですから、私たちは彼らの失敗から学び、心を、そして首を柔らかにする必要があります。たとえ困難な状況に陥ったとしても変わらなければいけないのは神様ではなく、私たちの方なのです。

5. 雲の柱・火の柱

なぜ神でなく、私たちが変わる必要があるのでしょうか。今度は視点を変えて、神様の側から見てみましょう。神様はイスラエル人に対してどのように接したでしょうか。イスラエル人は神に対して不誠実になることがあっても、神様はいつでも彼らに対して誠実であり続けました。それは、エジプトを出たイスラエル人を「雲の柱・火の柱」となって導いてくださったことからも分かります。出エジプト記13:21-22を読んでみましょう。

【主】は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。

イスラエル人がかたくなな心で、不平や不満を口にしたときも、「雲の柱・火の柱」は、決して彼らから離れることなく導いてくださっていたのです。神様はいつでも私たちを正しい方向に導いてくださるお方なのです。だから、神ではなく私たちが変わる必要があるのです。

この「雲の柱・火の柱」は、彼らが約束の地カナンに入るときまでともに居続けてくださいました。

そして、いよいよカナンの地に入るとき、彼らを正しい方向に導くその役割は「契約の箱」に引き継がれました。ヨシュア3:3-4aを読んでみましょう。

民に命じた。「あなたがたの神、【主】の契約の箱を見、さらにレビ人の祭司たちがそれを担いでいるのを見たら、自分のいる場所を出発して、その後を進みなさい。あなたがたが行くべき道を知るためである。あなたがたは今まで、この道を通ったことがないからだ。

この契約の箱は、やがて神殿に納められ、イスラエル人は神殿を中心に礼拝を献げるようになりました。しかし、この契約の箱もペンテコステの日、聖霊がくだったときに、その役割を終えました。契約の箱の中には、石の板に記された十戒が納められていたのですが、神のことばは、いまや石の板にではなく、聖霊によって私たちの心に書き記されているのです。

Ⅱコリント3:3b6節です。

3:3bそれは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。
3:6 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。

いま私たちは神のみことばである聖書と、それを説き明かす聖霊によって、教会というキリストのからだに集められています。それは、すべての人々にキリストによって「救いに至る道」が開かれたことを伝えるため、また心をかたくなにせずに神に従う人生の祝福を明らかにするためなのです。

私たちが導かれているのは、律法によって人を罪に定める働きではなく、御霊によって人を生かす働きなのです。神様は今日も私たちを、救いが必要な人々のところへ導いてくださっています。心を柔らかくして聖霊なる神様の導きに従っていきましょう。

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