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2024年3月24日 道をひらかれる神④ 〜勝利に至る道〜

2024年3月24日 道をひらかれる神④ 〜勝利に至る道〜
ヘブル人への手紙 4章7〜9節 池田恵賜 主任牧師

ここまで3週にわたって「道をひらかれる神」をテーマに聖書から見てきました。

1週目は「いのちへ至る道」と題して、神はエデンの園において、人が罪の世界で永遠に生きることがないように「いのちの木」への道を閉ざされたこと、そして、再臨のときにイエス・キリストの十字架を信じた者たちに「いのちの木」への道をひらいてくださることを見ました。

2週目は「祝福に至る道」ということで、神は創造のときに私たちの存在そのものを祝福してくださったこと、その祝福を受け取るために、私たちは罪と決別する必要があること、また祝福が増え広がるために、神のみことばに信頼して立ち続けることが必要であることを確認しました。

3週目は「救いに至る道」で、イエス・キリストが私たちに代わって「死と裁き」の道を通って救いの道をひらいてくださったこと、神は私たちをみことばと聖霊によって導いてくださること、私たちは信仰と柔らかい心をもって神に従うべきことを見ました。

今日は4週目です。「勝利に至る道」について見ていきましょう。

まず「勝利」ということを考えてみましょう。人生の「勝ち組」、「負け組」という言葉がありますが、みなさんは自分のここまでの人生に勝ち負けをつけるとしたら、勝っていると思いますか。それとも負けているでしょうか。あなたの考える勝ち負けの基準は何でしょうか。最終的にどのような人生を送ったら「私は勝利した」と言えるのでしょうか。

クリスチャンの勝利の基準は、きっと世の人々の基準とは違うと思うのですが、私たちは何と勝負しているのでしょうか。Ⅰヨハネ5:4-5を見てみましょう。

神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。
Ⅰヨハネ5:4-5

このみことばによると、クリスチャンは世と勝負しているのです。ここでいう「世」とは、神に反抗してくるあらゆる力のことです。その大本はサタンです。私たちの戦いは人間を神から引き離そうとするサタンとの戦いなのです。

では、なぜサタンは人を神から引き離そうとするのでしょうか。サタンは人間を愛して自分のものにしようとしているのでしょうか。そうではありません。サタンは人間のことを何とも思っていません。それなのになぜ人間を誘惑するのでしょうか。それは「人間が神と引き離されてやがて滅びてしまうことを、神がとても悲しむ」ということをサタンはよく知っているからです。神を憎むサタンは、神の深い愛の対象である人間を神から奪うことによって、神を苦しめ、神に勝利しようとたくらんでいるのです。

これは、逆の見方をすれば、私たちはそれほどまでに神に愛されているということなのです。この神の愛から私たちを引き離そうとするサタンとの戦いに勝利するために、必要なのは「信仰」です。神のひとり子であるイエス・キリストが「私の罪のために死んで、3日の後によみがえってくださった」と信じる信仰です。

このことを、とくに、イエス様が十字架への道を歩まれた今週、ホーリーウィークに覚えたいと思います。

1. 勝利と安息

信仰が「勝利に至る道」の秘訣ですが、信仰ということを私たちはこの3週間みてきました。ですので、今日は「安息」という視点から、勝利について考えてみたいと思います。

この世に勝利した者は「安息」を得ます。ヘブル人への手紙の著者は、エジプトからカナンに向かうイスラエル人の旅路を「安息に至る旅」と捉えています。そして、その安息はまだ完全に達成されたわけではないと語ります。ヘブル4:7-9を読んでみましょう。

神は再び、ある日を「今日」と定め、長い年月の後、前に言われたのと同じように、ダビデを通して、「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」と語られたのです。もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであれば、神はその後に別の日のことを話されることはなかったでしょう。したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残されています。
ヘブル4:7-9

ここでヘブル人への手紙の著者は、詩篇95篇で神がダビデに語られたことばを引用して論理を展開していきます。もしヨシュアの時代に与えられた安息が完全で、完結したものであったのなら、ダビデに対して「今日、もし御声をきくなら……」と語ることはないというのです。つまり、詩篇95篇が語られたということは、神の与えようとしている安息はまだ残っていて、その安息に入るように「神はいまも私たちを招いている」というのです。

2. 安息日の起源

ここで言及されている安息とは、天地創造の7日目に神が休まれたときの安息です。先ほど読んだヘブル人への手紙の箇所を少し遡って読んでみましょう。ヘブル4:4-7です。

なぜなら、神は第七日について、あるところで「そして神は、第七日に、すべてのわざを終えて休まれた」と言われ、そのうえで、この箇所で、「彼らは決して、わたしの安息に入れない」と言われたからです。ですから、その安息に入る人々がまだ残っていて、また、以前に良い知らせを聞いた人々が不従順のゆえに入れなかったので、神は再び、ある日を「今日」と定め、長い年月の後、前に言われたのと同じように、ダビデを通して、「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」と語られたのです。

神は7日目に創造のすべてを完成させ、御手のわざを終えて、この日を聖なるものとされました。これが安息日の起源です。その後、モーセを通して授けた十戒の中で「安息日を覚えてこれを聖なるものとせよ」(出エジプト20:8)と神は語り、安息日を人が守るべき掟としたのです。

3. ユダヤ人と安息日

では、ユダヤ人にとって安息日はどのような意味があるでしょうか。ヘブル語で安息日は「シャバット」と言い、「止める」という意味があります。ですから、ユダヤ人は安息日にあらゆる労働を禁止しました。特にバビロン捕囚以降は、再び神の裁きを受けることがないように厳しい律法が定められました。律法学者たちは何が労働に当たるかを検討し、39の禁止項目を作りました。さらに1項目ずつに39の細則を作り、合計1521の安息日に「してはいけないリスト」を作り上げたのです。

ユダヤ人がどれほど忠実に安息日を守っていたのかが分かるエピソードが残っています。紀元前4世紀と2世紀にユダヤは安息日に敵に攻め込まれ、多くの死者を出し敗北しています。彼らは安息日ということで、ほとんど抵抗せずに殺されていきました。さすがに、それでは国が滅んでしまう、と彼らは律法に新たな解釈を加え、敵が攻め込んできた場合、防戦することは労働にならないとしたのです。しかし、今度は紀元前64年にローマ軍によってエルサレムが包囲されたとき、一部のユダヤ人は徹底抗戦を呼びかけ神殿に籠城します。ローマ軍はユダヤ人の律法を良く研究していました。そして、安息日に神殿前の渓谷を土砂で埋めていくことにしたのです。ローマ軍は土砂を運んでいるだけで、戦いを仕掛けているわけではないのでユダヤ人は彼らに対して何もできずに、最終的に谷が土砂で埋められたとき、ローマ軍が一気に神殿に侵入し、ユダヤ人は敗北したのです。

自分たちを守るために定められたはずの安息日によってユダヤ人は、滅ぼされてしまうという危機に何度も直面したのです。

現代のクリスチャンも安息日の問題に直面します。一番顕著なのは部活動の問題です。私の世代のクリスチャンホームでは、とくに牧師の家庭の子どもたちは「部活をやるなら日曜日に活動のない部活にしなさい」ということを言われていました。それが嫌で教会から離れたという人の話もよく聞きます。幸い私の家庭はあまり厳しく言われませんでした。日曜日に試合がある場合は祈って送り出してくれました。

ですから、私もユース牧師になったときに教会の若者たちに「日曜日に試合がある場合は、試合会場を礼拝の場としなさい。祈って送り出すから神様の栄光をあらわしてきなさい。」と伝えて、送り出していました。

ある子は午後からの伝道集会に「試合に負けて早く終わったから」と言って、部員全員を連れてきたこともありました。普段、どれだけ部活の中で証しとなって仲間の信頼を勝ち取っていたかが分かり、嬉しくなりました。

私たちは主日に教会で奉仕をすることで「安息日を守っている」と思うかもしれませんが、ひょっとすると奉仕でいっぱいいっぱいになって、心から神様を追い出しているなんてことがあるかもしれません。それでは、いくら教会にいても安息日を守っているとは言えません。

4. 安息日についてのイエスの教え

さて、ここで安息日に何をしてよくて、何をしてはいけないのかを考えるために2つのみことばを見てみましょう。初めにヘブル4:10です。“神の安息に入る人は、神がご自分のわざを休まれたように、自分のわざを休むのです。”とあります。

神ご自身が休まれたように、私たちも「安息に入ったら休むのです」というみことばです。

もう1つのみことばも見てみましょう。ヨハネ5:17です。“イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」”

これはイエス様が安息日に38年間病気だった人を癒されたときに語られたことばです。「父なる神様は今に至るまで働いておられる。だからわたしも安息日に働くのだ」というのです。

一体、安息日に働くのが良いのか、休むのが良いのかどちらでしょう。

もう1つ、安息日を理解するのに外せないみことばがあります。マルコ2:27-28です。

イエス様のことばです。

そして言われた。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。ですから、人の子は安息日にも主です。」”

5. なぜ安息日が定められたのか

さて、ここには安息日の目的が2つ書かれています。

1つは「安息日は人のために設けられた」ということ。
そして、もう1つは「イエス・キリストが安息日の主である」ということです。

まず「安息日は人のために設けられた」ということを考えてみましょう。安息日で大切なことは「シャバット」というヘブル語からも分かるように「自分のしていることを止めること」です。仕事や勉強などで働かせてきた頭や体を一旦止めるのです。一旦すべてのことを止めるのは、心を神様に向けるためです。この点で安息日が「夕方から始まる」ことに意味があります。

天地創造のとき、神様は1日を定め「夕があり朝があった」としました。まず夕方から始まるのです。夕方から夜は休む時間です。ここで体も休めますが、心も休ませるのです。心を休ませるには、神との交わりが必要です。私たちの心に安らぎを与えてくださるのは神様だからです。夕方から夜にかけて、まず神様とともに時間を過ごして、心も体も休めて朝を迎えるのです。新しい朝には、その日1日の仕事を神様は備えてくださっています。心も体も整えられて、私たちは神が遣わされる場所で神の栄光をあらわすのです。そして、夕方になると1日の働きを終えて、また心と身体を休ませるのです。

マタイ6:34です。

ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。マタイ6:34

このように1日のサイクルの中で神を覚え、神のもとで安息を得ることから始めるのです。

そして、1週間のうちの1日を「安息日」として神を覚え、神の臨在に満たされるために過ごすことによって、私たちの中で神様を正しい位置に戻すことができます。それは、ちょうど扇子の要のようなものです。それがあることによってすべてが1つにまとまるのです。

安息日に自分のしていることを止めて、心を神様に支配していただくことで、自分を祝福してくださるのが誰なのかを確認することが大切なのです。そうでないと、私たちはいとも簡単に神様をそっちのけにして、自分を人生の主として、自分が王となって物事を進めようとしてしまいます。

そして、もう1つ安息日を理解するのに大切なのが「イエス・キリストが安息日の主であることを覚える」ことです。

「自分のしていることを一旦止める」というのは難しいことです。とくに責任ある仕事をしているならなおさらです。もし、それによってこの仕事がうまくいかなかったらどうなるのかと不安になります。それでも「安息日を聖なるものとしなさい」と命じられているのは、自分が神の前に何者であるのかを知るためです。イザヤ41:14にはこのように書かれています。

恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしがあなたを助ける。──【主】のことば ──あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。
イザヤ41:14

神様はあえてイスラエルを「虫けらのヤコブ」と呼んでいるのです。それは、「私」という存在は本当にちっぽけな存在で、何者でもないこと知らせるためです。しかし、そんな小さな存在でも神の前に忘れられておらず、神は目を留めて助けてくださることを教えているのです。

私を愛し助けてくださる神がいて、私がいるのであって、決してその逆ではないのです。

安息日は主のものであって、私たち人間のために設けられたのです。安息日は人のものではありません。自分の好き勝手に過ごす日ではありません。その日は神のものです。「安息日を聖なる日とする」とは、その日、1日神を覚え、神の臨在に満たされて過ごす日とするということです。私たちが安息日を聖なる日とするとき、神が他のすべてにおいても責任を持ってくださるのです。マタイ6:33にこのように約束されています。

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
マタイ6:33

イスラエルにはこのような格言があるそうです。「ユダヤ人が安息日を守ってきたのではない。安息日がユダヤ人を守ってきたのだ」。

日曜日に礼拝して、そこで得た力で残りの6日を過ごすのではなくて、安息日を聖なる日とし、神の臨在に満たされることで、7日間いつでも、どこでも主はともにいてくださり、たとえ試練に遭おうとも主は必ず私を勝利へと導いてくださるとの確信をもって歩めるようになるのです。

この主にあって、私たちが真の安息を得るまで、勝利の歩みをしていくことができますように願います。

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