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2024年3月31日 初穂としてよみがえられたイエス(イースター礼拝)

2024年3月31日 初穂としてよみがえられたイエス(イースター礼拝)
コリント人への手紙 第一 15章20〜22節 池田恵賜 主任牧師

イースターおめでとうございます。イースターは、人となられた神の子イエス・キリストが死からよみがえられた日です。イエス様の復活をお祝いして「おめでとう」と言いますが、イエス様に向かって「イエス様、よみがえることができて良かったですね」という意味での「おめでとう」ではありません。「イエス・キリストがよみがえられた」というのは、決して他人事ではなく、私たち一人ひとりに深く関わっていることなのです。今日はそのことを中心に見ていきたいと思います。

今日のメッセージタイトルは「初穂としてよみがえられたイエス」です。みことばを開きましょう。Ⅰコリント15:20-22です。

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。
Ⅰコリント15:20-22

「キリストにあってすべての人が生かされる」とあります。

イエス様がよみがえられたというのは、イエス様1人だけがよみがえられたということにとどまりません。単に「よみがえった」ということなら、聖書の中に会堂管理者ヤイロの娘やラザロが、イエス様によってよみがえらされた記事が書かれています。しかし、それはイエス様のよみがえりとは違います。ヤイロの娘やラザロは生前の肉体をもって生き返り、その後、どれだけ生きたかは分かりませんが、年老いて再び人生を終えたのです。

それに対して、イエス様は栄光のからだでよみがえられたのです。これは死に勝利した、朽ちることのないからだです。さらに、イエス様は「初穂としてよみがえられた」と書かれています。つまりイエス・キリストを信じる者たちは、イエス様に続いて、よみがえることができるということです。

今日は、この「初穂」の意味を考えていきますが、その前に十字架から復活に至るまでの道のりをユダヤの祭りと重ねて見ておきたいと思います。そうすることで、イエス様の十字架と復活の意味がより明確になってきます。

三大巡礼祭

それでは早速、見ていきましょう。イスラエルには成人した男性が必ず参加しなければいけない3つの祭りがあります。1つが「過越の祭り」で、現在の暦でいうと3-4月頃に祝われます。もう1つが5-6月に行なわれる「刈入れの祭り」、これは「七週の祭り」とも呼ばれています。そして10月頃に行なわれる「仮庵の祭り」です。これら3つの祭りを「三大巡礼祭」などと呼んだりしますが、成人男性はそのときどこにいたとしても必ずそこから神殿のあるエルサレムに上って行って参加しなければならないのです。

実際にはこの3つの祭りに加えて、あと4つの祭りがあり、合計7つの祭りがレビ記23章に規定されています。4つの祭りのうち2つは「過越の祭り」の翌日から7日間行なわれる「種なしパンの祭り」、そして「過越の祭り」の後の日曜日に行なわれる「初穂の祭り」です。

この「過越の祭り」、「種なしパンの祭り」、「初穂の祭り」は8日間の内に連続して行われます。祭りというのは、多くの場合そうだと思いますが、その地域の歴史が深く影響しています。ユダヤの祭りもイスラエルの歴史と深く関わっています。

今日は「過越の祭り」と「初穂の祭り」を見てみましょう。

「過越の祭り」

まず「過越の祭り」です。「過越の祭り」は、イスラエルにとって最も重要な祭りです。

モーセの時代に、それまで奴隷だったイスラエルという「一民族」が、「国家」としてのアイデンティティを持つようになるのですが、そのきっかけとなったのが「過越の祭り」に象徴される出来事です。

「過越の出来事」というのは、イスラエルにとってとても重要で、神様はこの「過越」が起こった月を「年の初め」とするように命じています。出エジプト記12:1-2です。

【主】はエジプトの地でモーセとアロンに言われた。「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。

過越の祭りは、神様がエジプトに下した「十の災い」によってイスラエル人がエジプトから解放されたことを記念して行われるようになりました。「十の災い」の10番目は、エジプト中の「長子が死ぬ」という恐ろしいものでした。

イスラエル人は、その晩、傷のない一歳の雄の羊をほふり、その肉を食べ、その血を家の門柱と鴨居に塗るように命じられました。命じられた通りにしたイスラエル人の家は災いにあわずに助かったのです。しかし、そうではないエジプト人の家の長子は、人も家畜も死んでしまいました。先ほどの出エジプト記12:1-2の続き3節から14節を読んでみましょう。

イスラエルの全会衆に次のように告げよ。この月の十日に、それぞれが一族ごとに羊を、すなわち家ごとに羊を用意しなさい。もしその家族が羊一匹の分より少ないのであれば、その人はすぐ隣の家の人と、人数に応じて取り分けなさい。一人ひとりが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。あなたがたの羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。あなたがたは、この月の十四日まで、それをよく見守る。そしてイスラエルの会衆の集会全体は夕暮れにそれを屠り、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と鴨居に塗らなければならない。そして、その夜、その肉を食べる。それを火で焼いて、種なしパンと苦菜を添えて食べなければならない。生のままで、または、水に入れて煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは燃やさなければならない。あなたがたは、次のようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を固く締め、足に履き物をはき、手に杖を持って、急いで食べる。これは【主】への過越のいけにえである。その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人から家畜に至るまで、エジプトの地のすべての長子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下す。わたしは【主】である。その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。この日は、あなたがたにとって記念となる。あなたがたはその日を【主】への祭りとして祝い、代々守るべき永遠の掟として、これを祝わなければならない。

門柱と鴨居に羊の血が塗られた家は、それが「しるし」となって、災いが過ぎ越したのです。これが過越の祭りの始まりとなる出来事です。屠られた子羊の血を門柱に塗るという行為は「この家の長子は既に血を流して死にました」ということを表しています。そうです。この門柱に塗られた血というのは、イエス様が十字架という木につけられて、そこに流れた血を表しているのです。

この過越の祭りは、モーセの時代から約1500年の時を経て、イエス様が十字架に架けられる前の晩に「聖餐式」に変わりました。イエス様が過越の祭りに合わせて、弟子たちと最後の晩餐をもちたいと願ったのは、過越の祭りの本当の意味を知らせ、聖餐を制定するためでした。過越の祭りの本当の意味、それは「イエス・キリストが十字架で流された血によって、私たちへの罪の裁きが過ぎ越される」ということです。

ですから、私たちは聖餐を大切にし、聖餐にあずかる度にイエス・キリストの犠牲を覚えて、感謝をささげるのです。

「初穂の祭り」

「過越の祭り」の次の日曜日は「初穂の祭り」の日です。この日から大麦の収穫が始まり、その初穂の束を神に献げます。ここで、「初穂を献げる」とは、どのような意味があるのか考えていきましょう。「初穂」というのは、その年に収穫される最初の作物のことで、律法ではそれらを神への感謝のささげ物とするように定められています。出エジプト記23:19aです。

あなたの土地の初穂の最上のものを、あなたの神、【主】の家に持って来なければならない。
出エジプト23:19a

アブラハムの時代、イスラエル人は遊牧民でした。その後、彼らはエジプトで奴隷となり、モーセに率いられてエジプトを出てからは流浪の民となりました。しかし、そんな荒野を彷徨っているイスラエル人に対し、神様はカナンでの収穫を約束してくださいました。それは、彼らが土地を持ち、農業をするようになるということを意味していました。

農耕民族にとって収穫は「平和と祝福」の証しです。戦争や悪天候があると収穫ができなくなるからです。神様はカナンの地での祝福を約束し、収穫のときがきたら、初穂の中から最上のものを神の前に持ってきて、神を覚え、神に感謝をささげるように命じているのです。それは動物に対しても同じように適用され、初子は神へのささげ物とするように命じられています。また長子、すなわち人の子に対しても、それを神のものとするように命じられています。

出エジプト記13:1-2です。

【主】はモーセに告げられた。「イスラエルの子らの間で最初に胎を開く長子はみな、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それは、わたしのものである」

穀物の「初穂のささげ物」、動物の「初子のささげ物」というのは何となくイメージできますが、長子を「聖別し、主のものとする」とはどういうことでしょう。また、どのような意味があるのでしょうか。出エジプト記13:13bを見てみましょう。

また、あなたの子どもたちのうち、男子の初子はみな、贖わなければならない。

「贖う」という言葉が出てきました。

「贖う」とは、聖書では「権利のある者が買い戻す」という意味で使われることが多いです。つまり、神様は「長子はみな買い戻されなければならない」と言われているのです。では一体、誰に、なぜ買い戻される必要があるのでしょうか。民数記3:13を見てみましょう。

長子はすべて、わたしのものだからである。エジプトの地でわたしがすべての長子を打った日に、わたしは、人から家畜に至るまで、イスラエルのうちのすべての長子をわたしのものとして聖別した。彼らはわたしのものである。わたしは【主】である。
民数記3:13

この箇所からも分かるように、神様は「長子を買い戻す」ということに強いこだわりをもっています。なぜでしょうか。それは「初穂」として献げられるものは「その後に続くものの質を保証する」という意味があるからです。神は長子を神のものとすることによって、それに続くすべてのものを祝福することを明らかにしているのです。

長子をささげられた神

神様は、イスラエルに「あなたがたの長子を聖別し、神のものとしなさい」と言われましたが、実は、神の長子であるイエス様も十字架で神に献げられたのです。そして、イエス様は「初穂」としてよみがえられました。それは「過越の祭り」の次の日曜日、すなわち「初穂の祭り」の日に、イエス様がよみがえられたことからも知ることができます。つまりイエス様によって過越の祭りが聖餐式となったように、「初穂の祭り」は、イエス・キリストの初穂としてのよみがえりを祝うイースターとなったのです。

イースターの出来事は、イエス様に続いてやがて私たちもよみがえり、よみがえられたイエス様と同じように栄光のからだをいただくことを意味しているのです。

私たちのささげ物

神様は私たちのためにご自身の長子を与えてくださいました。それに対して私たちはどうでしょうか。どのようなささげ物を神様に献げているでしょうか。

創世記4:3-5aを読んでみましょう。

しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを【主】へのささげ物として持って来た。アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物に目を留められた。しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。
創世記4:3-5a

第三版では、アベルは「羊の初子から最上のものを持ってきた」と記してあります。初穂や初子のささげ物が、「それに続くささげ物の質を保証するもの」だとしたら、私たちはカインではなく、アベルの姿勢に倣うべきです。

私たちは神が与えてくださったものの中から、最上のものを献げて、神を礼拝するのです。

私たちがささげ物

さらに、私たち自身が「初穂のささげ物」であることを覚えましょう。パウロはローマ16:5でこのように言っています。

また彼らの家の教会によろしく伝えてください。キリストに献げられたアジアの初穂である、私の愛するエパイネトによろしく。
ローマ16:5

エパイネトという人物が「アジアの初穂」として救われたというのです。パウロは、その地域で初めて救われた人を「初穂」として見ていたことが分かります。「初穂」は、後に来るものの質を保証するものとして神にささげられるのです。

みなさんの中には、家族で唯一のクリスチャンという方もいるでしょう。学校や会社、地域で唯一のクリスチャンという方もいると思います。しかし、あなたはその場所で、ずっと唯一の クリスチャンのままなのではありません。あなたはその場所の「初穂」として救われた存在なのです。そのことを自覚し、あなた自身を最良の「初穂のささげ物」として神に献げるとき、そこから救いが広がっていくのです。

今年、あなたの家族から、住んでいる地域から、遣わされている学校や職場から救われる人々が起されるように、あなた自身を「初穂のささげ物として神に献げます」と告白しましょう。

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